受取日時:Mon, 05 Nov 2001 12:22:59 +0900
発信者:服部 昭仁
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保存場所:http://www.ac-net.org/home/hokudai/doc/
Subject: 中間報告についてのパブリックコメント
To: hu-members
北海道大学構成員各位
独立行政法人化問題を考える
北海道大学ネットワーク世話人
中間報告について大学関係者から多数のパブリックコメントが出されました。
国立大学協会・理学部長会議・農学系学部長会議の他、部局や全学的委員会な
どの公的な団体から、全国的な研究者団体、院生団体、大学・共同利用機関の
教職員団体、非常勤教員からの声、また個人の意見等、多数の意見表明があり
ました。公表されオンライン化されている45通のアドレスを以下紹介します
*2。
国立大学協会の意見書については、東京新聞「法人化案を受け入れ/教職員
身分『非公務員』に理解 」、NHK 「法人化おおむね評価」と報じた以外は、
共同通信「国の教育支出削減の恐れ国大 協、法人化案を懸念 」、朝日新聞
「国大協法人化案に批判の意見書 」、北海道新聞「国立大学協会独立法人化
案の改善求め意見書 」など、意見書の内容に忠実な報道がされています*1。
この意見書は、設置形態検討特別委員会の専門委員連絡会議が作成したもの
で、10月中旬に北大評議会で配付された理事会WGの意見書案とは全く異る
ものです。後者案には、昨年6月の国立大学協会総会合意事項の第四項を尊重
した「日本の高等教育の将来を議論し、文部科学省に提言・勧告する機関の設
置」という要求が含まれていただけに、パブリックコメントとならなかったこ
とは実に残念ですが、今後これを別途、文部科学省に提出する予定とも聞いて
います。北大からも、そういう働きかけがあることを願っています。
最後に、北大からの4通の意見書を添付しました*3。
*1 報道内容
NHK10/30:
共同通信10/29:http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nethe2786.html
朝日新聞10/30:http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nethe2787.html
東京新聞10/30:http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nethe2788.html
北海道新聞10/30:http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/01/a30-doushin.html
*2 パブリックコメント
http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/01/a29-pcomments-list.html
(・・・・以下転載時に略・・・・)
*3 意見表明
(1)独立行政法人化問題を考える北海道大学ネットワークの意見
(2)北海道大学教職員組合の意見
(3)渡邉信久氏の意見
(4)辻下 徹氏の意見
(1)独立行政法人化問題を考える北海道大学ネットワーク
http://www.ac-net.org/home/hokudai/doc/01a29-hunet-pcomment.shtml
(・・・・本文転載時に略・・・・)
(2)北海道大学教職員組合
http://ha4.seikyou.ne.jp/home/kumiai/htm/comment.pdf
1 このコメントの基本的な考え方
「新しい『国立大学法人』像について(中間報告)」(以下では「中間報告」
と呼ぶ)の最大の問題点は、「大学の理念」「国立大学の使命」を何も検討す
ることなく、「産官学連携」を唱えていることである。しかし、この点につい
ては、他の教職員組合を含む大学関係者からコメントがあると思われるので、
我々は、大学関係者として日々の教育研究活動と社会活動に関わって来た経験
から、中間報告に対する2つの疑問と1つの要望を述べたい。
疑問の1つは、中間報告が、大学運営ばかりに目を奪われ現場の教育研究組
