承諾を得て転載します. 2001.12.27
独立行政法人調査検討会議中間報告

「新しい「国立大学法人」像について」への意見

鹿児島大学長・田中弘允

2001.10

このたび公表された中間報告『新しい「国立大学法人」像について』には、か なり深刻な自己矛盾がいくつか含まれており、意に反して、意図する目的とは 正反対の結果になるのではないかと思われます。以下、その理由を述べます。

1.法人化の中心目的は、自主性・自律性の拡大にある。ところが、「中間報 告」における大学の自主性・自律性の意味は、「運営上の裁量の拡大」とか 「法人化により経営面での権限が大幅に拡大する」等と述べられていることか ら明らかなように、おもに経営者・管理者サイドから見られた自主性・自律性 である。教育研究者個人の自主性・自律性、つまり内発性に基づく学問の自由 は、経営の自由に従属せしめられている。そして後者は、財源獲得と直接には 関係しない基礎研究等を、財源確保の観点から切り捨てる可能性がある。教育 研究の自由の、管理運営の自由に対する従属であり、大学本来の自由の危機と 言わざるを得ない。しかも、この経営の自由は、中期目標の策定、中期計画の 認可、目標・計画の達成度評価、評価結果に基づく運営費交付金の査定、とい うサイクルを介して、政府権限と直結しており、その強化と連動する可能性が ある。法人化の本来の意図が、経営管理の視点から大幅に歪められているので ある。大学本来の学問的使命に対する以上のような歪曲は、世界に例を見ない ものである。

2.法人化は、行革の一環として始められた以上、行革としての意味も持たな ければならない。行革の目的はスリム化・効率化であった。したがって、政府 の業務も権限も縮小されねばならないはずである。ところが、上述のサイクル における各業務(策定・認可・評価・査定)は、新しく発生した膨大で煩瑣な 事務量を含み、しかも、それらはすべて政府の下に集中化されている(この点、 イギリスの機構は異なる)。したがって、その業務も権限も現在よりも増大・ 強化されることになる。少なくとも縮小されることは困難である。この矛盾は、 各大学においても現れる。上述のサイクルにおいて、中期計画の作成、年度計 画の公表、各種の評価書類の作成とやりとり、財務諸表の提出、決算報告書の 提出等、各大学でも膨大で煩瑣な事務量が発生し、それに応じて多くの人員と 財源が、教育研究以外の業務に費やされることになる。それにもまして、新し く2名の監事、多数の役員・学外者を雇用しなければならない。これらはすべ て、スリム化・効率化を目指す行財政改革の本来の意図に矛盾する。それはむ しろ、教育研究から大学管理事務への人員と財源のシフトというべき事態であっ て、教育研究の高度化という大学改革の本来の趣旨に根本から矛盾し、壮大な 浪費と言わざるを得ない。

3.競争原理導入による大学の活性化という発想には、根本的なパラドックス が潜んでおり、慎重に対処しないと極めて危険な事態に陥る可能性がある。と いうのは、この発想は、学問の内実に即して内発的に教育研究に従事している 人々に対しては必要ではなく、いなむしろ迷惑で有害ですらあるのに対して、 そうでない人々に対してのみ多少有効に機能する、という逆説があるからであ る。換言すれば、それは、日本の大学の最低水準を引き上げるのには多少役立 つかもしれないが、逆に最高水準を押し下げ、全体としても水準を低下させる 可能性がきわめて高い。なぜならそれは、教育研究の外面的評価、特にその数 値化と相まって、熱心で有能な人々の学問的内発性を削ぎ、人間精神の純枠な 創造的・発見的エネルギーを撹乱し低下させるからである。イギリスの大学は すでにそれによる多数の頭脳流出を経験した。競争原理による活性化は、一時 的な効果は生むかもしれないが、たちまち息切れし、全体として日本の高等教 育を凡庸な水準に収斂・停滞させるであろう。中長期的には、意図した活性化 ではなく停滞が、結果として生じさせることになる。日本の企業のいくつかの 経験はそれを暗示している。

4.行革には二つの手法があって、一つは市場競争原理導入であり、他は地方 分権である。このうち前者は、ヒト・モノ・カネの流れを大都市に集中化させ る働きをし、後者は逆に、過度の大都市集中にともなう政治経済の歪み、文化 の一様化平板化、社会問題の噴出といった事態を回避し、全国的に多様な活力 ある地域社会を発展させる役割を果たすべきものである。ところが国立大学の 法人化は、民営化ほどではないにしても、競争原理に強く依拠して制度設計さ れており、この点は「中間報告」においても変わりない。したがって、すべて の国立大学への一様な本制度の導入は、国立大学機能の集中化、拠点化のみを 推進するものであり(最近の展開はそれを証明している)、地方の国立大学と 地域社会にとってきわめて憂慮すべき制度設計と言わねばならない。市場競争 原理のみでは、企業立地の実情や県民所得の格差、さらにすでに存在する大幅 な大学間格差等に照らして、先に触れた大学経営の自由は、地方では実効を伴 わないのである。この制度設計が、地方の衰退を招き、全体として日本の国力 の地盤沈下を招くことはほぼ確実と思われる。したがって、それは地方活性化 を謳う地方分権に矛盾している。このことが意味するのは、行革に二つの手法 があるように、大学改革にも二つの手法があるべきであって、産業競争力強化 を担う大都市圏の大学への拠点化・集中化の方向とは別に、日本全体の地域活 性化を担う地方国立大学についてはあくまでも分散化を維持し、一方向的に集 中化のみを図るべきではない、ということである。大都市と地方は相互に支え 合っており、地方の活性化なくして大都市の活性化もあり得ないからである。

現在、大学に対してさまざまな批判がある。いまここでそれらに対して十分な 検討を加えることはできない。しかし暫定的に以下のように言うことはできる と思う。日本の大学は、世間で思われているほど業績水準が低いわけではない。 いなむしろ、かなりの業績と潜在能力が隠されているとさえ言える。ただ、そ れらを一般社会と結びつけるチャンネルが欠如しているのである。大学の学問 研究を地域社会現場と全面的・根本的に結びつけることによって両者を相互的 に活性化させるような社会空間、この関係を全国的に展開することによって21 世紀のグローバルな大問題に各大学が相互補完的に協力して対応しうるような ネットワーク、このような社会空間・ネットワークが形成されるならば、日本 の大学は蘇るはずである。このことは、「競争原理による活性化」のみでなく、 「協カ原理による相互活性化」もまた必要だということであり、したがってま た、この理念に基づく大学群も国家にとって必要不可欠だということを意味す る。今日、日本の文教政策が念頭に置くべきは、グローバル化に伴う21世紀 前半の巨大な経済的・社会的変動であり、考察されるべきは、いかにしてそれ らの変動に柔軟に対応しうる多様で豊かな構想力を培い、日本の社会全体を支 えうるか、ということだからである。