2001.1.20

日本の科学リテラシー

浪川 幸彦

名古屋大学大学院多元数理研究科

●世界最低の科学リテラシーを如何に向上させるか?

 近年、教育の場で「数学嫌い」「理科離れ」が大きな問題になっている。大学生の 学力低下は目を覆うばかりであるが、それ以上に、数学や理科を受験に必要な暗記科 目としか考えない傾向が広まり、その結果、高等学校における数学の達成度、理科系 諸科目の履修率が著しく低下している。

 しかし、こうした問題の背後に、大人の側の自然科学に対する無理解、軽視があ る。数学や理科は一部の(普通とは変わった)理系人間だけが知っていればいいとす る風潮の影響が無視できない。大学の教養教育での科学教育はこうした現状を踏まえ て行う必要がある。

 OECDの調査1)によれば、日本人の自然科学に対する関心・理解は欧米諸国よりか なり低い。しかも「学校を卒業して以降一度も2次方程式を解いたことがないから、 解の公式を学校で全員に教える必要はない」という某女史の発言に典型的に見られる ように、「知識人」と呼ばれる人達の自然科学への理解不足が日本の一つの特徴であ る。

 これらは日本の科学リテラシーが世界最低レベルであることを意味している。しか し21世紀は間違いなく20世紀に引き続いて科学の時代であり、その時代に生きる 者にとって、また日本が「国際化」し、「科学技術立国」で生きていくためにも、科 学リテラシーの向上は不可欠である2)。

●「科学リテラシー」とは何か?

 まず「科学リテラシー」とは何か、その意味を明確にしておこう。

 リテラシーという言葉自体は教育学において古くから用いられている用語で、一般 には言語の読み書き能力を、広くはその言語の背景にある文化全体の理解力を意味す る。

 これに対し「科学リテラシー」の語が用いられるようになったのは、「コンピュー タ・リテラシー」と同様、ここ10年余りのことに過ぎない。

 筆者は、不勉強でこの用語の初出を正確に知らないが、この言葉が広く世に知られ るようになったのは、1989年に出版された "Science for All Americans" およびそ の続編である "Benchmarks for Science Literacy" (1993) 以来であろう3)。こ れらの本は全米科学振興協会(American Association for the Advancement of Science)による、科学リテラシー向上のための「プロジェクト2061」の一環として 出された4)。

 そこでは、科学リテラシーについて、次のように説明されている:
「科学リテラシーは、自然科学および社会科学、さらに数学および科学技術に関わる ものであるが、種々の側面を持っている。自然界に親しみ、その統一性を尊重するこ と;数学、技術および科学相互の重要な関連の仕方を認識すること;科学の基本概念 と基本原理を理解すること;科学的な思考方法を取ることができること;科学、数 学、技術が人間の営みであること、その有効さと限界とを知っていること;科学的知 識および思考方法を個人的あるいは社会的目的のために用いることができること、等 が挙げられる。」("Science for All Americans"[以下SFAAと略記] 序文より)

 科学リテラシーの説明としては、これで十分だと思うが、三点ほど蛇足を加えてお きたい。

 まず元来のリテラシーとの関連としては、広い意味でのそれに関わっている。科学 は数学あるいは自然言語で記述されるのであるが、それを理解しあるいは自ら記述す るだけではなく、その意味を理解し、科学的な思考方法を取ることができる、つまり 「科学」という文化の有り様を身に付けていることまでを含む。

 次に、ここで科学リテラシーは、科学理論だけでなく、科学の主要言語たる数学お よび科学のアウトプットである科学技術をも包含するものとして捉えられている。

 最後に公刊された題名が示すように、科学リテラシーは専門研究者・技術者だけで なく、全ての人が身につけるべきものとされている。

●アメリカにおける科学リテラシーの不足

 上記の2書は、アメリカにおいて殆どの人々に科学リテラシーがない、という危機 感に満ちている。

 そしてSFAAに挙げられている、教育現場での科学リテラシー不足の姿は、今の日本 の現状と深く重なる:

