「離れ」たのは理科からでしょうか白鳥紀一1. はじめに 2. そうしたいという思いだけ 3. 思うことを実現するための「道具」の調達 4. 結びに替えて 1. はじめに私は 1994 年まで約 30 年大阪大学理学部におり、その後 4年ほど九州大学理学部に勤めて昨年退職しました。九大では、人並の数の講義をしたと思います。阪大では余り講義に関わらなかったのですが、もちろん学生は近くにいました。それに、「教科書不使用」などを理由に1970年に懲戒解雇された伝習館高校(福岡県柳川市)の3人の教師(社会科)の救援活動に当初から参加していたので、高・中を中心に教師から見た初等中等教育の学校現場の問題は身近に感じていましたし、今もかなり感じています。そこから見ると、「学級崩壊」などといわれる現象を含めて、昨今の「教育問題」は、早い遅いはあれ(早いか遅いかは実際上はたいへん重要なことですが)、ほとんど必然の過程と見えます。大学でそれがなかなか見えなかったのは、高校までの先生方の努力のおかげでしょう。従ってそれは決して物理とか理科とかいった範囲に限られることではなく、技術的な観点だけでは解決できないこと、と私には思われます。 2. そうしたいという思いだけこれはおそらく、教える側と教えられる側とが共通に理解している「学力」が足りないといったことではなくて、「学力」自体、つまり「勉強する」「答案を書く」ということについての今の学生達の理解が、教える側とは異質なのだと思います。学生達の意識では、世界はすっかりわかっていて、すべての問題の答は既にどこかにある筈なのではないでしょうか。もう一度自分で歩いて答にたどりつくなんて、時間がかかって苦労するだけで大して意味のない、必要のないことだ。情報、つまり既にある答を探せばいい。その探し方を覚えるのが勉強だ。 もう随分と昔になりますが、教科書「を」教えるのか、教科書「で」教えるのか、という議論が文部省と当時の日教組との間でされたことがありました。向こうにある、自分とは別の、まだ完全には分かっていないものをどう理解してゆくか、ということが物理学を含めた科学・学問だと考えていた私には、教科書「を」教えなければならない(教科書にないことを教えてはいけない)という文部省の論理(註*2)は全然理解できませんでした。現場では、どうしてそうなるかはわからなくとも、こうすればいいというやり方さえ心得ていれば何とかなる、のではありましょうが、そこで終わってしまっては、勉強として困るでしょう。 教科書「を」教える、という姿勢は本質的に閉鎖していて、外の世界に伸びてゆきません。今の学生達の考える「学力」は、このイデオロギーに見合っています。日教組が実質的に崩壊して文部省の方針が現場にストレートに通るようになるにつれて、我々が理解する意味での学力が低下したのは当然のこと、と私には思われます。それが理科や数学でまず顕著になったのも、教科の性質から理解できることです。自然が人間とは独立に存在しそこには貫通する法則がある、という感覚が自然科学の基盤であることはいうまでもありません。しかしことの性質上、このような学力理解の影響は自然を対象とする理科には限られません。 世界は閉じていて、自立してそれ自体の論理で動いているものが外に別にあったりしない、ということになれば、自分がこうしたいと考えればそれは実現するはずだ、と思うのは自然です。「制御可能性の幻想」1)といってもいいかも知れません。実際たとえば、文部省の出す指導要領などでは「こうしろ」という目標だけがあって、その目標を達成する手段についての客観的な考察も、これまで実行された方策の効果についての具体的な分析もないようです。ここ数年の急激な「学力低下」には、前回の指導要領の改訂が重要な直接的原因ではないか、という意見はもっともですから、少なくとも次の改訂の前には前回の目標と用いられた手段との整合性・有効性についての分析は不可欠と思われます。今までの教育政策の結果についてきちんとした分析がされないままで行われる次回の改訂の結果は、「期して待つ」べきものとなりましょう。 