7月8日に、東京高等教育研究所と東京私大教連取債でシンポジュウム「日本の大学改革とユネスコ高等教育世界宣言」がおこなわれました。そのときの私の報告を送ります。ご批判いただければ幸いです。
                                                   蔵原清人(工学院大学)
 
 

           ユネスコ宣言から見た国立大学独立行政法人化問題
                      ーー大学の自治・法人格・国庫支援ーー
 
                                                                蔵原清人(工学院大学)
 
はじめに
 ユネスコがまとめた「高等教育教育職員の地位に関する勧告」(1997年)と「21世紀に向けての高等教育世界宣言」「優先的行動の枠組み」(ともに1998年)にみられる高等教育政策は今日の国際的合意である。これらは今日における高等教育と知識・学術の重要性が強調され、高等教育の普及を進めること、高等教育機関は社会的責務を一層果たすこと、そのためには高等教育機関と教育職員に学問の自由と自治を保障しなければならないことなどが明確にのべられている。
 これに対して、わが国の政府や文部省はこれらの文献の広報さえまじめに行おうとしないばかりか、彼らが今日進めようとしている大学・高等教育政策はこれと全く反するものである。いま問題の焦点となっている国立大学の独立行政法人化はこのことを示す典型例である。わたしたち私立大学関係者はこれを国立大学だけの問題だと考えるべきではない。国立大学が独立行政法人化されれば、同じ考え方が私立大学にも要求されるようになろう。あるいは私立大学ではすでに実現されているといってもいいかもしれない。それは自治の抑圧、自治への徹底した攻撃というべきである。
  したがってここでは日本の大学・高等教育全体が直面している問題として、国立大学の独立行政法人化問題を検討したい。
 
1 「独立行政法人」制度への疑問
  今ではよく知られているが、文部省などが進めようとしている国立大学の独立行政法人化は、行革の公務員定数削減・国庫支出の削減の実現のために発想されたものである。それを国から切り離して独立採算的に運営させることで、これらの行革の目標を実現しようというのである。国から切り離すためには、国立大学に法人格を与え組織と運営に独立性を持たせるという話になっている。そこで国立大学の学長を法人の長として、教学の責任者だけでなく経営の責任者とし、財政での権限を与えるという。節約して余った予算は大学の意志で活用できるとか、年度を超えて使うことができるなどがいわれている。それらをあげて文部省は独立行政法人化は国立大学に自由を与えるものであるという。
  しかし、中期計画や役員は主務大臣の承認が必要であり、実施後の結果については主務省の評価委員会の評価を受け、さらに総務省の審議会は評価の結果を踏まえて独立行政法人化された国立大学の存廃を決めることもできるのである。また財政は企業会計原則で行うなどがいわれている。
 このような様々な規制や誘導が強化されるものが、自由を広げたなどとは決していえない。大学の自治を根底から侵すものとして徹底して批判していかなければならない。当面は従来通り予算を配分し、教員身分を保障するとしても、いつまでもそのような状況を保証するとは限らない。経済的効率性が強調されているし、そもそも行革の中で発想されてものであるからには公務員としての身分や定数がいつまでも維持されることはないと考えることが自然であろう。
  また、独立行政法人では余った予算は自由に使えるといわれているが、同時に企業会計が導入され、経済的効率性が主張されていることに注意されなければならない。このことは、ある費目で予算が余ったということは、その予算の見積もりが甘かったことであり、経済的効率性からすれば少なくとも次の中期計画においては実績に基づいて予算が削減されることになるほかはない。したがって「余った予算は・・・」ということは、こうした予算削減の強制システムの中に大学が自らを組み込むことを意味する。ある大学がこれをしなくとも他の大学が節約をすれば、こうした削減から免れることはない。これは職員定数の問題でも同様であろう。ここに独立行政法人が行革目的で構想された制度であるという本質が示されている。
  独立採算がいわれたことに対して、大学や学会が一斉に批判を行っている。文部省はこれに対して現在の予算を保障するということをしきりにいっているが、これは単なる口約束以上のものではない。独立行政法人化すれば、授業料の値上げはおそらく現実の問題として数年以内には登場してくることがさけられないだろう。この点でも独立行政法人の批判を徹底して行う必要がある。
 