織に注意を払っていないこと、もう1つは、日本社会の様々なアンバランスを
放置したままで競争原理・市場原理を導入しようとしていることであり、要望
は、大学評価機関のあり方に関する。
2 いま必要なのは、管理運営の権限拡大ではなくて、教育研究組織の主体性
である
中間報告は、大学の「管理運営」に注意を集中しながら、教育研究のあり方
を何も検討していない。管理運営の強化のために、学長の権限を拡大し、また、
事務組織については、教育研究組織の一部である面を軽視して、「学長以下の
役員を直接支える大学運営の専門職能集団」にしようとしている。これは、中
間報告が、研究教育の現場に対する不信から出発し、また、その「科学技術創
造立国政策」が狭いからであろう。しかし、大学の基本的活動は管理運営では
なくて教育研究である。そして、教育研究活動の改善は、その管理運営に「民
間的経営手法」を導入すれば済むものではない。いま必要なのは、大学運営の
合理化とともに、教育研究活動とその組織の充実・改善であり、事務組織でい
えば、学生と教官の日常の教育研究活動を支える十分な数のプロの支援者集団
を形成することである。
中間報告は、上記のように専ら「管理運営」を問題としたうえで、学長中心
の運営体制、学長への権限集中を主張する。そして、学長が役員のみならず部
局長までも任免するとしている。しかし、中間報告が、現行制度にもない学長
解任権を文部科学大臣に与えているのは、このような学長への過度の権限集中
の危険性を自ら認めているからであろう。学長に権限を集中した場合の弊害は
外国でもわが国でもしばしば見られるのであり、このような権限集中は大いに
疑問である。
中間報告は、学長へ権限を集中させる一方で、学部・学科というこれまでの
研究・教育の現場共同体を弱体化しようとしている。すなわち、教授会の決定
権限を「新に教育研究に関する重要事項に精選」し、学科以下の組織を各大学
が――ということは、学長を中心とした大学執行部が――、改廃できるとする。
また、教員の選考では、人事の客観性・透明性のためとして公募制、選考基準
の公開を、流動化のためとして任期制の導入を説き、さらに、教官人事に大学
全体の人事方針、学内外の意見を反映させるべきだとしている。結局、学部・
学科は、縦の関係では大学執行部の権限拡大によって、横の関係では競争と外
部の介入によって解体される。しかし、大学の教育研究は学部・学科という現
場共同体によって支えられてきた。それに代わるものを示すことなくそれを弱
体化することは、大学の基本的機能を麻痺させるものである。10年近く前にわ
が国の多くの国立大学では、人事交流等々を名目に教養部を解体したが、これ
が初年時教育の責任主体を弱体化したために、今その見直しが進められている。
このことを、中間報告は一体どのように認識しているのであろうか。また、教
授会の決定権限を教務事項に限定することは、学長選考過程への教員参加の制
限と相まって、大学教員を大学運営に無関心にし、結局は大学の活性化を阻害
するであろう。実際、ヨーロッパの多くの大学だけでなく、アメリカでも比較
的小規模の州立大学では、教員が大学運営に関与することを要請されているの
である。教授会の決定権限を教務事項に限定することには、もっと慎重でなけ
ればならない。
「大学の自治」の重要な意味の1つとして、教育研究の現場共同体の主体性
の尊重があると考えるが、それを無視する改革は数年のうちに破綻するであろ
う。
3 競争の条件を整備しない限り、日本社会の歪みをひどくするだけである
中間報告の改革は、大方の観察によれば、地方の大学の低落を促すものであ
る。一方で、任期制の導入や給与への業績評価の反映などによって教員の流動
性を高めながら、他方で、定員管理がなくなり、給与が各大学への運営費交付
金から払われるようになれば、高い給与を払うことができない地方からは優れ
た教員職員が離れて行くことは容易に想像できる。
今日の大学間不平等は、大学自体の責任ではなくて各大学の置かれた諸条件
の違いと、それを理由とする文部科学行政に起因する。その背景には、戦前以
来の大学政策と、戦後高度成長期以降の国土政策がある。そして、東大を頂点
とする大学のピラミッドと、未だに地方分権が確立していない極度の一極集中
