|
全大教資料
No.99 - 21 討 議 資 料 |
自民党文教部会・文教制度調査会「提言 これからの国立大学の在り方について」に関する「論点整理」
2000年5月20日
全国大学高専教職員組合中央執行委員会
< 目 次 >
|
はじめに——「提言」のもつ概括的特徴と問題点 ………………………………………………… |
2 |
|
1. 今後の高等教育政策の在り方〜「3つの方向」と「3つの方針」 ………………………… |
3 |
|
(1)「3つの方向」をめぐって ……………………………………………………………………… |
3 |
|
1)「世界最高水準の教育研究」 ………………………………………………………………… 問題点の1:特定領域・特定手法への過度の傾斜/問題点の2:「比較優位・比較劣位」から出発する競争的環境の強調/問題点の3:膨大な「すそ野」をもつことの見落とし/私たちの視点 |
3 |
|
2)
大学の個性化・多様化を進める ……………………………………………………………… |
6 |
|
3)
教育機能の強化 ……………………………………………………………………………… 「個性化・多様化」と「教育機能強化」に対する私たちの視点 |
7 |
|
(2)「3つの方針」をめぐって ……………………………………………………………………… 競争原理の適用/規制緩和/高等教育・学術研究に対する公的投資の拡充/ |
8 |
|
2. 国立大学の運営の見直し ………………………………………………………………………… 護送船団方式からの脱却/責任ある運営体制の確立/学長選考の見直し・教授会の運営の見直し・社会に開かれた運営の実現・任期制の積極的な導入・大学の運営に配慮した規制の緩和 |
10 |
|
3. 国立大学の組織編成の見直し …………………………………………………………………… |
13 |
|
4. 国立大学の独立行政法人化 ……………………………………………………………………… |
13 |
|
おわりに ……………………………………………………………………………………………… |
15 |
はじめに——「提言」のもつ概括的特徴と問題点
今年5月9日、自由民主党文教部会・文教制度調査会は「提言 これからの国立大学の在り方について」(以下、「提言」と略)と題する文書を発表し、政権与党としての「大学改革」像の一端を明らかにした。
「提言」をふまえ、文部省は早急に国立大学の「独立行政法人化」についての「基本的方針」を固め、その後、国大協等大学関係者の意見を聴取しつつ、2001年度までに具体的な法人像をまとめるとしている。
この提言は、今年に入ってから、自民党内の文教部会・文教制度調査会に設けられた高等教育研究グループによって「精力的に」続けられてきた議論をふまえたもので、新聞紙上でも「独立行政法人通則法の適用を断念」として伝えられてきたものであった。
たしかに、この3月30日に発表された提言に引き続いて、本「提言」もまた、「100%そのまま国立大学に適用することは、大学の特性に照らし、不適切である」と認めたことの意義は、通則法の適用が、同じく本質的に「無理」といわざるをえない試験研究機関や美術館・博物館等に対して、ほとんど既定の方針通り推進されたこととの比較で考えても、一定の意義なしとはしない。そのうえ、「公的支出の増大」「地方大学の存立の確保」「社会の需要は乏しいが重要な学問分野の継承、発展」等の文言をちりばめざるをえなかったこともまた、この間の運動と世論の反映と見ることができる。
しかしながら、「提言」が「行政改革推進本部からの示唆を踏まえ」、「行政改革推進本部幹事会においても了承されたところ」のものである、と述べていることには、大きな懸念と疑問を抱く。それは、本来、学術・文化・教育の論理と本質に基づいてなされなければならないはずの「未来の大学像」が、「まず『行革』ありき」の「大学改革」像や、「科学技術創造立国」路線に忠実に奉仕し、「ボーダーレス時代」「大競争時代」における「生き残り・勝ち残り」戦略に貢献する大学像に屈服させられるのではないか、という懸念である。しかも、文部省は「提言」に沿って早急に「基本的方針」を固めるとしている。
もしそうであるとしたら、私たち大学教職員はこれを黙って見過ごすわけにはいかない。なぜなら、学術・文化・教育の維持・継承と発展に貢献することが私たちの第一の責務であり、それを通じて社会のあるべき発展に協力することもまた重要な責務だからである。
以下、概括的にみても、「提言」は、まさにその懸念と疑問とが現実のものであることを示している。つまり、「提言」は、何よりも「独立行政法人制度の下で、通則法の基本的な枠組みを踏まえ」たものであり、しかも、昨年9月の文部省の「独立行政法人化の検討の方向」で示された大学の「自主性・自律性」の強調や「学長人事における自主性・自律性」から見ても後退しており、見過ごすことのできない問題点を有している。
それは第1に、「大学の存廃など中長期的な在り方に関しては、国がより大きな責任を負うべきである。」という文脈に端的に示されるように、「国」と大学との関係において、これまでにない形で「国」のリーダーシップが強調されていることである。このことは、「評価による資源配分」とあいまって、「国」の統制・誘導による大学の管理強化と再編・淘汰に結びつく危険性をもっており、大学の自律性、自主性を高めるどころか、学問の自由と大学の自治をふまえた自律的改革に逆行するものと言わざるをえない。
第2に、上記と関連し、学長選考にあたって、「学外の関係者及び学内の代表者(評議員)からなる推薦委員会を設ける」等「選考方法の適正化を図る」ことに示されるように、この間の学長、評議会、教授会の見直しから、さらに踏み込んだ提言となっている。それは、自治の根幹である大学人による学長選挙を否定し、学問の自由と自治への干渉につながる危険性をもつものである。また、そのことは大学人がその社会的責務の自覚の下に、大学運営、学長選挙等への参加・体験を通じて、主体的にその自律性を高めるという、今日における自治の枠組みの確立への障害になるという危惧をもつものである。
第3に、「提言」は、欧米では公的法人格をもつ大学が一般的としている。しかし、国立学校財務センターの「大学の設置形態と管理・財務に関する国際比較研究」(第一次中間まとめ、2000年1月)にもあるように、欧米の「大学法人」は政府からの独立、財政等の自律的基盤を保障されており、今回の「提言」にある「大学法人」とは根本的に異なるものである。少なくとも、大学改革の理念とあり方についての提言ならば、欧米の「大学法人」制度の深い研究・分析も含めて真剣に検討すべきであり、これらの点を含め、「提言」は人類と地域社会の負託に応える高等教育のあり方を示すものとはなっていない。
こうした問題点とも関連して、現在、国立大学協会が独立行政法人通則法に基づく独立行政法人化に反対で一致しつつ、「調整法」等に対する態度にはその内部に大きな意見の相違が存在することを、文部省等関係機関は重く受けとめ、今後の対応に際しては慎重な上にも慎重を期すべきであり、人類と大学の知性をかけて、決して「見切り発車」等の愚行を冒すべからざることを強調したい。
以上の「概論」をふまえ、「提言」の構成に沿って、各論的に①「提言」の概要、②「提言」がもつ問題点、③ 全大教としての対抗基軸の角度からさらに詳細な分析を行う。
1.