2  今日の国立大学の困難は法人格の有無ではない
  ところで、独立行政法人化ということから国立大学に法人格を持たせることへの期待が強まっていることも、今日の一つの傾向である。国大協なども政府のいう独立行政法人化については批判をしているが、国立大学に法人格を持たせることについては大変肯定的で、期待をしているようにさえ見える。国大協や教員個人の意見などでも独立行政法人化は悪いが、国立大学法人などの道を探るべきという意見も出ている。自民党文教部会文教制度調査会は、国立大学については独立行政法人ではなく国立大学法人などの名称にすべきだとの表明をした。(5月9日)こうした中で、独立行政法人化はよくないが国立大学が法人格を持つのは歓迎すべきではないかという雰囲気が一部にある。
  私の意見では、国立大学が法人格を持つこと自体悪いこととは思わないが、今の問題の焦点かどうかといえばそうではないと思う。今の国立大学の困難は法人格を持つかどうかではなく、文部省や大蔵省の規制があまりに強すぎることであって、そうした規制をやめさえすれば制度を何ら変えなくとも、もっと自由な大学運営はいますぐにも可能なのである。しかし先の自民党案のように、名称だけは妥協しても実質は独立行政法人と何ら変わらない制度を実現しようとする動きは根強い。
  独立行政法人化の問題は、中期計画や人事の大臣承認、実施後の評価による存廃の検討、企業会計の導入の3点がポイントであり、これは特例法や調整法によっては解決し得ない問題である。すなわちこれらをはずせば独立行政法人ではないからである。
 逆に言えばこれらがふくまれる限り、国立大学の法人格が認められるとしても、国の支配統制が今以上に強化される。これは明らかに大学の自治、学問の自由を侵すものである。ここで認められる法人格というものも、決められた予算の中で契約をすることができるという程度のものであるというべきである。自己決定権ともいうべき方針決定権は制度的にも明確に否定されている。
 国立大学の独立行政法人化は以上でのべたような本質的問題があることを確認した上で、以下に独立行政法人の法人格問題を考えてみたい。
 
3  現在、日本のすべての学校は法人格を持たない(制度的同一性)
 まず、日本の現在の制度ではすべての学校は法人格を持たず、法人格はその設置者にあることを確認しておく必要がある。しかるに独立行政法人化は国立大学だけに法人格を付与することになる。このことは、二つの問題をもたらすことになる。
 ①学校という同一の制度にたつべき機関のなかで、国立大学だけが異なる制度原則にたつという問題が生じることである。現在、学校は設立主体の如何に関わらず、一つの制度原則によって定められている。すなわち学校教育法である。(この4月の国立学校設置法の改正によって、国立大学の管理運営組織に独自の変更がされたことは、一つの制度原則を崩す第一歩であるというべきだ)これに対し、設置者については、国、地方自治体、学校法人があり、それぞれ法律によって管理、組織、運営などについて規定されている。
  ②このことは戦後の改革において確立された組織原則の変更を意味する。戦前においては国立、公立についてはほぼ現行通りであったが、私立大学はそれ自体が法人になる(この場合は財団法人)ことが本則であり、法人が大学を設置することは認められていた(今日の武蔵大学など)のではあるが本則ではなかった。これに対し、戦後は学校法人制度を設け、設置者である学校法人と設置される学校を区別した。すなわち私立学校も国立、公立にあわせて設置者と設置される学校を区別したのである。この結果、①でいうような一つの学校制度ができた。なお、今日でも早稲田、慶応などが総長、塾長を選出すると同時に学校法人の理事長となるというのは、戦前の制度の形を継続させているからであろう。しかし法的には理事長と学長を兼ねているということになっている。
  なお、私立学校法では、学校法人の廃止については強い制限がある。法人理事会の決議等のほか所轄庁の認可または認定を受けなければならない。また認可または認定された場合も、財産の処分は勝手にはできないのである。それは教育のために使われることが原則であり、関係者が山分けするということはできないのである。しかし、「独立行政法人の解散については、別に法律で定める」(通則法第66条)とあるだけで、私立学校に対するような教育機関に関しての配慮は全くない。しかも大学の発意ではなく、総務省の審議会の意見として提起することが可能なのである。現在は国立大学は法定主義であるから、設置、廃止には国会審議が必要である。しかし独立行政法人化した場合は、特例法、調整法の規定がどうなるか何ともいえないとしても、私立学校よりもっと容易に廃止、解散が可能であることに十分注意するべきであろう。行革の観点からは、不要機関については速やかに処理できなければならないはずであり、政府にとっては独立行政法人化された国立大学の廃止・移管について容易に行える規定とする必要がある。
 
