==> 国立大学独立行政法人化に抗して
独立行政法人化は日本の大学をどう変えるか

独立行政法人化は日本の大学をどう変えるか


日本科学者会議有志シンポジュウム99/12/3
        独立行政法人化は日本の大学をどう変えるか
                      ーー私立大学の立場からーー
                                                 蔵原清人(工学院大学)

==> 2000年1月29日版

目次

はじめに
1、国立大学の独立行政法人化について
2、私立大学への影響をどう考えるか 
3、学校法人制度の歴史的意義
4、大学・学校の法人格の問題

はじめに
  独立行政法人化に関する議論について、私の率直な感想をいわせていただければ、国立中心に論議ではいけないということです。国立大学の独立行政法人化ということですから、国立大学の関係者にとって直接の深刻な問題であることは当然ですが、今回の問題は国公私のすべての大学に対する攻撃であること、従って全大学人が力を合わせて国民に訴えなければならないと考えます。それなしには私立大学の高い授業料を払っている国民にとっては、納得できない話になるのではないでしょうか。また私立大学の側も、対岸の火事視することなく、大学全体の問題として考えるべきでしょう。その意味では今日のような研究会が私大教員の中から提案されたことは大きな意味があると考えます。
  国立大学の独立行政法人化は、ユネスコの高等教育世界宣言と高等教育教育職員の地位に関する勧告に照らして大きな問題があります。ここでは今後の議論のために、個人的意見ではありますが率直に問題提起をさせていただきたいと思います。

1、国立大学の独立行政法人化につい

(1)出発点の論理について 
  最大の問題は行革の論理からでたもので、大学の論理からでたものではないということでしょう。理学部長会議の声明(99/11/10付)や国大協の総会を受けての蓮見会長の談話もこの点を強く指摘しています。学術、文化、国民の教養の視点が全くといっていいほどないのが文部省と日本政府の政策で、近年特にひどくなっています。有馬氏も東大総長の時は少しはいっていたのが、文部大臣になってからはすっかり無責任になってしまいました。
  もう一つ、出発点の問題としては、運営諮問会議や評議会を設けるなど管理体制を強化したことと独立行政法人化とはどういう関係にあるのでしょうか。異なる方策なのか、延長線上にあることなのか。どちらと理解するとしても、両々相まって結果として管理体制が強くなることは間違いないと思います。

(2)大学の自由化が進むか
 文部省は独立行政法人化によって、国立大学の活性化、自由度を増すといっています。国立大学は授業料や会計の決定権がないが、独立行政法人となればこれができるといったことをいっているようです。既存の制約にとらわれないという意味では自由(フリー)ともいえますが、大学にとっての自由ではありません。独立行政法人化によって、自動的に自由が保障されるということにはなりません。法人格を持つということと大学の自由とは別の問題であるからです。
 現在、国立大学の自由がないという点は事実ですから、どうしてそうなるのかそのメカニズムや制度的な問題を究明することは非常に重要な検討課題でしょう。法制的な問題、行政指導の問題とともに、大学論など理念的問題も究明されるべきです。しかし法律上決定権がないのは私学も公立も同様で、国立だけの問題ではありません。私立大学は寄付行為や条令で運用上、事実上の決定権をもっているところは多いのですが。私立においては法人と教学(大学)との関係で、大学の自主権を確保し拡大する課題が一貫して追求されてきています。しかし私大においてはこの点では大学(法人)毎に大きな違いがあります。
 国立(公立も)が私立と違うところは、寄付を集めるのに制約が大きいこと、卒業生が学校運営の中に制度として位置付いていないことではないでしょうか。前者は憲法上の規定に由来しています。しかし絶対に出来ないと解することではないでしょう。後者について、私立学校では私立学校法によって法人の評議員に卒業生からも選任することが定められています。しかし国立・公立では卒業生は制度的に関与することは認められていません。実態として同窓会はどの学校にもあるのに、国公立の場合は単なる外郭団体でしかないのです。

