国立大学独立行政法人化の問題中嶋 哲彦名古屋大学大学院・教育発達科学研究科目次
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序小論では、行政改革論の文脈で誕生した国立大学の独法化が国家戦略としての科学技術創造立国路線とリンクし、その推進装置として「期待」されていること、さらに独法化が教育研究の自主的発展とそれを支える大学自治に大きく矛盾することを明らかにする。
独立行政法人制度とは独法化は民営化でも民間委託でもないが、「効率化」をはかるために、非効率な業務の改善などに努めるほか、民間企業の経営手法を取り入れることにもなるだろう。したがって、独立行政法人に移行した組織は国家公務員の定員削減の対象から外れるが、「不採算部門」の「自主的」な縮小・切り捨てを余儀なくされる可能性は大きい。また、独立行政法人化の先には廃止または民営化のシナリオが用意されている。効率化の達成状況が芳しくない独立行政法人は改廃(3)の対象とすることが法定されており(35条)、逆に独立採算制への移行が可能になった場合には民営化への圧力が強まる仕掛けになっている(二条)。さらに、当面は国が独立行政法人の運営費(の一部)を負担するとしても(46条)、それでは財政削減にならないから、この制度には当初から「独立採算が可能なものは民営化ヘ、効率化が進まないものは廃止ヘ」という時限装置が組み込まれていると見るべきだろう。 教育研究は当初想定された事務事業(4)とは異なって効率性追求になじまず、大学丸ごとの民営化はさわめて困難だろう。そうなると、国策的見地から国費で維持していく大学と、何らかの形でリストラが進められる大学への選別が高い政治性・市場性をもって進められる可能性がある。どちらに選別されるにせよ、教育研究・文化創造における大学・研究者の自主件,自律性は制約を受けることになるだろう。また、名称の「独立」とは裏腹に、自主性尊重義務(3条)にも反して、通則法には独立行政法人に対する政府の強い管理権が定められている。独立行政法人の存廃は主務大臣等の判断にかかっているため、国策への「自主的」な追従を促すことにもなるだろう。 このような制度が国立大学に適用された場合、教育研究に対する政治的・市場的統制、国家的見地から判断する有用性を基準とする大学の選別、大学間および大学内部での忠誠競争の激化などが懸念される。もちろん、学問の発展と国民生活向上への貢献は望むべくもない。
国立大学独立行政法人化論の出自独立行政法人制度は、行政改革会議の最終報告音(1997年)で、「行政の滅量化、効率化」を図るための仕組みとして打ち出された。しかし、このときは、「独立行政法人化は、大学改革方策の一つの選択肢となり得る可能性を有しているが、これについては、大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図るという長期的な視野に立った検討を行うべきである」と述べ、国立大学への適用に含みを残した。その後、1998年6月に中央省庁等改革基本法が成立し再び国立大学の扱いに注目が集まったが、推進本部「中央省庁等改革推進にかかる大綱」(1999年1月)では「平成15年までに結論を得る」として結論を先に延ばした。さらに、89施設・機関について独法化を決定した「中央省庁等改革の推進に閲する方針」(閣議決定、同年4月)でも同様の方針が確認された。しかし、政府は独立行政法人に移行させる組織の職員数は国家公務員を削滅したものと見倣すことにしているため、「10年で25%定削」の公約を達成するために国立大学の独法化はいつ再浮上してもおかしくない状況が続いていた。 実際、1月の「改革大綱」決定の直後から夏頃にかけて、国立大学独法化の動きが急速に表面化した(5)。この時期までに、文部省は当初の独法化回避の方針(後述)を放棄するに至ったと思われる。そして、9月、文部省は通則法に対する「特例措置」を設けつつ独法化を進めることを内容とする「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」(以下「検討の方向」)を発表した。推進本部ではこの報告を受けて予想以上に早く結論が出たことに委員が驚喜するほどであった。 このように、国立大学独法化論は減量化・効率化をスローガンとする行政改革論を出自とし、定削の数合わせの動向に沿って推移してきたように見える。しかもこの過程で、学問の在り方、高等教育を受ける権利、大学と産業の通切な関係などに関し、国民や大学人の声を反映させる民主的手続はまったくとられなかった。
