日本の論点2002 p726-729 (文芸春秋社 2001.11.10 ISBN 4-16-503010-4)
教育への経済界の要請を排す
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大学の本領は基礎研究にある 英語、パソコン、株取引を教える愚 大学は産業界の人材製造工場ではない |
かつて我が国の経済が絶好調のころ、そのなりふり構わぬ経済活動を見て世界は、エコノミックアニマルと呼び冷笑した。この習性はバブルがはじけて10年たっても治っていないようだ。
GDPおよび一人当たりGDPでアメリカに次ぐ世界第二位を保ちながら、企業経営者だけでなく政官財すべて、そして国民までが「不況不況改革改革」とパニックを起こしている。ここ一世紀近くも斜陽経済が続き、GDPで日本の半分以下に甘んずるイギリスで、誰一人パニックを起こしていないのと対照的である。
経済復興が自明の国家目標となっている。国家目標となれば、一億火の玉の国だから、すぐに「そのためなら何でもする」ということになる。不況の本質が、政官財学の専門家によってさえ完全に把握されているとは、とても思えないのに、「改革」の旗が狂ったように暗闇の中を突っ走る。
方向を失っているから、とりあえず経済好調のアメリカを真似よう、ということでアメリカ化がすさまじい勢いで進行する。アメリカの方も、自らの国益からみてまさに願ったりだから、強力に後押ししたり、時には強引に押しつけたりする。かくして市場経済、規制緩和、競争社会など歴史的誤りとなりそうな思想が、十分な吟味を経ないまま跋扈する。
経済界(エコノミストも含む)の声(*1)に政官が賛同した格好で、この嵐がいよいよ経済の域外に足を踏み出し始めた。経済復興のため、社会や文化を変えろ、そしてついに教育をも変えろという所までやって来た。
大学に対して、産業界にすぐ役立つ人材を育成しろ、の声がしきりに出ている。即戦力を求める声は、アメリカ型ビジネススクールの開設ブーム(*2)を生んでいる。実社会を知り就織後の不適合を防ぐためということで、インターンシップ(学生の企業研修)が推進されている。大学の技術開発力を産業界に、ということで産学協同開発(*3)や技術移転の円滑化(*4)が急ピッチで進められている。
少子化による学生数減少や恒常的な研究費不足に悩む大学は、一昔前まであった見識をすっかりなくし、金づるとあらば何にでもとびつく体質となっているから、そのような経済界からの提案にすぐに乗る。ビジネススクールの与えるMBA(経営学修士号)資格者が少なかったから、日本は国際競争に負けたのであろうか。貴重な勉学時間を一力月も割き、一つの企業で研修することが、職業適性を見定めるうえでどれほどの意味があるのだろうか。
産学協同が進み過ぎると、大学の理工農医歯などの大学院が、企業の安価な出先機関となりかねない。そうなった大学にどんな独創的研究を期待できるのだろうか。大学の本領は直接の応用を視野にいれない基礎研究にあり、それこそが国家の科学技術力の基盤なのである。基礎研究をないがしろにしてなお卓抜な技術力を保持した、という国家は未だかつて存在したことがない。大学の弱味と卑しさに乗じた経済界からの口出しがこのまま続けば、日本のほとんどの大学で実学が幅を利かせ、それ以外の役に立たない学問は徐々に淘汰されることになろう。大学は企業の便利屋となり果てる。
「役に立たない」は必ずしも「価値がない」を意味しない、というところに学問は成立している。ニュートン、ダーウィン、ケインズを生んだケンブリッジ大学には、近年に至るまで工学系が存在しなかった。産業界に直接役立つような分野は学問と見なされなかったのである。文化としての学問のやせ細った、品格なき日本を世界はどう見るだろうか。経済の不調よりはるかに大きな国益を損なうことになろう。
英語が下手では国際ビジネスに不利だから、IT革命に乗り遅れては一大事だから、ということで小学校に英語やパソコンを導入しろ、と声高に言い出したのも経済界であった。世界で英語の一番下手な日本が20世紀を通して、先進国中もっとも大きな経済成長をなしとげ、英語の一番上手なイギリスがその間もっとも斜陽だったことが忘れられている。世界IT革命の大きな担い手となっているインド人技術者のほとんどが、小学校時代にパソコンなど見たことさえなかった、ということが忘れられている。
シリコンバレーで起業家の夢が花開いていることは確かである。しかし、新規事業を株式公開までもって行った成功者のうち、約半数が中国、インド、ロシアからやって来た人々であることは忘れられている。無論小中学校で企業家精神など吹き込まれてはいない。そもそも企業家精神などと、経済人やエコノミスト、そしてそれに惑わされた教育関係者はもち上げるが、ベンチャービジネスが経済全体のごく一部に過ぎぬことも忘れられている。一国の趨勢を決める研究開発や技術革新においては、日米とも大企業の実績が圧倒的なのである。
