数学における錬金術
あるひとつの問題提起
奈良女子大学理学部 武田好史
2005年6月3日
Alternative Mathematics Colloquium
0.はじめに
今日は,ウィトゲンシュタイン全集7「数学の基礎」(大修館書店)の第四部にある次の言葉
錬金術との比較が心に浮かぶ.
人は、数学における錬金術について語ることができよう.
・・・・・
ある数学的概念における神秘的なものは,
直ちに誤った見方,誤謬概念として解されないで,
決して軽蔑されてはならないもの,
おそらくはむしろ尊敬さるべきものとしてさえ解されるということが,
私の語っている現象の典型的なものである.(十六)
を主要なテーマとし、数学に対して,ある問題提起をしてみたい.
1.導入
最初から論点を絞ることは好ましいことではないし,その意図はないが,あまりに焦点が定まらないままでは問題提起にはならないと思われる. そこでまず,“背理法”に対する数学の立場を思い出してみることで,認識の共通化をいくらか図りたい.
次のような事例を考えてみていただきたい.
ある博物館で,非常に高価な壷を保管することになったとしよう.壷を特別な保管室に置き,
さらに警備員一名をその保管室に配置した.
ある朝,博物館の責任者が壷を確認に来たところ,警備員が眠り込んでおり,さらに,
壷が割れているのが発見された.警備員を問いただしたところ,「もちろん自分は壷を割っていないし,
また警備中には適宜仮眠を取ってよいという規則であった」と答えたとする.
さてこのとき,警備員が壷を割った犯人であると断定できるか?
まず,警備員が犯人であると断定してよいのはどんなときかを考えてみよう.
i) たとえば,その後警備員が自白し,さらに犯行を裏付ける証拠もあるとき;
ii) あるいは,保管室には監視カメラが備え付けられており,警備員が壷を割る瞬間の映像が そこに記録として残っていたとき.
つまり,
「警備員の犯行を示す直接的な根拠がある」
⇒ 「警備員が犯人」
次に,警備員が無実と断定できるのはどのようなときかを考えてみよう.
たとえば,壷は保管室の中のさらに特別な保管庫の中に置かれていて,警備員一人ではそれを 開けることはおろか,動かすことも揺らすことも到底できないとき,このように犯行が原理的に 不可能なときは,警備員を無実とすることに異論はないであろう.
つまり,
「警備員が犯人であるとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「警備員は犯人ではない」
ということである.
では,上でみたような直接的な証拠が何もないときについて考えてみよう.
この場合いろいろな可能性が考えられる.
― 警備員が寝ている間に,誰かが侵入してきて壷を割ったのかもしれない.
保管室の扉は離れたところにある管理室からの遠隔操作によってのみ開閉ができるようになっている.
よって,警備員が壷を割った犯人であると断定できるか?
― 誰かが,壁もしくは床等から侵入してきたのかもしれない.
保管室の壁,床,天井等および壷を設置する台は強固に作られており,また侵入を示すような形跡もない.
よって,警備員が壷を割った犯人であると断定できるか?
― 昨夜地震があり,それにより壷が割れたのかもしれない.
昨夜地震がなかったことは,気象台の記録からもわかるし,地震以外の可能性も含め
同じ博物館の管理室にいた職員は壷が倒れるような振動を感じなかったという.
よって,警備員が壷を割った犯人であると断定できるか?
― 壷を置いていた台が何らかの微小振動に共振し,それにより壷を倒すような大きな揺れを
生じたため,壷が割れたのかもしれない.
壷を置いていた台は,特別な免震構造をもつ台であり,・・・・・・
・・・・・・ <以下延々と続く> ・・・・・・
背理法について考える際に重要と思われるのは,次のことである:
「直接的な証拠がないとき,上のように考えていくことで
問題の警備員が犯人であると断定できるのか?」
我々の日常の自然な感覚からは,上のような考察を続けていったところで言えることは,せいぜい,
「警備員が犯人であったとしてもおかしくはない」
ということだけである.つまり,
「[警備員が犯人でない]とすると我々からみて理解できない」
⇒ 「警備員は犯人であってもおかしくはないが,断定はできない」
ということである.
