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共に学び、共に育つ学校を

共に学び、共に育つ学校を

川上 祐司 日本教職員組合中央執行委員長


http://www2.valdes.titech.ac.jp/‾hashizm/NOFRAME/ACT/seian.txtの付録より。
財団法人社会経済生産性本部社会政策特別委員会の報告書 「選択・責任・連帯の教育改革 〜学校の機能回復をめざして〜 」には記載されていない。

目次

  •  はじめに
  •  あきらめと沈殿――階層の再生産
  •  「学校選択」という問題
  •  何を選択していくのか
  •  子ども保護者、地域の学校参画

  •  社会経済生産性本部・社会政策特別委員会の教育改革に関する論議のなかで、
    わたしもともに学んできたし発言もしてきた。貴重な経験であったと思ってい
    る。加えて今回、堤委員長をはじめ委員会のはからいにより、特別に寄稿する
    機会を保障していただいたことに感謝している。
    
     後述するように理由は、委員会報告の骨格的な部分に関して異論をもってい
    るためであり、現場教職員の努力を少しでも伝えておきたいとの願いからであっ
    た。報告を目にするみなさんが、教育に大きな関心を寄せていただき、みずか
    らの問題・課題として考えていただく機会となれば幸いである。
    
    

     はじめに

     日本の学校教育は、確かに病んでいる。いじめや不登校、高校中退の問題が 大きな話題となってから10年近くたち、最近では、小学校低学年からの「学級 崩壊」がさまざまに伝えられている。加えて大学生の学力低下や、「学びから の逃避」ということも深刻に語られはじめた。「なんとかしたい。どうしたら いい」という思いは、わたしたちにも満ちあふれている。そしてこの報告書の 第一部に描かれているように、その思いはほぼ共通である。  ところで教育改革の議論は、ともすると百家争鳴になる。自分の子ども時代、 あるいは自分の子どものこと孫のこと、などなど自分に近いところから話題が 立てられることが多いことが第一。第二には、実証的な研究が不十分であるこ と。第三には、経済活動などとは違って、改革の成果が見えるためには、何年 もあるいは十年以上の追跡を行わなければ分からないためでもある。  現在(1999年6月)、文部省の中央教育審議会で「初等中等教育と高等教育 との接続の改善」などが話し合われているが、受験競争が緩和したかどうかで、 委員の意見がまっぷたつに分かれたという。大学受験という目に見える事柄ひ とつにしてこうである。実証的な裏付けがない典型的な論争であろう。  それだけに、教育改革に関する提言をまとめることは、たやすい作業ではな い。百家争鳴の論議に忠実であればスキームは不明瞭となり、何を改革するか さえ見えなくなることがある。一本の道筋を通して描けばスキームは明確であ り、改革提言もすっきりと描かれることになる。報告された「選択・責任・連 帯の教育改革」は、どちらかといえばその後者であろう。後者の手法は、さま ざまな検討の余地や事象、あるいは他の視点からの改革の可能性を排除するこ ともしばしばあることは否めない。  ところで、報告をめぐる大きな論点は、「学校選択」なのか「学校参画」な のか、というキーワードの相違である。わたしがここに寄稿することになった のは、保護者や子どもたちの「学校参画」にこそ改革の力と可能性を見いだし ているからだ。そして、そのような実践は各地で試みられ、十分とはいえない までも学校改善に資することが多い。  ただし、「学校選択」と「学校参画」は、決定的に対立するものではない。 いずれの場合にもそこには、地域住民や保護者などを改革の力とする認識があ るし、学校教育を国などの権力から民の側に取り戻していこう、との認識があ る。ここを大切にしながらも、改めて相違するふたつのキーワードを吟味し、 学校教育の再生を考えていきたい。

