藤田正一

獣医学研究科

■I. 国立大学の独立行政法人化について

【I-1】 国立大学の独立行政法人化問題は、国立大学の将来を規定する極めて重要 な問題です。本来、設置形態のあり方は大学が自ら考えて自ら追究していくべきと思 われますが、現在の状況は必ずしもそのようになっていないようです。この点に関し て、どのようにお考えでしょうか。 この設問と直接には関係ありませんが、まず、このようなアンケートを企画して下さっ た北大ネットの皆様に、敬意を表します。この趣旨に総長候補および部局長の皆さん が同意して答えて下されば、候補者の見識を見極めて投票することが可能になり、大 学らしい選挙が可能になります。 さて、本題です。  大学の社会的役割・責任に2つの側面があるとおもいます。大学は、(1)教育研 究の場であると同時に、(2)国との関係に於いては、専門的立場から、自由に政策 や国の進む方向について吟味し、批判し、先見性を持って提言することができる組織 体であることが健全な民主主義社会の構築と運営には必要です。大学がこれらの役割 を十分に発揮できるためには、「学問の自由」が保証されなければならないし、また、 大学が、国権に左右されないだけの独立性(「学の独立」)を保つ必要があります。  大学の社会的役割を理想に近いかたちで発揮できる設置形態はどのような設置形態 なのであろうか。国の政策執行を効率的に行うための独立行政法人がその形態である ことはあり得ない。なぜなら、この形態では、後で述べるような理由で、「学問の自 由」が保証されないばかりか、大学の国権からの独立性など望むべくもないからです。  大学の設置形態のあり方は、大学が社会に果たす役割を十分考慮した上で、大学人 が市民有識者の意見を聴きつつ検討して決定するべきものでしょう。「大学自ら」と 言うと、大学の構成員である教員、職員、学生と考えてよろしいでしょうか。大学の 社会的役割を考慮すると、「あり方」の検討には、これら構成員に加え、市民の参加 が必要であると考えます。意見を伺った上で、最終決定は、その組織を主体的に運営 する大学自らが決定すべきでしょう。 【I-2】 独立行政法人化の諸問題についてのお考えを是非お聞かせ下さい。大学改 革にとっての大学法人化の得失、国立大学協会・北大が各々取るべき方針、 最終的 な決断の方法、等々を含めてお答え下さい。 この問題について私は何度かネットを通じて発言してきました。今改めて、インター ネットを検索してみますと、北大の先生方の発言が極めて少ないことが気になります。 大学のあり方の根幹に関わるような重要な事柄については、積極的に意見を述べ、論 議を尽くすべきでしょう。損得勘定と保身に走らず、正論を述べるのが北大の伝統と 思います。 独立行政法人化の諸問題  独立行政法人化の構想は、大学における教育研究を向上させるために考えだされた ものでも、国と大学の健全な関係を確保するために考え出されたものでもありません。 これまで進められてきた大学改革によっても、多くの国立大学で実施された大学の自 己点検評価の過程でも、独立行政法人化への移行の必要性はまったく提案されて来ま せんでした。大学の独立行政法人化構想は国の国家公務員定員削減の隠れみのとして 考えだされたものであるということは既に周知の事実です。国立大学は、「定員削減 を呑むか、独立行政法人化を呑むか」と言う選択を迫られました。25%もの定員削減 を呑めば、ただでさえ先進国に遅れをとっている大学の教育研究は大幅な後退を迫ら れてしまいます。それでは独立行政法人化を呑めばよいかと言うと、そう簡単に片付 けられない問題があります。もともと独立行政法人と言うものは、主務大臣の管理の 下に、主務大臣の政策執行を効率的に行う機関として設置されるもので、大学をその 対象として考え出されたものではありません。これを大学に適用すると、日本国憲法 で保証されている学問の自由、大学の自治と真っ向から対立してしまう部分が出て来 てしまいます。独立行政法人通則法にみる法人の骨の部分は、  1.主務大臣に法人の中期目標の設定権限を与えています(通則法 第29条)。則 ち、大学に適用した場合、主務大臣たる文部科学大臣にこのような形での大学支配、 大学管理の法的根拠を与えてしまいます。  2.中期目標に基づいて法人が策定した中期計画については、主務大臣の認可を必 要とします(通則法 第30条)。さらに、主務大臣には中期計画の変更を命ずる権限 もあります(通則法 第30条4項)。計画立案にさえ自由が無いことが分かります。 目標自主設定権のはく奪と加えて、大学支配を完全なものにします。 学問研究の目標設定も計画も自由に出来なくてどこで学問の自由を保証できるのでしょ うか。大学の自主性自律性が増すと言う宣伝はどこから出て、何を指しているのでしょ うか。  3.計画実行後、評価機構の評価を受け、この評価が主務大臣による次年度以降の 予算の算出根拠となります(通則法 第32条)。大学に適用した場合、文部科学大臣 の意向にそわない大学は予算で締め上げます。  4.法人の長の任免権は主務大臣にある(通則法大4条)。現行のように、選挙の 後、評議会の議を経て承認されたものを主務大臣が任命する仕組みの記述はない。免 職につても、評議会の議を必要とする制度にはなっていない。ユネスコから学問の自 由を尊重するよう勧告を受けたミロシェビッチのセルビア大学改革を彷佛とさせる。  5.主務大臣任命の監事複数名を置き、独立行政法人の業務を監査する。監査結果 に基づき、必要とあらば監事は法人の長および主務大臣に意見を述べることができま す(通則法 第14条、19条)。しかも、最悪なことに、場合によっては、監事が独立 行政法人を代表することがあると規定されている(通則法 第24条)。法人の監視、 および場合によっては法人を代表する権限があり、大学に適用した場合、権限の行使 の仕方によっては、監事が非常に危険な役割りを演じる可能性があります。