4  設置者と設置される「学校」を区別する原則(経営と教学の分離)
  設置者と設置される学校の区別し、設置者によらず学校は同一の制度とすることは、戦後の教育改革の中心に関わる問題である。その一つは、「法律で定める学校は、公の性質を持つ」という教育基本法第6条第1項の規定である。この後段ではそれを受けて、それゆえ、「国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」とする。ここでは明らかに設置される学校は「一つ」のものである。異なる設置者が設置する学校を同一のものと認めるのではなく、学校は一つのものであってそれを設けることができる主体は3つあるというのである。これは国民が自由に学校を選択しても、制度的に同質の教育を受けられることを保証する意図があろう。それ故、学校については学校教育法によって国公私にわたって同一の定めを設けているのである。(例外はある)
  次に、設置者と設置される学校の区別は、財政的サポートや条件整備と、教学を組織的制度的にも区別したことを意味する。地方公共団体の場合、それは一般行政と教育行政の区別として制度的にも明確にされ、校長、指導主事、教育長にも免許が必要とされた。教育委員会は公選とし、教育予算の編成権・要求権が認められていた。国レベルでも文部省とは別に中央教育委員会を設ける構想もあった。(これは実現しなかった)学校法人とその設置する学校の区別もこの立場からであったといえる。たとえば職務上理事として学長・校長が就任すること、評議員に教職員から選任されることなど、両者の区別を前提とした表現が現行法にある。
  このように設置者とその設置する学校を一体のものとしないで、相対的に区別される組織としているのは、教学の側の教育の自由、学問の自由など憲法に定められた基本的人権を保障するためである。これは戦前における教育が国家主義によって支配され、その結果国民を戦争に駆り立てる上で大きな力を持ったことへの深刻な反省に基づくものであった。私立学校を含めた教員身分法の制定が真剣に検討されたのもこうした考えにたってのことであった。
  独立行政法人はこうした戦後の教育行政の原則を否定するものであることは明らかだろう。独立行政法人では学長が教学の責任者であり、法人経営の責任者である。これは一見早稲田、慶応の総長、塾長制度とにているように見える。しかし、私立学校の場合は学校法人の理事会と大学の教学組織が区別されているのに対して、独立行政法人では経営組織と教学組織は一体である。すなわち、国立大学に設けられている評議会や運営諮問会議は経営と教学をともに取り扱うことになろう。また独立行政法人の役員としては法人の長と監事は必置であるが理事は必置ではなく、個別法によるとされている。私立学校法では理事5人以上が必置であり、それについての条件もある。
  独立行政法人が経営、教学一体の組織で運営されることは、教学が経営に引きずられる危険が強いということである。すなわち経営的視点によって教学が制限される、学問の自由が保障されなくなる恐れが強いということである。これはまさに戦後の私立学校制度を確立する過程において克服すべき戦前の財団法人制度の問題点とされたものを復活させることにほかならない。
  私自身としては以上の議論をさらに進め、今日の学校法人制度は学校の運営組織として大変にすぐれ、かつ柔軟なものであるので、今日ではすべての学校を学校法人によって設置することとしてもいいのではないかと考えている。(別紙参照)
 
  設置者と設置される学校の関係については、なお検討すべき問題が多いが、これまでほとんど検討されていないというべきだろう。設置者に法人格があることを前提としてもなお大学には人格がなくていいか、大学の自治との関わりでどう考えるべきか、学生自治会はどうかなど、大きな問題がある。外国の事例や、「人格なき社団」、NPOなどの例にも学びながら考えていく必要がある。
 
