==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
「藤田氏がジュリスト論文で国立大学の独立行政法人化を「提言」した」と私は思っていませんし、私自身の公開質問状や私信でそのように言っていません。多くの人もそう思ってはいないはずです。
そうではなく、藤田氏の善意が藤田氏の意に反して、結果的に政治家・官僚の意図を補強する役割を持ってしまったと多くの人が考えているに過ぎません。
このような重大な事柄において、こういう論点は余り納得できません。「原爆を作るとしたらどうしたらよいかを考えただけだ、それを使うことの是非については自分は意見はないし、たとえ使われたとしても責任はない」という科学者の論理と何も違わない居直りになってしまいます。学者・科学者の議論の「仮定」の是非への無関心と無責任と、それを当然とする居直りとが、現代社会で最も深刻な問題を引き起こしているのですから。
藤田氏は私(辻下)の努力について誤解されているようです(私が藤田氏を誤解していると藤田氏が感じるのと同じことかも知れませんが)。私がどうして、自分には少しも得にならないのに、ここまでして独立行政法人化問題に関わっているのかというと、こういうことです。政治的圧力がなければ問題にもならない独立行政法人化を、政治的圧力が強いというだけの理由で「不可避ならば少しでもよくしよう」と受け入れの検討にだけ頭を使い、政治的圧力自身は自然法則であるかのごとく何ら疑問視しないでいるところに、今の大学の自律性の衰退が象徴的に現れている、と感じているからです。つまり、独立行政法人化への今の大学の対応の仕方自身が、大学の自律性の放棄という自殺行為になる、という危機感が拭えないからです。もしも、私のこの懸念を共有する人が大学にはほとんどいないのならば、私は「理想主義的な立場を固持」しているということになるのかも知れません。しかし、その懸念を共有する人達が大学で大きな割合を占めるのならば、それは現実を変える力のある、ふつうの理想に過ぎません。このような当たり前の理想ですら大学が放棄しなければならないのならば、大学の社会における使命など何の価値もなくなるのではないでしょうか。なお、私が何かを「他人に強要」できる立場に居ないことは明らかなことを指摘しておきたいと思います。
決定的な欠陥があるわけでもない制度を「よくなるかどうか明確には結論がだせない」制度に変更するということは、小学生が聞いても呆れることではないですか。しかも、大学制度の変更のような世紀に何度も行えないような大規模なものであればなおさらのこと、責任のある立場の人が行えることではないと思われます。