監事が単 なる会計監査の役に留まっていないことに危険性があります。 と言う所にあります。主務大臣が、彼のもとに設置された法人に対して、その目標の 設定権を掌握していること、法人の作成した行動計画についても認可の権限があるこ とが明確です。主務大臣による法人支配の法的根拠がこれにより規定されています。 しかも、監事が法人の監視にあたり、場合によっては総長の権限を剥奪して自分が総 長の職務を代行します。これが独立行政法人の本質です。前述のように、もともと独 立行政法人と言うものは、主務大臣の管理の下に、主務大臣の政策執行の機関として 設置されるものですから、上記のような支配構造は当たり前のことです。これを、 「学問の自由」、「大学の自治」、「学の独立」という言葉に代表されるように、国 権からの独立の必要性が歴史的に求められている大学に対して適用しようと言う所に 無理があるのです。独立行政法人通則法を大学に適用することは、学問の自由を保証 する憲法23条、および、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し、 直接に責任を負って、行われるべきものである。」とする教育基本法第10条に抵触す る可能性があります。 「学問の自由」とは、(1)学問を志す人が、自分の自由意志で学んだり研究したり する対象を決定し、学問を遂行できる自由と、(2)学問研究の結果知り得た知識や 事実を公表する自由と義務、さらに、(3)その知識や事実を教育と言う形で伝達す る自由と義務を指します。これらのことは、学問研究を志す人の良心に基づき、国民 に直接責任を負ってなされるべきもので、いかなる権力からの圧力でも、事実の歪曲 や、過った情報が国民に伝えられるようなことがあってはならないことは、言うまで もありません。究極的には、「学問の自由」は「言論の自由」や「教育を受ける権利」 と同じように基本的人権に繋がる概念です。「学問の自由」の確保は健全な民主主義 社会の構築に必要であるという認識は国と大学の双方が持ってしかるべき認識です。 大学が、「学問の自由」を叫ぶ時、大学は自分達が勝手なことをやりたいからと言っ て騒いでいるわけではないことを大学人も理解し、市民にも御理解いただきたいと思 います。  世界の歴史の教訓から、政権による学問の自由の侵害が特に危惧されるため、1950 年ユネスコにより召集され、ニースで行われた世界の大学の国際会議では、大学と不 可分の3つの理念のひとつとして、「多様な意見に対する寛容と、政治的干渉からの 自由」(The tolerance of divergent opinion and freedom from political interference)をあげています。最近では1998年にユーゴスラビアのセルビア大学の 管理職および教授を任命制にしたことに対して、大学人の主張が入れられない可能性 があるとして、ユネスコはミロシェビッチ大統領に「学問の自由」を尊重する様、強 い勧告を出しています。我が国の文教政策もこのような失態を演じない様望みたいと ころです。 大学はその専門知識をもって、政策に提言、あるいは、時に苦言を呈することのでき る、政権とは独立の自律的な知的集団であることが、健全な民主主義社会の構築に必 要であることは、今や、国際的な認識です。成熟した民主主義社会は大学のこうした 役割を大切にし、敬意を表しています。 大学改革にとっての大学法人化の得失、国立大学協会・北大が各々取るべき方針、最 終的な決断の方法 大学改革にとっての大学法人化の得失:  上にも書きましたが、独立行政法人通則法に基づく大学の法人化はとんでもないこ とです。自民党の文教部会ですら、「独立行政法人通則法をそのまま国立大学に適用 することは不可能である。なぜなら、大臣が大学に目標を指示したり、学長を直接任 命し、解任するような制度は、諸外国にも例がなく、国と大学との関係として不適切 である。」と平成12年3月30日発表の「提言 これからの大学のあり方について」 で述べています。  その他の形の法人化は必ずしも悪いとは言えません。明治20年前後に既に「大学 の議会、政府、文部省からの独立」論が大学関係者や文部省内部からも唱えられたこ とがありました。政変により大学の処遇が変わることをさけ、「百年長計の為に大学 の独立自治を企図し、一大基金を設けて、政変以外に超立するの議を首唱せし...」 という精神に乗っ取ったものですが、財政的にも独立していないと、予算で大学が管 理されてしまうことから、3つの案が考えられた。一つは、大学の基本財産として国 庫から一時に数百万円を与え、この利子を持って大学を運営する。もう一つは、帝室 費の中から、大学予算を支弁する、そして残る一つは、大学を法人化し、政府が年々 これに経常経費を支出する。この際、金額を一定にして議会の予算審議権の枠外に置 くと言う案でありました(寺崎昌男著:増補版 日本における大学自治制度の成立)。 今から100年以上も前にこのような論議があったのです。当時、大学はエリートのも のであったとは言え、大学を政治から超立したものとしたいと言う考えが当時の文部 省内部にもあったと言うことは、さすが明治の役人。平成の役人にも100年長計をもっ て教育を考えてもらいたいものです。  このように、大学を真に国権から超立したものとすることが可能な法人化であれば、 大学改革にとって、最も好ましいものであります。この方向は、独立行政法人化とは、 正反対の方向です。 国立大学協会・北大が各々取るべき方針  双方の一番の問題点は、大学が何であるかをきちんとした形で理解していない、あ るいは、大学の社会的使命についての合意がないと言うことです。漠然とした形での 大学像は、個々の教員が描いてはいるでしょうが、大学の独立行政法人化等と言う問 題が起きた時、その是非を判断する基準がない。我々がよって立つところのもの、大 学として堅持しなければならないものは何か、我々の使命とは何かをきちんと捕まえ ておく必要があります。