5  学校の「公の性質」ということ(経費負担)
 現在の政府は国庫予算を支出することに対して徹底して制限しようとしている。これは大幅な財政破綻の建て直しのためといわれているが、果たしてそれで日本の財政の再建が可能であるのか。それ自体の検討は専門家に譲りたいが、ここでは国立大学、一般に大学の経費を国が負担するということはどのような意味があるかを考えてみたい。これは逆に言って、なぜ私学には国費を支出しないかという問題でもある。
 
  江戸時代においては、幕府や藩の設置する学校はいわば「公」のものであって、それ以外のものは「私」のものであった。前者は幕府や藩の負担で設けられたが、後者については一般に何の規制もなく設立されたが、費用についても幕府や藩が支出することはほとんどなかった。また法的規制もなかったようである。前者については、そこでは一般に家臣の学習のために設けられたのであって、家臣が学ぶことはいわば奉公の実をあげること、すなわち職務上の義務であった。それゆえ建物の経費や教員の手当だけでなく、生徒の学習費用は学寮の費用も含めて幕府や藩が支出することが一般的であった。
  しかしこうした措置は幕藩体制の崩壊とともに崩れていく。まず明治4(1871)年の廃藩置県によってそれまで藩が負担していた遊学費の支出がうち切られた。藩が派遣した遊学である以上、藩がなくなれば支出をうち切ることは当然であるというのである。新たにおかれた県は、それまで藩が行ってきた様々な事業を受け継いだはずであるがこの点は継承しなかったのである。これは直接には明治新政府が財政的に逼迫していたことによるといえよう。
  この方針は、翌明治5年の「学制」公布の際の「被仰出書」によって明文化された。「従来沿襲の弊学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ばざる事と思ひ一生を自棄するもの少なからず」従って官費に依存せず学習せよと指示した。(「学制」にも同様の規程あり)
  私立学校の定義は明治7年に明確にされた。それによれば、文部省「定額金ヲ以テ設立シ直ニ管轄スルモノ」を官立学校、「地方学区ノ民費ヲ以テ設立保護スル者又ハ当省小学委託金ノ類ヲ以テ学費ノ幾分ヲ扶助スルモノ等」を公立学校、「壱人或ハ幾人ノ私財ヲ以テ設立スルモノ」を私立学校とする、この3者の区別を明確にせよというのである。
 これは財政負担による定義であることに注目する必要がある。これ以来、特別な場合の国庫補助等はあったが、今日いうような私学補助という考え方はなかった。戦前において私学は、中学校、高等女学校、実業学校、職業学校、青年学校などの青年期の教育や専門学校・大学などの高等教育分野、幼稚園では多くの比重を占めていた。中等教育では約4分の1、高等教育と幼稚園では約6割を占めている。このことは私学が教育普及の上で大きな役割を果たしたことを示している。特に夜間教育や通信教育は私学が切り開いてきたのである。そして多くの私学は貧困な経済条件の下で教育を進めてきた。
 政府はこうした私学に対して恩恵として認可し、国の不足を補うものとして位置づけてきた。厳しく監視し統制する対象でもあった。官立、公立の学校で認められている特権が私学ではなかなか認められないということもある。特権の認可を条件に様々な枷をはめることもあった。
 
