Academia e-Network 国立大学独立行政法人化の諸問題
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「科学・社会・人間」2003年4号(No 86、2003.9.15発行)書評, p44-52

アレゼール日本 編「大学界改造要綱」の紹介

辻下 徹

2003.8.26

先月(2003年7月)、国立大学法人法が成立した。大学「経営」の効率化を
使命とする国立大学法人制度は、大学間・部局間の格差を拡大し、学問と教育の
普遍性を二次的なものとし学問の多様性を衰退させ、日本における学問の基盤を
弱体化させることは、国立大学社会で早期から認識されていたが、国立大学教員
約6万人の中の約5%の反対者と、1%にも満たない主に学長層の賛成者以外、
すなわち大多数の当事者は公的には沈黙したままであった。この現象は十分には
理解されていない。また、世論の無関心という現象も同様である。政策批判が憚
られる状況が国立大学で広がっていることや、マスメディアが、独立行政法人化
に伴なうリスクを真剣に説明しようとしなかったこと、などが主な原因だと思う
が、それだけなのだろうか。

この本は、主として社会学の若手研究者のグループが、人間社会についての洗練
された洞察力と知見を背景に、種々の調査結果に基いて、日本の大学の現状を醒
めた目で分析し、大学改革の議論の前提となっている「大学についての常識」の
欠陥や盲点を指摘しているが、上の現象にもかなりの照明を当てているように感
じる。

以下、アレゼール日本の活動と、「大学界の分断」と大学教育機会の不平等につ
いて、この本を通し説明し、最後に抜粋を記載することで、この本の紹介とさせ
ていただいえた。もしもこの本を読むきっかけとなれば幸いである。

なお、本書の後半は、フランスの高等教育界の現状を正確に認識させる点で、貴
重なものであるが、ほどんど触れられなかった。フランスの国立高等教育機関の
中で、学生数は3%にすぎない「グランド・デコール」が高等教育予算の30%
を占有する、ナポレン時代以来の超エリートシステムが、高等教育全般に与えて
いるダメージの深刻さは、エリート主義の導入を急ぐ日本の未来と無縁なもので
はなかろう、と感じた。また、グランドデコール以外の国立大学は、1988年
以降、政府と4年の中期契約を結んで自由に使える予算を手にすることになって
いたことを知らなかった。文部省もかなり詳しくこの制度を研究したそうだが、
この制度について国会でも言及しなかったのは、実施後15年を経過した現在、
種々の問題が表面化しているためではなかろうか。