     あきらめと沈殿――階層の再生産

    学校教育は、それが社会的な制度のひとつであるとともに、社会的な存在で ある。その意味では、学校教育に問題があれば制度などを改革・改善すること が可能だし、そうすべきであろう。しかし、社会的な存在としての学校教育は、 それ自体が社会の変化を良きにつけ悪しきにつけ受けていく。また、学校教育 制度の改革・改善だけでは及ばないような社会改革と連動していなければ、成 果が期待できないような大きな課題も存在する。  今日、学校教育をめぐってさまざまに噴出している問題状況は、社会の構造 的な改革と連動しなければならないもの、社会の変化に適合しながら学校教育 制度それ自体を改革・改善しなければならないものがあると考えている。最近 話題となっている「日本社会の階層化」が前者にあたる。  昨年秋、橘木俊詔京大教授が「国際比較の上からの、わが国の平等神話はも う存在しない。日本の所得分配は不平等に向かっている」(『日本の経済格差』 岩波新書)と述べて大きな反響をよんだ。その後、社会学者が協力して社会階 層と社会移動を10年ごとに調べる「SSM調査」の95年分がまとまり報告され ている。朝日新聞の6月7日付けの社説によると、「収入や学歴が大幅に底上 げされた上での新たな階層変容の兆候」が見られるという。  このなかでわたしが注目するのは、両者とも教育を強く意識していることだ。 橘木教授は、所得や資産分配の不平等化と親の階層や所得水準が、子どもの階 層を直接決定する度合いが高まっていることを指摘する。また、「SSM調査」 では、本人の学歴と本人の階層との相関関係が1955年から一貫して低下し、現 在ではゼロに近くなっていることが明らかにされている。他方で、親の階層と 本人の階層の相関は強まっている。  ここから推察されることは、「努力しても、勉強しても這いあがれない」と 人生をあきらめる子どもたちが増大しはじめてはいないか、ということである。 日本労働研究機構の分析によれば、若者の「自発的失業」が拡大し、東京・神 奈川では、高校を卒業して就職する割合を「無業者」が上回ったという。また、 1990年に中学校を卒業した子どもたちの進路を政府統計で追跡したところ、4 人に1人が「無業・不明」になっていると推計されてもいる。  あきらめの拡大と沈殿……このことが、階層分化の拡大とともに進展してい るとしたならば、わたしたちが採用する学校教育制度の改革は、どのようなベ クトルをもたなければならないであろうか。報告のように、成績優秀な大学生 に無料の奨学金を渡すことが、果たして妥当であろうか。そこに至る前に、少 なくない子どもたちがドロップアウト――しかも、保護者の所得や資産の水準 ゆえに――してしまっているというのに。  委員会論議のなかでわたしは、日教組の調査団が得たアメリカの教育事情の ひとつを紹介した。それは保護者の所得が、学生の大学卒業率を大きく規定し ているというものである。6年間で大学を卒業する率は、年収 6万3000ドル以 上で83%、 2万1000ドル以下では 8%になってしまう。所得の格差が、大学生 の卒業状況をも大きく左右している。そして卒業できない本人は、社会の底辺 に落ち込み階層が再生産されていく。  このような社会を、わたしたちは望むのであろうか。「学校選択」か「学校 参画」かという問題設定の背景には、階層分化と関連しあう問題がある。

     「学校選択」という問題

     日本の国民の識字率が99.9%といわれるように、日本は基礎教育の水準の高 い国のひとつである。基礎教育の水準の高さは、経済成長の基盤ともいわれて きた。そしてこの成果は、寺子屋など江戸時代につくられてきた民衆の教育力 を基盤に、明治の学制発布以降、急速な進展を見せることになった。  「米一俵」を出しあったり、祖先の墓石を学校の礎石に提供するなど、学校 が全国にいきわたっていく過程には、さまざまな民衆の努力がある。「わたし の学校」「わたしたちの学校」という意識はこうして醸成され、広がりをもっ ていった。そして学校は、地域の文化的な拠点ともなっていった。  過疎地域で学校の統合や廃校に反対する住民運動がいまでも生じるのは、学 校が地域のより所であり、地域社会の精神的な支えであることによっている。 通学区域という制度そのものは、そのような社会的知恵として制度化されていっ た面がある。  報告は初等中等教育の改革に関して、「学校選択」という構想を大胆に提起 した。このことは当然のことながら、公立学校で広く採用されてきた就学学区 の指定を排除する。あわせて報告は、アメリカのチャータースクール運動に学 びながら、自由に学校を創設する構想と、教職員の「異動の自由」を提案して いる。すっきりとしたスキームであり、停滞状況にある学校教育の改革が、躍 動的にすすんでいくようにも見える。  ところで、前提として押さえておかなければならないことがある。まず、日 本の学校教育制度は、「学校選択」を排除して成立しているのか、ということ が第一。第二には、なぜ「学校選択」がいわれるようになったのか、というこ とである。  結論からいえば、日本の学校教育制度は、「学校選択」や「学校設立の自由」 を原理的に重要なものと認め、その多くを私立学校の役割として期待している。 他方で公立学校が学区制を採用しているのは、学校教育は地域住民の協同の事 業であり、営みであることを出発点にしている。十分に機能しているかどうか は別として、原理としてはそうである。  では、なぜ「学校選択」がいわれるのか。ここには、規制緩和により競争的 な環境をつくりあげ、停滞する学校教育を民間の活力によって活性化しようと いう、いわゆる自由化論がある。また、個別化・多様化する社会において、も はや画一的な学校教育はなじむことがなく、子どもたちや青年が選択的に生き る道をゆたかに保障すべきだ、との意見もある。日教組も教育改革の重要な原 理として、「選抜から選択へ」を掲げている。  これらの主張は、一見して同じようである。しかし、重要な出発点の相違が ある。それは、市場原理から出発するのか、それとも個としての人間の重要性 に着目して教育を改革しようというのか、という点であろう。報告はどちらか といえば前者に立ち、わたしたちは、後者の観点に立っている。  ここで、子どもや青年の悲鳴を考えてみたい。次のような呻きが聞こえては こないだろうか。「自分を大切に生きていきたい」「分かるまで教えてほしい」 「さまざまな人々やものと関わりたい」。これは想像ではない。日教組が全国 の3000人の小学生から集めた声のなかに、共通して見られたものである。果た してこの声に応えうるのは、就学学区を排除し、自由に学校を選ぶことなので あろうか。それとも、「わたしの学校」「わたしたちの学校」をとりもどし、 学校教育を地域の協同の事業にしていくことなのであろうか。

