==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
2000.7.13

大学の独立行政法人化と「学問の自由」

北海道大学獣医学部 教授 藤田正一


自主性自律性という言葉:

 文部省や、自民党が国立大学の独立行政法人化を論じる時、自主性、自律性と言う
言葉が多用されています。これに倣って大学側も自主性自律性を使用しはじめました
。使われ方を見ると、あたかも「学問の自由」「大学の自治」と同義語の様に
使われていますが、なぜ「学問の自由」「大学の自治」を使わないのでしょうか。

大学の「自主的、自律的」運営という言葉に法的な定義はありません。一方、「学問
の自由」は憲法の保証するところであり、法的にはきちんとした概念が確立されてい
ます。また、「大学の自治」は多くの事件で法的に論議され、前例によって定義され
ています。「大学の自主性自律性を強化する」という表現を「大学における学問の自
由と大学の自治を強化する」と置き換えてみるとその重みの違いが良く分かります。
法的な定義のない言葉の使用は、如何様にも言い逃れが出来、言質を取られることが
避けられるわけです。行政側にとっては巧みな言葉使いと言えますが、大学側がそれ
に同調する必要はないと思います。

 全国の国立大学長に対し、平成12年5月26日に大学の独立行政法人化について
文部大臣の説明がありました。この中で、文部大臣は、独立行政法人化が大学の自主
性、自律性を強化するという意味のことをくり返し述べています。これに対し、大学
側は、独立行政法人化されれば、自主性、自律性強化どころか現状維持すら難しくな
るのではないかとして警戒しています。両者とも、大学の自主性、自律性が重要であ
るという認識に於いては一致しているようです。が、独立行政法人化がそれに及ぼす
効果については正反対の見解です。なぜ双方とも、金科玉条のごとく自主性、自律性
の必要性を説くのでしょうか。大学の自主性、自立性は「学問の自由」に密接に関連
し、「学問の自由」は憲法で保証されています。従って、絶対の前提条件だからです
。
しかし、よく文部大臣説明を読むと、文部省の言うところの自主性、自律性が、現状
より大学予算の自主的、自律的運用が可能になると言うところに留まる様に見受けら
れます。「学問の自由」を保証するための大学の自主的、自律的運営と言うことは出
てきません。大学では、予算の自主的運営も大切ですが、「学問の自由」を失うこと
は自殺行為です。ここが、前述のような文部省と大学との「自主性、自律性」に関す
る見解の相違のの根源であると考えられます。定義されていない言葉を使用すること
の危険性を認識しなければなりません。

大学における「学問の自由」とは:

大学における「学問の自由」とは、(1)学問を志す人が、自分の自由意志で学んだ
り研究したりする対象を決定し、学問を遂行できる自由と、(2)学問研究の結果知
り得た知識や事実を公表する自由と義務、さらに、(3)その知識や事実を教育と言
う形で伝達する自由と義務を指します。これらのことは、学問研究を志す人の良心に
基づき、国民に直接責任を負ってなされるべきもので、いかなる権力からの圧力でも
、事実の歪曲や、過った情報が国民に伝えられるようなことがあってはならないこと
は、言うまでもありません。究極的には、「学問の自由」は「言論の自由」や「教育
を受ける権利」と同じように基本的人権に繋がる概念です。「学問の自由」の確保は
健全な民主主義社会の構築に必要であるという認識は双方が持ってしかるべき認識で
す。大学が、「学問の自由」を叫ぶ時、大学は自分達が勝手なことをやりたいからと
言って騒いでいるわけではないことを御理解いただきたいと思います。

学の独立:

大学における真の自主性、自立性は、大学における「学問の自由」の保証と、「大学
の自治」の確保、そして、政治、宗教など様々な権力からの「学の独立」の保証なし
には成立しません。これらの概念は、西洋における大学と権力との関係の長い歴史の
中から生まれてきました。「地球は動く」と言ったガリレオを弾劾した宗教裁判に代
表されるように、権力によって、自由な発想での研究が阻止されたり、大学の研究を
通して知り得た知識や情報が、権力によってねじ曲げられたり、事実の公表や、教育
としてのその伝達を妨げられたりしてきた苦い経験から生まれてきた概念です。我が
国の大学の歴史においても、明治初年はじめて西欧式の大学が設立された時期に「学
の独立」の概念も紹介されましたが、時の政権には受け入れられず、戦前、戦中を通
して「学問の自由」に対する弾圧があったことは歴史的事実です。

