独立行政法人調査検討会議中間報告
京都大学理学部化学教室
吉村洋介
今般出された「国立大学法人像」の中間報告について、特に
○過去の施策に対する「評価」が欠けていること
○学生の位置付けが一方的に過ぎること
○経営と教学を分離すべきこと
について、以下のような意見を認めました。
☆過去の反省の欠如
大学の現場にいるものにとって、この文書は、率直に言って余りに空疎なものに響く。
それは過去のさまざまな「改革」に対する反省を余りにも欠いているからだ。
たとえば「筑波大学」は、巨費を投じた一つの大学改革の実験でもあったろう。
それは成功だったのか?
社会の声の反映、教育と研究の分離など、30年近くを経ていったいどうだったのか?
同様に、いわゆる新構想大学で行われた試みについて、いったいどう考えているのか?
まだ10年ぐらい経っていないが、教養部廃止や一部大学の「大学院重点化」、頻 繁な改組とそれにともなう研究室の人間さえろくに覚えていない気障で長ったらしい 講座名の創出などはどうだったのだろう?
そしてそこに問題があったとすれば、その責任はだれがどうとるのか?
そうした過去のさまざまな試みについて、正面から真摯に語ることなく、いたずら に「改革」や「評価」を語っても、われわれの胸には届かない。
こうしたところから出てくる、「自己責任」といったフレーズには、まったく信を 置けない。
☆学生の位置付け
この文書では、学生には大学の構成員としての積極的な役割は期待されず、「デマ ンド・サイド」に置かれて議論の対象となっていない(「基本的な考え方」の「検討 の視点」2)。
こうした学生の位置付けは、大学の特性を見ないものだと考える。
当理学部・理学研究科では、教員より学生の方が学問ができるというのは、よくあ る話である。
大学における教員と学生の関係は、共に学問の探求、さらには人生の探求の同志と いうものであるべきでないか。
それを一方的な知識・技術の授受の関係にしてしまうのは、大学を専門学校化して しまうことでもある。
もっと積極的に大学における学生の役割を位置付け、傍観者としてではなく、主体 としての参加のための道を開くべきだ。
今日の大学の中に、専門学校としての要素があることは否定しないが、それに一面 化することは大学本来の姿の否定につながろう。
☆経営と教学の分離
これまでの国立大学の財政・人事のしくみは多くの問題をもたらしてきた。
一種の「たかり」にも似た資金の争奪戦を間近に見たことがあるが、「真理の探 究」などが単なるレトリックにすぎないことをまざまざと教えられるものだった。
また30年以上も前の基準を満たせないような看護婦の労働条件、「定員外職員」 と呼ばれる30年以上も勤続する「非常勤職員」の存在、飼い殺し状態の技官などな ど、あまりにも無責任な人事管理には強い怒りを感じている。
「経営責任の明確化」(「基本的な考え方」の「検討の視点」3)は必要なことだ が、そのためにはこうした従来の無責任な財政・人事のあり方を抜本的に見直さねば なるまい。
ひとり学長に「強いリーダーシップと経営手腕」を期待するのは、特に大規模大学 においては、旧日本軍の天皇任せの無責任体制を招来するものでしかなかろう。
実際、この文書には、天皇の戦争責任同様、学長が経営責任をどうとるのかについ て何ら言及がないではないか。
今の大学の問題は、従来の経営と教学の間の緊張を欠いた関係がもたらしたものと いえよう。
安易に「教学と経営との円滑かつ一体的な合意形成」なるものなど振りかざして、 「法人」としての固有の組織を設けない(「組織業務・制度設計の方針」)のは誤り である。
むしろ経営と教学が独立したメカニズムを持ち、そこに緊張関係のあることが、公 正で効率的な大学の運営を保障してくれるものと考える。
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