そして,上の方法で警備員が犯人と断定できるのは,ありとあらゆる可能性を
検討しつくした後,それでもやはり警備員が割ったとしか考えられないときであるが,
神ではない人間に
「ありとあらゆる可能性を検討しつくす」
ことなどできるのであろうか?
今度は,数学の命題を考えてみよう.「2次方程式は複素数の中に解を持つ」
という“数学の命題”を考えてみる.
実際,2次方程式については,解の公式があり,問題の方程式の係数を代入することで,
具体的に解を構成することができる.
つまり,
「解を直接構成する手段がある」 ⇒ 「解がある」
ということであり,これは先の
「警備員の犯行を示す直接的な根拠がある」 ⇒ 「警備員が犯人」
に対応している.
次に,「2の平方根は無理数である」の証明について考えてみる.
通常このことの証明は,次のように行われる.
1) 2の平方根が有理数であったと仮定する.
2) それは,分数の形で書けるはず.さらにその分数は既約分数とできるはず.
3) それから,式変形をしていくと,その分数が約分できることがわかる.これは矛盾.
4) 故に,2の平方根は有理数ではない.つまり,無理数である.
この証明はもちろん背理法によるものであり,その要点は
「有理数であるとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「[有理数である]は成り立たない」
ということであり,数学では有理数ではない(実)数を無理数としているから,
「2の平方根は無理数である」という結論になる.これは,先の
「警備員が犯人であるとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「警備員は犯人ではない」
に対応している.
では,「多項式でできた方程式は複素数の中に解を持つ」という
数学の命題を考えてみよう.
現在の数学では,この命題に関して、次のような“証明”がしばしば与えられる.
1) 多項式が複素数の中に解を持たないと仮定する.
2) その多項式分の1を複素数上の正則関数とみなす.
3) その正則関数は有界関数となり,定数関数でなければならない.これは矛盾.
4) 故に,多項式は複素数の中に解を持つ.
これも,もちろん背理法である.その要点は
「解がないとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「解がある」
ということである.そして,ここに形式主義数学の特徴がある.
背理法とは,
「仮定」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「仮定は成り立たない」
のように推論をするものである.実際,先の「2の平方根は無理数」の証明では,
「有理数であるとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「[有理数である]は成り立たない」
であった.それに忠実に従うと,方程式の解の場合は,
「解がないとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「[解がない]は成り立たない」
となるはずである.しかし,上の“証明”では,
「解がないとする」 ⇒ 矛盾 ⇒ 「解がある」
としている.つまり,
「[解がない]は成り立たない」 = 「解がある」
と,決めつけているのである.
たとえば,実数の中の有理数と無理数のようにどちらか一方が必ず成り立ち,
かつ両方同時には成り立たないような関係にあるのがはっきりしているならば
「[有理数である]は成り立たない」 = 「無理数である」
といってもよいだろう.これに対し,方程式の解の場合は,解があるのかないのかが,
はっきりとしていないからこそ,それを証明しようとしているはずで,その場合,
解の有無について,どちらか一方が必ず成り立ち,かつ両方同時には成り立たないような
関係にあるのかどうかも当然わからないことになる.つまり,
方程式に解があるともないともいえない,
今の数学では把握もできないし,
想像もつかないような状態があるかもしれない.
それでも,
「[解がない]は成り立たない」 = 「解がある」
と結論付けるのは,最初の壷と警備員の例で言うと,
「[警備員が犯人でない]は我々からみて理解できない」
= 「警備員は犯人である」
と結論付けていることになる.
もちろん,神のようにありとあらゆる可能性をすべて認識した上で,
有理数と無理数とのような関係が成り立つことがわかっている場合は,
「[警備員が犯人でない]は神からみても理解できない」
= 「警備員は犯人である」
といってもよいし,
「[解がない]は成り立たない」 = 「解がある」
といってもよい.しかし,
裁判官や数学者は神ではない.
以上のことは,20世紀初頭の数学混乱期に,直観主義数学者と形式主義数学者の間で,
盛んに議論されたことのひとつとされている.