大学の理念なくして設置形態の論議は出来ません。  冒頭にも述べましたが、大学の使命には、(1)教育・研究の使命と、(2)行政 や社会の動きに対するチェック機構をになう使命とがあります。前者は分かりやすい ので、いつも取り上げられますが、後者の使命については、行政が問題にしたくない のか、あるいは、この使命を抹殺したいのか、日本ではあまり主張されません。ユネ スコの「21世紀に向けての高等教育の世界宣言」と言うものがありますが、その中 に、高等教育の使命として、   Article1)教育、職業訓練、研究遂行の使命   Article2)倫理的役割、自治、責任、先見的機能 という項目があり、Article 2の内容に、高等教育およびその教職員と学生は; 「社会が必要とする一種の知的権威を行使し、責任を十分理解した上で、倫理的、文 化的、社会的問題に対し、社会が反省し、理解し、行動できるように、発言する自由 を持つことができなければならない。」 また、「起こりつつある社会的、経済的、文化的、政治的事象に対する継続的な潮流 分析から、問題の予測、警告そして予防における論点を提示することで、高等教育の 批判的、先見的機能を高めなければならない。」 「地域社会、国家、地球社会の福祉に影響を与える問題点を明らかにし、それに立ち 向かう役割を担わなければならない。」 等々が含まれています。いわば大学は民主主義社会の御意見番であると言う使命も持っ ていると言うことです。 大学のこの2つの使命を全うするために、我々は何をしなければならないか、国大協 にはこれを「国立大学憲章」と言う形で、合意することを提案します。以下は私の 「国立大学憲章」の私案です。                  国立大学憲章  我ら大学人は我が国の大学125年の歴史を振り返り、先人の教えと、大学の歩んで 来た道を吟味し、輝かしい伝統と、業績、そして、忌まわしい過ちの全てを理解し、 誇るべき伝統を未来に伝え、過ちを再びくり返すことの無いよう、ここに大学憲章を 制定し、我らの基準・軌範とし、これを遵守することを誓うものである。  大学とは、個人の尊厳を重んじ、真理と世界の平和を希求する人間の育成を期する とともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を行う高等教育機 関である。 我が国の大学は、100年あまりの短い歴史のうちにも、高度な教育を国民に提供し、 国の各方面の指導者を要請する傍ら、優れた研究成果をもって、学問研究のレベルを 世界の水準までに高めることに多大な貢献をして来た。東洋の一小国から、今日、世 界第二の大国と言われるまでに我が国が成長したのも大学教育に負う所が大きい。  一方、大学と行政との関係においては、明治初期に我が国に学校教育の制度が導入 された時、西欧の大学の長い歴史の教訓として培われて来た学問の自由、学の独立、 大学の自治の概念も紹介されたが、我が国では、この概念は政権に支持されるには至 らず、政権によって教育が支配され、国家主義教育が大学をはじめ初等中等教育をも 支配し、我が国を戦争へと導く精神的背景の形成手段として使用されてしまった苦い 経験がある。戦後、これへの反省から、憲法で学問の自由が保証され、教育基本法に も学の独立の精神が唱われている。これらの精神に基づけば、大学における教育研究 は、大学の良心に基づき、国民に対し直接に責任を負うものであり、普遍的真理の探 究と教育と言うその使命から、その時々の政権に支配されるてしかるべき性質の物で は無いといえる。これらはしかし、国の定めた法であり、大学人が自らの学問教育の 基本理念を宣言したものでは無い。  そこで我らは、大学の崇高な目的を達成するために、そして、再び過ちをくり返さ ないために、大学に不可欠な以下の諸条項をここに記す。これらは、大学の設置形態 のいかんに関わらず大学に保証されなければならない権利と大学が守らなければなら ない義務として、大学人および国民が銘記すべきものである。 「教育研究の目的」 第1条 大学における教育研究は世界の平和と人類および地球上の生命の福祉に資す るもので無くてはならない。 「教育と研究」 第2条 大学は人類が蓄積して来た英知に加え、その時代の最新の知識を教授し、考 える力を育成し、文化の創造と発展に寄与する場である。この目的遂行のためには、 大学が先端的研究の場であり、教員はその研究の遂行者でもあることが必要である。 「大学の社会的貢献」 第3条 大学と大学人は、大学における学問研究活動を通して知り得た知識、技術等 を社会に還元する義務を持つ。大学人は地域および世界に向けて、情報を公開し、知 識の普及を計らなければならない。 二、大学人はその専門知識と先見性をもって、政治、社会、経済、文化等における問 題点を指摘し、社会に提示する使命を持つ。 「教育の中立」 第4条 国公立大学およびその教員は、特定の政党あるいは宗教を支持し、またはこ れに反対するための政治あるいは宗教教育その他、政治的、宗教的活動をしてはなら ない。なお、この条文は特定の政治あるいは宗教団体に関する事柄を学問研究の対象 とすることを禁ずるものでは無い。 「学問の自由」 第5条 大学における学問の自由、真理探究の自由の権利は、日本国憲法第23条に よって、保証されなければならない。 「学の独立」 第6条 大学における教育と大学の使命の遂行は、大学の良心に基づき国民全体に対 し直接に責任を負って行われるべきものであり、何人も(行政と言えども)これを不 当な支配のもとに置くことは出来ない。教育基本法第10条に規定されている所は大学 教育にも適用され、遵守されるべきものである。 「大学の自治」 第7条 学問の自由と学の独立を担保するためには、大学の自治が保証されなければ ならない。学長をはじめとする教員人事の自主選考権、大学の管理運営権、大学の理 念、目標、計画の自主決定権は大学構成員に帰属するものとする。 