の下では、大学が提供するサービスを市場化しても歪んだ競争・歪んだ市場に
しかならず、そして、擬似的な競争は大学関係者の意欲を失わせ、教育研究を
荒廃させ、他方で、地方のさらなる疲弊とますますの一極集中を押し進めるだ
けである。このようなものを「改革」と呼ぶことはできない。
問題の大半は、大学問題というよりも経済政策、国土政策の問題であるから、
調査検討会議が論ずべき問題でないと考えたのかも知れない。しかし、そうで
あれば、軽々に「産官学連携」という経済産業政策を提言すべきではない。中
間報告は、基礎にした経済政策、国土政策を示さないだけでなく、問題の本質
を認識しているとすら感じられないのである。
4 第三者評価・外部評価の公正・独立性・多様性を確保すべきである
3に述べたことは、中間報告が各国立大学の置かれている状況の違いを無視
して、1つのモデルに合わせようとしているからであるが、同じ問題が中間報
告の提言する第三者評価についても見られる。
評価の公正が確保されねばならないことは言うまでもない。公正であること
を前提として、3つの点を指摘したい。
1つは、評価者の見識である。評価者は、大学の活動について正確な認識を
持つていることが不可欠である。というのは、既に大学の共同利用施設では外
部評価が行われているが、施設の実態を知らない評価委員が思い付き的な意見
を述べたために混乱が生じ、研究活動の障害になった例が少なくないので、強
調しておきたい。
2番目は、評価機関の独立性である。「大学評価委員会」は文部科学省の中
に置かれ、その評価を予算に反映させるとしているが、文部科学省から独立し
た機関とすべきである。
3番目は、評価の多様性である。外部評価には多様性がなければならない。
例えば、これまでの種々の審議会・委員会の大学外「有識者」が東京など大都
市の在住者に限られていることからは、地方の意見を無視した一面的な「外部
評価」になるおそれがあることである。これとの関連で、中期計画の目標は
「数値的な」ものが考えられているが、中間報告が説く大学の「自主性・自律
性」のためには、統一的・画一的な基準は参考資料に留めるべきである。また、
評価が多様であることから、評価結果はいわゆる資源配分に反映させるべきで
ない。
(3)北海道大学・渡邉信久
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/netre3815.html
「中間報告の内容に対する具体的かつ詳細な分析とコメントは多数寄せられて
いると思いますので,私は少し違った視点からのコメントをしておきたいと思
います.
「中間報告」は大学の評価にも踏み込む議論をしています.評価法の説得力
のある具体案は何も無いですが.しかし,中間報告の案にもとづく「改革」後
の大学が10年後,20年後にどういう状況になってしまっているのかに対して,
調査検討会議自身はどのような「評価」を受ける覚悟があり,どういう責任の
とり方をしようというのか全く不明です.このままではこの「改革」の結果責
任は制度設計をした調査検討会議にではなく大学に押し付けられてしまうこと
になるのではないでしょうか.おそらく大学人の多くは,決してこの「改革」
案に賛成していないにも関わらずです.委員の年齢構成からして,結果責任を
想像することすら困難なのかもしれませんが,無責任な議論を避けるために,
調査検討会議の大学「改革」に対する責任のとり方,最低でも調査検討会議に
対する評価の仕組みを調査検討会議自ら同時に作成しておくべきだと考えます.
現在大学に対しては,憲法に保証されている学問の自由にもとづく大学の自
治が「なんでも勝手にやってよい」ということなのではないのだ,という批判
が浴びせられています.この際,同様の批判を調査検討会議も意識すべきでは
ないでしょうか.調査検討会議の大学改革は無責任な「なんでも勝手」になっ
ていないでしょうか.わずか一ヶ月間のパブリックコメント受付で終わるので
はなく,例えば中間報告をユネスコをはじめ,大学改革や大学評価に経験を有
する欧米諸国の「専門家」や「有識者」に「第三者評価」してもらうくらいの
ことは可能だと思いますがいかがでしょうか.その「評価」を待つ間,「改革」
のスタートがほんのちょっと遅れるだけです.