  1. 小学校の殆どの教師達は、ほんの初歩的な科学・数学教育さえも受けていない。 中高の理科・数学の教師も、それぞれの分野の知識において十分な水準に達していな い;
  2. 理科および数学教師は教育負担が大きすぎて、きちんと準備しても良い授業を実 現できない[日本のクラスサイズの大きさ、課外活動負担の重さが対応する];
  3. 現在の理科の教科書は科学リテラシーの養成に役立たないどころか、逆にそれを 阻害しさえする。問題を解く過程よりも答を重視し、内容の理解よりも知識の詰め込 みを優先する。(授業では)目で見、手で触れることなく、書いてあることを鵜呑み にするだけである等々。
  4. 内容があまりに多く詰め込みで消化不良になっている。些末な部分も多く、どれ が科学リテラシーにとって重要かがはっきりしない。[この点はかなり違う。日本の 場合、「ゆとり」重視、選択制採用の結果、学習内容が貧しく、重要な基礎概念も抜 け落ち、あるいは履修率が極端に低下するという結果になっている。]

●よりひどい日本の科学リテラシー不足の実態

 SFAAでは、アメリカの科学リテラシー不足の証拠として国際理数教育調査でアメリ カが惨憺たる成績を収めた事実を挙げている。しかし同じ調査でトップレベルにあり ながら、科学リテラシーがさらに低い日本の目からは納得しがたい。ペーパーテスト で高得点を取ることと、科学リテラシーを持つこととは全く別ものである。

 特に筆者にとって衝撃的であったのは、第3回国際理数教育調査(TIMSS, 1995) およびその追加調査(TIMSS-R, 1999)における教科に対する意識調査の結果である 5)。以下その一部を記す。対象は中学2年生である。

                       勉強は  授業は	授業は	    生活の中で	 将来数学科学の
	               楽しい  退屈だ	やさしい      大切だ      仕事がしたい
数 学
TIMSS (1995)            46%     35%       13%          71%          24%
TIMSS-R (1999)          38%     42%       12%          62%          18%
国際平均値 (1995)       65%     38%       34%          92%          46%

理 科
TIMSS (1995)            53%     33%       15%          48%          20%
TIMSS-R (1999)          50%     36%       19%          39%          19%
国際平均値 (1995)       73%     31%       43%          79%          47%

 何と、理科を生活の中で大切だと思う生徒が4割にみたず、しかも4年間で大きく 減少している! 数学の状況もこれに近い。

 この感覚では、数学や理科に親しみを感じることも、(大学受験科目という理由の 他)これらを学ぶ意義を見出せるはずもない。

●原因はどこにあるか?

 アメリカで、これが最初に問題にされたことからも分かるように、科学リテラシー の低下はいわゆる「先進国」に共通の現象である。

 その最大の原因は、20世紀になって巨大科学が進歩し、科学技術が高度に発展し たため、逆にそれがブラックボックス化して、そこに働く科学原理などを直接見たり 感じたりできなくなってしまったところにある。多くの文明機器は、手元のコントロ ーラーのボタンあるいはダイアル操作だけで動作する。人々は、科学文明の一方的な 享受者であるに過ぎず、それに甘んじている6)。

 その一方で都市の自然は貧弱なものになるばかりである。子供の時に満天の星空に 流れる銀河を見ることなく大人になる者も少なくない。模型飛行機や鉱石ラジオを自 作することも殆どない。こうした自然体験、道具使用経験の不足が20世紀後半以降 科学リテラシーの急激な低下を招いている。

 しかしこれだけでは、我が国の大人も子供も欧米より遙かに低い科学リテラシーし か持っていないことの理由の説明が付かない。この原因を学問的に究明することは、 教育学の重要な課題である。

 以下に述べるのは、あくまでも教育学には素人の筆者による個人的予想である。

 筆者は三つの要因を考えている。第1は日常性との乖離;第2は情緒的な反科学意 識の蔓延;第3はまさに言葉の能力としてのリテラシー低下である。それらの各々に ついて、以下さらに論じる。

●数学・理科教育の日常性との乖離

 アメリカの現状の3.に挙げられていたことであるが、日本でも学校の数学・理科 の授業が、理論中心で、しかもそれを暗記させ、ドリル練習させる形に偏っているた め、日常的な物事と無関係な、単なる受験のためのバリアーとしか感じられていな い。したがって受験に必要なければ、これを履修しないし、すぐに忘れてしまう。こ れが科学的知識の理解・定着を阻害している。大学入学1年後の知識の定着度で見る と、理系の社会科内容のそれよりも文系の理科内容の定着度の方がかなり劣るという 調査結果も出ている7)。

 したがって、大学教養課程では、何よりも科学的原理が身近に観察しうるものであ ること、それを応用する体験を持つことが重要である。全国高等専門学校のロボット コンテストに参加している学生達の実に生き生きした表情はその有効性を示すもので ある。この意味で、文系学生にも是非実験・実習の機会を持たせたい。

