大詰めにきた大学の危機
大学非常勤講師問題会議編「大学危機と非常勤講師運動」総論より抜粋(p44-50)
こうち書房 2000.3.1発売 ISBN 4-87647-469-9
6. 大詰めにきた大学の危機
(1)企業の付属機関化する国立大学
1998年10月に大学審議会が提出した答申に沿い、1999年5月21日に成立した「国立学校設置法」改定で、国立大学には大学教職員以外のもので構成される「運営諸問会議」が設けられ、その助言・勧告の下に学長・学部長が決定権を持つことになりました。今まで「大学自治」の中心だった評議会・教援会は、大学の重要事項を審議する決定権を奪われることになったのです。そして今度は、国立大学を「独立行政法入化」するよう、2000年中の早い時期に具体的結論を出したいと、文部省は言っています。「独立」という言葉は、大学が「行革」つまり予算・人員の「スリム化」をせざるを得ないよう、「独立採算」にするという点だけに懸っており、実は今までよりもっと縛られることになっています。主務大臣が、業務開始・次期「中期計画」(3〜5年)・次年度「年度計画」などの認可・指示を与え、「中期計画」の終了時にはその独立行政法人の存続如何を含め「組織の在り方」・「業務全般にわたる検討を行い」ます。それらの前に意見を述べ提言する「独立行政法人評価委員会」なるものは、各大学・研究所の存続・研究教育の方向に生殺与奪の権をにぎるのに、如何なる資格・資質の人々が選任されるのか明らかにされていません。大学教員・研究者・国民の目から離れたところで、重要事項が決められて行く仕組みになっているのです。各独立行政法人内で主務大臣に意見提出の権限をもつ複数の「監事」(l名以上は外部の者から起用)も、何の資格要件も規定されていませんから、「経営感覚」だけの教育・研究には何の経験・識見もない、財界の意向を代弁する人物などが大学の最高幹部に任命されうるのです。大企業に早急な利益をもたらす、本質的に私的な方向に大学の研究を曲げることになるでしょう。「独立行政法人化」の本質は、国民の財産である国立大学・国立研究所までを大企業の付属機関化できるようにすることにあるのです。
独立行政法人にならねば、2001年開始の国家公務員25%削減の枠にひっかかるぞと文部省は脅かしますが、逆に独立行政法人になったら何が待っているでしょうか。国鉄のJR移行の時の選別雇用や、東京教育大学を廃校して筑波大学に移行した場合にも似て、雇用継続が従来のまま保証されているわけではありません。少なくとも大半のポストが任期付任用となる可能性が大きいのです。そして発足後は、前述のように主務大臣や評価委員会が、事業の存続、組織の在り方、事業全般を繰り返しチェックし、合法的に解雇をも行い得るシステムになっているのです。どんな甘言が出されようと、大学が国民の共有財産であることと矛盾するような制度を容認すべきでない、という原則的立場を保持することこそが、途中どんな経過をたどろうとも、よりよい結果に達する保証となるでしょう。
(2)企業化する私立大学
国立大学の「独立行政法人化」は、公私立大学全体の管埋面にも同様な変化を引き起こすでしょう。独立行政法人への運営交付金(国民の税金から与えられる)が「傾斜交付」され、また政府の文教予算総額が抑制される中で、各大学は「自主財源」の拡大努力を要求され授業料を値上げせざるを得なくなります。それに倣って、私学でも政府の文教政策に対する忠実度に応じて私学助成が選別給付され、全体として私学助成は縮減されて行くことになりますから、こちらも一層授業料アッブになるでしょう。国立大学の入学生さえ2000年度の初年度納入金は755,800円(1980年度の2.7倍)で、大学生をもつ家庭は96年末でさえ年に平均200万円を出費させられて来ました。世界で一番高い日本の授業料は、「独立行政法人化」によってこうして更に上げられ、教育の機会均等は一層失われます。日本の大学はいま公私の別なく、政府・大企業の、世界の大学史にない愚行の犠牲にされようとしているのです。