今後の高等教育政策の在り方〜「3つの方向」と「3つの方針」
表題が示すとおり、「提言」は、「3つの方向」と「3つの方針」を掲げ、「『高等教育行政』について論ずる前に、まず、国としての『高等教育政策』のあり方」(「はじめに」)を、そこに求めようとする。さらにいえば、「3つの方向」は「提言」のいう「高等教育政策」の目的であり、「3つの方針」がそれを実現する手段の関係にある。
さて、「提言」のいう「高等教育政策」は、その目的として、1) 国際的な競争力を高め、世界最高水準の教育研究を実現する、2) 大学の個性化・多様化を進める、3) 教育機能の強化を「3つの方向」として掲げる。いずれも、言葉の限りにおいては、まことに美しい。
(1)「3つの方向」をめぐって
1)「世界最高水準の教育研究」
私たちは、日々の教育研究活動を通じて、より高い目標を掲げ、より充実した内容を目指して努力している。したがって、これを十全に発揮するとき、おのずと「世界最高水準」に達することとなろう。ところが、「まず『行革』ありき」の大学像が先行するとき、そこでいう「世界最高水準」とは、きわめて限定した意味でしかない。
すなわち、行政改革会議最終報告が「産業界及び地域社会との有機的連携の確保」とその下における「競争的環境」をうたい、大学審議会「中間まとめ」と「答申」が「国際化・情報化社会への対応」をうたっていること、最近、科学研究費補助金に、バイオ・遺伝子分野における特定費目が創設されたことや、マスコミの「ヒト・ゲノム解読競争」報道等を通じて考えられる「世界最高水準」の意味は、私たちが強調しているような、あるべき学術・文化・教育のあり方と大きく食い違うことを指摘せざるをえない。
問題点の1:特定領域・特定手法への過度の傾斜 「提言」がめざす「世界最高水準」とは、あらゆる領域にわたる、均衡の取れた学術・文化・教育の発達とは考えにくい。むしろ、「経済再生」に寄与する・特定の手法で行われる特定分野の教育研究の重要性を過度に強調する最近の風潮と高い親和性を有する点が目につく。
たとえば、生物学領域において、現在、もっとも関心が寄せられているのは、遺伝子研究とその応用であるが、これに対する関心が「遺伝子ビジネス」と呼ばれる、将来の経済的な波及効果に裏づけられていることは明白である。同様のことは「情報化」についてもあてはまる。すなわち、アメリカにおける「ニュー・エコノミー」礼賛論に影響されて、平均的利潤率をはるかに上まわる「リターン」が期待できそうな「情報ビジネス」に直結する分野の教育研究活動に重点的に投資すべきである、という議論がマスコミ等をにぎわせているが、あえていえば、こういった特定分野における「世界最高水準」や、せいぜい、ノーベル賞等の「目に見える」成果しか、「提言」の眼中にはない。
なお、ここで注目しておきたいのは、教育への「資源投入」に対する「社会的収益率」なるものを、ほとんど唯一の尺度として教育を論じようとする「教育経済研究会報告書」(経済企画庁経済研究所・1998年4月6日)の存在である。同報告書は、「教育改革については政府与党により各種の提言が取りまとめられ、着実にその実施が図られてきている。本報告書では、これらの方向を補完・側面支援し、教育改革を一層強力に推進するため、経済(学)的な視点を重視しつつ改めて高等教育を中心とした論点整理を行う」ことをねらいとするが、「提言」のいう「世界最高水準の教育研究」にもまた、同様の観点ばかりが目につき、学術・文化・教育に内在する本質へのまなざしを感ずるところはほとんどない。
問題点の2:「比較優位・比較劣位」から出発する競争的環境の強調 第二の問題点は、そこでいう「世界最高水準」なるものが、特定の視点に限定されて捉えられた、アメリカとの比較においてのみ成立する「競争優位」にすぎないことである。そのことは憲法・教育基本法が理念とする「普遍的人格の完成」といった観点が「提言」に欠けていることからも裏づけられる。
したがって、そのような「世界最高水準」しか論じられない文脈では、大学教職員の「能力」は、その種の「成果」の高低でしか論じられることはないし、学生もまた同様である。その観点は、たとえば、「情報ビジネス」にいかに大量の学生を「起業家」として動員するかが、「教育のパフォーマンス」と「学生の実力」を示す唯一の指標であるかの議論とも共通する。
そのような「競争的環境」が創出されるとき、「競争」の性質は、著しく「ゼロ・サム」的にならざるをえない。すなわち、自由で多様で豊かな教育研究のアプローチにかえて、「より多くの収益」「より効率的なリターン」を求める競争は、「もっとも多くの収益」を「もっとも効率的に得た」ただ一人の勝者と、残り全員の敗北を意味する。そのような環境に大学・高等教育機関等が置かれたとき、互いに他者を尊重しつつ協力しあう関係にかえて、他者の不幸を自己の幸福と喜び、他者の幸福を自己の不幸と恨むような荒廃した状況になりかねない。当然、自治の前提となるべき、教職員の専門性に基づく連帯の精神は根こそぎ掘り崩される。実際、そうした「競争的環境」が温床となって、研究成果の盗用やねつ造といった不祥事が続発したことが、アメリカで「科学倫理」なるものの重要性が叫ばれたきっかけであった、という事実があるが、そのような事情について、「提言」はまったくふれていない。
おそらく、「提言」のいう「世界最高水準」をめざす「競争的環境」にあっては、自己の実現は、「経済再生」に寄与する起業家としての成功でしか評価の対象とはならない。また、研究の達成も、未来の「遺伝子ビジネス」などに寄与する度合に応じてしか評価の対象とはならない。そこには、主体としての個人の完成や、人類的見地から世界を支える基礎として、学術・文化・教育に主体的に協力するといった視点は完全に欠落している。そのような視点にかえて、特定の政治・経済的動機に「貢献」する度合しか評価の対象とならないとすれば、それはまさに、現代的な「滅私奉公」のあり方というべきであろう。
問題点の3:膨大な「すそ野」をもつことの見落とし もちろん、それら分野における教育研究も、現代社会の一つの要素であること自体を否定するわけではない。私たちは、そこに「過度に傾斜」している点に厳しい批判の眼を向け、それらが学術・文化・教育を、単なる(バブル的な)利潤追求の「手段」に押し止めようとしていることに対して、抗議の声を上げているのである。
ところが、「提言」をはじめとする「まず『行革』ありき」の「大学改革」像や、「勝ち残り・生き残り」に奉仕する大学像を強調する側が、それら目的達成の効率を追求すればするほど、実は、目的達成への道のりは遠くなる一方であることも指摘しないわけにはいかない。つまり、さきに掲げた分野にかぎらず、教育研究活動は、さまざまな連関性をもって展開されているのが実像であり、先端的・戦略的と呼ばれる分野ほど、その色彩を強くもっている。そうした分野において、アメリカが「比較優位」にあることを認めたとしても(その比較自身が公平ではないことは、すでに多くの論者が指摘しているが)、その理由は、他の分野を切り捨てて、特定領域に注力したことが「成功」の原因なのではなく、膨大な「すそ野」にわたる領域において、十分ではないとしても、日本と比較すればはるかに自由で多様で豊かな教育研究環境を保証していることにも求められる。