行政改革としての大学改革資本主義社会は、初期のイデオローグたちの予定調和的社会発展観に反して、様々な予盾をその内部に抱え込んでいる。とりわけ20世紀にはその矛盾が爆発的に拡大し、国家の積極的な介入によって予盾を押さえ込まなければ存続すら困難になっている。現代国家は、市民社会の自主的管理に任せるべき社会共同的機能を国家制度に組み入れ政治的,行政的に制御したり、公的資全を用いて大企業の経済活動を助けたりすることで、社会諸予盾を緩和または隠蔽してきたのである。ところが、国家機能の拡大は同家自体の肥大化と国家財政支出の膨大化をもたらし、国家財政の構造的赤字を生み出した。借金まみれの国家財政は構造的性格のものだ。 政府が膨大な構造的財政赤宇に耐えられなくなっていることは、いまや誰の目にも明らかであろう。しかも、アメリカのルールと基準による「大競争時代」を迎え、全のかからない政府の実現は至上命令と考えられている。小渕内閣が「10年間で25%」という無謀とも言える国家公務員の定員削滅を公約したのも、このような文脈で埋解できよう。しかも、国家機能をすべて一様に縮小するわけではなく、ある部分は切り捨て、ある部分は強化するという選択が行われている。民間企業の経営手法の導入、事務事業の民間委託、民営化、さらには事務事業の縮小・廃止などの手法を用いて、社会福祉、医療、教育など国民に対する行政サービスを切り捨てる一方で、企業活動のための環境整備やその後始末にかかわる国家の役割は益々強化されている。曲がりなりにも福祉社会の実現を公約してきた「この国のかたち」が「行政改革」を通じて大さく転換しようとしているのだ。つまり、「効率化」は、国民サービス部門を減量化し、大企業奉仕型の行政活動は強化するという形で進められ、国民生活の維持・向上への公的責任は放棄されつつあるということだ(6)。 「大学改革」という名で進められている「大学を対象とした行政改革」もまた、全大学または教育研究全体をスクラップ化しようとするものではなく、「科学技術創造立国」という名の産学連携・産学融合システムの中で役割を果たしうる大学群と大学制度をつくるという戦略に沿って進められている。 国立大学はこれまで、学校教育法と国立学校設置法の下でひと括りのものとして、同一の基準によって処遇されてきた。
科学技術創造立国路線の推進装置ここで科学技術創造立国路線とは、1995年の産業構造審議会と産業技術審議会の合同報告書「科学技術創造立国への道を切り拍く知的資産の創造・活用に向けて」を受けて同年10月に成立した科学技術基本法と、1996年7月に閣議決定された「科学枝術基本計画」に表現された、国家戦略としての科学技術政策の総体をいう。「基本計画」では、新たな研究開発システムの構築のための制度改革として(1)研先者の流動化、(2)産学官の交流、(3)厳正な評価を、政府研究開発投資の拡充策として(1)競争的資金をはじめとする多元的研究資金、(2)総額17兆円の科学技術関係経費の投入などをあげている。これらは1999年6月の学術審議会答申「科学技術創造立国を目指す我が国の学術研究の総合的推進について−『知的存在感のある国』を目指して‐」に継承され、「経済のグローバル化に伴うメガコンぺティション(大競争)の拡大、産業の空洞化、人口構成の高齢化など、我が国が直面している課題」にこたえる科学技術の創造を目指すために、次のことを政策課題として提示した。 競争的研究環境の創出競争的研究環境の創出競争と評価を通じて資源の重点的・効率的配分を実現する。たとえば、競争的研究資金の拡大、研究者の流動性拡大、大学間の競争的研究環境の醸成。効果的資源配分のための第三者評価第三著による研究評価の結果を効果的な資源配分(研究費・定員の配分、機関の改組等)に活用。優れた学術研究を行う研究機関を重点的に支援。産学連携の推進産学連携は研究成果を社会に還元する有効なシステムであるとともに、大学の存在理由を明らかにし国民の理解と支援を得るためにも重要。(a)任期制、兼業規制の緩和、学外との人事交流、会計の弾力化。(b)外部資金導入システムの改善。(c)企業との共同研究制度。(d)共同研先参加を研究業績として評価、研究者個人への経済的還元。(e)大学等へ研究資金を寄付しやすい環境づくり。国立大学を独法化することで、個々の大学について個別的な評価を実施し、それに基づいて教育研究費を交付したり、大学・部局の廃止を含む改組に強権的に着手したりすることが可能になるだろう。これにより、教育研究費の「効率的」配分、言い換えれば国家戦略に適合した配分が可能となり、大学を国家戦略に引き入れて国策貢献型大学への転換を推し進める一方、非効率と判断される大学を切り捨てることもできるのである。
