==> 国立大学独立行政法人化に抗して
イタリアの大学の自治権を奪う法案 [he-forum 469] より転載

イタリアの大学の自治権を奪う法案

岐阜大学附属図書館 石田やすひろ 訳
"Coriere della sera" giovedi' 25 novembre 1999
自治権を奪う改正
(Una riforma che toglie l'autonomia)
もし大学が研究を失ったら
(Se l'universita' perde la ricerca)

アンジェロ・パネビアンコ(Angelo Panebianco)著

 大学大臣(ministero per l'Universita')オルテンシオ・ゼッキーニ(Ortensio
Zecchini)は、大学教授の法的身分を改めることを決めた。用意された法案は、2つの理
由により、全体としてきわめて厳しいと私は考える。ひとつには、それのもつ大学の自治
権への正面攻撃だからであり、もう一つには、それを生み出す大学教官の労働の「官僚的
サラリーマン性」の概念ゆえである。もしこの措置法が現実のものとなったら、我々の大
学はよりよいものとはならず、決定的によりひどいものとなるであろう。
 まず、(政府の政治的階級が口先では養護している)大学の自治権から始めよう。多くの
可能性の中から、私は2つの飴を選ぶ。教授集団が2つの階層(正教授(orinari)と短期教授
(prpfessori tout court)、または、現在の会員)に分かれることを確認した後に、第2条
によれば、正規教授の定数は、今後、各々の集団について2つの階層の合計の4分の1を越
えることはできない。この措置法が通過するならば、大勢の現在の研究者たち同僚たちの
出世を阻害するような「栓」が発生するであろうことは別にしても、本当に重大な問題は
次のようなことだ。この規定によって、様々な学科目においてその時々によって必要な主
任教授(ordinario)を自主的に自由に決定する権利を、学部、学科、学士課程から、剥奪
することが、仕組まれているのである。一種の絞首台の縄のような現実がとおってしまっ
たら、大学の自治権がうわべだけの見せかけの自立にすぎなくなったら、何が残るのであ
ろうか?
 第二には、大学の自治権への攻撃について考えてみよう。大学教官は、年鑑500時間を
教育に割り当てなければならず、そのうち120時間(2つの大学課程と等価)を直接的教育に
割り当てなければならない、と決められている。500という数字が漠然として気味が悪い
こと(フランスの大学の憲章からあちこちで引用されているようだが、フランスの大学
は、グランドゼコール(Grandes Ecoles)といくつかの秀でた研究機関は別にして、明らか
にヨーロッパ最悪である)は別にして、これまた、大学の自治権への良識を欠いた攻撃で
ある。事実、大学のような複合的組織体では、数多くの教官が、課程の正教授、研究なと
通常の労働の他に、多種多様の任務を行うことが必要である。しかし、「いかなる任務を
誰に託するか」についての規定は、学科、学位課程といった、自身の要求を熟知している
唯一のものに属するべきである。法律によって定められるべきものでなはない。
 今日、既に、学部の固有の要求を基礎として、多くの教官は120時間を教育に費やして
いる(あるいは、2つの課程を受け持っている)。人によっては、追加課程にまでも、等し
く重要な様々な任務を向けるよう学部は求めている(外国の大学との契約を守らなければ
ならない者、自分の学科の評価のために会議を組織しなければならない者、図書館を管理
しなければならない者、大学院課程を組織しなければならない者、などさまざまであ
る)。
 もし、大学の自治を尊重することを望むなら、こう云わなければならない。現行法に既
に規定されている教育研究の通常任務のほかに、教官は、年間多くの時間を、自分の学
部、学科、学位課程に提供する義務がある。そして、これらのことは、その特有の要求を
基本として、充分な自治権の中で、いかように時間を使うのかを決定するべきだろう。
 この法案は、大学の自治権を足の下に置いているのみならず、全く教育だけしかしな
い、研究をしない、罰を受けるに相応しい大学のモデルを提案している。この法令は、大
学教授を最低のカテゴリーのサラリーマンとして扱い、学生との直接的関係と教育に捧げ
る時間の「量」は評価すべきことだが、教育の「質」評価すべきことではない、といって
いるのである。しかし、政治家たちに思い出させるのは教授にとっては屈辱的ですらある
ように、大学教官が、年々ますます疲労して、新譜なマニュアルの繰り返しに陥ったとす
るなら、研究とエネルギーの著しい唐詩を必要としている。新しい華麗をよりよく維持し
たい者は、例えば、その準備のためにとても多くの時間を費やさなければならない。
  (註:ここまで1面、以下19面へ)
 そして、この準備時間は、もちろん教育に捧げる時間である。この法廷の起草者たちは
この準備時間を少しも考慮しないで、教官の労働について、けちなビジョン薄っぺらな官
僚性を持っていることを露呈している。教官には、研究するためだけではなく、学生に提
供しようとしている課程を責任制と創造性によってよりよくするための経験のためにも時
間とエネルギーがあることは、彼らにとっては全く重要ではないのだ。一日に何時間かの
間、学生窓口に属するサラリーマンだけを望んでいるのだ。その窓口でサラリーマン教官
のすることの質は、やつらには重要ではないのだ。その上、講義を充分に準備し、論文を
真剣に読むなど必要充分な時間(その時間もまさに計算されていないのだ)は、提案されて
いる500時間に達するのである。学術機関(第3条)で費やす時間はいうまでもなく考慮され
ていない。結果として、研究のために残される時間は徹底的に縮小される。
 法案は、学生との直接的関係に与えるべき時間の量の拡大に全てを向けているため、研
究のみならず、教育の質までも打ち砕いている。現在、大学には、今までと同じように、
研究をしない教官、講義の準備をしない教官、疲れたマニュアルの反復者にすぎない教官
がいるのも事実である。法案が犯す致命的な罪悪は、まさにこのような教官を、あらゆる
教官のモデルとして提案していることである。
 最後に、私は想像するのだが、条文を書いた人は、うわべだけの専門職のパート・タイ
ム教授があまりにも大勢いて学生と教官との関係が問題をはらんだものとなっている学部
か、または、学生もほとんどいなくて、サボり教授ばかりの幽霊学部(イタリア半島には
どこにも存在しないはずだが)しか念頭になかったのではあるまいか。イタリアのごく一
部の学部の問題を埋め合わせるために、このような大学全体を制裁する道が選択されるの
である。本当に、これ以上ひどくすることはできない。