たとえば、情報化の領域にしても、その哲学的な考察を含めて、アメリカには豊かな研究者の層があることはよく知られているが、それを支える図書館職員や技術職員をはじめとする「支援システム」の層が豊かであること、それらに対する公的な財政支出が日本をはるかに上回ることもまた、「比較優位」の理由であるということは、しばしば指摘される点である。まさにそれゆえに、「これだけの貧困な資源投入にもかかわらず、日本の大学人はよく頑張っている」とさえ評されるのであるが、私たちの能力と努力を誇ることは許されても、貧困な環境に耐えていることを許すべきではない。いずれにしても、「提言」が特定領域への重点的な資源配分を強調すればするほど、念願する「成果」はますます遠ざかっていく矛盾に陥ることは、やはり指摘しておかなければならない。
私たちの視点 これまで詳しく述べたように、「提言」のいう「世界最高水準の教育研究」とは、著しく偏ったいくつかの分野を突出させ、特定の研究手法で限定された目的のために行う性質のものではないか、という疑問が色濃く漂っている。そのうえ、これから検討する「教育機能の強化」や、繰り返し強調されてきた「重点配分」といった要素が加わるとき、それ以外の教育研究活動は、「公的投資」を受けるにふさわしい教育研究にはあたらない、という価値観さえ見え隠れする。
もしそうであるとすれば、いかに「提言」が後段で「国土の均衡ある発展の観点から、地方の国立大学が……果たしてきた役割を十分評価し、……国立大学が、基礎研究や、社会の需要は乏しいが重要な学問分野の継承、発展において果たしてきた機能についても一層強化すべきである」と述べたとしても、むしろそれは、「提言」に対する合意を調達するための「リップ・サービス」として機能する危惧を持たざるをえない。また、かりにそうでないとしても、地域密着型技術開発や萌芽的研究、内発的・自律的発展に寄与する地域振興政策研究といった、必ずしも「世界最高水準」という尺度がなじまない領域の教育研究も「行革」路線に奉仕するかぎりで認められ、「生き残り」が許されるにすぎない可能性が高い(行革最終報告が「地域社会との有機的連携の確保」を述べている点を見落としてはならない)。
おそらくそこでは、現存する社会を支配する価値観に対する根源的・徹底的な批判を含む、自由で闊達な教育研究活動は、そうした「世界最高水準の教育研究」や「行革」路線が承認する教育研究活動の恩恵にすがってでなければ、「生き残り」は困難と考えられる。それが、大学・高等教育機関等のあり方に、修復不可能な傷を負わせ、ひいては人類社会の発展に対する障害にさえなりかねないことは、もはやいうまでもない。
私たちは、そのような教育研究活動のあり方に対して、学術・文化・教育の論理と本質に立脚した、自由闊達で均衡の取れた教育研究活動の展開を対置していかなければならない。したがって、この局面においては、文字どおり、留保なしの「大幅な規制緩和」を求めていく必要があると同時に、それを確保するための基盤としての、豊かな教育研究環境の保障を追求していかなければならない。同時に、そのような教育研究環境を、市場原理の下での「競争的環境」から獲得する「資源配分」に委ねることもまた許してはならない。あえていえば、自由闊達で多様な教育研究活動によって生まれる、膨大な「すそ野」と、それを育む具体的な教育研究条件の確保なくして、「提言」のいう「世界最高水準」なるものも生まれようがないのである。
2) 大学の個性化・多様化を進める
次に「提言」は、「国公私立あわせて600を超す大学が、画一的な大学である必要はない」と称して、「それぞれの特色を生かし、研究重点大学、教育重点大学、教養型大学、実践的な職業人の養成大学など多様なタイプの大学があってよい」と述べる。そして、そうすることが「序列意識の解消」にもつながる、と指摘する。
たしかに、現在、大学間に意味不明の序列や格差が存在することは事実であり、これが、国民が高等教育にアクセスする際の大きな弊害となっていることもまた事実であるし、「受験戦争」なるものの原因であることも周知に属する(さきに指摘した教育経済研究会報告書は、「奨学ローンを拡充した上で『良い教育を受けるためには、そのコストを消費者が負担する』という他のサービスでは当然の関係が成り立つようにする……。これにより、消費者主権が取り戻され、大学は多様な消費者ニーズに応える教育を効率的に提供し、『良い教育を安い学費で受けられる大学』を目指した長期にわたる受験競争はかなり緩和される」と述べるが、これは「ローンも組めない貧乏人は大学に来るな」と言い放つに等しい提言であって、およそ不見識な見解というほかはない)。したがって、大学間の格差や序列を解消するのは、まことに結構な話というほかはない。しかしながら、序列や格差が、これらを支える有形無形の制度によって維持され温存されていることへの見識はまったく見られない。
その一つが、資源配分上の格差であり、これが国公私立という設置形態間の格差、規模別の格差、分野別の格差という重層的な構造をもっていることと、さまざまな問題を現在なお拡大再生産していることについては、「【討議資料】「大学評価」と「資源配分」問題」で指摘したところである。そのことは、たとえば、科学研究費補助金の採択状況や私学助成の傾斜配分といった、さまざまな問題を派生させており、最悪の場合、大学関係者相互の「足の引っ張りあい」といった問題さえ生みかねないことが懸念される。これに加えて、たとえば、学生の就職等において、「指定校」制度は表面上なくなったことになっているが、なお社会に根強く残存していることも明らかな事実である。これらが序列と格差を固定化し、場合によっては拡大再生産してさえいるが、大学に真の意味で個性化と多様化を求めるのであれば、つまり、「学びたい人が、希望にあふれる未来をめざして、ともに自由に学ぶことのできる大学」(意見広告)を真剣にめざそうというのであれば、まず、そういう無意味な格差と序列を生み出す有形無形の「制度」を改革しないかぎり、けっして達成できない。しかしながら、「提言」にはそのような視角がまったくない。
さらに、そうした条件を達成したとしても、個性化と多様化は、まずもって教職員の自由で自律的・自発的な教育研究活動なしに達成できるものではない。すなわち、公教育の本質を堅持しつつ、専門的・科学的な見地から教育研究の対象とアプローチの方法を選択し、それを実践すること、「先達」たる教職員と「後進」たる学生・院生等とが全人格をかけて向き合い、ともに学びつつ未知の世界に挑戦する、教育と研究とが一体となった自治的な関係が支配することを核心として、大学・高等教育機関等が形成され、それを実現するための環境と条件とが公的に作り出されなければならない。その営みから個性化と多様化とがおのずと生まれるのであれば、私たちはこれをむしろ積極的に肯定する。しかし、「提言」には、後述するように、教職員の自由や創造性に対する不信感さえうかがえる。しかも、さきに述べたような「世界最高水準」なるものが強調されるとき、むしろ、そうした特定分野・特定大学等々に対する重点配分を正当化し、残りの教育研究分野あるいは残りの大学・高等教育機関等に対する公的な責任を放棄する口実として「個性化・多様化」がうたわれているのではないか、との懸念をぬぐい去れないのである。