(3)法人化するときの形態 
 今回の国立大学の独立行政法人化は、法人と学校と一体的なものという説明が文部省によって行われたという報道がありますが、そうであれば戦後の設置者と設置される学校の区別という原則を否定することになります。この結果は経営的観点と教育・学問の自由が正面からぶつかって現在の条件の中で最善の解決を見いだすというより、どうしても経営的観点が優先するような運営に陥る恐れが一層強まるのではないでしょうか。
 今回の独立行政法人構想が学長などの任免権も文部大臣が握っているという制度のもとでは経営的観点が優先することになるのは火を見るより明らかです。なぜなら業績が上がらなければ廃止すらおこりうるのですから。少なくとも経営と教学の両方が学長の責任になり、学長の負担がますます大きくなっていくのではないでしょうか。

(4)法人化による天下りの増加 
 法人格をもつ場合の現実的に重大な問題は、文部官僚の天下り先になるということです。独立行政法人の場合も例外ではないでしょう。いまは公務員ですから、定年なども本庁と同一ですが、独立した法人となれば独自の規定が可能です。特に役員についてはこれまで以上の「豊富な」天下り先が開拓されることになります。他の省庁と比べて天下り先の少ない、うま味の薄い文部官僚としては、よだれがでる思いでいるのではないでしょうか。近年、与党が組閣毎に変わるようになって、官僚の力が一層増してきたのではないかと思います。官僚の天下り政治によって、天下り先との癒着がますますひどくなっています
 すでに研究機関や博物館等の独立行政法人化ではこの問題が指摘されています。(大学改革情報ネットワーク02299、11月13日付新潟日報報道)ここでは59法人で288人の役員ということですから、国立全部が別々の法人になるなら、この割合で行けばおよそ450人にもなりそうです。こうした事態は大学を官僚の食い物にし、大学の荒廃をますます進めることでしょう。

(5)大学についての考え方の変質
  独立行政法人化によって国立大学の変化に止まらず、大学というものの考え方に大きな変化を要求している点に注意を払う必要があります。(公立大学・私立大学では以前からそうなっていることが多い。)これはユネスコ「宣言」「勧告」に照らして大きな問題です。

  a.3〜5年の中期計画の策定がいわれていますが、大学の教育研究はこのような短期の計画の積み重ねでよいという考え方を押しつけることです。現在、新設大学では完成年度までの4年間、文部省の厳しい監督が行われますが、これは4年という期間は「中期」ではなく、超短期であることを文部省自身が認めていることではないでしょうか。どんなにすくなくとも大学にとって中期とは8年から10年以上を指すのではないでしょうか。国際的にはどの国も21世紀を展望して高等教育の発展を積極的に進めているなかで、この方針はあまりにも異常です

  b.企業会計の導入により、教育や研究の評価が経済的効率性の重視の視点からシビアに行われるようになるでしょう。これに基づいて国庫支出の大幅削減が一層進められることになるでしょう。「宣言」の立場から厳しく批判されなければなりません。

 c.設置者側(国立という限り、国が設置者であり続けるのではないか)の任命権、承認権の確保・強化がされます。大学の自由・自治はどこにあるのでしょうか。設置者側の気まぐれな方針に振り回されたあげく、統廃合する「自由」だけが残るのではないでしょうか。「宣言」や「勧告」のいう大学の自治と真っ向から対立する方向です。

  d.学費の差別化が導入されますが、経済的効率性をいうならば、費用のかかる学部が高くなるだけでなく、「人気の低い」つまり学生が集まりそうでない学部・学科も値上げされるようになるでしょう。これではますます学生は来なくなります。無償制という国際的原則はどこへ行くのでしょうか。

  e.教育サービスの「質」、投資(価格)に見合った教育の「質」という観点が強調されるようになります。これは短期で味わえる、インスタントな充実感や価値が重視されることになりかねません。資格取得のように、すぐ形に現れる学習やコマーシャルやマインドコントロールのような学生が成果と思いこむ学習が強調されるでしょう。「宣言」がいうように「人間の諸活動のあらゆる分野の必要に応じることができるよう、高度な資格を持つ卒業生および信頼できる市民を教育すること」という役割を十分尊重する必要があります。

  f.研究の活性化がいわれていますが、短期に成果をあげるように「活性化」するということでしょう。そうしなければ研究費はうち切られることになります。今日の大学には世界的、人類的なな課題にしっかり取り組むことが求められているのです。

  g.首切りがしやすくなります。旧「国立大学」では当面公務員としての地位を保障されるとしても、それでは行革の目的にあいません。当然しかるべき時期には、教員評価などにより選別されるでしょう。それはかなり早いと見るべきで、公務員身分は廃止されることになるでしょう。「勧告」で定められた教育職員の権利の原則を十分にふまえることが必要です。