1. アレゼール日本について

この本全体は、フランスの社会学者ブルデュー(1932--2002)が始めたフラン スの大学改革運動 ARESER = Association de reflection sure les ensegnements superierus et la recherche (高等教育と研究の現在を考える 会)と連帯して,2003.4.6に設立された「アレゼール日本」(高等教育と研究 の現在を考える会、)の設立宣言と考えられる。 ARESER の理念は、本書の後半に訳されている「危機にある大学への診断と緊急 措置」の序文にある次の一節に要約されている。 (以下「・・・」は略した部分を表す。) 無関心からの脱却 p248. 「・・・私たちはたしかに政治の領域にまで踏み込み、少くとも紙 の上では執行機関や立法機関に取って代わり、立法者として振る舞 うつもりである。しかし私たちは、非常に厳格に、私たち自身の問 題とそれを解決するための私たちの武器、つまり研究という武器を もってそこに向う。言いかえれば自律した知識人として行動す る。・・・私たちは、十分に耳を傾けられもせず理解もされない専 門的分析か、あるいは、空しい戦闘的態度かという二者択一を拒否 しながら、ここに新しいタイプの政治的行動を立ち上げようと試み る。個別の研究や集団での討論・検討を通して、教育システムの諸 傾向について獲得することのできた知識を拠り所にしながら、大学 に関与しているすべての人々、学生、教員、職員に対して、集団的 な動員を提案したいと望んでいる。すなわち、私たちが素描する方 針を起点とし、私たちが提案する組織機構(とりわけ「大学議会」) を通じて、入念に作り上げるべき計画への動員、一言でいうならば、 真の教育システムの合理的自主管理である。馬鹿げた野望であろう か。しかしそのように思う人々は、彼らにそう信じ込ませる力(と りわけ慣習の力である)が何なのかを自問してみるべきである。彼 ら自身がそうであるように、一つのシステムの中に組み込まれ、そ れについて思考するためのあらゆる道具を持っている人たちよりも、 官庁、役所、中央行政などの公的機関のほうが、どうして彼らを合 理的に管理するのにふさわしのだろうか。」 次に、アレゼール日本の理念に関連する部分を紹介したい。 1980年代以降の日本の「大学改革」は、大学界内部の種々の不平等構造を 深めつつあるが、アレゼール日本は、これを乗り越えて大学界全体の将来の構 想を関係者が共有することを重視し、「大学関係者が全国のあらゆる大学に共 通して適用可能なルールを文部科学省の姿勢から独立して作り上げること」 (結論 p164)を目指しているように思われる。「競争的環境」にある個々の 大学の改革努力をいくら積みかさねても国家からの大学界の独立性は出現する はずはなく、アレゼール日本の目標は、国公立大学の法人化後には、ますます 重要度を増していくだろう。 また、「保守的な悲観論と素人の理想主義をともに拒みながら、高等教育に絶 望しているすべての人に、あらたな行動を起すための理論的根拠を与えたいと 考えている(p328)」とあるが、「大学界」という言葉を説明する次の一節は、 その理論的根拠の骨格を成す理念を提示していると思われる。 p166 「・・・ブルデューの社会学は根本的に社会の変革の構想と 結びついているが、ブルデューのシャン(界、または場)の概念は、 その中でとりわけ重要な意味を持っている。端的にいって、秩序の 維持と変革の主体的条件を分析しようとするのが、シャンの概念の 意義である。たとえば、『ホモ・アカデミクス』では、大学人が所 属し、作り上げている関係性が、「大学界」の概念によって把握さ れることにより、様々な序列化の論理によって複雑に差異化され、 互いに闘争する大学人を分析の対象とすることが可能になってい る。・・・現在の日本の「大学界」は分断され、自律性や自己動員 力はほとんど失ってしまっている。現在大学人は、「競争的環境」 のもとで「烏合の衆」であることを強いられている。大学人が自己 のありかたを自己の決定のもとにとりもどし、同時に真の意味で社 会的な責任を果していくためには、集団間の先鋭な利害対立や争い が、公共的ルールにもとづいて争点化され、解決されることが可能 な一つの場、すなわち公共空間の再構築として、大学界の再建が構 想されなければならない。」 なお、国家と大学の関係については、従来の切口に捕われていないところが筆者 には印象的であった。 たとえば、藤本一勇氏は「個や私の尊重が大事であればあるほど、主要な調整装 置の一つとしての国家の役割を軽んじることなく、すなわち、国家か個人か、あ るいは国家か市場かではなく、国家を個人に根づいた公共性のための装置として 思考し、利用し、絶えず再構築していく必要がある」(p60)と述べ、国家と 大学の新しい関係を築く可能性に読者の注意を向けている。 また、櫻井陽一氏は「支配者側は、競争が支配秩序を維持・再生産しつつ、その 再生産される秩序を正当化することを期待する。被支配者は、公正な競争を求め、 競争の条件における不平等を告発する。この対立が教育政策に影響を与える水準 に到れば、支配者側自身が教育システムを民主化し、特権維持装置としての教育 システムを破棄していこうとする可能性はあると考え、この可能性の拡大が、運 動の課題としている。」(p55)と述べ、政策立案者の意識改革をもたらすこと を射程に置いている。 もちろん、国家と大学の間にある圧倒的な力と情報の非対称性を考えれば、反国 家でも親国家でもない「非国家」のスタンスを保ち続けることは容易なことでは ないと予想されるが、「左右対決」とは異質の非国家的活力の台頭の一例として、 今後の発展が嘱望される。