このような「ありたい」ことだけが一人歩きする状況は、文部省の教育行政に限られない社会全体の風潮で、「理科離れ」や学生達の「学力」低下はその直接的な表現ではないか、というのがここで提出したい仮説です。 「精神主義」の例は、いろいろなレベルでいくらでも挙げられます。思いつくままにたとえば、 ・ 「指摘する」という言葉は字面からみても、指で摘まみあげて見せれば誰でもが承認せざるを得ないような、具体的な事実を示す言葉だった。しかしこのごろでは「主張する」と等価に広く使われている。 ・ 野球で打者走者が一塁に滑り込むプレーはプロ野球ですら広く行われて、批判されない。これは、セーフになりたいという意欲の表現の方が実際にセーフになることより重視される結果だろう。タッチプレーでなければ走り抜ける方が速くてセーフになる確率が高いのは物理的に自明だし、実際昔は一塁は走り抜けるのが鉄則だった(註*3)。 ・ 事故や不祥事の時の当事者の発表は、多くの場合単に言葉だけのつじつま合わせで、「安全宣言」はしばしば、根拠のない願望でしかない。それはかえって傷口を大きくしている。雪印乳業の中毒事件やJR西日本のトンネルのコンクリート落下事件、新潟県警の「女性監禁事件」など、その例は枚挙に暇がない。犯罪でも同様で、計画した犯罪の大きさに比べて逮捕されないための注意が全く足りないように見えることが多い。たとえば宇都宮の宝石店集団殺人事件。 ・ 今年の9月1日も、大地震の予兆が見つかったとして予知連の会長がヘリコプターで首相官邸に入るところから始まる災害演習が行われた。地震の予知が出来るかどうか、阪神大震災の後で雑誌「科学」が特集を組んでいたが、原理についても可能かどうか議論が終わっていない段階で、一回も実証されていない地震の予知が有効な技術として扱われている。 ・ 東大学長や文部大臣を務めた有馬朗人氏は、国立大学の独立法人化についての物理学会のシンポジウムでの講演2)で、最初に十年前の「大学設置基準大綱化」に触れ、そこでは一般教育が大切だと書いてあったのに、東大を除く諸大学は教養部廃止という誤りを犯した、といって出席者を叱った。教養部解体への文部省の圧力がどんなものだったか、といった議論は措く。あの時点で「大綱化」によって教養部と一般教育が強化される可能性がある、という状況判断は、明らかに誤っていた。そのような状況判断の誤りは政治家として致命的だが、有馬氏は全くそうは考えていないようである。それはおそらく、客観的な情勢判断(自分の意図から離れた「必然性」の洞察)の能力が日本の政界では必要と考えられていないことを示しているだろう。 などなど。 ほとんど自明なことを繰り返しますが、望むことを実現するための筋道、つまり我々が働きかける対象自体の法則、が無視されたら、理科(教育)は成り立ちません。この節の冒頭で述べた学生達の学力観は、こういう社会の風潮の反映ではないでしょうか。しかし、もう一つ先の問題があると思います。精神主義がすぐに、人間を道具として扱う操作主義になることです。 3. 思うことを実現するための「道具」の調達私は文科系の大学でエネルギー保存則の話をいろいろした後の感想文で、永久機関は出来ないかも知れないけれど出来るかも知れないのだから、努力すべきだ、というのを読んで憮然とした経験があります(註*4)。環境問題でオゾンホールの話をした後で、オゾンが足りないなら人間が作ったら良いじゃないか、という感想も貰いました。自分の話の下手なのを棚に上げれば、欲しいと思えば何でも出来るはずだという思いこみの上でなければ、こういった考え方は出てこないでしょう。また、他の誰かでなく自分が永久機関を作ろうというのであれば、つまり実際に自然(外の世界)と関われば、そんな気楽なことがいえる筈もない、と思います。上で挙げた野球部経験者の一塁滑り込みへの反応もそうですが、職人達が実際に自然に働きかけて蓄積してきた知識が近代科学の発生に果たした役割は科学史家の強調することで、今更私がいうまでもありません。 