(6)私立大学との「公正な競争基盤」はできるのか
  現在の独立行政法人の構想では、以上見てきたように、財政、自由度、設置者、法人格などにおいて、私立大学と対等にはなりません。文部省の主張の中にある矛盾を突いて、追求する必要があります。
    現在の国立が私立に対して優位な点は、学費が比較的安い、教員一人あたりの学生数が少ないなどの教育条件がよい、などがいえるのでしょうか。これらは独立行政法人化でどうなるか保障はありません。

(7)国立大学の統廃合に道を開く
 主務大臣の行う中期計画の承認や、計画終了後の評価はこうした視点から行われることになります。このため国がサポートを続ける大学は、数年の内に少数の研究大学だけになるでしょう。そうした成果を上げられない大学は地方移管や民営化あるいは統合・廃校のいずれかになるほかはありません。

2、私立大学への影響をどう考えるか 
 国立大学の独立行政法人化の実施は、当然、私学にも跳ね返るでしょう。特に独立行政法人によって大学というものの考え方に大きな変化をもたらすでしょうが、それは私学に対しても影響を与えることになることは必至です。これに力を得た法人は大学(教学)に対してこれまで以上に強くでることになるでしょう。これはそのまま大学の自治の侵害に直結します。具体的には次のような問題が生じることになるでしょう。

(1)設置者の監督・統制が一層強化される
  独立行政法人となれば文部大臣は主務大臣(事実上の設置者)として国立大学の中期計画承認、実施後の評価と業務の継続などについての検討が行われることになっています。これが実施されれば現在教学がまかされている私大でも学校法人理事会が同様のことを行うようになることが予想されます。

(2)今回の独立行政法人化は、それぞれの法人の自助努力が一層要求されることになるものですから、私学においてもこのことは一層厳しく要求されることになるでしょう。今日の状況の中で経済界ではリストラそれ自体が自己目的化するという危険な状況に至っていますが、大学においても同様な状況になってきています。しかしコスト削減を中心に自助努力を要求することは、大学の基礎的体力を削減することになり、長期的に見れば大学の活力を減退させる働きをすることになるでしょう。

(3)独立行政法人に企業会計を導入するということは、私大会計基準の改変の引き金になるでしょう。特に効率性の視点は今以上に一層強化されるでしょう。これは一部でいわれている営利企業の私立大学経営への参入を進めることにつながります。

(4)教育研究の内容についても、社会的開示の要求が一層強まってきます。これによって補助金の査定を行うなど、国や経済界の関与が一層進行するでしょう。特に、大学審答申でいうような目前の経済的要求に応える教育や研究が評価されることになり、私立大学において、時間のかかる研究、基礎的研究はますます困難になるでしょう。
  こうした問題を考えると、現在の学校制度の根幹にある、学校の設置者と、設置される学校の区別の原則を厳密に守らせることが重要であると考えます。学校教育法に定める学校の規定は国公私立すべての学校に共通した規定です。
 先般、文部省は、国立大学に運営諮問会議や評議会を設置するにあたって、学校教育法の改正ではなく、国立学校設置法の改正で行いました。これはそれらの設置が国立大学だけの問題であるという理由によるものでしょうが、後述する、すべての学校は同じ基準によって運営されるという原則(学校教育法14条は私立学校への適用が除外されている)を崩すものというべきです。(こういう批判はまだ見ていません。)
 これまでも私立学校の経営団体と行政では、私立学校の教育の自由は設置者である法人の(外部勢力に対する)自由であり、設置される学校の設置者たる法人に対する自由ではないという解釈が主流です。これによって理事長や理事会等の教学への不当な支配・干渉を正当化してきたのです。また公教育として許されない生徒や教職員の人権を無視した教育が見逃されてきているのです。今回の独立行政法人化が実施されれば、私立学校においても理事会側の支配・干渉などは一層強まることでしょう。