  戦後、確立した「法律で定める学校は、公の性質を持つもの」という原則は、こうした私学の現に果たしている役割を認めるとともに、政府が私学を差別し、補完物として利用してきたことにたいする反省の表明でもある。しかし政府はその後も教育を国民支配の手段と考え、文部省の権限の強化に努めてきた。大学についても国立を本体としつつ、私立学校はその補完物として進学者急増の調整のために利用してきた。いわば国民の負担で高等教育を拡大してきたのである。また国立大学の授業料を大幅に引き上げてきた。このような高負担は世界でも例を見ない。世界では「私」立大学といえども必要経費の大部分は公的資金で運営されている。それはわが国でも戦後の改革の中で認識されたように、私立学校といえども社会に貢献し、「公の性格」を持つからである。社会的役割において、国公私の区別はない。
 しかし、政府は戦後の経験の中で、今や日本においては一般の高等教育は国民の負担で十分推進できるという教訓を引き出したかに見える。国民は高学費に耐え文句も言わずに争って大学に進学しようとしているし、大学人も貧困な教育研究条件に対して対した批判もしないで多くの研究や教育の成果を上げている。この財政逼迫の折り、国策的な研究には重点的に予算を支出するが、一般の高等教育については国立も私学と同様に予算を削減できるというのではなかろうか。すなわち独立行政法人化の問題は、これまで私立学校に財政支出をしないできた論理をいまや国立大学にまで広げようとしているといえる。行革であり、財政効率化である。学生に対しては受益者負担主義であり、教育投資論である。もし、国立大学が独立行政法人化したならば、私立大学にもすぐさまその影響は強く現れることになるだろう。
  教育財政の問題では、国際的水準をめざして国公私の区別なく、教育経費については基本的部分については公費で負担して授業料を大幅に引き下げること、その上で設置者が可能な追加の支出を負担するようにすべきではないかと考える。そしてなるべく早い時期に、高等教育についても学生の教育費負担をなくすよう努力すべきであろう。これはわが国の経済力からすれば十分可能な目標である。
 
6  「私立学校」という呼称を変えなくていいか
  一部の論者は、憲法第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」との規定を持ちだして、私学助成違憲論を主張する。学校教育法では第5条で、「学校の設置者は、その設置する学校を管理し、法令に特別の定めのある場合を除いては、その学校の経費を負担する」と、必要経費の設置者負担主義が定められている。しかしこの規定は、「法令に特別の定めのある場合を除いては」という例外規定がある。教育基本法でいうように、「法律で定める学校は、公の性質を持つもの」であるのであって、それゆえ私立学校法の制定に際して私学補助の合憲性が認められたのである。
 法解釈問題としては私学への国庫負担(補助)は決着が付いているというべきである。今日なお違憲論が一掃されない理由として、国民の中での教育投資論と受益者負担主義の影響があるが、その他にも私学(私立学校)という呼称の問題があるのではないか。
 日本語の「私」という語には、個人や公でない意志によって動かされるというイメージがつきまとっている。「公」のほうは「お上の勝手」からはかなり変化して、公共などの意味が付与されてきたといえるが、「私」のほうは内々のこと、個人の勝手に属することという意味が変わっていないのではないだろうか。「私」は官の指導の中ではじめて有意義な役割を果たすことができるという感覚は行政の中で根強い。ボランティアやNPOなどが行政の中でまだまだ認知されていない、対等のパートナーとして扱われていない現状はこのことをよく示しているのではないだろうか。
 私学助成違憲論者は、私立学校について「公の性質」を持つと明確に法定されていることを意図的に隠し、「私」というこのようなイメージを利用して「公の支配に属しない」存在であるかのような主張をしているのである。
 私立学校というのは以上見たように明治のはじめからの財政負担区分を表した用語である。その言葉は公費を出さないという明治政府の意志が込められている。従って、戦後の教育改革によって私立学校の位置づけ・役割が根本的に戦前とは違った今日には、私立学校という語はふさわしくないと思う。現に、私学の設置者には、個人はなることはできず(幼稚園、特殊教育学校など例外はある)学校法人に限られるのであるから、学校法人立というべきではないだろうか。
 