2. 大学界の分断、そして、大学教育機会の不平等

大学界内部でも独立行政法人化反対運動が広がらなかったのはなぜか。 これについては、大学界が種々の格差・差別(帝大/地方国大、国大/私大、 常勤/非常勤、理系/文系)によって分断化されていて、法人化に対抗する際 の大学界全体の共通利益というものが見えないからだ、と指摘している(「大 学改革論」批判の視座 p42 )。すでに歴然とした格差・差別が現実にある以 上、独立行政法人化が大学の格差をさらに拡大させるとしても、そのこと自身 は反対運動を拡げる契機にはならなかった、ということであろう。もちろん、 法人化政策が掲げられた当初より、大学・部局・学科・個人等のあらゆるレベ ルに「温度差」があって、独立行政法人化について大学としての統一見解を形 成できないことは指摘されていたが、この本は、この障害の諸相を正確に認識 させる力がある。 大学人の間の不平等に関連して、水島和則氏は次のような趣旨の指摘をしてい る(p105):常勤と非常勤の間にある身分差別体制の批判が、市場原理による 身分制の打破という政策への期待となることがあるが、 競争原理は専任の諸権利を非常勤の水準に引き下げる下方的解決しかもたらさ ない、と。しかし、実際には下方的解決に向けて事が進行し始めている。大学 界内の不平等構造自身が、下方的解決への進行を押しとどめるための力の結集 を困難にしていることは、大学界の悲劇的様相の一つである。 文部科学省や国立大学協会を含めた大学関係者が、事あるごとに表明している 「高等教育予算を日本の経済力に相応しいレベルに上げよ」という要請は、常勤・ 非常勤の間の格差の上方的解決の要請も含んでいるが、実現性が乏しいお経になっ てしまっている。 この、至極当然のような要請は中央省庁では一顧だにされない。その実現を阻 む論理は何か。 一つは1970年代以降、中央省庁でコンセンサスができているらしい「高等 教育受益者負担原則」であろう。この原則は、国民の意見を聞かずに、予算削 減の口実として勝手に財務省が決めた原則で、官僚の横暴の典型と筆者は思っ てきた。 しかし、「社会階層と社会移動SSM」調査と学生生活調査に基づいた研究 (「大学教育機会の不平等」の節参照)によれば、日本の大学進学率が、家庭 の所得水準・親の学歴・職業に強く依存し、大学教育機会が平等であったこと はない、という。この不平等に大学界も文部科学省も無関心であり続ける限り、 財務省の「高等教育受益者負担原則」には広汎な国民的支持があると言えなく もない。 「大学教育機会の不平等」の節では、さらに、地方国立大学が相対的に低所得層 に進学機会を提供していることが明かにされており、地方国立大学の再編縮小を 辞さない最近の大学改革は、教育機会の不平等を拡大するものであると批判され ている。また、同じ節にある、「広く共有された反・大学のムードの根拠は、大 学教育機会の不平等にある」のではないかとの示唆も、ある程度の信憑性がある。 なお、次の指摘も筆者には意外性があった:東大・京大などの旧帝大では学生の 家庭の所得の平均が高いことはしばしば言及されるが、実は、分散も大きく、旧 帝大も教育機会の平あ等化に一定の役割を果していること、また、低所得者に大 学教育機会を提供している私立大学も多いこと。これらの認識が大学政策立案者 に欠如しているとすれば、大学教育機会不平等の拡大が加速する懸念がある。 さらに、1999年度の奨学生数は23万人、年間奨学金総額は634億円であるが、4 年 前より20%ー30% 減少している(p128)という点も、教育機会の不平等を拡大 するものである。 以上のように、大学界全体が、日本社会の停滞の根にあると思われる教育機会 の不平等問題を失念し、その不平等を拡大する副作用を持つ改革に熱心である ことは、大学の社会的支持基盤の縮小を加速するだけでなく、日本社会の衰退 を加速するものであろう。早急に、大学政策の中心に、大学教育機会の不平等 の解消を据え、奨学金を拡充させるとともに、低所得家庭の子女を多く受けい れている国公私立大学を評価して資源配分に反映させるというアレゼール日本 の提言(p80 提言2)を含め、種々の方策の実現の検討を始めることが望まれ る。