3) 教育機能の強化
教職員の自由や創造性に対する不信感を明白に示す一つの言及が、「個性化・多様化」に続いて掲げられた「教育機能の強化」に示されている。そこでは、「わが国の大学教員の関心は、ともすれば研究に偏り、教育面がおろそかになる面があった」と指摘するが、当然のことながら、「教育と研究の統一」という観点もなければ、そこに教職員と学生・院生等が、本質的に自治的な関係で向かい合うことに対する意識も見識も見ることはできない。
それに加えて、無視できないのは、あいもかわらず「研究=教員の私事」とでも位置づけるような理解である。いうまでもなく、研究活動は、それが科学的な精神に支えられて行われ、専門的な見地から、その時代において承認された方法によって行われるかぎりにおいて、そのこと自身によって公共的な性格を有する、というのが現代の常識である。それゆえ、研究を教員の私事と決めつける考え方は、これに対する「資源配分」を恣意的に奪ってもさしつかえないとする考え方と結びつきやすいし、「国家須要」の学、すなわち、国策や産業政策上、なんとしても確保しておかなければ、世界規模の「勝ち残り・生き残り」に対応できない分野に対する「重点配分」なるものを正当化しやすい。ことに、さきに詳しく分析したように、「提言」がいう「世界最高水準の教育研究」なるものが、独特の偏りをもっているとすれば、そうした考えに陥りやすいことは明らかである。
注目すべきことは、3月30日の高等教育研究グループ提言段階にはなかった次の文言が加えられている点である。「とりわけ、戦後、画一化され、また、量的にも著しく拡大した大学の在り方を見直し、各大学ごとに担うべき役割を明確に意識していく中で、みずから未来を切り開く先駆的な精神と、社会や国家への貢献、さらに世界への貢献という高い使命感を持った真のリーダーを、今後、いかにして育成するか、という視点が重要である」……戦前の大学が「国家須要」の学を教育研究することを目的とする、という点において「画一的」であったことを完全に見落としていることを別としても、「提言」のいう「各大学ごとに担うべき役割」なるものが、「上から」押しつけられ誘導されたそれでしかないこと、「競争万能主義」が当然の前提とされていることを念頭に置いて読むとき、この文言は、ある意味で非常に興味深い。すなわち、「提言」がいう「多様化・個性化」を実践したとしても、「世界最高水準の教育研究」なるものをめざして、生き残り競争を繰り広げるとしても、教職員のレベルであれ、大学・高等教育機関等組織のレベルであれ、学術研究なり高等教育なりの姿は著しく拡散したものとならざるをえない。場合によっては、「これでも高等教育や学術研究の名に値するのか」という、国民の正当な批判にさらされる局面さえ予想される。ある意味で、「提言」が「重要である」という「視点」とは、自民党なりの「公教育としての高等教育」像ではないか、とも考えられるのであるが、そこにいう「先駆的な精神」とか「真のリーダー」像なるものは、いわゆる「21世紀日本の構想」懇談会が求める「望ましい日本人像」と二重写しになる。あるいはそこに、最近の「教育立国」路線なるものの反映を見ることも可能であろう。
おそらく、「提言」のいう「倫理性・道徳性」なるものは、彼らなりの時代認識と社会認識に基づいて、グローバル化・ボーダーレス化に対応して生き残るために必要な資質の一環を構成する。その意味では、復古的とばかりは言い切れない側面を持ってはいるが、当然のことながら、ここには、科学的思考と精神に支えられた普遍的人格の育成という視点は稀薄であり、先に述べたような、「滅私奉公」の現代的あり方に適合的な人間像さえ見て取ることができる。
「個性化・多様化」と「教育機能強化」に対する私たちの視点 (1)「世界最高水準の教育研究」がもつ独特の性格を前提として、(2)「個性化・多様化」、(3) 教育機能の重視を通じて検討してきたことを通じていえることは、ちりばめられた言葉とはうらはらに、かけがえのない個人を尊重し、それをいかにして大学・高等教育機関等において生かしていくか、という視点にかえて、自民党の考える「国策」なるものを前提として、それに貢献するかぎりにおいて大学と個人の価値を承認する、とでもいうべき方向性を「提言」が色濃くもっていることである。それが貫徹されるとき、「大学」の名をもつ組織は生き残れても「国家あって大学なし」という状況が生まれるだろうし、「国策」に忠実に従事する教職員は生き残っても、真のプロフェッショナリズムをもった科学者たる教職員は死に絶えることとなろう。
私たちは、「先達」としての教職員と、「後進」たる学生・院生等が全人格をかけて向き合い、ともに学びつつ未知の世界に挑戦することを、大学・高等教育機関等における教育研究活動=内的事項の核心と捉える。したがって、それが教職員の専門性と自律性に支えられ、真摯な理性的討論と相互批判に支えられて発展すべき自治的な関係を本質とすることは当然であって、これが「大学の自治」のもつ本質的内容であると理解する。つまり、憲法が保障する学問の自由と大学の自治、教育を受ける権利は、ここにおいて保障されるべきものであり、これ対する具体的な条件=外的事項を確保するのが、国の責務の第一義である。
さらにいえば、私たちは、現行の学校教育法第52条(大学の目的)が「道徳的能力」の向上も目的としていることにも留意しつつ、人間の内面的な要素としての倫理観・道徳観が重要であり、それが現代社会の病理に対する処方箋の一つでもありうることを忘れているわけではないことにも、特に言及しておきたい。しかしながら、それは、個人の尊厳を核心とする基本的人権保障の原理に支えられた、尊厳ある他の人格を互いに尊重しあうところに基礎をもち、それを確保するシステムとしての民主主義原理に立脚したものでなければならない。そして、それらを追求する場合にも、教職員と学生・院生等の自治的な関係を通じたアプローチがきわめて有効であることを指摘しておく。
すなわち、大学・高等教育機関等が自治の関係に立脚し、それを発展させる「場」であること、そこに主体的に参加すること、そのような参加のトレーニングを重ねる「場」として機能することが、憲法・教育基本法の予想する倫理観・道徳観に適合的であることはいうまでもない。そのことに加えて、最近、工学教育における社会科学的視点や倫理的視点を重視すべきことが強調されていることに典型的に示されているが、いわゆる「科学倫理」を論ずる場面においても、そのアプローチが有効であることに留意したい。アメリカで発行された科学倫理の教科書が、特定の答えを示し・押しつけることにかえて、年齢層・キャリアの違う「同僚」が真摯に討論を重ねることの意義を強調していることは、その意味できわめて示唆的である。これに加えて、戦後日本の科学者運動の中で論じられてきた「科学者の社会的責任」論にも留意しておくことは、大学・高等教育機関等が社会的存在として、市民社会のよりよい一構成要素であること、その中で、教職員個人個人が高い専門性をもった市民として生きていくために重要である。
(2)「3つの方針」をめぐって
このような政策目的を実現する手段として、「提言」は、① 競争的な環境の整備、②) 諸規制の緩和を推進すること、③