手を下すつもりはないけれども、自分の要求は実現するはずだと思うならば、他の人に頼んで、あるいは命令して、やらせることになります。その場合、世界が既に手の中にあるならば、自分は基本的に何もする必要はないと思うでしょう。せいぜいのところ予算をつけるくらいでしょうか。それも、自分の得る利益と考えあわせてなるべく安く上げようとするでしょう。そこには、共通の目標をそれぞれの立場で追求するときの協力関係ではなく、命令し - される関係だけが残ります。 先頃亡くなった武谷三男氏は昔、「自由とは必然性の洞察である」というヘーゲルの言葉を強調しておられましたが、それは戦前・戦中日本にはびこった、自然や人間社会の必然性を考えずにひたすら「必勝の信念」を持って努力を迫る、操作主義に腹を立てたせいに違いありません。何かにつけて「頑張れ」「頑張る」という言葉が飛び交う今の日本は、精神主義という点で55年前とどれほど違うのでしょうか。(註*5) 精神主義的操作主義は、特にこのごろの教育政策で目につきます。「競争的環境で個性の輝く大学(群)」を目指すなら、せめて画一的な入学試験をなくし、財源配分の基準・機関を複数にすべきでしょう。百もある国立大学を文部省が統一して管理していたのでは、「大学の個性」など出て来ようがないではありませんか。あるいは、教師を締め上げて忙しくさせておいて授業時間数を減らせば、教育が行き届かなくなるのは自明です。生徒は遊び回るか塾に行くか、いずれにしても「自主」的に勉強するようにはならないでしょう。少なくとも担当する生徒数を減らし、教師がゆとりを持って生徒の顔を見られるようにしなければ、「ゆとり」の時間は活用できるはずがない。今の学校現場は逆に、まず第一に校長の顔を見て、生徒の方は画一的に、いわばベルトコンベヤの上の未完成品のように、扱うことを教師に要求しています。時間が来たからといって教師が機械的に校門を閉めて生徒を押しつぶす、といった事件が起きるわけです。操作対象にされた生徒は今度は操作をする側に立とうとして、その対象が仲間ならいじめになりますし、自然なら最初に述べたような対応をするでしょう。 教育、特に初等教育では、生徒に(尊敬とまでいわずともどこかで)認められていないと、教師は務まらないと思うのです。ところが、文部省(- 教育委員会 - 校長)が教師を道具として扱うと、当然ながら道具は尊敬されませんし人間として認められもしませんから、教育は成り立たなくなります。ここで詳しい論議は出来ませんが、ごく大雑把にいってこれが日本の教育の状況だと私は考えています。つまり、文部省の教育政策が成功したために教育が困難になった。公教育というものを無くそうというなら、つじつまがあっているかも知れません。 もう一度繰り返しになりますが、こういった教育政策には時代の風潮という背景があります。むしろ、その背景があるから文部省の政策が貫徹してきた、というべきでしょう。社会の中の操作主義の現れも、いくらでも例を挙げられます。たとえば、直接技術に関係したところでは、「もんじゅ」の事故があります。あの事故は、液体ナトリウムの流れに差し込んだ段つきの熱電対の鞘が、段の曲率半径がごく小さかったために、流れによる振動の応力がそこに集中して折れたのです。この鞘の加工を受注した下請けの会社が、本当にこんな段をつけていいのか、と問い合わせた、という話が伝わっています。想像するに、問い合わせを受けた大会社の担当者はにべもなく「お前達は言われたとおりにすればいいんだ」という調子でその質問を蹴ったのだと思います。操作主義の立場からすれば、道具は抵抗のないものがいい(註*6)。抵抗は、受ける側からすれば、基本的に外の、まだわかっていない世界からきますから、担当者はそれをきっかけに自分の知らなかった(実は既に良く知られている)自然の部分に触れることが出来た筈です。しかし操作主義的に、工員を単なる道具と考えていた担当者には、それが出来ませんでした。