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IDEー現代の高等教育 2001年1月号p35-38|購入問合先:IDE 事務局 03-3431-6822

「大学が人類社会に貢献しうるもの」抜粋

ウィリアム・カリー(上智大学長)


「大学の国際競争力」が今回の特集のテ−マであるが,この言葉には馴染めないのが私の本心である。「競争力」とは,おそらくは産業世界でもっとも通用する言葉であり概念であろう。同類の営みをなす他の機関と競り合い.他よりも優秀な立場を築き,カと名声を勝ち取り,自らの機関を一層発展させるという思考パタ−ンである。しかし,それははたして教育機関に関して適用できる考え方であろうか。

 かりに「大学の国際競争力」をもつことが,何を意味するかを想像するとすれば,それは日本の大学が研究の業績をあげ、質・量ともに他国の大学に負けない研究者と専門的職業人を輩出し,国際社会で名声を獲得し,他国から多くの留学生を引き寄せることかもしれない。しかし,そもそも大学の存在理由は,人類の共通善として求められる真理の探究ではないのだろうか。そうであれば,はたして自国の大学が国際的に優位に立って地位と評価を獲得することが,大学の建学の理念となりうるであろうか。国際競争において格差がますます開き,競争に負けた諸国の大学が衰退していくことを望んでよいものであろうか。私は,そのような発想法自体が,真にあるべき大学の理念に抵触するのではないかと考えている。

 明治以降の日本は,先進諸国に「追いつき追いこせ」という競争理念を根幹にすえ,ひたすら物質的な豊かさを求め続けてきた。その結果、日本の教育はとかく国家の繁栄,もしくは社会の経済的発展のために効果的に機能する人材育成に主眼を置くものとなった。人ほすでに幼少のときから互いに競いあって,他者よりも優れた成績を収めることを強要され,能率よく働き,業績をあげる者は讚えられ,弱者は切り捨てられがちであった。そこでは個人の人格は十分に顧みられず,独創力も批判力も抑圧されがちであった。しかし人間が一人ひとりかけがえのない人格であるという人間理解こそ,およそ教育の原点なのではないだろうか。人間の真に人間らしい成長を助けるための「人間教育」こそ,あらゆる専門教育の基礎なのではないだろうか。

 国際社会に関しても同様のことが言える。国際社会において,それぞれの民族がそれぞれの文化的伝統を大切にし,それぞれの生活様式において幸福を追求し,成長していくことこそが理想なのである。そのためには,できるかぎり民族間の経済的な格差が解消され,教育を受ける機会が均等化され,それぞれの民族の固有な文化の発展がはかられなければならない。そのために私たちは国際的に互いに助けあうべきであり,それぞれの成長こそが人類全体の豊かさにつながるのである。したがって,高等教育機関にあって研究と教育に従事する者は,競争によってどのように自国の大学の地位と名声を獲得することができるかということではなく,むしろどのように人類社会に貢献できるのか,どのようにそれぞれの大学の伝統と特色を生かして,世界の正義と平和な秩序の建設のため,全人類の幸福と成長のために貢献できるのかを間うべきなのではないだろうか。

 そこで私は,大学が国際社会のために貢献すべきものは何か,という根本的な理念に的を絞って論したいと思う。その際,どのように国際社会に貢献する人物を育成することができるかという,教育の理念が中心になる。いささか抽象的に聞こえるかもしれないが,私はそれこそが21世紀を前にして日本の大学が見据えていなければならない重要課題であると思うのである。 私は,国際的に貢献できる人物には次の五つの点が必要であると考え,そのような人物を育成することが大学教育の目標とされることを願っている。

1)国際感覚

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2) 創造性と専門知識

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 大学における研究と教育とのバランスがしばしば論じられるが,その両方があって初めて創造性をもった人物を育成できるのである。多様化された世界において,大学はすべての分野において卓越することは難しいかもしれない。しかし,大学の個性化を推し進め,ただ一つの研究分野においても,優れた学者と学生を引きつけることができるとよい。すぐれた専門知識なしには,創造性は生まれないからである。
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3) 学際的統合

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4)文化的アイデンティティ

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5)倫理的的価値観

 以上の諸点に加え,それらを総括する意味で,しっかりした倫理的な価値親と道徳的な判断力を有した人物を育成することが,大学に課せられた課題である。国際的な競争の中で,先進諸国が自国の利益のために情報と技術を用い,結果的には発展途上の諸国の貧困やその人びとの非人間的な生活をますます助長してしまっているのが現状ではないだろうか。どのように世界規模の政治的・社会的・経済的な正義と乎和の実現に向けて働くことができるかという問題意識は,決してただ単に大学の講義における知識の伝達だけによって養われるものでほない。学生のパーソナル・ケアヘの姿勢,介護実習,ボランティア活動,NGOへの参加等の体験をふくめ,大学の全人格的な教育への取り組みが必要なのである。

 それは,単なる活動主義に陥り,学生たちに行動を要求することではない。むしろ正しい世界の現状認織と知織に基づき,それを内省し,明確な理念を形成することが求められる。科学技術や医学やメディアの発展が人類にもたらす恩恵とともに,その否定的な側面に対して無批判的であってほならない。現代の技術信仰や消費文明の精神性の欠陥を見極め,社会の変動の中でそのつど正しい判断ができるような人物を育成することが求められている。

 近年の日本社会におけるカルト宗教の横行,とりわけ科学的教養を身につけた知的エリートがそのような非人間的な洗脳のとりこになってしまう現象を見るにつけ,私は日本における高等教育の課題を痛切に感じるのである。カりキュラムの内外において,明確な倫理親と道徳的判断力を育成することが必要不可欠であると思う。

 以上,かなり理念的に人間教育の諸点を述べたが,私はそのような諸点を身につけた人物こそが国際社会に貢献しうる人物であり,そのような人物を育成するように努めることこそが,国際社会に貢献しうる日本の大学の課題であると考える。その理念が明確に意識されて初めて,その実現のために具体的にどのように環境を整え,どのような設備を充実させるべきかを論しることができるのである。