==> 国立大学独立行政法人化に抗して
平成11年11月10日危うし!日本の基礎科学
− 国立大学の独立行政法人化の行方を憂う −
国立大学理学部長会議 このところ国立大学を独立行政法人化することの是非に対する関心がにわかに高まっ ています.わが国の基礎科学の教育・研究において中心的な役割を担う国立大学理学部 及び関連大学院を代表して,国立大学理学部長会議は,この問題に対する私達の考えを 述べ,国民各位のご理解を得たいと思います. まず最初に指摘しておきたい点は,国立大学の独立行政法人化は,行財政の効率化の 一環として浮上してきたものであるということです.言い換えれば,独立行政法人化 は,これからの大学のあるべき姿を模索する真摯な大学改革の動きから提起されたもの ではありません.この点が,独立行政法人化に対する私達の対応を難しくしている原因 です. 独立行政法人化により国立大学はその設置形態の大幅な変更を求められることとなり, 他方,政府の国家公務員定員削減方針に関連して,教職員定員を10ないし25%削減する よう迫られています.これらはいずれも未曾有の事態であり,基礎科学の開拓と深化を 使命とする理学部及び関連大学院における教育・研究体制を根底から崩しかねないもの です.日本の基礎科学の行方に対し,私達は深い憂慮の念を禁じ得ません. 設置形態の変更と定員削減が及ぼすであろう破壊的な影響について述べる前に,基礎 科学と社会の関りについて簡単に触れます.基礎科学は自然現象の仕組みを解明したい という人間本来の知的欲求から出発する学問であり,その体系は人類が築き上げた文化 の基盤をなしているといって過言ではないでしょう.たとえば,今から65年前に湯川秀 樹が提出した中間子理論は素粒子研究の発展を促し,その結果,物質の微小極限から宇 宙にわたる現代の壮大な自然観が築かれました.このように,理学部及び関連大学院で 教育・研究の対象となる数学,物理学,化学,生物学,地球惑星科学,天文学,情報科 学等の基礎科学諸学は,研究を行う段階では何らかの実用を目指しているものではあり ません.しかし,その成果が長い時間を経たあとで重要な実用につながった例は数限り なくあり,今日のハイテクノロジーやバイオテクノロジーの多くが,その起源をかつて の基礎科学の研究成果に有しています.以下に具体例をあげます. (1) 現代の情報化社会をハード面から支えるエレクトロニクスの起源を尋ねると,今世 紀初頭に起きた物理学上の革命にまで遡ります.プランクが提唱したエネルギー量子の 概念とアインシュタインが導入した光量子仮説は,その後の量子力学 の誕生と発展を通して,トランジスターの発明や現代の各種エレクトロニクス素子の開 発につながっています.プランクやアインシュタインは,自分達の研究からこのような 応用が生まれるとは夢にも思わなかったことでしょう. (2) 抽象的で実用には遠いと思われがちな数学理論のなかにも,情報化社会のソフト面 で重要な地位を占めているものがあります.たとえば,CDに傷がついていても情報を正 確に読みとることができ,また火星探査機などに指令信号を雑音に邪魔されずに送るこ とができるのは,符号理論を応用して信号の誤りを自動的に修正しているからです.最 新の符号理論の基礎は有限体上の代数幾何学ですが,ここで使われる有限体は1830年頃 にガロアが作ったものです.150年以上も経ってから自分の理論が日の目を見ることにな るとは,天才ガロアといえども予見しえなかったでしょう. (3) 今日,社会的関心を集めている環境問題の理解と解決においても,化学,地球科学, 生態学などが大きく貢献しています.フロンによる成層圏オゾンの破壊は,ローランド らが長年の光化学的研究に基づいて1974年に予言していましたが,その約10年後に南極 上空におけるオゾンホールの存在が日本の南極観測隊を含む研究陣によって確認されま した.これらの研究や宇宙から見た地球の映像が,宇宙船地球号という人類にとってか けがえのない生存空間を守らなくてはという意識を高めたことは記憶に新しいところで す. (4) 医療の進歩には新しい医薬品の開発が欠かせませんが,この目的に遺伝子工学の手 法を用いる例が増えています.たとえば,C型肝炎の治療薬であるインターフェロンや 糖尿病のためのヒト・インシュリンなどがこの手法で製造され,医療に供されていま す.遺伝子工学の学問的基礎は分子生物学ですが,分子生物学はワトソンとクリックに よるDNA分子の二重らせん構造の発見を契機として発展した分野です.この二人が1953 年に発表した論文は,わずか2ページに満たない短いものです.しかし,この論文が持 つ意義の大きさは,いくら強調してもしすぎることはないでしょう. 以上の例からも明らかなように,基礎科学は,息の長い研究の推進が可能な環境下で, 自由な発想のもとで自律的に追究されることによってのみ大きな成果を期待できる学問 領域であり,その成果は数十年後あるいはもっと後の社会を支える中核技術を生み出す 可能性を持つものです.従って,基礎科学は短期的な「効率」の視点,あるいは単一の 指標によって評価することが極めて困難な学問領域であると言えます. 独立行政法人通則法によれば,各独立法人は3年以上5年以内の期間についての「中期 計画」を定め,その計画の達成度を評価委員会が評価することになっています.万一, このような短期間での成果を評価することで行政の効率化を図ろうとする通則法に従っ て,国立大学の独立行政法人化が行われるようなことになれば,理学部及び関連大学院 における教育・研究は息の根を止められ,明治初年以来の営々たる努力の結果,ようや く多くの分野で世界をリードするまでになった日本の基礎科学が衰退するであろうこと は,火を見るより明らかです.日本の基礎科学が衰退すれば,グローバリゼーションが 進んでいる基礎科学において,わが国が国際的責任を果たさないことになります. 英国では,サッチャー首相時代に大学の活性化を目指して,予算配分方式など多くの点 で新しい試みが取り入れられました。その結果,現在の英国の大学が以前よりも活性化 され,国際的にも重みを増したかというと,必ずしもそうとは言えず,現在もいろいろ な問題があることが指摘されています.また,有名なオックスフォード,ケンブリッジ の両大学もかっての輝きを失っているように見えます.性急な独立行政法人化を行う前 に,このような前例を詳しく検討し,その上で今後の日本の国立大学が進むべき道を選 択すべきであると考えます. 最後に,定員削減問題について述べます.学問の高度化,技術の進歩に対応して多く の国立大学では大学院教育に力が注がれ,この10年間に院生数は大幅に増加しました。 しかしこの間実質的には教職員数はむしろ削減されており,教職員の懸命な努力によっ て,教育・研究水準はかろうじて保たれているのが実情です.教官と学生・院生が共同 で研究を行うことが最も良い教育となる基礎科学分野では,教官数の減少は直接的に教 育の質を低下させます.10ないし25%という未曾有の大幅定員削減は,理学部及び関連 大学院における教育・研究を根本から崩壊させる恐れがあります. 大学における教育・研究活動は次の時代における発展をもたらす源泉である以上,そ れを涸らしてしまうような制度改革と大幅な定員削減は断じて避けるべきです.国立大 学の設置形態及び適正な規模に関する論議は,国の行財政の効率化という観点のみから ではなく,国家百年の計を策定する長期的な視野に立って行うべきであり,決断は論議 を尽くした後になされるべきです.私達は,基礎科学の発展は今後の日本にとって絶対 に必要であると信じ,そのためにもっとも理にかなった国の方針を国民各位とともに 探ってゆきたいと考えています.私達のこの訴えに対して,国民各位のご支援を賜れば 幸いです.
*注 国立大学のうち理学部あるいは理工学部を持つ32大学の学部長で構成