==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
夢のような話は別にして、そうした状況を見ていると、とても教養教育を重視しているとば考えられない。それだから、大学審は教養教育重視を声高に主張しなけれぱならないのであろう。そうならば、掛け声だけでなく、文部省は教養教育を奨励する文教政策を提示・実行すべきであるが、そういうしるしも全く見られない。文教政策の重点は大学院の充実に絞られている。大学審は、学部教員にこと細かに教育方法を示し、叱咤(しった)激励はしてくださるが、肝心の兵糧は用意してくれない。
具体的にいえぱ、リベラル・アーツ教育は、少人数教育が重要な条件である。学生納付金が主要財源である私立大学では、リベラル・アーツ教育はしたくてもできない。少人数教育を犠牲的に実行している大学に、助成金をせめて現状の倍額にする、というのであれば、又部省が本気で教養教育を推進しようとしているのだと実感できよう。
大学審は教養教育の重要性を、「課題探求能力」の育成という観点に立って、主張している。すなわち、「学術研究や技術革新の進展、国際化・情報化の進展」にともなって、「課題探求能力」を備えた人間を養成することが緊急に必要とされている。いわば知識・情報化産業のための人材育成が目下の急務であって、それにこたえる教育をすることを要求している。そこに、教養教育の重視という主張の底が見えてくる。
そもそも、教養とかリベラル・アーツとかいわれていることが一様ではない。大学審答申は、「学間のすそ野を広げる」ことが、教養教育の目標の一部であると述べている。学問をほとんど知らない大学生に「学問のすそ野を広げる」ことが、差し迫った必要になるのであろうか。大学教員がこのような課題に耐えられない。「学問のすそ野を広げる」ことは、せいぜい知識の集積の度合いの拡大を図ることにしかならない。今日の大学教員に、ソクラテスやプラトンのような存在になれ、といっても無意味である。そこで、原点に立ち返っで考えなければ混乱の正体がわからない。
学問という営みは、数干年の歴史を紡いできた。そのつながりの厚みのなかで、現代の学問が存在していることを忘れることはできない。その歴史をさかのぼると、学問とは「いかに生きるか」という問いから出発している。したがって、諸学問の成果は「いかに生きるか」という問いに答えるものでなけれぱならないはずである。しかし、専門分科した現代の学問は、いかに生きるか、という問いに直接に答える位置を喪失している。この視点に注目する。教養とは、本来はいかに生きるか、という問いに答えるアーツである。学問はそういうアーツであるはずである。とすれぱ、教養教育とは、まずは学問という人間の営みに参加することを抜きにしては、実体を持つことはできない。
教養教育は、幅広い知識を授けることではない。学問という営みを、「いかに生きるか」という問いの前に立たせることである。例えば、「憲法の学習も、ただ条文を学ぶのではなく、よりよく生きる人間のアートの生きたよりどころとして、原理的にも把握し直すような学ぴ方に変えることである。あるいは、よりよき生を送ろうとする人間は、政治的であらざるを得ない、そういう視点で政治学を学ぶ。そのような政治学の学習は、ただ政冶の原理を暗記または理解することにはならない(原又・立川明)」
一般的に言えば、教養教育とは・「しっかりした学問的背景、方法論を持つ学問的営み」を、現実世界において意味付ける文脈的学習である。そのような学習テーマを、ICUでは、「行動するリベラル・アーツ」という標語で総括し、現代におけるリベラル・アーツ教育のカリキュラムの展開を試みている。