3. 抜粋

最後に、筆者には啓発的であった部分のいくつかを抜粋したい。 ■マニフェスト 2003.4 東京 p1 「・・・大学の自律性、そしてそれによって保障される研究、さらにその研究 に基いて可能となる教育が危機にあるときに、すでに特権をもっている専任教 員の無関心は致命的であり、危機をもたらしている改革に共犯として機能する のではないか。 大学界におけるこうした情況に断絶をもたらすために、私たちはフランスの 「アレゼール」と連帯した運動を起こすことにした。「アレゼール」とは、 1992年にパリで創設された、おもに、人文・社会科学系の大学教員からなる自 主団体である。彼らは、けっして孤立と分断に陥るのではなく、知的連帯の道 を探るという立場から、フランスの理念というより、むしろ、19世紀初めの ドイツで形成された、現在にも通じる大学の理念を護ろうとしている。つま り・・・「学生を学問に目覚めさせる」ための大学、言いかえるなら、こまぎ れの知識を授けるのではなく、それらを統合できる批判的精神を育むための大 学である。・・・ 「アレゼール」の主要な問いかけは、いかにしたら「知の自律性」、「視点の 複数性」、「最大多数に開かれた高等教育」という理想を損なうことなしに、 <ヨーロッパの大学>を実現できるかということである。これはとりもなおさ ず、世界各国の官僚がおし進めるアングロ・サクソン・モデルによる大学の 「グローバル化」や、蔓延するペシミズム(「廃墟のなかの大学」)、さらに はポスト・モダンのさまざまな意匠(「第三世代の大学」「グローカル・ユニ バーシティ」など)に対する、根源からの批判となる。・・・」 ■大学改革の現在 p27(隠岐さや香) 「・・・ 「卓越」は専ら、かつて暗黙の了解という次元に留まっていたヒエ ラルヒーに名を与えて正当化し、固定化することに貢献している。その結果、 経済的強者の中で正の循環サイクルが生じ、その環から外れたものは消えてい くことになる。これは長期的な視野をもたずに既存の価値観を再生産し続ける だけで、当面のあいだ高い経済効果が得られるという可能性を示唆している。 ・・・」 ■日本型「評価」定着の困難--過熱する大学教員の競争は制御可能か? p32 (大前敦巳) 「社会貢献度」、「産業貢献度」という指標によって求められるのは、経済界 や政府との自立した連携であるが、現実には資金獲得のために従属に流れる危 険性は大いにある。着実な研究業績によってではなく、時流に迎合して「要領 よく」予算を獲得することを、暗黙の了解にするような圧力が働いている。し かし、外部資金の多寡によって、従来のピア・レビューによる評価が軽視され ることがあってはならない。資金面による管理統制が進めば、教育研究の画一 化と形骸化を免れることはできない。「改革」の掛け声の下で野放図になって いる、なりふり構わぬ競争主義と要領主義の跋扈をいかに制御し、乗り越えて いくことができるかという点に、日本型「評価」を定着に導くための正否がか かっていると考える。」 ■「大学改革論」批判の視座 p38 (櫻井陽一) 「ほとんどの「改革論」は、一方ではエリート主義的な教育、あるいは研究に おけるエクセレンスを、グローバルな競争的環境におかれるべきもの、また、 その競争的環境の中で生き残るべきものとして維持・強化することを望んでい る。しかし他方で、「大衆化」への適応という名の下に、あるいは場合によっ ては、「新たな教育の受け手の要求に応じる」というポピュリズム的な表現さ え用いつつ、大学教育という名の下に、これまでの大学教育とは異なるものを、 「新たな受け手たち」に対して提供しようとしている。これは、高等教育シス テムのかつての状態においては、システムの外部へと排除されてきた人々と、 形式的にはシステムの内部に包摂しつつ(多様化の名の下に)教育の内容ある いはその目的において格差をつけ、内部において排除しようとし続けることに 他ならない。それゆえ、このような改革の方向性において排除されている可能 性は、特権として囲い込まれていた知識を広範な人々に解放していき、他方で は、そのような広範な人々が 関わっていくことによって、学問と大学が変革 されていくという可能性なのである。」 ■あらゆる人々のための大学改革、新たな高等教育の理念を求めて p 57 (櫻井陽一) 「アメリカの経済的・政治的・軍事的な優位性が、世界的な市場の中での人の 移動の方向性を規定する前提条件となっている以上、アメリカに向う世界中か らの学生の流れを押しとどめることはできない。アメリカの大学は、国際的な 市場において、まさに大学がアメリカ合衆国内に存在しているという事実その ものを一つの資本としうるという決定的に有利な立場にある。・・・格差、構 造化された暴力を前提としたグローバルな市場における競争は、さまざまな、 文化的伝統、地域、「国民」のあいだにおける差異を、経済的、政治的、軍事 的にヘゲモニーをもつ勢力を頂点に一元的に序列化し、押しつけることに帰結 する。・・・さまざまな領域での「国際標準化」の試みは、この点から批判的 に分析する必要があるだろう。」 ■大学をめぐるメディア言説 p61(藤本一男) 「大衆に最も近い公共性の場としてのメディアが、大学というこれまた公共 的な場(すなわち、社会や国家のなかにありながらも、そこに取り込まれるこ となく、外部的視野からその枠組を客観化し批判的再構築に寄与する場)と、 立場やあり方は違えど同じ公共空間として互いに刺激しあい、建設的な批判を 行ないあう関係を構築することこそ大切であり、それこそが真の公共圏の形成 につながるだろう。いま必要なのは、一方で、大学を国家主義的管理の場や私 企業的存在へと矮小化することなく真に公共性の場として思考し機能させるよ うなメディア側からの介入と、他方で、国家あるいは市場への自己の特権的関 係に充足しないいような、そして大衆への接続回路の重要な契機であるメディ アと批判的連帯の関係をつねに維持するような大学側の自己開放=自己応答責 任の開拓ではないだろうか。」 ■授業料の推移 p82 (白鳥義彦) 「・・・ここでは統計的な資料で示すことはできないが、大学に入学した後で も、金銭的な家庭の事情等で退学や休学を余儀なくされている学生は確かに存 在しており、勤務先の大学というごく小さな身近な範囲でもこうした学生に出 会うことがある。また、大学に入学する以前において、金銭的なことを理由に、 進学を諦める学生、生徒も存在しているであろう。・・・」 ■大学間格差 p96 (水島和則) 「米澤らの分析では、学生一人あがりの消費支出では国立大学の分布と私立大 学の分布とが重なり合っていて、国立/私立といった設置者の違いは、大学の 経済的な教育条件を示す指標として十分なものではなくなっているのである。 したがって、「国立大と私立大の格差を解消する」といった粗雑な問題設定は 現実から乖離しており、大学改革の指針とならないことは明らかである。むし ろ先の非常勤講師の例でいたように、格差の歪みによって誰がしわ寄せを受け ているのかを明確にすることこそ大きな課題である。」 ■大学人の不平等 p102(藤本一男) 「専業非常勤講師問題と並んで、日本の大学政策の矛盾が顕著に現れている のが、大学院生(とりわけ後期博士課程およびオーヴァードクター)問題であ る。1980年代に準備され1991年から推進された大学院重点化方針の結 果、大学院生の数はこの10年で倍増したが経済合理化政策の同時的導入で教 員ポストの量自体は縮減されている。つまり大学教員市場の需給バランスが完 全に崩壊しているのだが、この国家レベルの失策を文部科学省や経済産業省は 認識していない。」 ■大学人の不平等 p104(藤本一男) 「以上のような苦労のゴールにあると期待されている専任教員の現状がどうか と言えば、これまた市場圧力によるさまざまな困難に直面している。任期制導 入、教職員削減と改革業務による労働強化(教育・研究への足枷)、トップダ ウン方式による人事権・自治権の弱体化および剥奪(教授会、教室などの中間 集団の弱体化・崩壊)、学生評価・外部評価の導入による教育・研究への近視 眼的業績圧力、大学院重点化がもたらす指導学生の過剰、大学院教授昇格にま つわる大学間格差ーーその他、学問の自由の「理念」を脅かす数多くの問題が 山積みであるが、枝葉末節をあえて暴力的に捨象し、その根幹的問題だけを抽 出すれば、そこに見られるのは、新自由主義へと傾斜した政官財癒着構造が押 し付ける、公正な競争とは程遠い不平等競争、安上り教育研究政策であり、さ らにその「安上り不平等政策」を糊塗する市場合理性と評価性と不均衡な説明 責任(中下層の人々には説明責任を義務つけながらも、その義務を課す上層部 は説明責任を実践しない)などの新自由主義的イデオロギーである。