高等教育・学術研究に対する公的投資の拡充をうたう。
競争原理の適用 まず、「競争的な環境の整備」については、「提言」は、とりあえず「市場原理をそのまま適用することには慎重であるべき」と述べる。しかし、それにかわる原理を示すことはない。加えて、すでに指摘したように、学術・文化・教育や大学・高等教育機関等の本質に対する考察がまったく欠けているうえ、「適切な評価に基づく健全な競争」(ここに「重点的な資源配分」がぴったりと寄り添っていることは、すでに「【討議資料】「大学評価」と「資源配分」問題」で指摘したところである)を強調していることは、重大な問題といわなければならない。そのうえ、百歩譲って「競争的環境」なるものを肯定したとしても、その「競争」に参加するためには、プレーヤー間の各種の条件が平等でなければ公平とはいいがたいが、これまたすでに指摘したように、格差・序列が厳然として存在していることに対する認識もなければ、それを支える制度を改革する問題意識も不在である以上、結局のところは、市場原理の機械的な適用に基づく「競争」を押しつける結果にしかならない。
しかも、繰り返しをおそれずにいえば、そのような「競争」は、きわめて「ゼロ・サム」的であり、それゆえに互いに同僚を「敵」視しつつ日々を送る結果になりかねない。そこからは、「自由で豊かな教育研究環境」に必要な「ゆとり」が損なわれることはいうまでもないが、それと並んで重大なことは、互いに連帯・協力して教育研究活動に従事する、という自治の基礎が失われる可能性が高いことである。後に検討する、「運営の見直し」が、いわば「外から」自治を切り崩すものであるとすれば、これは自治を足元から、内面から切り崩すものといわなければならない。
規制緩和 ここでまず指摘しておきたいことは、日本における「規制緩和」論が、実は、「アメリカ型規制緩和」論をさらに歪めた、「日本型規制緩和」論とでもいうほかはない性格をもつ、ということである。その一例として、日本における「規制緩和」論には、アメリカにおいて有力な潮流である、自由万能主義とでもいう流れ(政府による経済規制に反対するが、政府による精神的領域への規制には、それ以上に反対)が、ほとんど見るべき影響力をもたないことを挙げておく。また、「アメリカ型規制緩和」においても、あらゆる・例外なしの規制緩和ではなく、あらゆる人に「自由な競争環境」を保障するためには、より大きな経済的勢力には「規制」が加えられて当然とする考え方があることは、「規制緩和」論の「外圧」というべき日米構造協議において、独占禁止法の適用強化をアメリカが求めてくることにも見いだすことができるが、「日本型規制緩和」論にそうした視点はまったく稀薄である。それどころか、昨年の政局が、規制緩和と市場原理万能主義と競争至上主義とを軸とする「経済構造改革」の一方で、盗聴法強行と「日の丸・君が代」押しつけとが同時進行したことに典型的に見られるように、「日本型規制緩和」論とは、政府による経済規制には反対だが、精神的領域への規制はむしろ積極的に賛成する、という奇怪な議論であることに注意しなければならない。
大学・高等教育領域において、このような潮流が持ち込まれようとすることには、いくら注意してもしすぎることはない。もちろん、少なくとも現在、特定の学問を「国禁の思想」として弾圧する戦前型の状況が直ちに生まれるというのは、いささか非現実的である。しかしながら、「諸規制の緩和」で述べられている内容が、「たとえば」という限定つきながら、「学科の新設、改廃は、基本的に大学の主体的な判断に委ねること」にほとんど限定されていることは示唆的である。
もちろん、真摯な学問的・教育的見地から、学科や課程、カリキュラム等の新設・改廃が必要とされるとき、それが現状のように、何度も「おうかがい」を立てなければなかなか実行できない状況は、きわめて問題である。しかし、それら「新設、改廃」なるものが、必要とされる財政的措置を含めた具体的条件の確保なしに「規制緩和」されるとき、加えて、特定領域への「重点投資」や「競争的環境の創出」が強調されるとき、容易に、それら特定領域の育成と、他領域における「安楽死」とでもいうべき状況を生み出す「ソフト(で実効的)な規制」として現象することには注意する必要がある。
高等教育・学術研究に対する公的投資の拡充 従来から、私たちは、この点の重要性を強調してきたが、それがたとえ「提言」にすぎないとはいえ、政権与党の一角からも強調されたことは、これまでの運動や世論の反映であって、一定の評価に値する。ところが、大学審議会「中間まとめ」や答申において強調された「世界のフロントランナー」の文言が、ここでも強調されていること、「国が果たすべき役割にも、時代にふさわしい姿が求められる」こと、何よりも「競争的環境の中で、……国際的な競争力を高め」ることを目的として、「公的投資の拡充」がうたわれるとき、そこにはやはり懸念を抱かざるをえない。
すなわち、「競争的環境の創出」がいう「ゼロ・サム」的で弱肉強食的な「競争」とは明確に異なる、教育研究対象の多様な選択と自由なアプローチを求める、真に学問的な競争を通じた発展にとって、いわゆる基礎的分野を含めた公的支出の拡充は、死活的な条件である。しかしながら、「提言」が重視する学術研究・高等教育とは、繰り返し指摘しているように、きわめて独特の偏りを帯びた存在である。そのことに対する省察を欠いたまま「投資」なる言葉が用いられるとき、むしろそこには、「リターン」の期待できそうな分野への「投資」といったニュアンスが漂っていないか、という懸念が生まれるのである。そして、それはまさに、前述の教育経済研究会報告書がよって立つ思考方法である。
興味深いことは、「提言」が、日本の大学・高等教育機関等の特色として、国立・公立・私立の併存構造に言及している点である。これを、欧米に比べて柔軟で多様な構造と、いわば自画自賛しているが、併存構造自身は、私たちが、昨年の教研集会基調報告の「3. 現代における国公立大学の理念」で指摘した点でもあり、特に異を唱えるにはあたらない。ただ問題は、「提言」が自画自賛する「柔軟で多様な構造」が、「過剰に市場化されている」こと、つまり、学生・保護者の負担に多くを負っていることへの視角が乏しく、欧米の「私立」大学は、設置形態の上で「私立」であっても、その運営のほとんどを公的支出に頼っていることについての言及はまったくないし、なぜそのことが民主主義の原理の下においても合意を得られているのか、ということに対する考察もない。すなわち、「私立」といえども、それが学術・文化・教育の本質に立脚するものであるかぎり、そのこと自身において「公」的存在として認識され、それゆえに公的支出によって支えられて当然と考えられていることへの視角を見いだすことはできないのである。
このように考えたとき、「提言」が「公的投資の拡充」をうたったことの一事をもって、直ちに高く評価すべき性質のものではないことは明らかである。あくまでも、「3つの方向」に掲げられた「高等教育政策」実現の方策の一環であることに注意しなければならない。そして、その政策目標なるものが、幾重にも矛盾と問題点をはらんだものであることは、すでに指摘した。それを解決しないまま、推進方策が展開されるとき、矛盾はいっそう増幅された形になることは明らかである。
2.
