==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
岐路に立つ2000年 高等教育フォーラム [he-forum 544] 共同通信配信記事01/07 より転載

岐路に立つ2000年


共同通信配信記事
年始評論 阿部謹也 
掲載日2000年01月07日

阿部謹也 〈岐路に立つ2000年〉 一九九九年の暮れは八方ふさがりの状況の中で終わった。 経済の混迷、国債の増大、介護基準をめぐる一般の批判、年金の将来への不安、 原子力のずさんな管理、ロケット打ち上げ態勢の不備、そして何よりも子供た ちの体力の衰え、母親に殺された子供が四十人もいたこと、子供たちが将来に 希望をもてなくなっていることなどがあらゆる紙面から読み取れたのである。 かつては一応信用されていた金融関係者たちの倫理がおそるべき程度に低下し ていたことが判明したことなど。そしてそれに追い打ちをかけるように国立大 学の独立行政法人化の論議が現実の日程に上ってきた。 ▼曇り空の世間 わが国はどこを見ても希望の明かりが見えない状況である。どの状況を見ても そこから脱却するには容易ならぬ改革が待っている状況であり、それを扱う政 府には言葉だけで、その覚悟は全くなさそうだとしかいえないのである。 このような状況の中で私たちは新年を迎えて、この曇り空の世の中に一筋の明 かりを探さなければならない。どこを向いても明かりの種はないかに見える。 しかし最低の状況は再び上昇する可能性を秘めているものである。 国立大学の独立行政法人化が学問の自由や大学の自治を崩壊させるものである ことは明らかであるが、各大学からはさしたる反対の声が上がらない。それど ころか学生からも一般の国民からも反対の声が上がっていないのである。私は このような状況には大学の側に責任があり、長年、国民のための学問ではなく、 インテリの自己満足としての「学問」しか行ってこなかった特に人文社会科学 に責任があると考えている。 ▼国立大学の再建 試みにひとつの地方大学を例にとってみよう。そこには文学部、経済学部、法 学部等があるとする。それぞれの学部で行われている研究はその県民の期待に こたえうるものになっているだろうか。 ある地方大学の学長は「東大の付属病院がなくなっても東京都民はだれも困ら ないだろう。しかしこの県の大学病院がなくなれば県民皆が困るのだ」と言明 したことがあった。同じことを文学部長や経済学部長はいえるだろうか。 わが国の国立大学の研究者たちはヨーロッパで培った個人に酔いしれ、個人が わずかに芽生えているにすぎないわが国で自分たちだけはエゴとしての個人の 関心事を追求し、それをもって国立大学教員の職務を全うしていると錯覚して きたのである。 現在、風前のともしびとなった国立大学を長い年月をかけても再建していくと すれば、それぞれの地方自治体が「これこそわれらが大学だ」と誇れるような 研究と教育の内容を備えたものとしなければならないのである。そのためには 明治以降、西欧一辺倒であった学問の方法と問題設定を全面的に改めなければ ならないのである。 ▼欧米に吸収か ともすると自然科学も含めて学会が業者団体とみまがうばかりになっている状 況を改め、国民の関心に直接こたえる学問に組織替えをしていかなければなら ないのである。それは明治以降のわが国の学術の体制の全面的編成替えを意味 しているから、容易なことではできない。 しかしこの道を行かない限りわが国の学問の将来はないのである。グローバル・ スタンダードとしてのアメリカ、ヨーロッパにのみ込まれるか、わが国独自の 道を行くかの分かれ道にいま私たちはたっているのである。 ことは大学に限らない。自立した個人を前提にしていない介護の問題、子供の 人権を無視した幼児教育のあり方、人文社会科学者がかかわっていない原子力 行政のあり方等わが国の問題は多岐にわたっている。 そしてそのすべてに国民の視点の無視がある。国民の視点にたつことをあらた めて学ぶべきであろう。その時初めて希望の明かりが見えてくるであろう。 (共立女子大学長)
あべ・きんや 1935年東京都生まれ。一橋大卒。専攻は西洋社会史。東京 経済大教授、一橋大学長などを経て現職。著書に「中世の窓から」「大学論」 など。