大学自治の理念と制度大学は時の政権や私的利益の支配に服することなく、学問の論埋と大学構成員の良識に従い民主的,自律的に運営される必要がある。それは、真理と人間的諸価値を探求することで人類の幸福と社会の発展に貢献するという大学の使命を果たすために不可欠な前提だからである。したがって、大学は教授会構成員を中心とする全構成員によって自治的に運営されるのが本来の在り方である。このことは今や国際社会の共通埋解となっており、ユネスコ高等教育世界宣言「21世紀の高等教育−展望と行動−」(1998年)においても確認的に宣言されている。 日本でも、 憲法・教育基本法に定められた大学自治の原則を、国立大学と国との具体的関係に生かすためには、大学への自治権賦与、自立可能な財政基盤の保障、文部省の所掌事務と権限の限定(10)などを内容とする実定法に支えられた大学自治保障制度の整備が必要であろう。法令で制度的・外形的枠組みを定めて大学自治の制度的・財政的基盤を整備しつつ、教育・研究・運営は各大学の自治に委ねることが大学自治法制のあるべき姿だろう(11)。ところが、憲法・教育基本法成立後、戦後教育改革の「逆コース」が進展し、大学自治保障法制は整備されないまま今日に至っている(12)。そのため、日本の大学自治は、脆弱な制度的・財政的基盤の上に慣例、努力、世論といったものに支えられて展開されざるをえなかったのである。 国立大学が文部省の予算管理により自主性・自律性を制約されていることは周知の事実である。そこから、国立大学が「自律」を求めるなら「自立」が必要で、国から独立した法人格と財政基盤をもつべきだという議論が生まれてくる(13)。これは一面においてまさしく正論であろう。しかし、「自立」のためには各大学が相応の安定した財政的基盤をもっていることが必要だ。ところが、単年度主義の予算管理により国立大学が独自の財政基盤を形成する余地はほとんどなかったし、逆にそれが可能な制度的環境が保障されているのなら国立大学の「自立」や「自律」をあらためて間題にする必要はないはずである。
独法制度の問題点業務範囲の法定通則法の「法人の業務は個別法で定める」との規定を受けて、「検討の方向」では「法律で全大学共通の業務を定め、法令で各大学ごとの業務をある程度具体的に定める」としている。現在は文部省への概算要求の過程で文部省の制約を受けざるをえないが、国立大学の教育研究は各大学が自治的に策定した将来計画等に基づいて展開することが基本である。省令で業務範囲が限定されると、教育研究の論埋に即した大学の発展がいっそう阻害される可能性が高い(14)。中期目標と中期計画通則法によれば、主務大臣が3〜5年の中期目標を定め各法人に指示し、各法人はそれに基づいて中期計画を作成し主務大臣の認可を得る。主務大臣は上記の指示・認可の際、評価委員会の意見を聴取し、財務大臣と協議することになっている。「検討の方向」には、中期計画(5年)の指示に先立って各大学から意見を聴取する義務を文部科学大臣に課すこと、評価委員会は大学評価・学位授与機構の専門的評価と教育研究の非定量性や経済的効率性に馴染まない点を踏まえることなどの特例措置を提言している。しかし、大臣には「意見尊重義務」すらない。大学の主体性を守るためには「大学の意見に基づき中期目標を指示する」とすべきだろう。また、教育研究が定量的評価・経済的効率件になじまないことを認めるなら、効率性追求を基本とする独立行政法人制度を国立大学に適用すること自体断念するのが論理的に正しい結論である。さらに、中期目標期間中は原則として新規計画が起こせず、教育研究の柔軟な展開は大さな制約を受けるだろう。評価と検討通則法によれば、主務省の評価委員会は業務実績を評価し、必要に応じて法人に業務運営の改善等を勧告する。この評価に基づいて、主務大臣は法人の組織・業務全般について検討し所要の措置をする。総務省の審議会は事務事業の改廃について主務大臣に勧告できる。