国立大学の運営の見直し
「提言」は、1.で述べた事項を具体的に推進する方策として、2.以降の方策を展開している。そこでまず提起しているのが「運営の見直し」である。そこでは、① 護送船団方式の脱却、② 責任ある運営体制の確立、③ 学長選考の見直し、④ 教授会の運営の見直し、⑤ 社会に開かれた運営の実現、⑥ 任期制の積極的な導入である。国の責務の第一義というべき、外的事項の確保、すなわち、自由で多様で豊かな教育研究環境を具体的に担保する財政措置の具体策ではなく、まず初めに「運営の見直し」を掲げるところが、きわめて示唆的ではある。
護送船団方式からの脱却 「護送船団方式」というと、金融分野における国家(大蔵省)と金融機関(銀行)との密接な関係が想起されるが、これは単に金融分野に限らず、日本経済全体の成長に伴って発生する社会的混乱を回避し、経済の安定的な成長を推進する政治経済システム(官民協調システム)として、一時は、他国からも羨望のまなざしで見られたシステムであった。しかし、そうしたシステムと、その主人公であった大蔵省と大銀行が度重なる不祥事を引き起こし、政官財癒着の象徴として厳しく批判されたばかりか、バブルの発生と崩壊を招いて日本経済を大混乱に陥れた張本人であったことは、内外の批判のみならず嘲笑さえ浴びるにいたった。「護送船団方式からの脱却」なるスローガンは、そのような失政の繰り返しの結果として発生した長期不況からの脱出と、経済のグローバル化への対応を目的として、日本経済と社会の構造改革に必要とされる主要な柱の一つとして唱えられたのであった。
しかし、比喩的とはいえ、こうした文脈の中で語られる「護送船団方式」を用いることによって、国立大学の問題点を指摘し、処方箋を書くことが、はたして妥当といえるのだろうか。経済政策の次元においてさえ、その病理現象の診断と処方箋に重大な問題があることが指摘されているが、「提言」が、これまでの文部省行政への深刻な反省もなければ、問題点の分析も行わないまま、「護送船団方式からの脱却」に言及するとき、それは、真の問題点摘出のために必要な作業を回避して、世間に漠然と漂っている「空気」、つまり、国立大学も血を流すような改革が必要だ、とする「ムード」に便乗ないし悪用したものであるといわざるをえない。
そもそも、勤務において過労死寸前、教育研究環境において餓死寸前ともいうべき状態が「あたりまえ」となっている現状のどこに「護送船団方式」なるものがあるというのだろうか。基礎的な条件を改めないまま「自由」を唱え「規制緩和」を唱えてみたところで、そこに残るのは「過労死する自由」と「餓死する自由」だけであって、これが高等教育政策推進の具体的方策であるとは、とうてい考えられない。
責任ある運営体制の確立 この文言は、大学審議会「中間まとめ」から答申で多用され、学校教育法等の「改正」問題でも強調されたが、この種の主張からは、中央集権的なトップダウン方式の「リーダーシップ」がいつの時代も、またあらゆる組織において最も効率的である、という浅薄で非科学的な思い込みさえ感じられる。
今日の大学、医療機関、研究機関に課せられた任務の重大性、多面性、緊急性や、そうした課題に対処するために必要な知識が高度な専門性を帯び、先端化・先鋭化を重ねていることに思いをいたすならば、そうした組織のトップがあらゆる場面で適切な判断を下すことなど不可能、と断定してもさしつかえない。それゆえ、分権化こそが求められる方向であり、「リーダーシップ」なるものが必要であるとしても、そういう今日の状況を前提としたリーダーシップの役割とは、効率主義的な観点からリーダー自らが組織全体を牽引することではなく、人間、社会、科学への深い洞察に基づいて、組織のメンバーを支援し、組織が基本的な方向性を見誤らないよう舵取りをすることに求められなければならない。
ただ、ここで留意しておきたいことは、この種の「責任ある運営」なる議論が、さきに指摘した「日本型規制緩和」論や、政治の世界におけるリーダーシップ待望論と高い親和性をもつことである。しかし、内的事項に対する自由の確保なしに、大学・高等教育機関等に、かような「リーダーシップ」が無限定に持ち込まれるとき、それは、教育研究の自由を圧殺することとほぼ同義語である。
学長選考の見直し・教授会の運営の見直し・社会に開かれた運営の実現・任期制の積極的な導入・大学の運営に配慮した規制の緩和 まったく理解できないのは、この種の一連の「見直し」が、いうところの「高等教育政策の目標」を実現する方策と、どのような関連性にあるか、「提言」からはまったく読み取れないことであり、その割に、異様なまでにこれら方策に執着することである。すなわち、「世界最高水準の教育研究」をはじめとする「政策目標」なるものを達成するために、これら手法が適合的かどうかの検証もなければ、もっと他の方法は存在しないのかという検討もない。まして、かりに他の手法が存在するとして、どうしても「提言」列挙の手法でなければ「政策目標」を達成できないのかという論証もなければ、せめて、これら手法が他の手法よりも優れた方策であることの立証もない。むしろ、年来の大学管理・大学統制手法を、「政策目標」達成を口実として、一挙に導入しようとするものではないのか、という疑問さえ残る。
たとえば、学部教授会運営に問題があるとしても、「全学を単位とする自治的な運営システム」を確立する、という手法もありうるはずであり、現に多くの大学で模索が始まっていると伝えられる。そこでは、たとえば、ほんの一例として、先の学校教育法等改正によって導入された評議会の法制化に伴う、評議会機能の充実・強化という方策もある。また、学長選挙のあり方が、さまざまな問題を抱えていることは否定できないとしても、だからといってただちに、「学外の関係者と学内の代表者(評議員)からなる推選委員会を設けたうえで、これに『タックス・ペイヤー』たる者を参加させる」という、「大学の自治」から導かれるサブ・カテゴリーの一つ、人事に関する自主決定権に重大な例外を設ける選択肢が自動的に導かれる、というものではない。
すでに、多くの大学で、学長選挙にあたって、学長の見識や考え方に関する情報提供の機会を自主的に作り上げ、大学にふさわしいあり方で、大学にふさわしい学長を選考する努力を追求しているが、そうした大学運営のためにも、提言が主張するような中央集権的な組織運営ではなく、教職員ひとりひとりが国民や社会に対する説明責任をもつ主体として、自律した開放的で分権的な組織運営が必要なことは当然である。ところが、そういった組織原理に対して何の見解もなければ検討もなしに、ほとんど一方的に「見直し」を列挙するところには、むしろ特殊な意図が働いていることさえ感じさせられる。
もちろん、原則として、社会に開かれた大学運営の理念は支持すべきものである。それは、現代的な大学自治のあり方を完結させるために、構成員の自治を必要条件としつつ、開かれた討論に基づく社会の参加を十分条件と考えるからである。しかし、「タックス・ペイヤー」なる文言に、かつて、公務員の労働基本権制約の論理として持ち出された「財政民主主義論」の残映がうかがえることは、とりあえず別としても、「【討議資料】「大学評価」と「資源配分」問題」で指摘したように(2. 大学評価・学位授与機構の問題点2) 「多元的な評価システム」の問題性 評価主体の多元性)、「納税者」という大ぐくりにした社会の捉え方の中に、実は、すでに過剰なほどに大学のあり方に介入を試みている「政・官・財=鉄の三角形」に、さらに過剰代表の地位を与えたうえで正当化し、反面、社会的参加の一要素としてカウントされるはずの、社会的経済的弱者や批判的価値観の持ち主の発言や影響力を締め出す効果をもつ可能性は非常に大きい。しかもそこに、「提言」が中央集権的な組織運営を強調していることが重ね合わされるとき、大学の自律的強化の必要条件として確保しなければならないはずの、社会的責務を自覚した構成員による自治が破壊されることをも懸念しなければならない。