「大学人の義務」 第8条 前三条に規定した「学問の自由」、「学の独立」、「大学の自治」の学問教 育における三権は、国家と大学、あるいは、権力と学問の関係の長い歴史の教訓の中 から生まれた、大学が有すべき基本的な権利であり、義務でもある。この三権がおか されようとする時、大学人は全力を斗してこれを阻止しなければならない。  大学は、大学の理念の実現を不可能にしてしまうような設置形態を構築することは 出来ません。国大協でもようやく、「大学の理念なくして大学の設置形態は論議でき ない」ことに気付きはじめたようで、いち早く「名古屋大学憲章」を立ち上げた名古 屋大学が議論をリードしているように見受けられます。 北海道大学は、明治初期にクラーク先生から民主主義教育を学びました。この伝統が、 新渡戸稲造先輩の弟子達が書き上げた教育基本法の崇高な理念に生かされています。 我が北大の理念を「北海道大学憲章」と言う形で合意することを提案します。北大の 理念については、理念構築に必要な北大の教育精神史の拙文を既に昨年12月に皆様に 配信しましたのでそちらを御覧下さい。     国大協には既に通則法のもとでの大学の独立行政法人化には反対であると言う意見 の一致があります。「通則法のもとでの大学の独立行政法人化はあり得ない」と言う ことは自民党の文教部会ですら主張しております。大学は、大学の理念、社会的役割 等の共通認識に立って、独立行政法人化の問題点を明確にすべきです。その上で、独 立行政法人化の全面否定をし、国立大学の設置形態を堅持するか、新法人を提案する か、あるいは、通則法を”骨抜き”にする特例法の策定をねらうか、など、様々な可 能性を検討し、理念に照らして納得が行き、最も実現可能な方策を選択すべきである と考えます。現状での、「調査検討会儀への参加」は、特例法の策定が実現可能なベ ストの策との判断からなされたものと思います。しかし、大学憲章のような共通の理 念の認識がなかったために、混乱を生じているように見受けられます。             なお、国大協にはもちろん、「通則法のもとでの大学の独立行政法人化には反対」と いう共通認識があるのですから、上記の様々な戦略は相互に争うこと無く、大きな濁 流として、共通の目標に立ち向かう戦略で行かなければなりません。 最終決断: さて、現在進行している調査検討会儀はいずれ近い将来、答申案を策定し、国大協は これを各大学に問うと言うことが起こるでしょう。(問うてもらわなければ困ります。 問うように要請しましょう)この時、我々は、これを受け入れるかどうかの論議をし なければなりません。その場合、それぞれが各々の判断基準に基づいて論議したので は、拉致があきません。あらかじめ我々がよって立つところの判断の基準を作ってお かなければなりません。それゆえ、私は「国立大学憲章」を作ることを1年以上前か ら提案申し上げているのです。 最終的な決断を迫られた時、どのような形でこれを論議し、最終判断を下すか。従来 の方法では、部局で論議し、これを部局長、評議員が評議会に持ち寄って審議し、審 議に基づいて総長が最終的な判断を下す、あるいは、評決と言うことになっています が、ことの重要性を考えると、もう少し、オープンで、慎重な論議が必要であると考 えます。そこで、最終決定以前に、評議会で数回の公聴会を開いて頂きたいと思いま す。部局での論議は間接的にしか他部局の評議員には伝わりません。きちんとした意 見をお持ちの個人から、直接に評議員が意見を聴くことは重要であると思います。

■II. 大学の現状について

【II-1】 現在、日本の大学が直面している問題の核心はどこにあると思われますか? ・少ない予算 ・不十分な人員配置、特に教育研究支援に必要な人員の不足 ・不十分な設備 簡単に言えば、国が余りにも大学を粗末にしてきたことのつけが回ってきたと言うこ とであろう。これを大学側の問題とするのは、責任転嫁である。大学の側も余りの困 窮に、自分の大学・学部への利益誘導のみを考え、権力あるものや文部省を刺激しな いよう、発言を調節し、おどおどしながら御機嫌を伺う。こんな情けない大学の姿は 見たくない。 大学側の問題としては、 ・一部教員の教育意欲・研究意欲の欠如、大学の使命の認識の欠如 ・一部学生の学習意欲の欠如 ・教養部廃止、教育の効率化に伴う全人教育の縮小 ・大学の自治や学問の自由の侵害に対する無策・無防備 日本の大学からノーベル賞級の優れた研究が出にくい要因の一つに、若い研究者の発 想が十分研究に生かされない構造があると思われる。若手の研究者が独立した研究者 として研究室を持つことができる体制にするには、十分な予算措置と同時に、研究支 援の為の人員、即ち、テクニシャン、ガラス器具洗浄員、実験動物飼育管理者等の充 実と、各研究者とペアを組んで研究を推進できるポストドクを大量に増員する必要が ある。現状では研究の実動部隊が学部生あるいは大学院生であるが、トレーニングの 身である彼等の研究よりは、技術、知識において圧倒的に優位なポストドクを主体と した研究体制を組むべきであるとおもいます。 ・大学の自治や学問の自由の侵害に対する無策・無防備について  あらためて言わせて頂きます。大学における真の自主性、自立性は、大学における 「学問の自由」の保証と、「大学の自治」の確保、そして、政治、宗教など様々な権 力からの「学の独立」の保証なしには成立しません。これらの概念は、西洋における 大学と権力との関係の長い歴史の中から生まれてきました。「地球は動く」と言った ガリレオを弾劾した宗教裁判に代表されるように、権力によって、自由な発想での研 究が阻止されたり、大学の研究を通して知り得た知識や情報が、権力によってねじ曲 げられたり、事実の公表や、教育としてのその伝達を妨げられたりしてきた苦い経験 から生まれてきた概念です。我が国の大学の歴史においても、明治初年はじめて西欧 式の大学が設立された時期に「学問の自由」「学の独立」の概念も紹介されましたが、 時の政権には受け入れられず、戦前、戦中を通して「学問の自由」に対する弾圧があっ たことは歴史的事実です。 