「検討の方向」では、自己点検・評価の活用など教育研究にふさわしい評価基準・評価方法について検討すること、教育研究に係る事項については大学評価・学位授与機講の専門的な評価を踏まえることを求めている。学長の任免通則法が「法人の長は主務大臣が任命する」としているところ、「検討の方向」では学長の任免は大学からの申出に基づき文部科学大臣が行い、また評議会により実質的な学長選考が行われるようにするとしている。しかし、これでは学長職が官僚の出向先・天下り先になったり企業経営者を就任させたりしない保証にはならないだろう。また、「評議員による実質的選考」の強調は通則法に対する特例措置というより、学長選考過程から教授会構成員を排除する論埋として展開する可能性もあるだろう。財務・運営交付金通則法は「主務大臣は中期計画に従い運営交付金及び施設費等を毎年度予算要求し各法人に措置する」とし、「検討の方向」では運営交付金の積算方法は大学の教育研究の水準を維持・向上させる観点から検討するとしている。しかし、高等教育費の貧困が運営交付金制度で解決されるわけではないし、上記積算方法は総務省や財務省による財政的効率牲の評価に耐えうる必要があるはずで、重点配分によって教育研究水準の維持向上と両立させるのではないか。とすれば、その裏側には切り捨てられる教育研究がなくてはならないはずである。
それぞれの課題また、大学改革と言いながら、大学における教育を人材養成の観点からしかとらえようとしない、人づくりへのイマジネーションの貧困さには驚くばかりである。知識や枝術に手足を付ければ人が出来上がるわけはなく、それはせいぜい自走式コンピュータであろう。知識や技術をコントロールする人格を育てなければ人づくりは完成しないのである。同じことは研究者へのインセンティブの与え方にも言える。ポストや研究費を競争に委ねたり、経済的報償の増減によって人を動かそうという発想には、研究者が教育研究に打ち込む内的動機に対する洞察力の低さを感じてしまう。いま政策立案者に求められることは、まず第一に、人と人づくりに関する豊かなイマジネーションをもつことだろう。 私は、高3の夏、丸善前の歩道でたまたま受け取ったチラシで、管理運営組織の中枢化(副学長、参与会)や教育と研究の組織的分難などを内容とする筑波大学法案が国会で成立しそうになっていることを知った。このとき、教育行政学・教育法学を学びたいという思いは決定的になり、理系志望だった私の進路はこれを境に大きく転換した。結局法案は成立してしまったが、チラシをくれたおじさんの精神は、4半世紀を経て今やおじさんになってしまったかつての高校生に受け伝えられた。 政財官が主導する大学制度改革は、国立大学だけでなく日本の大学全体を包み込む形で展開しはじめている。これは筑波大学法案の比ではなく、戦後の大学改革の中で最も大規模でラジカルなものだろう。教育研究の意味と在り方、文化と知と枝術の質、人の価値と人づくりの意味など、人間的価値のおそらく最も深く重い部分に深刻なダメージを与える可能性が高い。これに今どう対峙するか、そして次の世代にどう繁いでいくか、私たちの世代が試されている。
註(1)昨年9月以来表立った動きは止まっており、議論のための情報が決定的に不足している。さまざまな憶測が流れているが、現時点でこの間題の成り行きを観測することはきわめて難しい。 (2)さらに、今日では、当面は国民に提供するサービスが低下するとしても減量化自体に意味があるとさえ言われている。公的責任を放棄する仕組みと言うことか。 (3)「公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業」(2条)だから独立行政法人に担わせるのに、それを廃止する当初から予定するとはどういうことか。 (4)独立行政法人化の対象として、当初は、効率的処理に適した定型的な事務事業を反復的に大量処理する組織等が想定されていた。 (5)藤田宙靖氏のジュリスト論支(「国立大学と独立行政法人制度」、256号)は昨年4月以降の独法化の動きを加速させたが、これにも独法化問題の性格がよく現れている。藤田氏は、閣議決定の「『平成15年』という期限の明示にも拘わらず」、「平成12年中に、少なくともその本質的な部分についての解決がなされていなければならない」と、早期に独法化の結論を出すことを求めた。その根拠は『独法化問題とは別に2001年度から定員削滅計画(10年間で10%削滅)が実施される。このままでは、国立大学も当然10%の定削を受けることになる。