3、学校法人制度の歴史的意義
(1)設置者と、設置される学校の区別
 戦後は国公私を問わず、学校は法人格をもたずにその設置者が法人格をもつこととなりました。戦前の私学は学校そのものが法人となるのが本則でした。学校を設置する法人が学校を設置することもありましたが、それは例外とされていました。しかし大正期ごろから文部省の通達で設置者と学校の責任者(校長)と宛名が区別されるようになります。それが戦後の学校法人を設ける際に考慮されたのではないかと思います。(以上、拙稿『戦前期私立学校法制の研究』工学院大学共通課程研究論叢第35−1号1997年10月参照)この区別は私立学校だけではなく、国立、公立でも同様に考えられました。そのため設置される学校は、設置者の区別なく学校教育法によって規定し、設置者については国立は国立学校設置法、公立は地方自治法、私立は私立学校法によって決められています。
 教育委員会制度の成立も、条件整備と教育・研究の推進とを区別する考えがあったのであり、それが教育基本法第10条の規定(教育行政は条件整備が任務)になったといえるのでしょう。ここでいう教育行政とは国や地方公共団体だけでなく、学校法人の業務を含むべきだと考えます。このようにすることが、真の意味において教育と学問の自由、大学の自治を保障することになるのではないでしょうか。
 この原則が私立学校でも適用される事実を明確に示すこととして、一部で行われている学園長というものの設置があります。これは法的な根拠はないのですが、複数の学校を設置している学校法人が、学校の教育研究とその行政を統括する責任者として校長、学長とは別に設けることです。実態としての機能にはワンマン体制になることが多く、大きな問題がありますが。
 戦後に明確になった学校と設置者の区別は、教育的にも大きな意味があるように思います。それは学校の責任者(校長、学長)は教育・研究の推進に専念し、財政などの条件整備は設置者が専らあたるという分業ないし責任分担の考えではなかったかということです。法的には教育行政は条件整備を担当し、学校は教育の自由を保障されるという戦後改革の原則をこの区別によって保障するという意義があったといえるでしょう。現在の文部省は、戦後改革において設置者と設置される学校を区別したことを、おそらく自覚していないのではないでしょうか。あるいはわかっていて無視しているのでしょうか。
 学校と設置者が区別されることは、所管が変わっても学校が存続する場合があることでもいえるのではないでしょうか。たとえば学習院は官立から私立に変更、いまある県立高校の中には、はじめは私立や郡立、町村立であったものがあります。
 ただし私学において実態として、こうした戦後の原則が貫かれているかどうかは大きな問題があります。
 ひとつはオーナー私学では理事長と学長が同じ人がなっていることが多いことです。これは制度上否定されてはいません。しかし実態として理事長としての職務と学長としての職務が区別されていない場合も多く、運営上の問題があります。これがひどくなればワンマン経営ということになります。
 もう一つは早稲田や慶応のように学長がそのまま理事長を兼務するものです。大学によって総長、塾長などの呼称があります。まだ確認したのではありませんが、これは戦前の大学自体が法人であったときの方式を受け継いでいるものと考えられます。こちらは一般には学内の選挙によって選出され、必ずしもワンマン体制だというのではありませんが、理事会と教学の区別は運営上明確になっていない場合があります。これが直ちに問題であると考えているのではありませんが、研究する必要があります。
 近年、組織の簡素化として、法人の事務体制をなるべく大学の方に移すという傾向が、特に大きな大学で出ています。これは法人と大学を一体化するということではないのですが、どういうことを意味することになるか、まだ判断がついていません。

(2)教育財産の保全
 学校法人は一般の法人と比べ、ひとたび教育のために寄付された財産は、学校法人が解散した場合でも設立者が任意で配分することはできず、教育の事業のために使用されるべきという制約があります。これは非常に重要な規定です。つまり財産目当てに学校法人を解散することはできないのです。(もっともこれは抜け道がないということではありませんが。)