     何を選択していくのか

     報告とは関係がないが、自由民主党の教育改革プロジェクトのひとつが、チャー タースクールの導入をめざして検討している。その中間的な案ではあるが、そ のような自由な学校づくりの例として、次のようなことをあげている。 ○ 地域社会の人材を積極的に活用して、児童生徒に町づくり、職業体験など の地域や社会の活動に参加する機会を与える、いわゆるプロジェクト学習を中 心とした実体験重視の教育 ○ 不登校の傾向をもつ児童生徒やいじめにあった児童生徒などに対して、そ の児童生徒の心身の状況等に適した指導方法による教育 ○ じっくりと時間をかけて読・書・算などの基礎的基本的な内容の着実な修 得をめざす教育 ○ 科学・芸術等の特定分野の才能を伸ばす教育 ○ 児童生徒の興味・関心にこたえて、発展的な学習内容に及ぶ教育  このひとつひとつを吟味することは避けるが、よく考えてみればこれらの多 くは、現在の学校教育が抱えなければならない共通する課題でもある。分から ないことを分からないままに放置したり、先に進んだりすることなく、分かる まで十分に時間をかけて教えていくこと。あるいは、興味や関心にこたえて、 選択的で発展的な個別カリキュラムを用意していくこと。地域や社会との関わ りを多くし、地域社会とともに育つ子どもたちをめざしていくこと、などなど。  これらは、特別な学校を準備することや、学校選択を働かせることではなく、 すべての学校において準備し、整えていくべき重要な課題ではないのか。「学 校選択」という場合には、選択すべき特色がなければならないが、すべての学 校がとりくんでいかなければならないことは、すべての学校が創意と工夫をこ らし、地域社会の応援をえながらとりくんでいくべき課題となり特色とはなら ない。  報告は「選択」する学校のイメージを提示していないので見えてこないが、 保護者や子どもたちは、何をもって「選択」していくのであろうか。  ここでわたしたちは、過去の、そして現在も厳然として存在する差別の問題 を直視しないわけにはいかない。大阪の学校の例を委員会でも紹介したが、就 学指定が行われているなかにあっても、全校生徒1200人中 700人が被差別部落 の子どもたちと共に学ぶことを拒否し、保護者が越境入学させていた事実があ る。あるいは、進学有名校であることを理由として、越境入学をさせていた事 実も枚挙にいとまがない。  「選択」が、身分差別や、報告も指摘しているような受験競争を加熱させて きた側面を忘れることはできないし、忘れてはいけない。授業妨害をする子ど もがいるから、他の学校を選んでいくのであろうか。障害をもつ子どもがいる から、他の学校を選んでいくのでろうか。人権を尊重し、差異があることを貴 重なこととして、ゆたかな関わりと共生の社会をめざそうというのに。  もちろん報告が、そのようなことを意図していないことは十分に分かる。し かし、「選択」すべき価値が十分に形成され、合意されていないなかでは、 「選択」は時として差別的に働くか歪んでいくことを歴史は教えている

     子ども保護者、地域の学校参画

     わたしたちは、共に学び、共に育つ学校をつくりだしたいと願っている。 「わたしの学校」「わたしたちの学校」を再生しようと願っている。異質や差 異を十分に尊重し、それらの関わりのなかで、ゆたかな学びやゆたかな関わり をつくりだしていきたいと願っている。子どもたちの声や願い、保護者の思い、 地域の期待にこたえる学校をつくりだしていきたいと願っている。そして、目 を大きく世界に開き、価値高く生きていく次世代を生み出していきたいと思う。  その試みは、画一的な制度や内容の現在ではあっても、現場教職員や教育委 員会、自治体、地域の人々の協働のなかで育ちつつある。40人以下学級編制な どは認めない頑なな教育行政と法のもとにあっても、小学校の低学年だけはせ めて30人以下にしようと、町単独で講師を採用した例が各地で芽生えつつある。  子どもたちに職業や社会と関わらせ、生きた現実から学びを育てようと、ト ライアル・ウィークの試みが兵庫県で行われている。大阪では、不登校の子ど もとじっくりかかわろうと、ふれあいフレンド事業が行われている。また、福 島県の三春町では、地域の人々や建設の専門家と共同し、他方、教職員はカリ キュラムの研究と開発をすすめながら、学校空間とカリキュラム開発を一体化 させた学校づくりが行われている。また、個々の子どもたちの選択的な要求に こたえるために、個別カリキュラム創造のとりくみも開始されている。  そして、少なくない学校で、保護者や地域の人々に学校を開き、学校改革を すすめるとりくみがはじまっている。いつでも授業を参観できるようにするこ とから出発し、授業に参画することをすすめ、学校運営に地域の声を生かすと りくみなどなど。  これらは、「学校選択」ではない。「学校参画」である。地域社会から分散 化していくのではなく、地域社会の力を収束する試みである。わたしたちは、 こうした試みを大切に育てていきたい。日教組はこの秋に「教育改革大キャン ペーン」をすすめていく。