定削を逃れるためには、定削の対象となる定員の範囲が確定する2000年7月ごろ(2001年度の概算要求時期)までに、国立大学は独立行政法人化するという結論を出す必要がある。』というものであり、定削と独法化を所与のものとして二者択一を追る議論であるが、この論文が国立大学関係者に大きな衝撃を与えたことは事実であろう。 (6)「行政改革」の課題として「規制緩和」も強調されている。紙幅の都合上詳述できないが、規制緩和論が公的部門に市場主義的競争原理を組み込みつつあることにも注意を要する。ハーメルンの笛吹き男! (7)公立大学の独法化論はすでに提起されている。他方、私学助成制度は私大再編装置として利用されるのではないか。国立大学を独法化すれば、文部省にとって私学助成制度を大胆に改革する名目が立つだろう。 (8)この過程で国立学校設置法、学校教育法、教育公務員特例法が改正され、学長権限の強化、学部長の法的地位の確認(将来の学部長への権限付与の前提がつくられた)など、大学管理体制の強化が法的に用意された。また、2000年度からは国立大学の予算配分方式が改められ、教官当積算校費と学生当積算校費が大幅に圧縮され、新たに「大学等分」が配分されることになった。初年度については前年度の額を下回らない予算が配分されるが、今後は文部省の裁量により各大学への予算配分が大幅に増減することが心配されている。これまでの予算配分には理系・文系、実験・非実験、博士課程・修士課程の違いにより配分額に格差が設けられていたが、経常的教育研究費は基準的経費として各大学に保障されていた。しかし、今回の措置により、これまで経常的教育研究費として保障されていた予算を振り替える形で、「大学等分」という名の競争的教育研究環境が持ち込まれたのである。これは独法大学への運営交付全の算定方式の在り方を予感させるものである。 (9)大学が一つの組織として自主的・自律的に教育研究を継続していくためには、自律的営みとして自己管理の諸過程と諸制度が不可欠であり、これを慣例的に「学内行政」などと呼ぶことがある。しかし、これは教育研究機関としての自主的・自律的活動を可能とするための自己統制過程であり、その実態は私立大学におけるそれとほとんど変わるものではなく、本来「大学運営」と呼ぶべき性格のものである。これを「学内行政」と呼び、支部省を頂点とする教育行政機関の末端に国立大学を位置づける認識をもつことは、学問・大学に時の政権や官僚からの自律性を求める「大学自治」の原理を自ら否定する陥穽に陥ることになるだろう。 (10)文部省は所掌事務(大学等の設置、学校法人設置の認可、大学等の運営に関する指導・助言など)を遂行するために種々の権限を付与されているが、その権限行使にあたっては「行政上及び運営上の監督を行わない」ことが原則である。 (11)たとえば、学校教育法には「大学の目的」が一般的に規定されているのみで(52条)、各大学の設置目的や教育研究に関する具体的な目標は法定されていない。これは各大学の目標を国会の政策判断に委ねたり、文部省にフリーハンドを許したりしているのではなく、憲法・教育基本法の理念と教育研究の要請に基づく各大学の自主的・自律的意思決定が尊重されていると考えるべきだろう。 (12) 国立大学は「国家ノ須要」に応ずることを目的とした帝国大学を直接間接のルーッとするが、戦後改革において も国家との関係は適切には整理・精算されなかった。 (13)この設置形態は、国から独立しているという点で独立 行政法人ではなく、大学自体が法人格をもつという点で私 立大学でもない。 (14) 名古屋大学ではいわゆるアカデミックプランを策定しつつある。独法化された 場合、これらを根拠に業務範囲や中期目標の内実をこちらから提示するという 戦略が考えられよう。しかし、独法制度の下では、アカデミックプランは中期 目標指示に先立つ意見聴取への対応の範囲でしか意味をもたないかも知れない。 なかじま・てつひこ ・1955年、愛知県生まれ ・主な著書に「生徒個人情報への権利に関する研先」(風間書房、2000年) ・物事をうまく進めるにはプラン、ドウ、シーの循環が大切だと、どこかで教わった。この内一つでも欠けると、無計画、無気力、無責任のどれかになるのだそうだ。なるほどそんなものかと思っていたが、文部大臣は中央教育審議会にまた新たな諮問をしたと聞く。本当はまともにやる気などないのではないかと勘繰ってしまう。今度は私たちに任せてくれないか。 |