これは日本の社会や技術の現状についての重要な局面を示していると思うのですが、その文脈での議論を私は見ていません。 あるいはまた、人と人との関係の問題である差別を言葉の問題にすり替えて済ましてしまう、というのも良い例でしょう。こんなすり替えの時にこそ(学生達が教師に求めるように)、マニュアルが役に立ちます。でも、当然ながら、それでは差別問題は解決しません。もう一段ひどくなると、言葉狩りがけしからんからといって差別の問題それ自体を押しつぶしてしまおうという人たちが出てきます。問題の存在自体を自分の意識する世界の外に押し出してしまおう、というわけです。これは公害・環境問題について、原因を作っている側がとる一般的な態度でもあります。 こういう社会で育った学生・生徒が「理科」から離れるのはむしろ当然というべきではないでしょうか。大学を含めて、理科を「教育」する側に問題がないとは全く思いませんが(学校も大学も社会の中にいるのですから、その風潮から自由であるはずがありません)、基本的な問題は「理科」にあるのではないと私は思います。学生たちは「理科」から離れたのではなくて、意識構造の中に「外の世界」というものが消えてしまったのです。 4. 結びに替えてというわけで、私の主張をスローガン風にいえば、「思った通りになるから」ではなく、「わかっていない世界の存在を教えてくれるから」、自然を勉強しよう、ということになります。「わかっていない」世界の存在は、実際にその世界に触れてそれをわかろうと努力する中でしか、感じとれません。その第一歩は先人の努力に学ぶ事です。 こういってしまうと、ごく当り前に聞こえましょうか。でもたとえば、このスローガンからすると、初等教育へのコンピュータの導入というのは考えものです。教え方によるかも知れませんが、現在コンピュータがもてはやされるのは外に自然があることを教えるためではなく、まさに「思ったようになる」からではないでしょうか。子供たちは(大人たちも多分)指先一つで世界を操作できる事に夢中になりますが、どうしてそうなるのか、という方向には興味は向きません。画面の上であっても思うようになるのは面白いかも知れないけれど、それは理科教育の本筋ではあるまい、話が逆ではないか、と思います。コンピュータを操ることから外の世界に意識が広がっていく、という道筋は、私には想像しにくい。むしろ、酒やたばこのように、コンピュータに触る年齢に下限をつけた方がよいのではないでしょうか。今の社会でそんなことが出来ようとは思いませんが。この例からもわかるように、理科教育は現在、「時代に抗して」しか出来ない、と私は思います。今の時代、非常に多くの人々が閉塞感を持っていることを考えれば、これは理科教育に携わる人たちにとって光栄でなければなりません。 人口全体の中で、物理屋になる人はもちろん理系の職業につく人は少ないわけです。だから、全生徒が物理を面白がる必要はない。しかし、自分達の外に別の、自立した世界があるという感覚は、広く行き亙って貰いたいものです。多分、世界の安定性がそこに関わる、と思うからです。それはたとえば、環境問題を考えても明きらかです。我々がものやエネルギーの捨て場にしている環境がそれ自体の法則に従って動いていて、我々の恣意的な制御の外にある、という実感が行き亙らなければ、人類の生存は「持続可能」ではありません。 ここで述べた精神主義・操作主義は、このごろ話題になっている science wars と関係します。本誌前号で高橋哲郎氏3)が述べておられた物理教育における主観主義です。ここではそれに触れる余裕がありませんでした。この点については唐木田健一氏の諸論考4)が参考になると思います。 | ||||||
文献 [1] 赤澤五郎: 「科学・社会・人間」 57号 (1996) 13 [2] 有馬朗人: 「科学・社会・人間」 74号 (2000) 4 [3] 高橋哲郎: 大学の物理教育 2000-2 (2000) 12 [4] 唐木田健一: 「化学史研究」 27 (2000) 169, 及びその引用文献。 |