==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
十三題の発表の中にはひとつふたつ、茫洋とした研究があった。洗練されていない初歩的で原始的な研究である。たとえば、「雑種の卵や精子はなぜできそこないになるか」といった漠然とした大きな問題に、古典的アプローチで挑戦するような研究である。このような研究には最新のテクニックはそぐわないし、短期間でめざましい成果など上がらない。結果はどちらかといえば暖昧で、したがって一流誌には載らない。ところが、こちらのほうが聴いていてはるかに面日いのである。研究に付随する様々な問題点が見えてくる。あそこをもっとつっこめば、こっちの方向に研究が発展するかもしれない。あちらではなく、こちらに着目すれば結果の解釈は百八十度変わるかもしれない、等々。発表を聴きながら次々と想像がふくらんでくる。これはいわば「問題発見型研究」である。創造的基礎研究と言い換えてもさしつかえなかろう。
私が大学院生だった今から三十年ほど前は「問題発見型研究」が主流だったように思う。ところが、北大が大学院重点化した頃から「問題解決型研究」が伸してきた。その結果、我が生物学専攻の研究は世界の流行誌に載り、研究費は潤沢にまわり、卒業生は最先端の研究機関に就職するようになった。生物学専攻は名を馳せ、理学研究科も、北大も名を上げた。万々歳だろうか?
大学院で「問題解決型研究」の研究に従事したあと、研究目的のはっきりした研究機関に就職する。かれらにとって研究とはイコール「問題解決型研究」である。しかもその「問題」は大学院時代は指導教官が、就職してからは上司が設定する。そのように育てられた人間に、自ら問題を発見する能力が欠けていても驚くに当たらない。こうして、問題解決型研究がはびこり、問題発見型研究は姿を消す。基礎研究は死滅し、世の中から創造性が矢われて行く。
「問題解決型研究」で成果を上げるのはたやすい。一方、「問題発見型研究」は歩留まりがきわめて悪い。そもそも研究計画の立て方からして容易ではなく、まったく成果が上がらずに無駄になることもある。真に創造的な、基礎的な研究とはそうしたものである。そのような研究がたくさんたまった段階で天才が現れると、世の中がひっくり返るようなことが起こる。ダーウィンがそうであった。たまには天才が先に現れ、後を追って基礎研究が蓄積することもある。メンデルが遺伝の法則を発見した当時は、その意味を誰も理解できなかった。それを裏打ちできるような基礎研究が皆無だったからである。二十世紀初頭にメンデルの法則が再発見されたのは、細胞分裂に関する基礎研究が蓄積されたためである。
「問題解決型研究」は国立、民間を問わず研究目的の定められた研究機関で行われている。一方、無駄になるかもしれない「問題発見型研究」は、かつては修道院(?)、今は大学をおいて行える場所は他にない。大学の独立行法人化がもし「問題発見型研究」を抹殺するものであるなら、それは人類の真の発展を遅らせるだろう。効率主義は目先の利益をもたらす。しかしその効果は長続きしないのである。