ところで,中間報告には,例えば役員への女性の登用に関するような記述も
見られます.男女機会均等の重要性は当然のことであると思いますが,大学の
制度設計をしようとするような「中間報告」にわざわざ記載すべき事項である
とは思えません.ましてや大学が法人化後の中期数値目標とするようなことが
らであるとはとうてい考えられません.このような議論は,委員の「良心にも
とづく思い付き」をただ記したのではないかと批判されても仕方ないのではな
いでしょうか.これは,委員の「専門家」「有識者」としての資質にも疑問を
持たせるものです.幸いなことに,このような「中間報告」は,大学が学外者
の役員を登用した際に役員会で起こるであろう議論を予測させてくれます.大
学の現場の状況を無視した,役員の単純な良心にもとづく意見ほどやっかいな
ものはないように思います.
報道によると,小泉首相は「米百俵」の精神にいたく感動されているそうで
す.調査検討会議も,「改革」と称して大学の「役に立たない部分」を削って
いるつもりが,結局は大学全体を削ってしまっていることに気がつくべきだと
思います.」
(4)北海道大学・辻下 徹
http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/01/a29-tjst-comment.html
「序:
「国立大学法人」化は格段の意義を要する
中間報告の序文にも明記されているように、調査検討会議の使命は、独立行
政法人制度を利用して国立大学にとって意義のある法人化を実現できるかを吟
味することであった。確かに、大学の機能を損なう欠点を修正するだけでは全
く無意味であり、格段の積極的意義がなければ、制度変更に膨大な大学の諸資
源を費やし、日本の高等教育と学術研究を長期間混乱させ停滞さかねない法人
化を正当化することはできないだろう。
1.不毛な「大学改革」を繰り返してはいけない
大学審議会答申を受けて1990年代に進行した「大学改革」、特に設置
基準の大 綱化と大学院重点化、に対応するために、国立大学の教育・研究現
場の全域が行政的活動に忙殺された。しかし、それが一段落したいま冷静に見
わたすとき、労力に値する実質的成果は見いだしがたく、むしろ「大学改革」
は、高等教育予算の大学間格差増大、居場所のない大学院生の増大、若手研究
者の就職難、全学教育の弱体化等々、国立大学の全体に深刻な歪みを発生させ
た。これらの歪みの是正問題は、大学社会の重い負担となっているだけでなく、
苦い「大学改革」経験全体が、大学社会の志気を低めた。
政官の都合で浮上した「国立大学法人化政策」を「大学改革」の機会として
活用せよと言われても、派手な「大学改革」の不毛さを身にしみて体験した教
育と研究の現場は、強い嫌悪感と不信感に襲われるだけで、諦念、あるいは決
意した無関心以外の反応を見いだすことは難しい。
「国立大学法人」化は不毛な「大学改革」と本質的に違うところがあるの
だろうか。
2.「国立大学法人」にポジティブな意義は認められない
中間報告の内容の大半は、独立行政法人通則法と整合的な組織設計で占めら
れている。文部科学省のレジュメでは、独立行政法人との相違点として、(1)
「学外役員制度」など学外者の運営参画を制度化(2)客観的で信頼性の高い
独自の評価システムを導入(3)学長選考や目標設定で大学の特性・自主性を
考慮の3点が挙げられている。大学にとって「国立大学法人」化に意義がある
とすれば、独立行政法人との相違点の中に、それを探さなければならないはず
である、なぜならば、教育・研究にとって有害な不安定性を構造的に持つ独立
行政法人制度は大学にとってポジティブな意義を持ちようがないからである。
ところが、相違点(1)は、「社会」の要望を大学運営に確実に反映させる
こと以外の目的があるとは思えない。確かに、大学を活性化させる契機ともな
る社会との接触の機会が乏しかったことは日本の大学の欠点であった。しかし、
大学を社会に隷属させるようなことをすれば、大学は十全には機能しなくなる
ことは自明のことで、社会と大学の接触そのものも意味を失っていくであろう。
相違点(2)は、独立行政法人の欠陥を修正しようとするものに過ぎない。