もし私たちが、このような「運営の見直し」の持つ問題性を見過ごし、なすがままに「世界最高水準の教育研究」をめざす「競争的環境」に巻き込まれていくとき、大学・高等教育機関等にはどのような未来が待っているだろうか。そうした「ゼロ・サム」的競争は、互いに同僚を「敵」として競争させる環境を意味するが、そのような環境の中では、連帯に支えられた自治の精神が崩壊しかねないことを、繰り返し指摘した。さらに、任期制の全面的な導入は、かような「競争的環境」とあいまって、管理運営に関心を持たず、与えられた目標にひたすら専念する大学構成員に有利に働き、それらが大学の「主流」を形成して、教授会運営を空洞化させる可能性が高い。これに「教授会運営の見直し」と「学長選考の見直し」が「提言」どおり行われるとすれば、大学の自治は、文字どおり「とどめ」を刺される可能性がきわめて高い。
そこに「タックス・ペイヤー」なる「鉄の三角形」の過剰代表が大手を振って、「大学運営」に乗り出すとき、「上からの大学再編」は完結することとなろう。まさに、「国家あって大学なし」「大学生き残って教職員死に絶える」状態、真のプロフェッショナリズムに支えられた教職員の自由と自治と自律に代えて、国家目的に奉仕・貢献すべく、与えられた研究課題を達成するだけの「研究者」と、それに貢献すべき有為の人材を選別するための「カリキュラム」を忠実にこなす「教員」しか生き残りを許されない大学像が描き出されるのではあるまいか。そこにおいて、「強いリーダーシップ」を発揮する学長像が重ねあわされるとき、もはやそれは、人類的な見地から学術・文化・教育の発展に寄与する大学像とは似ても似つかないもの、と断定せざるをえない。
これほどまでに、大学・高等教育機関等の内的事項と、それに密接に関連する管理・運営事項に多種多様な介入を企てつつ、その一方、自由で豊かな教育研究環境という大学・高等教育機関等の基礎的な条件に対する具体策が欠落した「提言」では、「大学の運営に配慮した規制の緩和」といってみたところで、ほとんど意味をなさない。もし意味をなすとすれば、特定領域に対する重点配分の見返りに、存立のおぼつかなくなった領域や学科等を、よりいっそう受益者負担にしわ寄せするか、さもなくば解体するかくらいのところであろう。むしろ、ここに「より競争的な環境の中で運営されるべきであり、その結果によっては、選別と淘汰も避けられない」と述べることの真意がある、と見るべきであろう。私たちが、この「提言」に強く抗議する理由の一つは、まさにそこにある。
3.
国立大学の組織編成の見直し
ここでもまた、「提言」は「さまざまなタイプの国立大学の併存」という名の「個性化・多様化」を述べたのち、「学部の規模の見直し」「大学院の一層の重点化」「国立大が区間の再編統合の推進」に言及する。
すでに「個性化・多様化」が抱える問題点については分析したので、ここでもまた、まったく同じことがあてはまることを指摘して、それが現状の改善にはまったく不適合であることを述べるにとどめる。
現にある、貧困な教育研究環境には具体策を見出さないまま、「再編」に異様な熱意を示す背景には、まさに「まず『行革』ありき」の「改革」像が反映されている、と見ることができる。したがって、「行革」路線の枠の中で、それに奉仕し、多大な「リターン」を期待できる分野への「重点配分」とそれに必要なかぎりでの大学院重点化が提言されているのではないか、と考えられる。当然のことながら、重点化のかげで深刻化するオーバードクター問題に対する処方箋はおろか、認識さえも見出すことはできない。
しかも、このたびの「提言」においては、高等教育研究グループの提言段階でさえ「大学の自主性を尊重しつつ、積極的に再編統合を推進すべき」と述べるにとどまっていたことから一歩進んで、「大学の自主性を尊重しつつも、最終的には、国の責任において、積極的に再編統合を推進すべき」と、「上からの再編統合」の色彩を強めつつ、相対的に「大学の自主性」を弱めるような「修正」さえ加えられている。もしそうでなかったとしても、繰り返し指摘してきた序列と格差、それを支える不当な資源配分、特に、個性的な発展の基礎となるべき資源配分の欠如に対して具体的な改善がもたらされない以上、「大学の自主性」なるものをいくら掲げたところで、残された選択肢は、「生き残り」のためには「再編統合」以外、ほとんど考えようがない。そこに「国の責任において」という文言が付加されたことは、まさに「選別・淘汰」を前提とする「大学改革」を意味するものであって、これはもはや、国民と人類に対する裏切り行為とさえ評価せざるをえない。
4.
国立大学の独立行政法人化
これらの諸方策を通じて、「提言」は国立大学の独立行政法人化について論じている。これが冒頭ではなく、いうところの「高等教育政策」遂行に関する検討の後に来たことは、けっして、政策目標としての優先順位を落としたと見るべきではなく、むしろ、これら「上からの選別・淘汰」を画策する諸方策に、法制的な仕上げを施す手段として、この問題を位置づけているのではないか、と考えられる。その意味で、冒頭にも述べたように、「通則法」のみ適用の「断念」は、確かに成果ではあるが、「名を捨てて実を取る」戦術に転換したと見るべき性質の問題であって、その「実」がきわめて危険な本質を有することは、上述のとおりである。
ここで「提言」は、ふたたび「法人格の賦与=独立性の確保」という幻想をふりまこうとしている。しかし、すでに「国立大学等の独立行政法人化問題 7つのQ&A」(1999年11月1日)において、「『法人格の取得』なるものは、人の集団である大学に、大学の名において財産を取得し、権利義務の主体となり、裁判の原告・被告となる資格=人格を法的に取得させる、という法技術にすぎないものであって、これを取得したから自動的に独立性が獲得できるものでも、保障されるものでもありません」と述べているとおりのものであって、これがために「独立性を確保するための方策」と称するのは、「幻想」以外のなにものでもない。現に、「提言」の中でふれられている欧米の「大学法人」とは、国立学校財務センターの「大学の設置形態と管理・財務に関する国際比較研究」(第一次中間まとめ、2000年1月)にもあるように、法的にも保障された政府からの独立性、財政等の自律的基盤の確立を形成するための制度として形成されてきたものである。
もしも、大学の独立性を確保する、というのであれば、これまで厳しく批判してきた「提言」列挙の諸方策をただちに撤回し、憲法が保障する大学自治の原則にしたがって、政策課題を再整理することが必要不可欠である。たとえば、国立大学の現状が国家行政組織法第8条の2にいう「文教施設等」として捉えられるために、文部大臣の広範な指揮監督権に服する弱点がある、というのであれば、国立学校設置法を、憲法原則に適合的な形に抜本的に改正して、国家行政組織法を破る効力をもつ特別法として、法制上明確に位置づける、という方策も考えられるはずである。また、財政誘導に弱い、というのであれば、国立学校特別会計制度を設置した原点に立ち返って、一般会計からの繰入を自動的に確保し、その配分を、たとえば「学者の国会」と呼ばれる学術会議の公開の討論の下に、科学的・合理的な配分基準にしたがって自動的に行う仕組みを検討してもよいはずである。繰り返し述べるが、法人格の賦与なるものは、法形式・法技術の次元の問題であって、憲法が学問の自由と大学の自治を保障したことに対応した組織原理に基づく、手続的・制度的保障とは別の問題であることを明瞭に認識しておかなければならない。