このような歴史の反省から、憲法23条には「学問の自由」が、また、教育基本法1 0条第1項には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責 任を負つて行われるべきものである。」という「学の独立」の精神が明記されていま す。「学の独立」は、「学問の自由」を可能にするための理念です。大学における研 究によって知り得た事実や情報を公開し、教育によって伝達することの権利と義務は、 国民に対する責任において行われるべきものであって、いかなる権力も、何人もこれ を支配し、これに干渉するようなことがあってはなりません。 私達は「学問の自由」の侵害が疑われた時、被害者としてこれを弾劾するのではなく、 大学人としての我々の使命としてこれを弾劾し、「学問の自由」を守って行かなけれ ばならない。「学問の自由」は私達だけのものではなく、国民全体の財産なのです。 【II-2】 市場原理・競争と効率化の導入、大学評価・学位授与機構による評価をど うお考えですか。これらは大学の活性化に有効だと考えられますか。 市場原理・競争、効率化: 大学の教育研究には市場原理・競争にはそぐわない学問がある。というより、大学に おける学問研究は、市場原理・競争によって支配されてしまってはいけない。市場原 理は「今と近未来」の価値観で取捨選択をしてしまう。メンデルのエンドウ豆の研究 が、最新の医療や医薬開発に結びつこうなどと当時の誰が想像しただろうか。有珠山 の噴火がなければ、北大の火山研究だって市場原理を生き延びれたかどうか分からな い。大学が文化創造の場であるとするなら、市場原理の導入は大学を大学ではなくし てしまう。  損得勘定でものを考え、儲かることが良いことである。物質的豊かさの追求が善で ある。特許の出願率が、外国にくらべ少ないのが問題である等と言う価値観が大学の 教育研究にまで及んでしまうことを恐れる。大学における研究の応用の結果、人類が 物質的にも精神的にも豊かになることをさまたげようと言うのではないが、大学の教 育研究が儲けることを第一義にするようなことがあってはならない。市場原理とそれ に基づく競争には大学における研究で知りえた事実の独占が伴う。人類の福祉の為に、 新しい発見に情熱を燃やし、競争をするのは健全であるが、大学の使命を認識した上 での競争であるべきである。 衣食足りた上での適度な競争は研究意欲の増進を生む。飢えた馬の鼻面にニンジンを ぶら下げて馬を走らせるような競争は進むべき道を失ってしまうばかりか、馬を潰し てしまう。 グローバルな視点での学問的競争心は研究者にとって健全であるが、ローカルな、ち まちました場所で、ちまちました予算の奪い合いの競争はしたくないものです。 大学評価・学位授与機構による評価:  大学の評価が即、予算措置に結びつくと言う、独立行政法人通則法のもとでの評価 であるならば、評価法によっては、学問の自由を束縛しかねない危険性を持っている。 予算をつけないことによって、その研究の可能性を潰してしまう。まさに、100年以 上前、明治の人が帝国議会発足を目前にして、議会による大学予算決定に、このよう なことがあってはならないと、大学の独立の必要性を指摘したポイントそのものです。 大学評価・学位授与機構の評価委員に100年の未来を見越す能力があるとは思えない。 研究内容にも立ち入ったピアレビュー形式で行われる可能性が高いが、将来有用な研 究を潰してしまう危険性もある。 大学評価・学位授与機構が真に第三者機関であるならば、大学の評価と同時に、文部 行政の点検評価を行うべきです。独立行政法人化されたなら、文部科学省の中期目標 の指示が適切であったか、予算措置が適切であったか。中期目標の指示が適切でなかっ た故に大学が良い結果を出せず、悪い評価となってしまうことだってあり得ます。中 期目標の指示の責任は重いといえます。計画がうまく実行されなかったと言う評価か ら予算の削減があるのであれば、不適切な目標を指示した主務大臣にも責任をとって もらわなければならない。不適切な目標設定から、評価が悪く、予算が削減され、職 員の首を切らなければならないことになるのであれば、主務大臣も首をかけて目標の 指示をしてほしいものです。 【II-3】 大学のあるべき未来像を語って下さい。  アメリカの州立大学と州との関係のように、国は金は出すが、使途についての口出 しはせず、大学の良識に任せる。大学の良心と、使命感と、先見性を持って、必要と あらば、大学は国の政策を痛烈に批判する自由度を持つ。それに対する国の報復はな い。(出来ない)。むしろ、国は大学のこのような機能を健全な民主主義社会の構築 の為に必要不可欠と理解している。 学問の自由は保証され、大学は経営面、教育面、管理運営面など、全てにおける自治 権を持つ。  学部教育は未来戦略案を一歩進め、学部縦割りと学年制を廃止し、完全単位制とす る。入学には学部区分がなく全員北大に入学する。これにより、学生は大学に入って から自分の進むべき道を見極めることができる。また、総合大学のメリットを引き出 すことができる。学生は、自分の主専攻を自分で選び、主専攻の必修科目単位に加え、 選択必修科目、選択科目の組み合わせで必要単位数を取得して、学士(主専攻名)を 取得できる。従って、学生は各個人がオーバーラップするが、それぞれ異なるカリキュ ラムを持つことになる。主専攻は中途で変更が可能とする。8年間を上限として、卒 業単位数を完取した年次に卒業可能とする。(計算上は、最短2.5年程度で卒業可 能なはずだが、ゆとりを持ったカリキュラム作成を指導する)。副専攻も学生が自主 的に自由に選択できる。専攻名は必ずしも既存の学部名とはしない。たとえば、生物 学専攻、西洋文学専攻、美術専攻、音楽専攻、医学進学課程専攻、建築学専攻など。 ただし、学部教育は、あくまで専門教育を受ける以前の準備教育と捕らえ、幅広い教 養教育を施し、学生の視野を広げ、我が国の歴史文化に加え、異文化の理解と寛容、 専門分野の基礎等を学ぶ。全学の教官が全学教育に取り組む。  大学院は学士の資格を取得したものを選抜の上、受け入れる。大学院は教官の本籍 がある教育研究組織とする。研究の実動部隊はポストドクである。研究科間の壁をは ずし、同系の学問分野が連係できるネットワーク型研究機構を構築する。医・歯・獣・ 法学部は学士取得後に進学する職業大学院大学校とする。また、これらは通常の大学 院をも併設する。 大学院講議は専門の教官が自分の専門分野を講議するリレー方式の講議を複数科目用 意し、最新の情報を教授する充実した講議とする。 芸術学研究科を北大に新設し、大学に文化の香りの風を吹き込む。