(3)ワンマン経営・同族支配の排除、教職員・卒業生による運営の保障
  学校法人は必ず5人以上の理事をおき、理事長を選任しなければなりません。それぞれの役員について同一の親族は1人をこえて含まれてはならないとされています。
  学校法人は理事、評議員を教職員、卒業生、学識経験者等の中から選任することになっています。これは本来の学校の運営のあり方ではないでしょうか。先般設置することとされた国立大学の運営諮問会議はその大学の教職員を排除していますが、とんでもないことです。同窓会などは実態として保守的な役回りを担うことが多いともいえますが、それを理由に役員から排除されることは公平な判断とはいえないと思います。同窓会の民主化は別の課題でしょう。むしろ学校運営に責任を共有することによって、正しい認識を深めていくことと思います。(この他、父母、学生・生徒の参加が保障されるべきです。)

(4)行政からの独立、教育の自由の保障
  これについては戦後の学校法人制度ができるときに、国に監督・規制に対して私学経営団体が一致して反対し、大幅に後退させ、国などを監督庁とするのではなく、所轄庁とさせたという経緯があります。このことは大切な点ではないでしょうか。もっとも、新たに私立学校を設立するときは様々な規制があります。
 教育の自由を隠れ蓑にして、私立学校の一部には教育基本法と全く合致しない教育理念や学校の運営があることは事実です。これは明らかに公教育として問題がありますが、行政的規制ではなく世論の批判によって改めさせるべきでしょう。

4、大学・学校の法人格の問題
 日本ではいずれの大学も、大学自体は法人格を持っていません。法人格を持っているのは設置者のほうです。現在の制度でも国立の設置者は国ですから当然法人格を持っているのですが、国立大学の法人格(自主権)が問題になるのは、国のコントロールが強すぎるからでしょう。戦後の改革で、教育行政の一般行政からの独立が問題にされ、文部省とは別に中央教育委員会の設置が提唱されましたが、国レベルの教育行政は一般行政から分離されませんでした。時々は、党人ではなく民間人の文部大臣が任命されたことはありますが。地方の教育行政は教育委員会で行われることになりましたが、その後一般行政に従属する度合いが強まっています。そうした中で国立、公立とも自主権の確立、一般行政からの独立が必要とされていることは当然のことです。このための方策として国公立大学の法人化を検討するということ自体は、あり得ると思います。

(1) わたしは国立大学が法人格をもつということ自体は、否定する必要はないと考えています。それは教育行政の一般行政からの独立という、戦後の改革において重視された原則に照らしてみるとき、特に政府レベルの行政機関である文部省は一般行政から独立しているか大きな問題があるからです。戦後当初の議論の中には、行政委員会として中央教育委員会を設けるという案もありましたが、実現されませんでした。文部省組織令では高等教育局の事務として国立大学の予算案の準備などが規定されていますが、実態は多くの人からも指摘されているように、厳しいコントロール下におかれています。行革から発した独立行政法人化がおこなわれればもっとひどくなるでしょう。
 現在のような文部省・大蔵省などの干渉から独立するために、法人格を持てば自動的に独立性が保障されるということはありません。法人という制度にはそこまでの機能は含まれていないからです。法人格をもつということが自由を拡大することになるかどうかは他の条件整備と相まって意義をもちうると思うのです。従って独立性を保障するための教育行政の方針転換と、制度的保障が必要です。国立学校行政についても一般行政から独立して行われる必要があります。法人化を進めることが当面の課題となるというつもりではないのですが、そして、もちろんいま議論されている独立行政法人がそのようなものとなるということでは決してありません。これは多くの人が批判している通りです。また、法人化する場合は、文部官僚の天下りに対する規制を十分考えておくことが必要です。