また、こ のイデオロギーは、上述してきた大学空間を構成する各階層のルサンチマンの リアリティを原動力にもち、各大学人の意識下レベルで分断統治のヘゲモニー を起動させるだけになおさら始末におえない。」 ■研究者養成に絡む諸矛盾 p112 (中村征樹) 「長期的な視野と展望を欠落した、場当り的な高等教育政策の 一番の犠牲者となっているのが、若手研究者、あるいは研究者予備 軍の人々である。日本の高等教育システムは、彼らに矛盾を一元的 に押し付けることによって成立している。」 ■研究者養成に絡む諸矛盾 p121 (中村征樹) 「そのような政策のなかでも、非常に優秀なポスドクを対象に「助教授なみ」 の待遇を提供するものとして2003年度から設置されることになった「スーパー 特別研究員制度」(研究奨励金月46万8千円、研究費年間300万円以内)は、 問題の所在を根本的に見誤っているというほかない。その恩恵を蒙るとができる のは、新規採用者でわずか12名に過ぎない。しかしむしろ目指されるべきは、 そのようなかたちでごく少数の人々に格別の研究環境を提供するとよりも、支給 額を多少、圧縮するとしても、より多くの人々がその恩恵をこうむることができ るような制度を構築することではないだろうか。・・・競争とは、わずか6%の人 だけが恩恵を蒙れるのではなくして、せいぜい3〜5倍程度の競争率でより到達 可能な目標として設定されている場合にこそ、その効力を発揮する」 ■職業専門教育への傾斜と就職問題 p156 (大前敦己) 提言「大学教育は、一元的な市場原理に委ねた企業側の経済要求に従属する 「改革」を受け入れるのでなく、より高度で成熟した多元的価値の尊重に基づ く民主社会形成を目指して、「知識」を基盤とする対話を可能にする中心的役 割を担うこと。そうした対話を通じて自立した思考力を持つ個人を育てること により、大学はもとより企業や社会も刷新していくことができる場を整備する 必要がある。従来型の「会社人間」ではなく、角は立つが真に個性的で創造的 な人材が求められるようになれば、大学教育への期待はいっそう増すであろう し、学生のモーティベーションも見違えるほと高まるであろう。これが建前に 終始したまま、もっぱら需給関係に頼る市場主義に移行することほど最悪の選 択はない。」 ■生涯学習 p160 (藤本一勇) 「生涯学習概念の多様化は市民社会の成熟にとって重要である。大学はみずから をも含めた一部の業界利益に内向・閉鎖することなく、外部の市民社会との接点 と境界で絶えずみずからの存在理由を再確認しなければならない。産学連携やリ カレント教育だけに特化した大学はもはや大学ではなく、研究所や専門学校であ る。むろん、それらの政策的、経済的機能の一翼を担うことも大学の役割の一つ であろう。しかし、もし大学が大学たろうとするならば、それ以外の社会関係資 本や文化資本上の役割、あるいは、理念的公共空間としての役割を放棄してはな らないのではなかろうか。前者のために後者を縮小したり抹消するのではなく、 両者をともに確立・発展させてゆくことこそが、大学本来の機能であろう。生涯 学習もそのような多角的な観点から大学空間の公共性の問題として理解され、実 際的、個別的に展開されてゆく必要があると思われる。」 ■あとがき p338 (岡山 茂) 学界が抱えるさまざまな問題について議論をした。そして官僚と結んでいまの ばらばらな大学界を牛耳っている「ビッグ・ブラザー」に対抗できるような、 真の意味で自律した大学界を創造するにはどうすればよいかを議論した。そし ていま、この「アレゼール日本」を広く社会に向けて開かれた運動としていく ために、出会いの環をさらに拡げていくことを考えている。大学関係者、つま り教員、職員、学生、その父母ばかりでなく、本書を、文部科学省の方々にも 読んでいただけたら幸いである。・・・2003年3月26日」