■III. 北大の諸問題について

【III-1】 現在、北大が直面している問題の核心はどこにあると思われますか。 ・全国の大学が直面している問題(II-1)と大差ない。 ・社会全般に言えることであるが、教官も学生も思考パターンが利益誘導型になって しまっている。損得勘定から言うべきことを言わないと言うことでは将来に憂いを残 す。  独立行政法人化にしても北大にとって有利かと言う発想よりも、日本の高等教育の 未来にとって有益であるかどうかと言う判断が優先すべきである。総長は単なる北大 の利益代表ではない。日本と世界、人と自然とのかかわり合いにおいて21世紀の日 本の教育をどうするかを他大学の総長とともに考えて行く立場にある。私は、例え一 時的には北大にとって不利であっても、そしてそれ故学内で批判を買おうとも、日本 の教育にとって有益である道を選び、決断出来るような人物を総長に選びたい。 ・北大の精神を伝える人が少なくなってきている。  歴史をひも解けば、北大ほど個性と特色のある大学は少ないだろう。しかし、そこ に価値を見い出す人が減ってしまったのではないか。北大の伝統の継承と伝達がうま くなされないままになっている。北大は既に駅弁大学化している。125周年を期して、 北大の個性とは何かを歴史から学び、新しい世紀に生かして行く、新しい伝統の創設 を望みたい。 1876年、札幌農学校の初代教頭ウイリアム・スミス・クラーク博士は、札幌農学校の 開校祝辞で、「長年の間、東洋の国々を暗雲のごとく包んで来た因習と身分制度の暴 政からの素晴らしい解放は、教育を受けようとする全ての学生達の胸に高邁なる大志 を抱かさずにはおかない。」と述べ、明治維新の士農工商の身分制度の廃止と封建制 度からの解放により、人々が自由を獲得したことは実に素晴らしいことであり、学生 達の胸におおきな夢を持たせるものであることを述べた。  クラーク博士は来札の10年程前、南北戦争の北軍の大統領リンカーンの呼び掛けに 応じて、自ら志願して、奴隷解放のために参戦した。南北戦争当時の北部アメリカは 独立宣言の精神が大いに発揚した時代であった。そしてその独立宣言には、自由、自 主独立の精神と、人間の平等が唱われている。アメリカ独立戦争を戦ったマサチュセッ ツ州出身のクラーク博士はこの独立宣言の精神的影響を強く受けていた。だからこそ 奴隷制と戦い、明治維新の身分制度の廃止を高く評価したのである。「自由は学問と 道徳の偉大な生みの親である」とはアメリカ独立宣言の起草者トーマスジェファソン の言であるが、クラーク博士もまた、「自由が教育を受ける学生の胸に大志を抱かせ る」という意味の言葉を語り、教育を施す上で最も重要な学生の意欲(大志)は、因 習や階級制度からの束縛の無い自由な環境より生まれるものであることを指摘し、維 新の改革を評価した。博士はアメリカの独立宣言に象徴されるような民主主義を札幌 の地で、日本の教育に持ち込んだのである。  戦後の1952年5月26日、当時の東京大学総長 矢内原忠雄博士は「大学と社会」と 題した東京大学五月祭の挨拶で、「明治の初年において日本の大学教育に二つの大き な中心があって、一つは東京大学で、一つは札幌農学校でありました。この二つの学 校が、日本の教育における国家主義と民主主義という二大思想の源流を作ったもので ある。大ざっぱに言ってそういうふうに言えると思うのです。」と述べている。博士 はさらに、「・・・日本の教育、少なくとも官学教育の二つの源流が東京と札幌から 発しましたが、札幌から発した所の、人間を造るというリベラルな教育が主流となる ことが出来ず、東京大学に発したところの国家主義、国体論、皇室中心主義、そう言 うものが、日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争を ひき起こし、敗戦後、日本の教育を作りなおすという段階に、今なっておるのであり ます。」と続けている。  大学教育をはじめとする教育の自由を国家権力が掌握すると、一歩間違えば国をと んでもない方向に導いてしまう。こうした経験と反省から、戦後の教育には、クラー ク博士がもたらし、内村鑑三や新渡戸稲造によって育てられた札幌農学校の民主主義 的教育の思想が、新渡戸稲造の弟子たちがその制定に多数加わった教育基本法のなか に生かされている。 戦後、昭和20年から27年にかけて、内村鑑三や新渡戸稲造から強い影響を受けた 前田多門、阿倍能成、田中耕太郎、森戸辰男、天野貞祐らが相次いで我が国の文部大 臣となり教育の改革にあたっている。明治初期に札幌の地でクラーク博士が蒔いたリ ベラルな民主主義的教育の種は、70年後、太平洋戦争を経て始めて開花したのである。 このような歴史的背景を持つ北海道大学は、国立大学としての125年をどう評価し、 今後の国立大学の取るべき道をどこに定めるかを明確に提示し、大学のあるべき姿を 主張すべきでありましょう。 【III-2 合意形成システムについて】 学長のリーダーシップ強化が法的に決まり、北大では総長室が新設される予定と 聞いてますが、北大における合意形成や意思決定方法に関する考えをお聞かせ下さい。 