それぞれの立場を次のようにまとめてみることも可能であろう:
直観主義:神ではない数学者が,よくわからないまま
「[解がない]は成り立たない」 = 「解がある」
などと結論付けてはいけない.
形式主義:現実世界との関係がなくてもよいから,
「[命題の否定]の否定」 = 「命題の肯定」
が成り立つような理想的数学世界を形式的に作ってしまえばよい.
やがて,数学思想の主流となった形式主義ではあったが,
のちにゲーデルによる研究の結果から,
そのような“理想数学世界”を構成することはできないことが
明らかになってしまった.
しかしその後も,直観主義は数学者達の賛同をあまり得ることができてないようである. (背理法の制限による研究上の混乱を恐れているのか?)
数学者はこれからも形式主義の立場をとるべきであるのか?
(これは,今日の目的とする問題提起ではありません.念のため)
2.プラトニズム
この2節と次の3節では,奥雅博 著「ウィトゲンシュタインの夢−言語・ゲーム・形式」(勁草書房) を基に話を進めていく.
(ただし,以下の内容が奥氏の主張していることに一致しているかどうかについては私に判断できることではない.
あるいはまた一致させることが今日の目標でもない.)
次の有名な問題について考えてみよう.
問題:次の命題Pの真偽を決定せよ:
命題 P:π(円周率)=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)と
いう数字の並びが現われる.
次のような言い換えも考えてみよう:
問題:次の集合Xは空集合であるかどうかを判定せよ:
X={ n|n は自然数,円周率の小数点以下第 n 位から第 n+9999 位までがすべて 0 }.
これらの問題をみて,
「解答に関する知識の有無に関わらず,問題そのものは数学の問題といえ,かつ,我々の知識とは関係なく真偽は既に定まっている」
と自然に感じる人は,
プラトニズムに“洗脳”されている
ことになるだろう.
その人々の主張を想像すると次のようになるであろう:
「円周率の小数展開は既に決定されており,我々の発見のみが残されている.」
または,
「上の集合Xは,空か空でないかはわからないが,(数学で言うところの)集合であることは間違いない.」
さらに続けるなら,
「現代数学では,円周率は厳密に定義されおり,その小数展開も厳密に確定している.
たとえもし,小数展開に曖昧な部分があったとしても,その曖昧な部分の原因を明確にし,
必要なら円周率や小数展開の定義を修正すればよい.
いや,むしろ修正しなければならない. それが数学だ !」
あるいは数学者以外の自然科学者は次のように言うかもしれない:
「円周率の小数展開は,現実に今どこまで計算されているかは別にして,当然決定されているべきもので,
それが決定されていないとすれば,数学者達による円周率や小数展開の定義や論理に問題があることになる.」
ではここで,
プラトニストたちに次のことを問いたい:
「円周率の小数展開は既に決定されている」
としよう.このとき,何らかの方法で
そのことを確認できるか?
しかし,この問いに答えられる者はいないであろう.
結局,プラトニズム数学者が「円周率の小数展開は既に決定されている」と,
ただ単に
信じ込んでいるだけ
ではないのか?続けて次のことを考えてみよう.
「無理数の小数展開とは何か?」
この問題を,改めて考えてみることは数学者にとって有意義なことであると思う.
なぜなら,無限小数を思い浮かべるとき,我々は「無限に続く自然数という基盤」を信じて疑ったりはしない.
しかし,現代の形式主義数学において自然数(全体の集合)とは,
無限集合存在の公理: ∃A∀x[Φ∈A∧[x∈A→x∪{x}∈A]]
としてその枠組みを無条件に認めているだけにすぎない.実際また,
ウィトゲンシュタインは数学に対して手厳しく次のようなことを述べている.
有理数は数えることが不可能であるから,
数え切ることはできない.
しかし有理数を用いて数えることはできる.
― 基数を用いて数えるように.
この表現法は,これまで有限集合だけを扱ってきたのと
同じ確かさで,無限集合を新装置によって扱うという,
欺瞞の全体系の一部をなしている.(第四部,十五)
この言葉を快く思わない数学者の方もおられるであろうが,
たとえば次のような穏やかな表現の問いかけとして冷静に考えてみることが,
我々には必要なのではないかと私は考える.