このような歴史の反省から、憲法23条には学問の自由が、また、教育基本法10条
第1項には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を
負つて行われるべきものである。」という「学の独立」の精神が明記されています。
「学の独立」は、「学問の自由」を可能にするための理念です。大学における研究に
よって知り得た事実や情報を公開し、教育によって伝達することの権利と義務は、国
民に対する責任において行われるべきものであって、いかなる権力も、何人もこれを
支配し、これに干渉するようなことがあってはなりません。

 森総理大臣や小渕前総理大臣の母校、早稲田大学の校歌「紺碧の空」には建学の精
神「学の独立」が高らかに歌い上げられています。同校の改定前のホームページによ
ると、「本大学が創立された明治初期。日本の近代化への情熱が燃え上がった時代。
近代国家とはいうものの、藩閥政治や儒教思想の根強く残る状況に対抗して、「自由
民権」が叫ばれました。西欧の近代国家の政治的自由と基本的人権を理想とする「自
由民権」の精神こそ、真の日本近代化の根幹となるべき思想でした。大隈重信による
早稲田大学創立は、「自由民権」を学問によって達成しようとするものでした。時の
権力に左右されない学問の研究と教育「学問の独立」が行われねばならない。これが
大隈の考えであり、早稲田大学の原点でした。いま世界は、新しい世紀を目前にして
、新しい精神、新しい秩序を求めています。それはまさに明治初期の日本の状況に酷
似しています。混沌とした時代における自由の希求と人権の尊重。早稲田建学の原点
を羅針盤とし、教育と研究を通して、私たちは世界の平和と発展をめざします。」と
ありました。早稲田の創設は1882年です。「学の独立」は時代をこえて変わることの
ない不朽の理念です。

 世界の歴史の教訓から、政権による学問の自由の侵害が特に危惧されるため、1950
年ユネスコにより召集され、ニースで行われた世界の大学の国際会議では、大学と不
可分の3つの理念のひとつとして、「多様な意見に対する寛容と、政治的干渉からの
自由」(The tolerance of divergent opinion and freedom from
political?interference)をあげています。最近では1998年にユーゴスラビアのセル
ビア大学の管理職および教授を任命制にしたことに対して、大学人の主張が入れられ
ない可能性があるとして、ユネスコはミロシェビッチ大統領に「学問の自由」を尊重
する様、強い勧告を出しています。我が国の文教政策もこのような失態を演じない様
望みたいところです。

大学はその専門知識をもって、政策に提言、あるいは、時に苦言を呈することのでき
る、政権とは独立の自律的な知的集団であることが、健全な民主主義社会の構築に必
要であることは、今や、国際的な認識です。成熟した民主主義社会は大学のこうした
役割を大切にし、敬意を表しています。


教育行政と学問の自由:

大学人はこうした大学の役割と社会的責任(大学における研究を通して知りえた事実
や情報の公表と教育によるその伝達、中立な知的専門家集団として、専門的見地から
社会へのアドバイスなどを、国民への責任として何人にも支配されずに行うこと)を
全うするために、大学構成員の一人として、「学問の自由」と「学の独立」、そして
、それらを具体化したものとしての「大学の自治」の確立、擁護に貢献できるよう勤
めなければなりません。

また、教育基本法第10条の第2項にあるように、「教育行政は、この(第1項に書
かれている、教育は不等な支配に服することがあってはならないという)自覚のもと
に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければな
らない。」と言うことですから、教育行政に携わる文部省には、「学問の自由」と「
学の独立」が、大学の教育研究に確保される様に、諸条件を整備確立することが要求
されているわけです。大学の独立行政法人化を巡る文部省の動きはこの条項に、どれ
程忠実なのでしょうか。文部省は、はじめ、大学の独立行政法人化に強く反対してい
ました。ある時から、180度その方針を転換することになるのです。

独立行政法人通則法と学問の自由:

 独立行政法人通則法によれば、主務大臣が法人の目標を設定し、法人はこれを受け
て目標達成のための計画を立てます。この計画も主務大臣が認可が必要です。すなわ
ち、法人の目標は法人が自主的に設定できずに主務大臣に指示され、その指示に基づ
いて作成した計画も認可がなければ実行に移せないのです。また、法人の長の任免権
は主務大臣にあります。これではとても自主的、自律的とは言えません。これを大学
に適用するとしたら、(主務大臣が実際にどこまで踏み込むか分かりませんが、)大
学で行う研究教育の目標を大臣が決め、大学の教員はそれに基づいて計画を提出し、
認可を得なければならないと言うことになってしまいます。即ち、「主務大臣がここ
まで大学支配の権限を持つことに法的な根拠を与えてしまう」ことになります。これ
は明らかに「学問の自由」の侵害で憲法に抵触するばかりか、独創的な研究も不可能
にしてしまいます。

