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会報第171号(平成13年2月号)巻頭エッセー p7-11

生きものとしての大学には
「改革」よりも「変化」がふさわしい

前国立大学協会会長

蓮實重彦


 実現すべき「変化」を前にして,個人の責任において事態に対応することと,集団の合意にもとづいてこれを処理することのどちらがより有効に機能し,なおかつ倫理にかなった身振りなのでしょうか。それが,4年前に東京大学の総長に就任していらい,たえずわたくしの心をとらえていた問題であります。はた目にはみえないかたちでわたくしを深く思い悩ませていたのは,大学が,教育研究機関としての制度的な側面としてより,接しかた一つで溌剌とした表情をおびもすれば目にみえて消耗しもする微妙な生命体のように思われていたからです。阿部謹也前会長のあとをうけて国立大学協会の会長という責任ある地位についた一年半前から,その悩みがさらに深刻な問題となったことはいうまでもありません。協会の会員校である99の大学がそれぞれに個性的な生きものであるなら,そのすべての生命に対して真の責任をとるためには,どうすることが最善の方法なのか。それがなかなか鮮明には見えてこなかったのです。

 もちろん,この協会独特の慣行や規則と,より普遍的な民主主義の原理にもとづいた合意の形成がすべての基盤にあることは当然です。事実,わたくしは,自分の大学においても,また国大協においても,それを原則として振る舞ってまいりました。だが,それは,大学を制度ととらえ,それにふさわしく振る舞おうとする態度を維持してきたという,いかにも制度的な確認にすぎません。もちろん,あらゆる場合に,合意の形成に必要なステップを慎重に踏むのは当然としても,学長なり協会長なりが,たんなる制度的な調整役に徹していたのでは,生命体としての大学にこそふさわしい積極的な「変化」の到来など,望むべくもありません。ある種の制度なりシステムなりが有効に機能しており,大がかりな「変化」が緊急の話題とはなっていないときなら,調整役の仕事はそれなりに評価されるでしょう。しかし,システムそのものの健康が疑問視され,大学というこの厄介な生命体を活気づけるための勢いづくりが問題となっているとき,たんなる調整役はその限界を露呈せざるをえません。日本社会は,いま,そうした時期にさしかかっているはずであり,大学もまた,明らかに同じ問題に直面しております。

 誤解のないようにすぐさまいいそえておきますが,そうした問題がわたくしの心を悩ませていたのは,「大学改革」の名のもとに誰もが無責任に口にするあの「学長のリーダーシップ」といった問題などとはいっさい無縁であります。また,実現すべき「変化」と冒頭で呼んでおいたものも,国立大学がそれになるか否かの是非が問われている「独立行政法人」問題とは,いっさい関係がありません。わたくし自身としては,「改革」という言葉が口にされるや否や,そこに共有されるいささかこわばった義務の意識が,生きることの根源にある「変化」への潜在的な資質をあっという間に奪ってしまうことが気がかりでならなかったのです。実際,「政治改革」や「行政改革」の最近の推移が示しているように,「改革」を語る人びとのほとんどは滑稽なまでに変化を恐れており,しかも彼らは,その矛盾にさえ無自覚なのです。だから,生命体としての「政治」や「行政」ではなく,制度やシステムをいくぶんか手直しすることで何かをやったつもりになってしまうのです。しかし,そんなところに,好ましい「変化」など生まれるはずもありません。

 わたくしが大学に「変化」を求めているのは,大学をいかようにも「改革」可能な制度としてではなく,多様な「変化」への可能性を見失ったとたんに死滅への道を歩む微妙な生命体とみなしているからにほかなりません。実際,世界をふと見わたしてみただけで,「元気」な大学と,あまり「元気」には見えない大学がいたるところに共存しています。そして,「元気」な大学では,「改革」などとは無縁に,いたるところで好ましい「変化」が起こっているのです。しかも,その背後には,きまって信頼すべき学長の影が見え隠れしています。それが大学であろうとなかろうと,そのあらわれが多様であることだけが定義である生命体の「元気」さに触れ,できればさらなる「変化」ヘの潜在的な資質を顕在化させることが,わたくし個人にとっては無上のよろこびであります。集団的な合意形成へのステップを慎重に踏みながら進んで行くのは必要な手続きだとは知りつつも,それは,どこかで,多様に「変化」することがもたらすよろこびに背をむけることにもなりかねない。これは,制度である以前に,なによりもまず生命体としてある大学の勢いを高め,より溌剌とした表情におさまることに貢献すべきだと思っているわたくしの,生の倫理にかなった姿勢とはいえないのです。

「制度改革」には,多くの時間とエネルギーが必要とされます。しかも,ほとんどの場合,それがもたらす成果は情けないほどわずかなものでしかありません。それは,これまで日本で行われた「制度改革」なるものが示している現実にほかなりません。「制度改革」などと太袈裟にかまえなくとも,意識ある人びとが触れただけで好ましい「変化」を実現する細部が,大学にはいたるところにそなわっています。どうして,生命体としての大学が「元気」になることを,社会は望まないのでしょうか。それは,官僚にも,政治家にも,そして恐らくはマスコミにも,生命体としての大学というものが見えてはいないからなのです。あるいは,そんなものが存在するという想像力が,彼らに徹底して欠けているのかもしれません。生命体としても大学の活力はちょっと触ればわかることなのですが,社会にはその触覚がそなわってはいないのです。
 おそらく,この触覚に例外的に恵まれているのは,大学の学長であるはずです。そうした資質の持ち主が99人もそろっておられる国立大学協会で,わたくしたちは,生命体としての大学の健康について,意義ある言葉を語りえたでしょうか。外圧によって大学の「制度」について心を砕くあまり,刺激しだいではいかようにも「変化」し,にわかに溌剌とした表情もおびれば,たちどころに衰退してしまいもする生きものとしての大学の真の健康を,どこかでないがしろにしていたのではなかったでしょうか。ことによると,それは,個人の資格で事態に対処することをおこたってきたわたくし自身の個人的な責任かもしれません。それが,会長を辞するにあたってのわたくしの心をいまなお悩ませている倫理的な気がかりにほかなりません。

2001.2.10