無理数である円周率の小数展開は
無限に続くといわれているが,
そもそも無限小数とは何か?
(「数学はこの問いに答えられるようになるべきである.」というのも,
今日の目的とする問題提起ではありません.誤解のないように.)
3.数学における錬金術
この節では,論点を(意図的に)すこし絞ってみるために,次の問題を考えてみたい.
「ある詩人のある詩に登場する英雄には妹がいるかいないかのいずれかである」
(ここでは,その詩の中では英雄の妹に関する言及もなく、
また詩人は英雄の妹に関してまだ何も決めかねているものとする.)
この問題について,
「我々は,答えを知らないにしても,“事実”としては
その英雄に妹がいるかいないかのいずれかである」
と強く主張する数学者(自然科学者)はいないであろう. (プラトニズム強硬派にはいるかもしれないが,...)
つまり,数学者を含むほとんどの自然科学者の考えは,
「詩の中で英雄の妹についての言及がなく,また詩人本人が決めかねているとすれば,
妹の有無は決定していない.あるいは,決定する必要もないし,考える必要もない」
というところであろう.
ここで,円周率の小数展開の問題を思い出してみよう.
現代数学においても円周率の定義は
(円周の長さ)÷(直径)
である.そしてこの中には小数展開についての言及はないし,
また現実に小数展開の中で0が連続して現われた等の報告も聞かない.
つまり,状況は上の英雄の妹の問題と全く同じである.
しかし,円周率の小数展開の問題をみたとき,
「これは数学の問題であり,数学的に答えが決まるべきである.
もし数学の問題として曖昧な点があるなら,それは今の数学に不備があることになり,
全世界の数学者が一丸となって,数学を完全なものに再構築しなければならない」
とほとんどの数学者は考えるのに対し,英雄の妹に関しては,
「この詩の英雄に妹がいるかいないかは数学の問題であり,数学的に答えが決まるべきである.
もし数学の問題として曖昧な点があるなら,それは今の数学に不備があることになり,
全世界の数学者が一丸となって,数学を完全なものに再構築しなければならない」
と考える数学者がいるとは思えない.
(それにしても,英雄の妹に関する上の文章がこっけいに思えるのはなぜなのか?)
つまり,数学者は,「円周率の小数展開」に対しては,「英雄の妹」に対してとは違う
“何か”を感じてしまっているということではないだろうか?
これまでみてきた例を用いて,上のことを少し整理してみよう.即ち,数学者は数学の問題(らしきもの)をみたとき,たとえばこれまでみた例の場合は、
「多項式でできた方程式には解があるかないかのどちらかに違いない.」
「円周率の小数展開の各位は決定されているはずだ.」
のように感じているようである.そしてその中には,もし何らかのあいまいさを指摘されたときには,
「必要なら,もろもろの定義等を修正することもいとわない」という“あとだし”の覚悟も
できてしまっているようである.
(あるいはむしろ,そうすることが正しい数学のあり方であると考えたりもする.)
ここで,ウィトゲンシュタインの次の言葉を思い出してみたい:
問いは決定可能となるとき―私はいいたい―その身分を変えるのだ.
というのは,そのとき,
以前にはそこになかったところのある連関がつくられるから.
・・・・・
いかに奇妙に聞こえようと,ある無理数をさらに展開することは,
数学をさらに展開することである.
・・・・・
私はこういいたい.決定根拠はすでにそこにあるようにみえるが,
まず発明されなければならない.(第四部,九)
ウィトゲンシュタインの主張を的確に捉えているか否かについて,
もちろん議論の余地があるが,ここでは次のように考えてみよう.
すなわち,数学者は
「命題P:π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)という数字の並びが現われる」が成り立つか?
をみたときにそのまま捉えずに
「命題P:π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)という数字の並びが現われる」は数学の必然であるか?
として捉えているということではないだろうか.
否定について考えてみよう.上の命題Pの否定を問うときは,
「命題¬P:π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)という数字の並びが現われない」が成り立つか?