例えば、教授以外の教員や職員、学生の大学運営参加に関しては> どのようにお考え でしょうか。  北大の総長室の設置は学長のリーダーシップをスムーズに行うために設置されたと は限らない。総長の独走を防ぐ機能もあり得る。さらに、今までは総長の他は、事務 局長をはじめとする文部事務官がいわば大学の執行部であった。副学長、総長補佐、 総長室と、総長を囲む教官組織が出来たことで、大学の行政に教官の意志が強く反映 される体制になってきたと言える。これはむしろ好ましいことではなかろうか。また、 見識ある総長であれば(そうでなければ困るのであるが)自分のイエスマンばかりを 総長室の委員とすることはないでしょう。 北大における合意形成や意志決定方法:  重要事項は総長が部局長会議で部局長に部局での審議を依頼し、部局長は部局での 審議結果を部局長会議に持ち寄って審議し、さらに評議会にて審議し、合意形成に至 るのが従来の方式です。この方式の欠点は、決定権者が部局での論議を直接に聴くこ とが出来ないことです。重要事項の審議には、直接”民の声”を聴く公聴会があった 方がよいと思います。さらに、総長室はネットで直接”民の声”を聴くことができる よう、解放されていなければなりません。 教授以外の教員や職員、学生の大学運営参加:  欧米の大学では、大学の構成員は教員と学生であるとの認識から、学生代表が大学 の意志決定機関にも参加しているところが多い。選挙権を持って国政にも参加できる 学生が大学構成員であるにも関わらづ大学運営に全く参加できないのはおかしいと言 うことでしょう。欧米の大学では学生の年令に大きな幅があり、かなりの年令の学生 が学生代表を勤めていることから、マチュアーな発言が期待できることもあるでしょ う。北大でも大学運営のかなリの部分(意志決定機関を含む)で、学生代表の参加を 要請していい。かといって、教官人事にまで学生が参加するのは日本の大学の民主主 義の成熟度から言って時期尚早であろう。教授以外の教員や職員の代表も大学運営に は積極的な参加が望まれる。 【III-3 情報公開について】 本年4月から情報公開法が施行されますが、学長裁量経費を含む大学財政や運営の 透明性をどのように確保されるお考えですか。 ・ホームページや広報誌で積極的に公表 ・学内有線テレビ放送局を設置して、積極的にこれらの情報や今問題になっている問 題の問題点等を流すようにしてほしい。特に、部局長会議や評議会の議事の様子を実 況中継することができる様にしてほしい。 【III-4 教員の身分制度】 教員の身分制度、特に助手の実態をどのようにお考えですか。また、教員に対す る任期制導入についてはどのようなお考えをお持ちですか。  助手廃止論が盛んであるが、若手のパーマネントポジションがなくなると言うこと を十分警戒する必要がある。助手が教授に隷属するリジッドな講座制が問題であって、 助手と言う若手対象の職が悪いわけではないのではないか。助手と言う研究者が、独 立に予算を取得、使用でき、自分のすきな研究を遂行出来るのであれば、若手のパー マネントポジションとして好ましいものではないだろうか。助手のポジションを廃止 すると、大学のパーマネントポジションが教授・助教授・講師のみとなり、助手に変 わる若手として、ポストドクを採用することとなり、事実上の若手研究者の任期制に なってしまう。助手廃止論は文部省内にもあると聞くが、待遇改善や講座制の見直し を検討する必要もある。助手の先生がたと意見交換したい。 大学の教員の任期制は息の長い研究は出来ず、また教員の帰属意識も薄れ、業績をあ げることの必要性から、教育面での努力もおろそかになる。教育研究上好ましい効果 は少ない。 【III-5 北大の改革について 】 北大における全学教育、学部一貫教育、重点化された大学院の教育をどう評価さ れてますか。また、大学院重点化に伴い大量に増加した大学院生が、各々の研究分野 での定職を得難くなっている現状について、どのようにお考えですか。 全学教育、学部一貫教育:  教養部における教養教育を排して、全学支援体制で全学教育が始まった。同時に、 入学者を学部単位で受け入れる制度になったため、多くの学部が専門教育を前倒しし はじめ、一般教養教育が縮小され、ゆとりの無いものになった。もとよりゆとりの教 育とかで、狭い範囲の勉強しかしてこなかった高校卒業生を受け入れ、教養教育も狭 い範囲で、早々と専門教育を施す方針には、落とし穴があった。自分の専門以外には 見向きもしない視野狭窄を起こしている学生が増えたのである。多様な事象を有機的 に結び付ける能力が求められる時代に、狭い専門ばかを養成する結果となってしまっ た。社会で指導的立場に立つことのできる人材、国際社会で活躍できる人材を養成す ることを標榜する教育機関で、自分の専門しか分からない人材を輩出することは出来 ない。このような人材には、専門知識の他に、豊かな人間性、幅広い知識と指導力、 異なる文化、歴史と伝統、宗教等への理解と寛容、コミュニケーション能力等が要求 される。これらは、単にカリキュラム内の学科目の学習ばかりで育成されるものでは ない。青年期の多感な時期にクラブ活動等の切磋琢磨通じて学ぶことは多い。以上の ような反省を背景に、(II-3)の大学の将来像では、学部教育の将来像を描いてみま した。 重点化大学院:  重点化に伴い各研究科で様々な新たな取り組みが始まっていることと思う。多くの 部局で、従来の研究一辺倒の教育から、大学院レベルの講議を導入している。好まし い傾向であると思うが、ここでも上に書いた問題が影響している。多くの興味深い講 議が準備されたのに、大学院に進学した学生達は、自分の研究に関連する(と自分の 狭い了見で考えた)授業しか選択しないのである。 大学院修了者の就職:  歴史が進むにつれ、より高度な教育を受けた人材が社会に必要とされて来た事実は、 ここ100年の高等教育/大学進学率の推移を見ても明らかです。大学院進学率の上 昇も時代の流れをいくぶん先取りした形で流れている様です。