しかも、修正の効果は極めて疑わしい。大学教育や学術研究のような「遅効性
効果」を重視する活動に対して、資源配分に直結できる適切なリアルタイム評
価システムは発見されていないし、原理的に考えても発見できるとは思えない。
存在もせず発見も危ぶまれる「客観的で信頼性の高い評価システム」を導入し
なければまともに機能しない「国立大学法人」は、設計段階から独立行政法人
と同様の致命的な欠陥を内包している。
相違点(3)も、独立行政法人の欠陥の修正を目的とするだけである。し
かも、学 長選考では学外者の意見を多様に反映させるシステムが盛り込まれ
ており、目標設定でも最終的には文部科学大臣が策定することになっており、
どこに大学の特性や自主性が考慮されているのか理解に苦しむ。
以上のように、中間報告における独立行政法人の修正点は、欠陥の是正を目
的とするもの、あるいは、学外からの大学制御手段を整備することを目的とす
るものに限られており、法人化を大学自身にとって意義あるものにすることを
目的とした修正を見つけることができない。
さらに悪いことに、財政削減を容易にする財務的構造を持つ点では、独立
行政法人 と国立大学法人との違いはない。実際、今月の10日に開催された
「財務省 財政制度等審議会 財政制度分科会 歳出合理化部会及び財政構造
改革部会第3回合同部会」において、財務的には独立行政法人と国立大学法人
との違いはない、という財務省の見解が述べられているだけでなく、「国立大
学法人化」を、あくまで高等教育予算削減のために活用しようとする財務省の
決意が示されている。
3.「国立大学法人」化の大学社会への影響
中間報告の描く以上のような「国立大学法人」に国立大学を移行させれば、
どうなるだろうか。有害無益な法人化のための膨大な行政的雑事に翻弄されて
大学社会の活力と志気がさらに衰えるだろう。大学関係の国家予算が全体とし
て大幅に縮小されるであろう。大学構成員の自律的な活動に無数の掣肘が加え
られるようになり、内発的な創意工夫を産みだす落ち着いた情熱は教育と研究
の現場から失われていくだろう。こうして、日本の大学システム全体が地盤沈
下し、重点投資されるであろう少数の大学も、それから逃れることは難しいで
あろう。
4.日本社会が必要としている大学改革
日本社会がいま必要としている大学改革は、大学を国や企業や大学経営者に
とって扱いやすい大学に作り変えることではない。大学で学ぶ学生、大学で教
育と研究に携わる者の意欲を高めることであり、教育基本法に明記されている
ように、国民全体に対して直接に責任を負った教育が大学で行われるようにす
ることである。
そのためには、国家予算配分の役割を利用した行政指導により大学の自発性
と自律性が抑えられている状況を打破することが急務である。たとえば、国民
的議論を喚起して「高等教育予算法」を超党派で立法し、国公私立の大学全体
に財政的な余裕を与えることができれば理想的であろう。あるいは、欧米諸国
で多く行なわれているように、大学予算配分作業を行政から独立させることな
ども有効であろう。
こういった施策が行われれば、大学は、真の自律性を獲得し、独自の知見と
知的資源を活かして国民全体に対する直接的な責任を果たすことができるよう
になるだけでなく、国公私の大学全体が、財政的な余裕を背景として、喜びの
ある競争を展開し互いに刺激しあって、各大学の独自の個性を伸ばし進化し続
け、大学社会が百花繚乱の野となって活性化するに違いない。また、高等教育
費が下がることにより小子化にも歯止めがかかるようになり、日本社会は再び
未来に希望を持ちはじめ、真の活気を持つようになるだろう。
結語 「国立大学の独立行政法人化は不可能」を結論として頂きたい
中間報告が描く「国立大学法人」化は日本社会が必要としている大学改革と
は方向が逆である。この中間報告の内容を見れば、独立行政法人制度を利用し
て大学自身を良くすることは不可能であることが証明されているだけでなく、
大学の機能を損なう独立行政法人の欠陥の修正不可能性も証明されている。
「国立大学の独立行政法人化は不可能である」を最終報告の結論として頂き
たい。」
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