である.しかし,この問いをみたとき数学者は,上述のように
「命題¬P:π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)という数字の並びが現われない」は数学の必然であるか?
と捉えてしまう.
したがってこの場合は
「π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)と
いう数字の並びが現われる」は数学の必然である
か,または
「π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)と
いう数字の並びが現われない」は数学の必然である.
が排中律であると捉えてしまう.
しかしながら,これはもちろんおかしい.なぜなら,この場合の排中律はあくまでも,
「π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)と
いう数字の並びが現われる」
か,または
「π=3.141592653・・・・・ の小数展開の中に000・・・0 (0が1万回)と
いう数字の並びが現われない」
のはずである.
上の議論を少しまとめてみよう.つまり,命題Pが問題として,問われたとしよう.
この場合当然命題の真偽を断定した形で問題が提出されることはないから,事実上そこには排中律の形
P∨(¬P)
がある(または潜んでいる.
あるいは「数学者は“P∨(¬P)”への連関を作り上げてしまう」といってもいいかもしれない).
これをみて,それを数学の問題と判断したとき,数学者は
「排中律“P∨(¬P)”は数学の必然である」
と捉えていることになる.
こうして問題を“数学の問題”とひとたびみなしてしまうと,個々の命題については,
P を 「命題Pは数学の必然である」
と捉え,同様に
¬P を 「命題¬Pは数学の必然である」
と捉える.つまり,問題を“数学の問題”とみなしてしまうと
「命題Pは数学の必然である」∨「命題¬Pは数学の必然である」
が排中律であると数学者は捉えてしまう.
しかし,ここでの排中律は
P∨(¬P)
あるいは,あえて挙げるなら
「命題Pは数学の必然である」∨「命題Pは数学の必然ではない」
ということであり,上の数学者の認識は明らかに誤謬である.
記号を用いて表すとよりわかりやすくなるかもしれない.即ち,
「〜は数学の必然である」 を 「□〜」
と略記することにする.このとき上の議論は次のようになる.排中律
P∨(¬P)
を数学対象と判断したとき数学者はこれを
□(P∨(¬P))
と捉え,さらに
(□P)∨(□(¬P))
を排中律と捉えてしまう.しかし,排中律は
上に述べた
P∨(¬P) あるいは (□P)∨(¬(□P))
である.つまり,数学者は
P∨(¬P) から (□P)∨(□(¬P))を生み出す
ことを行い,排中律ではないものを排中律としているのである.
以上をたとえてみると,
無意味なトートロジー
“P∨(¬P)”
から数学的生命が吹き込まれた高貴な
“(□P)∨(□(¬P))”
を生成する.
確かにこれは,
“数学における錬金術”
と呼ぶにふさわしいものではないだろうか.
4.問題提起
ここまでの内容を,注意深く聞いていただけた方の中で,
“□〜(〜は数学の必然である)”
が,この錬金術における
“賢者の石”
である
と思いをめぐらせた人がいたとしよう.あるいは,たった今これを聞いて,
「なるほど!」
と,理解が深まったと感じた人もそこに含めいてよいと思うが,
そのような人は,ある意味で
プラトニズムに洗脳されている
と言ってよいのではないだろうか.
つまり,上の“賢者の石”のような考え方をしていると,
(あるいは,「上述のような“□”や“¬”や“∨”等の記号や“概念”を用いた考え方をしていると」ともいえるが,)
現代数学史において,「形式主義からの脱却」の好機を度々逃してしまったように,
今回もまた,数学の大きな跳躍の機会を逃す結果になってしまうように私には思える.
即ち,以上の議論では,
“〜は数学の必然である”
という数学者の認識が論点であるかのようになってしまったが,これは,
“〜は数学の問題である”,
“〜は数学的に証明できる”
等,様々な言葉に置き換え可能と思われる.
逆に言うと,たとえどんな言葉を持って来たとしても,
“数学における錬金術”
をうまく表現するのは難しいということであろう.
そして今日は,おもに排中律を例に考えてみたが,それだけに限らず,
“錬金術”は数学のいたるところでおこなわれ,
またそれにより数学が成り立っているように思えてこないだろうか.