(2) こうした前提を踏まえて、将来、もし国立大学に法人格をもたせるとすれば、これまでのわが国の経験からすれば、ありうる形は学校法人しかないといえるのではないでしょうか。学校法人という形は、すでに見たように、行政からの独立性と教育財産の保全、公教育としての公共性の保証といった面で、万全ではないとしてもかなり完成された制度であると考えます。
 現在のところ、学校教育法では学校法人の設立する学校は私立学校ということになっていますが、学校法人の規定それ自体はは非常に柔軟な規定です。そのままでいいかどうかの問題は検討しなければなりませんが、私立学校だけに限られる必要はないと考えます。たとえば議会(国会、地方議会)で選任した理事をいれたいとすれば寄付行為で定めれば可能です。これは、そうした方がいいという意味ではありませんが。
  私立学校法では、理事、評議員の選出母体は規定していますが、選出手続きは各法人の寄付行為にゆだねているのです。ですから新しい学校法人が、現在の教育委員会と同じように委員を選出するとすれば、学識経験者の枠の中に寄付行為に規定すれば可能ではないでしょうか。もちろん、議会の側では、法律または条例によってそのことを規定しておかなければならないでしょう。
  現在でも私立学校の中にはいろいろな選任方法があります。評議員を理事会が選任するところがあります。キリスト教系の大学で、宣教師などから理事になることを寄付行為で決めているところもあります。卒業生の評議員の選出でも、同窓会の役員がが決めるところ、卒業生の選挙で決めるところ、理事会が指名するところなどさまざまです。
 私はこれらの現状をすべて許容するというのではありませんが、このような多様性は、私立学校の自主性にゆだねるという考えからでていることです。従って私立学校のみならず、すべての学校がこのような自主性を認められるべきではないでしょうか。そしてそのことは設置者が最初に寄付行為で決めることです。寄付行為はあとから変更することもできますが、ある大学では、寄付行為にキリスト教主義の教育を行うという規定があり、その条項は寄付行為の改正の対象にならないと定めています。従って自治体などが設立するとき、必要な条件は変更できないということを定めればいいと思います。
  こういった点が、学校法人というものが大変自由度の高い制度だという理由です。ですからこの制度だけで民主的なやり方が保証されるというのではありません。どういう内容にするかの努力はこうした方式をとった場合も必要です

(3)学校法人は私人が設立したとしても、設立すれば学校法人という人格をもっているのですから、果たして私立という呼称が適当かという問題があると考えています。学校法人の目的は公教育ですから、学校法人も公的な存在です。にもかかわらず、私立学校と呼ぶとされているのです。
 もともと私立学校という呼称は明治のはじめに、財政負担の主体によって名付けたものです。官費によるものが官立学校、学区の民費によるものが公立学校(ここでは町村費ではないことに注意)、一人または数人の私財によるものが私立学校とされたのです。この後、私立学校を法人とすることができるようになりましたが、私立学校という呼称はそのままにされました。戦後、私立学校も公教育の一部を担うことが明確にされたにもかかわらず、私立学校という呼称はそのまま使われています。
  しかし、明治のはじめに私立学校という言葉を用いたのは、私の感触で、まだ確認されたことではありませんが、私というのは公私の私(おおやけにならないこと、非公式のこと)であって、公や官に劣るものという意識が為政者の側にあったのではないかと思うのです。また私立学校の関係者を含めて多分に私教育としての私という意識もあったように思います。設立者の思いを実現するための学校であったのは事実でしょうが、私ということによって設立者が勝手に、恣意的に教育をしてもかまわないというような認識を許したのではないかと思います。政府も、私学の設置は特許として、設立を許すことが恩恵であるかのように、また私立学校が財政的に困難な状況にあることを放置しながら、官学にはるかに劣る学校として位置づけ、とどめてきた歴史があります。
  こうした点を反省して、戦後の教育改革の中で私立学校も公教育の一環であることを確認しました。すなわち国立、公立の学校とともに、私立学校も公教育を担うものであることを明確にしたのです。私学助成も(現在非常な少額ですが)こうした見地で行われています。また私立学校側は、設立者の個人的な財産であるとしたり、恣意的な教育や運営を許さないために、私立学校法によって同一親族が役員になることの制限や、解散時の財産処分の制限、理事会、評議員会などに教職員や同窓生の参加を法定するなど、公共性を担保する仕組みが作られているのです。もっとも実態としてはいろいろ問題があるのですが。私学助成を止めさせたいという人々は私立学校という言葉が、私的なものという印象を与えることを利用し、あたかも公教育ではないようにいっているように思います。
  こうした恣意的な教育と運営、ワンマン経営、偏見(故意の宣伝)をなくすためにも私立学校という名称はもうなくした方がいいのではないかと考えているのです。