さすがにこのことについては、大学の独立行政法人化を検討した自民党の文教部会も
「独立行政法人通則法をそのまま国立大学に適用することは不可能である。なぜなら
、大臣が大学に目標を指示したり、学長を直接任命し、解任するような制度は、諸外
国にも例がなく、国と大学との関係として不適切である。」と平成12年3月30日
発表の「提言 これからの大学のあり方について」で述べています。この部分の自民
党文教部会の認識と大学の認識は一致しています。

それなら、独立行政法人通則法を大学に適用するのは止めて、大学法人法を作ればよ
ほどスッキリするではないかと思うのですが、自民党の提案した案は、通則法との間
で調整法(特例法)を作ると言うものでした。文部省もその線にそって、検討を開始
したいと言うことで、調査検討会議を設置すると言っています。なぜ通則法にこだわ
るかと言うと、行政改革推進本部が新しい大学法人法では「うん」と言わないからで
あると言うことです。ここに、法人化に絡む大学改革の不幸な生い立ちがあるわけで
す。

独立行政法人化と文部省:
 
 大学改革は独立行政法人化とは無関係にすすめられ、一定の効果も挙げていました
。
そこへ突如、独立行政法人化が降って湧いたのです。行政改革推進本部では、大学を
独立行政法人化して、国家公務員の定員枠からはずさない限り小渕内閣が約束した定
員の25%削減の目標を本庁の官僚の定員を減らさずには達成できないのです。国立
大学教職員12.5万人を国家公務員の定員枠からはずすことで、一見、国家公務員の
定員削減になったかに見えますが、大学の独立行政法人化後も大学職員は国家公務員
のままと言うことですから、単なる数合わせで、実効的には公務員定員削減にも経費
節減にもなりません。
このようなことで、国家100年の命運を左右しかねない教育の基盤をかえてしまって
良いのでしょうか。このような不純な動機からなる大学の独立行政法人化に多くの大
学は大いに怒り、国立大学協会では、反対を表明しました。その頃はまだ文部省も独
立行政法人化に反対していました。文部省が方向転換してから1年になります。

 大学の存立基盤をかえるような重要なことを行革の一貫として論じて良いわけがあ
りません。文部省もこのことは認識していて、平静12年5月26日の文部大臣説明で
は、こうした経緯には一切触れず、あたかも大学改革の検討の経緯で、法人化が論議
され、最適なものとして独立行政法人化が提案されたかのような理論を構築していま
す。大学側の喜ぶ、自主性、自律性という言葉を随所にちりばめ、大学に対する公的
投資の拡充(文部省が約束できることではないのですが)を唱え、言葉巧みに法人化
に向けての調査検討会議への参加を誘っています。しかし、大学側の不信感にはそれ
なりの根拠があります。それは、前述の1年程前の文部省の突如の心変わりです。こ
の心変わりはなぜ起きたのでしょうか。大学側は、文部省がどのような教育理念に基
づいて180度の方向転換を行ったのか、説明を受けていません。大学の定員削減を回
避するためと言う説明が一時なされましたが、これもうやむやになりました。
 
国民的論議を:

 平成12年6月14日、国立大学の学長で組織する国立大学協会では、5月26日の、
これからの国立大学のあり方に関する文部大臣の説明を受けて、独立行政法人化への
犀は投げられたと判断。「通則法のもとでの独立行政法人化反対」の旗を下ろさずに
文部省の調査検討会儀に参加することを全会一致で決めました。独立行政法人通則法
そのままの摘要では、完全に侵害されてしまう「学問の自由」と「学の独立」を特例
法(調整法)でどこまで回復し、保証できるか。あるいは、特例法ではこれらの保証
は無理であるという結論が導かれるのか。国立大学にはこれからが正念場の戦いが待
っています。これは決して国立大学だけの問題ではありません。民主主義の根幹の理
念が問われているのです。「学問の自由」が保証されない民主主義はあり得ません。
この意味で、21世紀の大学と教育のあり方に関する国民的な論議が必要であると思い
ます。憲法改正や教育基本法の見直しが政治の世界の話題にのぼっていますが、これ
らに謳われている「学問の自由」や「学の独立」が損なわれることのないよいう、国
民の監視が必要です。