不況の原因は政官による失政ばかりでなく、経済人にも大きな責任のあることを忘れてはならない。不動産やマネーゲームに狂奔したあげく大量の不良債権を残したのは誰だったか。資本主義の断末魔の妖怪とも言うべきデリバティブ(金融先物商品)に、本質をまったく理解せぬまま手を出し、日本が不況から立ち直れない隠れた要因となるほどの、巨額の損失を今日まで出し続けてきたのは誰だったのか。この責任を反省するどころか、糊塗し、転嫁するかの如く、社会や教育改革への発言をエスカレートさせているのは、理解しにくいことである。
経済界の提言を取り入れて、英語、パソコン、株式取引、企業家精神などを小学生に教えていたら、週20数時間という窮屈の中、国語や数学の基礎力がガタガタとなる。現に2002年よりこれらは内容3割減となる。
特に国語はすべての知的活動の根幹である。国語は、思考の結果を表現する手段であるばかりか、国語を用いて思考するという側面もあるから、ほとんど思考そのものと言ってよい。これが十分な語彙と共に築かれていないと、深い思考が不可能となる。また国語を通して様々な文学作品に親しみ、そこから正義感、勇気、家族愛、郷土愛、愛国心、他人の不幸に対する敏感さ、美への感動、卑怯を僧む心、もののあはれ、などの最重要の情緒を身につける。日本の文化、伝統を知りアイデンティティーを確立する際にも国語は中心となる。これら人間の中核となるものは、小中学生のうちに全力で基礎を画めておかないと手遅れになる。経済界の言うような瑣末な知識を小学生に与えるのは、まさに愚民化政策と言えよう。
また、英語やパソコンが多少ぎこちなくとも、文学、歴史、哲学、芸術そして日本人としての情緒などを身につけた者こそが、世界で活躍するために必須の、大局的判断力を備えることができる。そんな政治家、官僚、ビジネスマンこそが、混迷の日本が今もっとも必要とする人々なのである。
不況にあおられた、国をあげての「改革改革」は、経済に限っても大いに疑問なのに、人間をつくる教育までも変えようとしている。10年続いた不況そのものより、この災禍の方がはるかに大きくなりそうである。
教育改革国民会議の最終報告でも、リーダー要請のため、大学および大学院の教育や研究機能の強化が打ち出された。そのほか、学部で卒業する者は四年でさらに専門的な学習をする、社会に出てすぐに活躍できるよう産業界との連携交流を図るインターンシップを積極的に実施する、企業との共同プロジェクトを通じた高度な技術的能力を有するエンジニアの育成といった提言も盛り込まれている。
2000年4月に一橋大学、翌年度には京都大字がビジネススクールの開設を決めた。また2001年4月、東京大学が本郷キャンパスにビジネス関連法を扱う「ビジネスロー・センター」を開くことになった。宮内義彦オリックス会長は<ビジネススクールの数がけた違いに少なかったことが、90年代の日本経済が米国に比べて大きく競争力を失った原因>(朝日新聞2001年4月2日付)という。
産学連携で一歩先を行くのが早稲田、魔応義塾の両大学である。早稲田大学は、 遠隔・双方向の外国語授業を配信する新会社「早稲田大学インターナショナル」 を松下グループと共同で設立し、慶應義塾先端科学技術研究センターは200 0年12月、研究成果を企業にアピールする「慶應テクノモール」を開催した。
98年に施行された大学等技術移転促進法は、大学が生んだ研究成果の産業界 への移転を促進するとともに、大学における研究活動の活性化をも目的として いる。法律で定められた具体的な移転事業の内容には、研究成果の発掘、評価、 選別や、研究成果に対する特許権の取得、維持、保全などがある。
東京大学大学院の佐藤俊樹助教授は、<転織の一般化やりストラで社員教育の コストをかけられなくなった>(朝日新聞2001年5月26日付)と分析し ている。
ノーベル化学賞を受賞した名古屋大学の野依良治教授は<「五○年でノーベル 賞三○人」という政府の目標は、国家として不見識>として科学技術創造立国 や産学連携輪を批判している。<学術は芸術と同じで、自分が一番おもしろい と思うものに全力を尽くす。ベートーベンとモーツァルトが比べられないよう に賞は狙ってとるものではない。(中略)産業の状況が深刻なのは産業界の研 究者の能力が足りないからで、その原困は欧米とは3役と十両くらいの格差が ある大学院教育にある>(朝日新聞2002年10月17日付)