==> 国立大学独立行政法人 化に抗して
「視点・論点〜大学と効率」

「視点・論点〜大学と効率」

(森田竜義氏(新潟大学)によるリライト,[reform:02169]より転載)
京都大学文学研究科教授 柏倉康夫氏
                 (NHK教育テレビ10月8日放送)

 国立大学は今、動揺しております。有馬前文部大臣は、先月9月20日に国
立大学の学長達が集まった会議の席上、国立大学を独立行政法人にするという
方針を明らかにしました。そしてそのための特例措置やそれを担保する法令を、
できれば来年の春までに決めたいという考えを示しました。こうした文部省の
方針に大学では今、とまどいと反対の声が上がっております。
 全国には99の国立大学がありますけれども、その学長達で作っている国立
大学協会は平成9年11月にいち早く国立大学の独立行政法人化に反対すると
いう声明を出しました。その主な理由は、独立行政法人というのは定型化され
た業務を短期間で効率を評価しようとするものであって、個性的な教育や自由
活達な研究を長期的な観点から展開しようとしている大学にはふさわしくない
というものでありました。そしてこの考えは今も変わっておりません。
 独立行政法人というのは国の行政機関のうちで、企画ですとか立案を担う部
門以外の事務的な業務を行う部署を法人にするというものであります。これに
よって行政をスリム化そして効率化しようということで打ち出されました。そ
してこの法人化を進めるための原則が通則法と呼ばれるものであります。ただ
文部省はこの通則法をそのまま大学に適用するのは問題があるといたしまして、
個別の法律を作って特例を設けて行うという原案を示しました。文部省の原案
の骨子を次に紹介いたしますと。(1)99の国立大学それぞれを一つの独立行政
法人とする。そして教官と職員は国家公務員とする。(2)学長の任免は大臣が行
うけれども、大学からの申し入れにもとずくことを特例措置として法令に規定
する。(3)大学は中期目標を立てて大臣の承認を得なければならないが、その目
標期間は5年とする。(4)目標達成の評価は大臣が行うけれども、その際、新設
する評価委員会の評価結果をふまえて行う等々でございます。
 そもそも文部省は最初、効率性の追求は教育・研究の水準の低下をまねくと
して強くこれに反対いたしましたし、国立大学の扱いは2003年まで先送りした
経緯がございます。それほど法人化というものが国立大学にはふさわしくない
ということを考えていたわけでございます。しかしその後、国家公務員の定員を
2001年から10年間で25%削減するということが決まりました。そうします
と国の行政機関の中でおよそ12万5千人の職員あるいは教員をかかえる国立大
学を対象にしなければ、この目標が達成されないという判断から文部省は姿勢を
変えまして、国立大学の独立行政法人化を受け容れたと言われております。そし
てその後の動きは大変急でありました。
 私は、大学の改革、活性化というものが市場原理にもとずいて行えないとこう
思っている者なのですが、例えば懸念するのは、短期間の目標の設定、それの評
価といった部面でございます。私は今、京都大学の大学院文学研究科というとこ
ろにおるのですけれど、文学部というのは言ってみれば実学とは遠いところの学
問をするところであります。京都大学は明治39年(1908年)に開設された文科
大学を起源といたしまして、創設と同時に哲学科、そして翌年には史学科、翌翌
年には文学科が発足しております。こうした大学の発足の経緯、創設の経緯から
考えましても、人文的な分野での教育・研究というものが当初 目指されていたこ
とがわかります。明治時代、文学というのは広く学問あるいは学芸を指すことば
でありまして、これは論語の先進篇というところに出てまいります徳行、言語、
政事、それに文学という4つをあらわしました。ですから、文学部の文学という
のは、せまい意味での文学研究だけではなくて、こうしたすべてにわたる学を研
究して身につけるということを目標にしてまいりました。そして、こうした分野
での研究で一定の成果をあげるには大変長い年月がかかります。多くの年月が必
要なんであります。研究や教育の目標というものが、時代によって変化していく
ことは、当然なことでありますが、それにしても今日の変化を求める声は、あま
りに性急に効率化を求めていると思えてなりません。その結果、教養をはぐくむ
という教育の非常に大切な側面が抜け落ちつつあるのではないかという気がいた
します。
 私はこういう時代だからこそ、若い人達に哲学教育、ものを考えるという教育
をすべきだと思う者なのですけれども、日本の大学で哲学科あるいは哲学の講座
を持っているところは、国立大学99のうち15校、それから私立の440校あ
まりの中で19校だけであります。これは数え方にもよるわけですけれども、こ
ういう数なんですね。
 高等教育のあり方はそれぞれの国によって違います。どういう社会にどういう
人間を育てるかという、その考え方が如実に反映するわけでありまして。ですか
ら、外国の例を引っぱってきてうんぬんするのは必ずしも適当ではないと思うの
でありますけれど、今の日本とおよそ対極の位置にあるのがフランスの場合であ
ります。フランスでは、学生が大学以上の高等教育を受けようとする場合には、
全国一律に行われる大学入学資格試験というのを受けなくてはなりません。この
試験の一番最初に行われるのが哲学の試験でありまして、これは文科系、理科系
を問わずすべての者が受けなければいけません。そのために、高等学校で哲学の
授業が行われておりまして、ものを合理的に考えるという教育が徹底的に行われ
ております。
 フランスの哲学者のミシェル・フーコーという人がこういうことを言いました。
哲学というのは知識ではないというんですね。哲学というのは、すべての問題を
考える、その反省の方法なのだ。学生達は「知の共和国」の自由な市民となる途
上にある。ただ、それにはひとつの条件がある。それは自らの考えるという力を
用いることだということを語っております。
 その一方で、文学者のポール・ヴァレリーという人は、こうした人文的教養と
いうものが不要になりつつあると、警告を発しておりました。彼によりますと、
科学という実用的な知識の力が世界を制覇して人間の環境を変えていく結果、必
要とされるものは計量できるもの検証できるものであって、それが価値があると
されて、あいまいなものは非合理だとして排斥され排除されると、ヴァレリーは
言っております。今日の状況は正にヴァレリーが予言したような状況になりつつ
あるというふうに私は思います。
 たしかに、いわゆる文学というものがなくても、生きていける、生活していく
ことができますけれど、想像してみるに、そうした生活というものは非常に味気
ないものではないでしょうか。こう申し上げるのは、我が田に水を引く、我田引
水のたぐいだとおっしゃるでしょうか?きっと多くのみなさんは、私の申し上げ
たことに同意してくださるだろうと思います。
 国立大学というものを社会の中でどう位置づけるかというのは、基本的には納
税者が教育・研究の分野に、自分が払う税金をどこにどう使うかという選択にか
かっているというふうに私は思いますけれども、ひとつここで指摘したいのは、
日本が高等教育に投じているお金というのは、対GDP、国民総生産の0.5%にし
かすぎません。これは先進諸国の半分であります。国立大学の自己改革は必要で
すし、今それをおこなっております。しかしそれが不十分だという声があるのも
十分に承知しておりますけれども、国立大学を独立行政法人にするという発想に
は、日本の将来の教育をどうするという、そういう観点からの議論が欠けている
ように思えてなりません。
 21世紀の教育のあり方、それを拙速で決めてはいけない。そのように思いま
す。