私立大学の場合には、さらに独自の深刻な問題も加わっています。第一にあげなければならないのは18歳人日の急減です。1992年の205万人から2009年には121万人まで下がりますが、すでに1999年の入試では短大や地方私立大学を中心に定員割れが起こり、経営危機に瀕する大学が続出しています。これも元はと言えば、第I節や第3節(4)で見たように、団塊世代が18歳人口だった学生急増期にも国が責任を回避し、高等教育予算を先進国中最低に抑えて国立大
学の数を増さず、経営体質の整わぬ私立人学の増設にまかせて来たからです。しかも政府・財界は不景気の上に18歳人日の急減した今の時点でも、「競争原理」を通しての多様化・種別化をと、生き残りをかけて経営策に腐心する私立大学の多くを見殺しにしようとしているのです。こうなれば、私立大学はいっそう企業化せざるを得ず、競争的環境に不慣れなだけに、乱暴な経営・労務政策をとることで、自らを窮地に追い込むことになりかねません。
(3)大学教員の批判的精神の停滞
大学のこのような企業化、大企業の付属機関化は、教学の内容をも変質させます。客引き的宣伝に役立つ、或いは企業の生産技術に直結する科目・テーマだけが育てられ、大学が本来目的とすべき基本的・長期的視野に立つ教育・研究は淘汰されます。そしてその脅迫的武器である任期制その他の不安定雇用により、教員たちの批判性が脅かされます。
日本の大学における批判的精神の停滞は、すでに以前から始まっていました。第3節で述べたように集権的な近代化の過程をたどったため、戦前は「帝国大学」中心、教授会中心の特権的な大学自治だったことは、よく知られています。戦後になっても、それを明確に脱した民主主義的原埋に立つ大学自治が発達しえなかったのは、第二次大戦後日本を左石したアメリカの世界戦略の下で、社会の民主的改革が中途で放棄されたことと関係しています。殊に「高度成長期」以束、「会社人間」づくりのための格差マスプロ教育と平行して、大学教員にも逃避的で個人本位の考え方が増え、大学の在り方について受け身になって行きました。
そのため、90年代に入ってからは財界・文部省から一つ石を投げられるごとに、既得権を失うまい、自分たちだけは生き残ろうとして、いつも文部省のラインに引さづられ、国民とどころかそばにいる厖大な数の非常勤講師たちとさえ手を組もうとしませんでした。国民を入試地獄や教育問題のあらゆる混乱に陥れた源が、大学の格差システムであったにもかかわらず、この国民の苦しみの解決に、大学人自身はほとんど何の手もさし延べずにきました。だから、大多数の国民にとって大学研究者というものは、自分らの子どもが入るのに四苦八苦している高嶺の花園のような所にいる、何の苦労もない恵まれた人たち、と思われたままです。そしてその報いは現れました。大学が上述のように崩壊の危機に瀬しているとき、国民は大学の危機にほとんど気づいておらず、この国民からの孤立こそが、
有効な戦いを組めずに政府・財界に押しまくられ、引ぎづられてきた理由になっているのです。今ようやく、それに気づく発言が、大学内の専任教員たち自身の中から出始めています。
7. 大学復興運動よ起これ
(1)国民との連帯の復活を
近年の「独立行政法人」化案にいたるまでの政府・財界の大学・科学技術に対する政策は、常に教育・基礎研究を軽視し、教員・研究者の人権を抑圧する方向に向かってきました。基礎から積み上げねば育成できるはずのない学問・科学技術の体系性を無視し、創造が本質的に人間の自由にかかわるものであることを理解していません。いまだに戦前・戦中の「天才教育」・「風船爆弾」の水準に低迷する、恥ずかしいほど幼稚なものです。ユネスコ主催の世界高等教育会議で採択された「21世紀の高等教育・展望と行動」は、「21世紀に向け諸問題の解決は・・・・教育一般、特に高等教育の役割により決定される」と述べています。