ところが、基本的にこのような問題があるにもかかわらず、「提言」が「通則法の基本的な枠組みをふまえつつ」、調整法(または特例法)を「法律上明確に規定する」と述べているのであるから、まずもってこの立言自身が明白な矛盾である。そもそも、「通則法」が予定する「サービスの提供」とそれを実施する組織形態との組み合わせと、教育研究活動を本質的内容とする大学の活動とそれを反映すべき組織形態との組み合わせとは、上位法たる憲法レベルで食い違っているのである。つまり、独立行政法人通則法第2条がいう「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業」(第1項)や「その業務の停滞が国民生活又は社会経済の安定に直接かつ著しい支障を及ぼすと認められるもの」(第2項)が、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(日本国憲法第25条)を国民に充足するための、国の一般的な責務を反映するものであるとしても、大学・高等教育機関等の行う教育研究活動は、これとは別に、第23条で保障されたものであり、さらに、教育を受ける権利(第26条)までも関連して存在するから、そもそも憲法レベルで両者の根拠が違う、といわざるをえないのである。
その意味で、ひとたび独立行政法人通則法の適用を「無理」と断定したことは正当であるとしても、それを調整法または特例法で「調整」すればよい、という提言自身が「無理」と評価しなければならない。それに加えて、「提言」が、その「調整」にあたって、「通則法の基本的な枠組」をふまえる、と述べているのは、いわば「無理」に「無理」を重ねる立論というほかはない。
すなわち、それは独立行政法人通則法そのものがもつ基本的な性格を継承すべし、ということを意味する。すでに多くの論者が指摘しているように、中央省庁改革の理由そのものは、「政・官・財」の「鉄の三角形」の癒着と支配、それにまつわる腐敗に対する国民の正当な批判にも由来する。その批判には、私たちは完全に同意する。しかしながら、その「改革」なるものの具体策として登場した独立行政法人通則法には、それら腐敗の根源に対する根本的な改革は見られない。つまり、政府による監督と規制は強化されたが、民主的なコントロールは不十分なままであり、「天下り」に対する有効な「歯止め」も見出しがたい。また、先行する試験研究機関の独立行政法人化で、「現場」が削減されて、管理職ポストが増大したことなどもまた、およそ国民の念願する改革とは程遠いことを明確に示している。
その一方、中央省庁改革なるものの全過程を通じて、「強い国家・強い政府」をめざす国家主義的な動機、「大競争時代」の「生き残り・勝ち残り」戦略、それに奉仕する業績主義・効率主義・市場原理万能主義の自己目的化があったことは、多くの論者から厳しく批判されている。そして、独立行政法人通則法もまた、「改革」のもつそのような基本性格を一面において引き継ぐものとなっている。
すなわち、「民主的で効率的な行政」という憲法原理に即した行政改革に反する「改革」の一環、経済至上主義を根幹とする効率性追求の自己目的化が、独立行政法人通則法にも反映しているが、その基本性格を継承して「調整」すべし、と「提言」は立論している、と断定せざるをえないのである。したがって、全大教が「7つのQ&A」で指摘したさまざまな問題点のほとんどに、「提言」は何の回答もしていない、と考えないわけにはいかない。それゆえ、「国土の均衡ある発展」等の文言がちりばめられたとしても、にわかにそれを信頼するわけにはいかないのである。
このような事情から、「提言」が列挙する「国立大学法人」の細目については、すでに私たちが「全大教『改革・研究プロジェクト』『第1次報告』」(2000年1月29日)と、「【討議資料】「大学評価」と「資源配分」問題」で指摘した問題点が基本的にそのままあてはまるものと考える。あわせて参照を求めたい。
おわりに
以上検討したように、「提言」は「通則法適用断念」をいいながら、その実体はまさに「名を捨てて実を取る」性質のものであり、任期制導入から、大学審議会「中間まとめ」を経て、このたびの独立行政法人化に至る「政策課題」の集大成ともいうべき「大学改革」像を示している。そして、その内容は、これまで詳細に分析したとおり、未来の人々に対して、明るい展望をもたらすような学術・文化・教育像と、それを実施する大学・高等教育機関等のあり方を示すどころか、これまで提起されては厳しい批判にさらされ続けてきた「政策課題」の問題点に対して、反省はもちろんのこと、ほとんど何一つ回答するものとはなっていない。むしろ、冒頭にも述べたように、「まず『行革』ありき」の「大学改革」像、「科学技術創造立国路線」に忠実に奉仕し、「ボーダーレス時代」「大競争時代」における「生き残り・勝ち残り」戦略に貢献する大学像、その障害物となりかねない自治の制度に対して強い敵意を示し、多種多様な方法でこれを解体する方策が、改めて露骨に表明された、といわざるをえない「提言」である。
その一方、独立行政法人化が打ち出されて以来、各方面から批判されていた問題に対して、「提言」といえども、「公的支出の増大」「地方大学の存立の確保」「社会の需要は乏しいが重要な学問分野の継承、発展」等の文言をちりばめざるをえなかったことは、それが確かに「エクスキューズ」に過ぎないとしても、運動の具体的な展開において、最大限に活用すべき性質のものである。しかも、「提言」は、これに加えて、たとえば「社会に開かれた大学」「規制の緩和」「個性化・多様化」等の両義的な文言にさえも言及し、肯定せざるをえない状況にもある。したがって、今後、これらを普遍的な見地から再定義し、私たちの主張する大学・高等教育機関等のあり方にこそ正当性があることを論証していく必要性がある。この作業を通じて、自民党「提言」がもつ「矛盾」を拡大・深化させ、理論的に「破産」状態に追い込む検討の作業と、それを広く大学各層の構成員と、全大教構成単組以外の大学関係者、さらには国民に対して発信していくことが緊急に必要である。そして、その際、留意すべきことは、「現代における大学の自治」像の再定義と全面的な展開とを基軸として、常に、人類と地域社会の負託に応える攻勢的な政策的論点の提起と教育研究活動とを通じて、国民的な合意を獲得することがきわめて重要であると考える。
政治情勢がきわめて流動化しているとはいえ、政権与党が「大学改革」像の一端を示したことは、重大な意味をもつ。それゆえ、この「提言」を軽視することは厳に慎まなければならないが、「提言」はあくまでも一つの提言にすぎず、既定の方針ではない。したがって、本「見解」にかぎらず、さまざまな角度からの分析・検討を通じて、「撤回」あるいは「抜本的修正」に追い込む取り組みが重要である。その一方、これをあたかも「既定の方針」であるかのごとく論じたて、この路線の下での「生き残り」を強要するかのごとき、各方面、とりわけ大学内部の動きに対しては、機敏かつ的確に批判し、良識ある国民の顰蹙を買うような「裏取引」に終始して、未来に禍根を残すことのないよう、各大学・高等教育機関等のレベルにおける取り組みの強化もまた重要である。
事態が一気に緊迫の度合を深めている中、本「見解」の積極的な活用を求めたい。