==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
この2,3ヶ月、国立大学の独立行政法人化の動きは、慌ただしいものが ある。国大協は、反対を表明しているのに、九大では、独法化はさけられな いというので、中期計画の先取りが行われている。右手で反対といいながら、 左手では受け入れ準備をするこのような姿勢を見ると、大学は独法化に心底反 対しているのではないのだ、賛成なのだと、見るのは私一人の思い過ごし であろうか? 大学のなんとも不可解な姿勢の背景には、次のような情勢認識と対応論があ るようだ。 「独法化はさけられない情勢なのに、反対だけを唱えているのは生産的でな い。相手のなすがままにされるよりも、むしろ積極的に大学の独自性をふま えた対案を提起する方が、現実的で生産的な対応である」。 このような「現実対応論」は、すでにジュリスト99年6月号の藤田宙靖 「国立大学と独立行政法人制度」で先鞭を付けられている(この藤田論文の政 治的意図や問題点を岩崎稔「国立大学の『独立行政法人化』は自殺行為だ」 『世界』10月号が明らかにしているので関心のある方は是非お読みくださ い)。 この対応論は、いまある「現実」なるものや「与件」なるものの仕掛けや本 質を徹底的に糾明し、大学の原則論や本質論にもとづいて展望を見いだす努力 を放棄したものである。これは、「大学の知の営み」の「死」であって何であ ろう。 大手を振ってまかり通る現実対応論を前にして、「大学の自治」「学問の自 由」は「死語」になって久しい。しかし、「死語」になっているのは、「日本 では」と限定しておかねばならない。 というのは、ユネスコの「98高等教育世界宣言」は、「大学の自治」「学 問の自由」を21世紀の高等教育にとって不可欠なものとしているからであ る。その上にたって、世界の高等教育改革の方向をしめしている。我が国を 覆っている「現実対応論」は、世界との巨大な落差があることにあらためて 驚かされる。 「宣言」は、21世紀の高等教育の使命を、「世界的展望を持って、市民性 の獲得と社会への能動的参加のための、内発的な能力形成のための、社会正義 の観点から、人権と持続可能な発展、民主主義および平和の強化のための教育 を行う」(第1条)とのべ、「高等教育は、人類愛によって励まされる、暴力 も搾取もない新しい社会の創造を究極的に目指さなければならない」(第6 条)としている。この使命を果たすために、「完全な学問の自治と自由の享 受」が必要であって、教職員、学生(我が国の大学改革論は、21世紀の担い 手である学生の大学運営への参画視点が完全に欠落している)が、その中心的 役割を担うものである、としている。「宣言」は、人権、民主主義の歴史的到 達点に立って、「21世紀の民主的な地球市民像とその課題」を提起し、この ような視点から徹底的な高等教育改革の開始を宣言したものである。ここに、 我が国の改革論の視野か欠落した「世界の現実」がある。この「現実」から こそが、大学改革の根ざすべき「現実」であろう。 日本政府は、98年パリ会議で「宣言」の採択に参加したにもかかわらず、 その後、「宣言」の正式訳も出させず、関係方面への周知も怠ってきた。これ までも、政府は、国民の人権や民主主義に関わる国際条約や勧告を徹底して無 視し、その実行をサボってきた。「宣言」も、その一つである。「知らしむべ からず、よらしむべし」の愚民政策に、大学がまんまとはまってしまっている ことを自覚すべきであろう。歴史的に破綻が実証ずみの古い理念をかざす 「競争的環境の中で個性が輝く大学」(大学審答申)、それにもとづく大学改 革や独法化で、21世紀の人類の直面する課題を切り開く展望があると言うの か? 国際競争力強化や財界奉仕だけが21世紀の大学の使命なのであろうか? 「宣言」は、「たんなる経済的考慮を越えて、いっそう深い道徳性と精神性 の次元を組み入れること」が、21世紀の人類社会再生の鍵だと指摘してい る。これは、人類史の到達点に立って、21世紀の高等教育の課題をしめした ものである。この観点こそが、21世紀の大学づくりにふさわしいものであろ う。そのためには、国民各層の広範な参画を得て21世紀の大学像を構想すべ きであろう。