結語

日本における高等教育研究は、教育行政の視点からのものが多く、たとえば、市 川昭午著「高等教育の変貌と財政」(玉川大学出版 ISBN: 447240141X ; 2000/03)は、高等教育政策にかんする主要テーマの論点を整理しているが、政 府内部で行なわれてきた議論を整理したものであるかのような印象を受ける。も しも、実際にそうであるならば、現行の大学政策について、すぐに思いつくよう な批判や提言は、政府内部の議論ではすでに論破されていることになっていて影 響を与え得ないであろう。たとえば、大学教育機会の不平等の是正のための諸政 策は、政府内部、特に財務省内では、単に所得再配分政策として検討され、他の 所得再配分の手段と比較されて退けられていることが推測される。憲法の規定と は違って、行政が大半の政策を実質的に決めている日本では、中央省庁内部での 議論のパターンを変えることも重要であり、実証的な検証を重視し大学の現状を 正確な認識を最優先する高等教育研究グループとしてのアレゼール日本の出現は、 大学行政への良質の効果的影響力を及ぼしていくことが期待される。 所で、もしもこの本が数年早く出版されていれば、大学関係者が大学界内部の矛 盾を正確に認識し、それを視野に入れた現実的な対案を、国立大学独立行政法人 化政策に対し構想し得て、賛同者や共感者を大学界内外に拡げることができ、異 なる流れとなったかも知れない、と感じた者は筆者だけであろうか。しかし、良 きことに遅すぎるということはないだろう。アレゼール日本のような、大学界の 特性を活かした動きが芽生え成長し広がっていくことが、日本の大学界が国家や 社会から内面的に自立していくプロセスそのものではなかろうか。 なお、この本は、大学界を真に良くする大学政策の立案や評価には、大学界の現 状の正確な認識が不可欠であることを例示している。日本の大学界は激動期に突 入し、今後10年〜20年にどのような種類のことが起きるか予想がつかない。 社会学的・財政的記録(人の異動・組織の改廃・資源の配分等)が広範に詳細に 継時的に行われ、科学的政策評価がリアルタイムに進行し、大学界崩壊の兆しが 明確になった場合に、迅速な軌道修正を社会に説得力をもって訴えることができ るような体制を構築していることが必要であろう。アレゼール日本は、そのよう な動きを先導するものとなることが望まれる。 とは言っても、専門以外のことには余り関心を持ってこなかった筆者には、この 本を貫く思想的な高みや社会学的視力について感嘆を抱く以上のことができない。 アレゼール日本に、一市民として声援は送れても、大学界の住人として何ができ るのか、という難問が筆者の中に未解決なまま残っている。 なお、アレゼール日本と、意図において共通するところがある、Academia e-Network の構想(http://ac-net.org)が主として理工系の者の間で3年前よ りある。いわば、大学界という概念を実体あるものとする「シャン」を現実にす るための社会情報構造の構築、といったタイプの視点を越えることは、少くとも 筆者の中では困難であるが、同じ意図を持つ者が、種々のアプローチを試みるこ と自身に積極的な意義がある、と考えたい。(2003年8月26日)

アレゼール日本(高等教育と研究の現在を考える会)編
   「大学界改造要綱」藤原書店 2003年4月刊 
   ISBN 4-89434-333-9, 本体3300円
   http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book433.htm