(4)具体的には次のように考えます。
 a.国立、公立、私立とも学校はすべて学校法人が設置するものとし、学校法人について規定している私立学校法は学校法人法と改称します。(学校法人の設立とその法人による学校の設置を区別すること)国立の学校の場合は、可能性としては少なくとも次の3つがあるでしょう
  1)すべての国立大学を一つの法人が設置する。
 2)大学毎に法人を設ける。
  3)数校をまとめて1法人が設置する。
 私立大学には2)、3)はすでにあります。1)、3)は国立大学の統廃合を進めることになるでしょう。そうすると2)が一番現実的でしょう。
 公立大学もこれに準じて考えることになるでしょうが、高校までの学校は現在の教育委員会の単位でいいのではと考えます。この場合、教育委員会は法人理事会にあたります。寄付行為の改正は議会の意見を聞いて行う、あるいは議会の承認を経て執行するという規定を寄付行為に定めても、それはそれで法律上認められるのではないかと思います。あるいは学校設置条例を定め、それに基づいて寄付行為を決めるという形がいいのでしょうか。
  来年4月より実施しようとしている運営諮問会議、評議会は廃止すべきでしょう。複数学部を持つ大学の全学的運営組織のあり方は、各大学の経験をふまえて十分な検討の上で、必要な場合に制度するべきでしょう。
  なお、国立、公立、私立の呼称を存続させる場合は、次にのべる財政的サポートの種類によるものとします。
 b.あわせて、財政の問題を改革します。それは法律で決める、人件費を含む基準校費にもとづき、すべての学校に国から財政支出を行うことにすることです。これは教育費を基本的に無償とする立場で定めます。
 これに伴って、財政の公開はいま以上に行われるべきです。公的助成は、財政状況、特に公的助成金の使途の明細を明らかにすること、教育などその法人の活動について具体的にわかる報告を公開することを条件にします。これに基づき、特に助成金の使途について適切な機関が点検し、助成の趣旨にあわない、適切でない使用が発見された場合は是正を命じ、あるいは助成を停止するなどの処置をとることとします。これは日本国憲法89条との関係で重要になります。
  これに加えて国、地方公共団体などサポートする主体が財政的支援を行うことを妨げません。ここでの財政支援は、国の財政支出とは区別して考えます。それは設立やその後の業務委託などによって、国や自治体との特別な関係がある場合に支援(寄付)できるというつもりです。これを行う場合は、国または自治体の方で、法または条例で必要な規定をしなければなりません。また、その場合、経理の公開や事業報告など、適切な運用がされているかどうかの開示や議会での審査などをうけることも必要でしょう。またそれぞれの学校や法人が寄付を受けることを可能にします。
  大学の自治と、国や自治体のコントロールとは別の問題ですから、この二つを対立させるのではなく、両者が互いに他を尊重しながら、二つを両立させるように努力する必要があると考えます。
 c.さらに教職員については、公教育をになう全体の奉仕者であるという意味で、現在とは異なる意味ですが、教育公務員とします。任免権の所在は学校法人としますが安易な罷免・解雇はできないようにします。戦後改革の中で、私立学校の教職員を含めての教育公務員構想がありました。教員身分法の制定が考えられていたのです。これについては戦後改革期の提案が再検討されるべきと考えます。

(5)学問の自由と大学の自治が保障されるということは、大学自体が意志決定が可能であるという意味において事実上の人格を持つといえるのではないかと思います。ただこういうと設置者の人格と、大学の人格の関係はどうなるかという深刻な問題が生じてきます。このあたりの問題を解決するにはどうしたらいいのかは、専門家の意見を聞きたいと思います。
 いま大事なことは、教育の自由、学問の自由、大学の自治をどう確保するかにあります。またそれなしには日本の教育と研究は将来にわたって十分な発展を保障することはできないこと、独立行政法人化ではこれは保障できないことを明かにし、国民にアピールすることです。
蔵原清人(工学院大学)