7  日本の大学とユネスコ宣言・勧告
  以上、独立行政法人を中心に、主として教育行政、教育制度について検討してきた。最後に、このように乱暴きわまりない制度を大学に押しつけようとする政府の高等教育政策は国際的動向と真っ向から反するということを指摘しておかなければならない。98年の大学審答申では国際的な経済競争の中で日本経済が勝ち抜く力をもっぱら大学に求め、大学をその要求にこたえさせるために様々な施策を提案した。これは経済政策の中に大学政策を組み込むものというべきである。行革の省庁再編によって来年1月より文部科学省となるが、これは行政組織としてもこのことを表現したものである。
  経済のために大学が貢献することを私は否定しないが、今の政府の政策は経済の中でも大企業を中心とした国際競争力の強化に限られているのであって、中小企業や農業・漁業、地域の商店などの問題は考慮されてはいない。まして学問文化やわが国の民主主義の発展などは全く考慮されてはいないのである。国際的に見て全く異常な政策である。
 ユネスコの高等教育世界宣言では、高等教育の役割を「人間の諸活動のあらゆる分野の必要に応じる」こととし、「世界的な展望をもって、市民性の獲得と社会への参加のための、内発的な能力の形成のための、さらに社会正義の観点から、人権と持続可能な開発、民主主義および平和の強化のための教育」などを行うことを呼びかけている(第1条)。そして、「高等教育の財政は公的及民間の双方の財源を必要とする。この点で、国の役割は不可欠のものである。」(第14条)そして大切なことは、大学はこうした大きな役割を期待されているが、その役割を果たすために必要なことは外部からのコントロールではなく、「完全な学問の自治と自由とを享受しなければならない」(第2条e)のである。
  学問の自治と自由については、同じユネスコの「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」(97年)に詳しい。特に、「自治は、学問の自由が機関という形態をとったものであり、高等教育の教育職員と教育機関に委ねられた機能を適切に遂行することを保障するための必須条件である」(18項)といっている点に注目したい。さらに、「加盟国は、高等教育機関の自治に対するいかなる筋からであろうとも脅威から高等教育機関を保護すべき義務がある」(19項)ともいっている。
  宣言と同時に採択された、「高等教育における変革と発展のための優先的行動の枠組み」があるが、日本政府はその存在すらもほとんどふれたがらない。その中に、国レベルの優先行動として、「高等教育・研究に従事する個々人はもちろん、高等教育機関が社会に対するその責務を果たすために、学問の自由と機関の自治権行使に必要な諸条件を整備し、保障すること」があげられているのである。この規定に全く反して、独立行政法人化を進めることによって、まさに保護すべき国が大学を脅威にさらしているのである。国際的合意に照らして許すことはできない暴挙であり、実施されるとすれば将来に大きな禍根を残すことになろう。
  付け加えておきたいことは、ユネスコ勧告では教授会を中心とした自治という形態を必ずしも明確には示していないということである。日本では歴史的に教授会自治が中心となって自治が形成されてきた。もちろん学生自治会、教職員組合などが自治を担ってきたこと、特に戦後においては大きな役割を果たしてきたことは事実として認められるべきである。しかし歴史的経過もあって国によって大学の自治の組織・形態が異なっているのである。勧告自体も国によって法や慣行、伝統が異なっていることに留意しているが、勧告の関心は、自治を担う組織・形態よりも自治の内容を具体的に確認する点に向けられているように思う。この点ではわが国でこれまでいわれてきた大学の自治よりもかなり広い意味を与えているのではなかろうか。今後、具体的な検討を進め、日本の大学と学術化の発展に生かしていくことが求められる。
  自治と並んで宣言や勧告で重視されているのは、教育機関の公共責任、教育職員の義務と責任である。これらは当然、高等教育の使命と役割を果たす立場からのものである。わが国でもこれまで大学人がこの点について意識的に積極的努力をしてきたのであるが、今後一層こうした活動を強めていくことが求められる。特に21世紀を迎える今日、世界とが直面している問題はこれまで人類が直面したことのない新しい問題である。大学人がその責務を自覚して、現代社会が直面している問題の解決に積極的に役割を果たすように広く呼びかけ、取り組みを強めていかなければならない。わが国と世界の発展方向をそれぞれの分野から積極的に提案していくことは、大学人に求められている重要な課題である。
  国立大学の独立行政法人化に反対するたたかいは、このような大学と学術文化の発展を進めるためのたたかいである。このことを設置者の違いを越えて大学人と国民に広く訴え、独立行政法人化反対の運動を一層広げなければならない。
  なお、大学改革・大学づくりの運動を進める上で、日本の教育改革をともに考える会の提案と報告書(フォーラム・A発行)をぜひ検討していただければ幸いである。