様々な資格や専門家の 教育の基準も年々高度化し、また、これらの基準のグローバル化が進んでいます。そ して、この時必要とされる国際水準は、欧米の高い水準を要求されます。これらに対 応するためには、日本の教育研究を高いレベルに押し上げなければなりません。大学 院重点化はこのような流れと時を同じくして実現しました。国際化対応の為、企業で は博士号取得者を求めはじめました。外国の企業と交渉に当たるのに、博士号を持っ て、対等な立場で交渉できる人材が必要なのです。また、企業自体が何人PhDを雇用 しているかで評価されます。大学院修了者のニーズは上昇してくると思います。   現在、大学院修了者が職を得にくいとありますが、これは、大学院卒に限ったこと ではなく、学卒でも、あるいは学卒の方が、職を得にくい状態にあるのではないでしょ うか。 【III-6. 北大の未来像について】 先日出された未来戦略検討WGの教育・研究に関する答申は、北大の在り方を論じ たもので、今後学内で十分に議論される必要があります。WGの答申をどのように評価 されているのか、今後のあるべき北大の教育・研究像と関連づけてお答え下さい。 未来戦略検討WG答申:  まず、21世紀の北大をどのような特徴を持った大学にするのかと言う理念無しに、 実務的に改革案をまとめたもののように見受けられる。案自体は、近未来に北大の組 織がそうあっても良いと言う感じのものであるが、方向性が見えない。大学として何 を目指し、どのような学生を輩出し、社会にどのような貢献をするのか。 ・2020年を想定した案であると言うが、むしろここ5年以内を考えた案のような 気がする。21世紀の教育研究がこれで良いのだろうか。 ・札幌農学校からの伝統を考えると、21世紀の食料問題に向けて、農学を軸に食料 生産に関する研究機構を構築する必要があろう。 欠けている点: ・グローバル化への対応:本学は国際性を特徴の一つとしてきた。例えばインターネッ トや衛星を使った授業の国際間の互換性、例えば、北大カリフォルニア分校の設立、 たとえば数百人規模での留学生の受け入れと、それに必要な宿泊施設、文化施設の措 置など ・アジア・アフリカへの国際貢献としての北大が行う教育支援 ・附置研究所と研究科のリサーチネットワークの構築と大学院生教育 先端的な研究を行っている学内の研究所は、大学院教育にとっても理想的な環境を提 供できる場である。各研究科と教育研究のネットワークを構築し、相互に協力する体 制とする。 ・北大に文化の香りと品性を運び、北大を真の総合大学とするため芸術学部の創設を もとめる。北大を札幌の文化活動の中心として市民に解放できる劇場、音楽堂、美術 館を。 ・北大のフィールドを活用した体験型学習 ”プロジェクト方式自己学習型教育”の 実現:具体的には、演習林を利用したプロジェクト研究、水産学部の船を利用した洋 上大学などで少なくとも半年分の総合単位とする等、特徴ある教育を。  洋上大学の案は昨年のFD研修で私から提案し、皆さんのアイデアをあわせてさらに 良いものになったと思いますが、これを例にとれば、水産学部の練習船で訓練を受け ながら、世界各国に寄港し、現地の大学を訪問し、ミニ講議を受け、現地学生と交流 し、お互いの文化の紹介をし、4大文明発祥の地を実際に目で観て体験する。まず半 年は訪問予定の国々の政治経済文化言語と日本の文化を学び、現地での交流に備える。 また、訪問国と訪問地での行動の詳細な計画を自分達でたてる。個々の学生の研究テー マを自分で考える。海上での学習活動および課外活動についても計画をたてる。半年 から1年をかけて世界を回る。各自が研究レポートおよび生活記録をポートフォリオ にまとめる。と言うものです。北大らしい特徴のある教育と思います。予算に見合っ た縮小版でも実現させたいものです。 ・青年の人間性陶冶:低学年学部学生の全寮制の実現等

■IV. 今回の総長候補者選挙に当って、全学に向けて訴 えられたいこと等がおありでしたら、お書き下さい。

 今、日本の大学は、100年来の大きな転機、あるいは危機に直面していると言えま す。大学の設立基盤が問われているのです。我々の研究と生活に直接降り掛かる問題 であるばかりでなく、日本の教育の将来に多大な影響を及ぼす一大決断を目前にして いるのです。独立行政法人化の問題点はこの法人制度が主務大臣の政策執行機関であ るが故に、主務大臣の及ぼす権限が極めて強く、、大学に適用した場合、「学問の自 由」の明らかな侵害となることです。国立大学を取り巻くこのような重大な問題を背 景に行われる総長選挙ですから、新総長の見識ばかりでなく、選挙に参加する教員の 見識が世間から問われる選挙であると位置付けられます。各総長候補のオピニオンを しっかり理解した上で、最適の人物を総長に選ぶよう、努めなければなりません。こ のような時こそ、自学部利益誘導型の発想をすて、日本の大学の真の改革と発展の為 に、学問の自由の確保の為に貢献できる人物を選出すべきです。北大におけるリーダー シップだけではなく、日本全体の教育、あるいは、国立大学のあり方の論議をリード できる人物を北海道大学の総長として迎える必要があります。  このアンケートや、北大を語る会のフォーラム等、真剣に大学を考える動きがある ことを大変嬉しく思います。また、これらをオーガナイズして下さった先生方に感謝 致します。総長になりたい人からの一方的な働きかけでなく、選ぶ側の働きかけでこ のようなことが行われ、有権者が候補者や、有志の人々の主張を聞き、真剣な態度で 総長選挙に望む姿勢こそ、大学の選挙としてあるべき姿でしょう。  候補者の方々にもお願いがあります。大学を良い方向に持って行こうと言う情熱は、 総長選挙で当選しなくても失われてしまうようなものではないはずです。その情熱を 持ち続け、選挙後は、意見を戦わせながらも、日本の教育の将来の為に、新総長をみ んなでサポートして行く体制を組まなければ、この激動期を大学は乗り切れないでしょ う。