また世界の先進国は「教育こそアメリカの最優先課題」(クリントン大統領・1998年一般教書演説)、「イギリスの最優先課題は三つ、教育・教育・教育」(ブレア首相・1997年総選挙演説)、「教育は国家の最優先課題」(フランス、教育基本法)と、みな教育・基礎研究を重視しています。実際アメリカは1999年度予算で教育予算を12.6%増額(18歳の大学全員入学と学費無償の実施)し、イギリスは99年度から年率5%の教育予算増を3年問継続、ドイツは99年度から5年間に教育予算増を二倍に増やすと発表しています。これは、「頭脳産業時代」に備えるには「知的インフラ」への「先行投資」が必要であることを理解し、大学への信頼に基礎を置いているからです。日本の政府・財界のやり方は、数段遅れた後進的体質と、その故の焦りを示すものに外なりません。
この誤った政策の矛盾は必ずあらわれ、それに対する国民的な闘いは必ず起こるでしょう。大学史をひもとけば、大学の変革は社会の変革に前後して必ず起こっています。宗教改革・科学革命・啓蒙主義・市民革命・産業革命、諸民族の独立やファシズムからの解放などは、それぞれの中心的な場所で大学の変革を伴い、それによって生れた新しい大学の在り方こそが世界に広がって、今日の大学をつくってきたのです。私たちはいま、上記のような日本の大学の危機を前にして、大学の新しい学問的な在り方、大学復興の途を開くべく、準備を開始せねばなりません。任期制反対以末、大学関係法反対・「独立行政法人化」反対と、いま全国の大学教職員・学生の運動は、次第にまとまりを見せつつあります。
大学自身の変革は、最後的にはその内部での奮起なしにはありえません。そしてそれが生まれ育つ、またそれに勝利する基盤は、大学人の国民にたいする責任の自覚、学問の実践的基盤である自国の現実への覚配なしにはありえません。大学教員が回避し、忘れがちだった国民との連帯の復活、国民的な教育復興運動の一環としての大学復興運動こそ、力の源泉です。
(2)非常勤講師の役割
ではそのような教育復興運動、国民とともに行う大学復興運動の中で、非常勤講師は如何なる役割を担いうるでしょうか。大学から疎外され、不当な低賃全と無権利のなかで、生活防衛のためにも講義の質で闘わざるを得ない非常勤講師たちは、その故にまた、専任教員たちのように既得権の上に「研究至上主義」に逃避して教育を軽視したり、個々の大学の企業化、大企業の付属化の論埋に巻き込まれたりすることのない立場にあります。大学教員のなかでは、いわば初めから国民と同じレベルに立っているのが、非常勤講師たちだといえましょう。しかも非常勤講師たちは、市民との交流の機会に恵まれています。なぜなら高等教育に対する市民的な要求は高まり生涯化・多様化して来ているうえ、単位認定の在り方(単位互換制度など)・諸種の資格の取り方も白由化されて来ています。地方・大都市をとわず夏期講座・市民大学その他、いろいろの講義依頼が来る時代になっているので、国民との交流をふやすための「講義運動」として組織すれば、大学が今どのような状況に置かれているかを訴える機会も増やせるでしょう。この講義運動は、自分の大学の講義で手一杯な専任教員たちより、求めて講義数を増やさざるを得ない非常勤講師の場合、はるかに多くの交流の機会を市民との間に持ちうるからです。大学によって、最も非人間的な無権利状態におかれてきた非常勤講師たちが、その大学の復興をかけた運動に先駆的な役割を果たしうると思われること、国民との間をつなぐ本質的な局面で働きうると思われることは、歴史の法則性というものでしょうか。その変革の過程において、日本の大学の、長く続いた非人間的な非常勤講師制度の歴史もまた、終わることを私たちは心より待ち望んでいるも
のです。
私たち大学非常勤講師問題会議は、全国の非常勤講師をはじめ、すべての不安定雇用にある教職員たちに心からのエールをおくるとともに、日本の教育や大学・研究所を国民の手にとりもどすこの闘いに、全大学人が立ち上がることを呼びかけるものです。国民の皆さんのご支援をお願いします。
(文責井本三夫・三戸信人・菊地重秋)