 数学の場合は、さらに事情が悪い。日常的な事項を具体的に数学教育の場で取り扱 う機会が、現在の学習課程には全くない。例えば、測量して地図を作製したり、対称 図形の自然界での存在を調べるなど、数学理論を実地に応用したり、観察したりする 機会はない。

 したがって、教養の数学の場合も、日常的な課題を既習の数学的知識を用いて解く といった経験を与えることが重要である8)。また数学史の話題等により、数学がど のように生まれ、発展したか、その人間としての営みの姿を教えることも有効であろ う。

●反科学意識の蔓延

 20世紀科学は巨大化しただけでなく、核爆弾の製造、公害による環境破壊といっ た大きな問題を引き起こし、一方で臓器移植、遺伝子科学など人間の倫理の根本に触 れる難問を提出した。科学技術が今や人間の手に余るものとなっている。

 こうした事実はそれ自身科学の大きな問題であるが、日本では、それがきわめて情 緒的な反科学意識、科学不信につながっている。大学教養教育はこうした誤りを糺す ものでなければならない。したがって「科学とは何か?」という科学思想教育が必要 である。その上で、上記のような科学の持つ問題を正面から考えるべきであろう。

 しかしこの作業は簡単ではない。こうした反科学意識は文系出身の知識階級にきわ めて強く、大学人自身がその誤りに陥っている可能性が高いからである。しかもこれ が一部では、西洋自身に見られる(シュペングラーなど)西洋文明限界論の尻馬に乗 った、妙な東洋思想礼賛、反西洋主義とも結び付く。そこでは科学のみならず、西洋 近代あるいは西洋文化自体が、正しく理解されていない。したがって教養教育におい ては、科学教育だけではなく、すべての(西洋型)学問教育において西洋文化の正し い理解促進を強く意識する必要がある9)。

●言語能力・数学リテラシーの低下

 筆者は数学を専門とするものであるが、近年の大学生の学力低下で著しいのは、知 識それ自身よりも、数学的な表現力、数式の理解力、論理的思考力、抽象的思考力な どの低下である10)。これらはいずれも数学を一つの「言語」と捉えたときの、そ の読み書き能力の主要部分である。それを藤田宏氏に倣って「数学リテラシー」と呼 んでおこう。

 自然科学、とりわけ物理学は数学を自らの「言語」とすることによって、自然哲学 に決別し近代科学となった11)。近年数学を用いる学問は「数理科学」と総称さ れ、自然科学のみならず、社会科学から人文科学にまで広がっている。

 生物学など他の科学分野でも、「言葉」の能力、まさにリテラシーがきわめて重要 である。より一般に(西洋の)学問とは、理論の「言語化」に他ならない。

 このように考えると、数学的なリテラシーの低下は、読書離れなどに見られる日本 語能力の低下と実は根本において共通することが理解される。これを数学・理科だけ のこととする一部知識人の態度は、この意味からも根本的に間違っている。

 この観点から見れば、大学教養教育では遅すぎるのであって、むしろ初中教育レベ ルでの改善が必要である。例えば論理的読解力・表現力の重視など小中学校国語教育 の改革、中学校英語教育の実用化一本槍の方向の転換、数学教育における、小中学校 での記述問題の解答訓練、中学での一種のディベートとして証明理解の徹底などが挙 げられる。

●「数量化」と「数学言語の使用」とは違う

 最後に、よく見られる一つの重大な誤解について触れたい。

 数学の利用というと、数字を用いて物事を表現すること、すなわち数量化であると 考える向きが多い。

 確かにそれは一つの重要な数学の使われ方である。英語でも、科学リテラシーの中 に、「数量感覚」(numeracy)と呼ばれるものがある。しかしながら、数学という言 語はもっと広く、数のみならず図形や文字をも用いて様々の概念を定義し、述語論理 と呼ばれる一定のルール(文法)にしたがって理論を組み立てていく。

 学問において、数学言語を用いるとは、対象の中にある構造をこうした数学理論に よりモデル化して記述することに他ならない。その結果、対象のある性質が一定の数 量に対応するのが「数量化」である。例えば、運動はニュートンの微分方程式で記述 されるが、これが力学の数学的構造化であり、方程式を具体的に解けば初期条件によ って各時刻での位置・速度その他が数量として表現される。

 数量化の背後には、必ずこうした構造化、あるいはモデル化があり、そのモデルが いかに適切であるか、有効であるかが、出てきた数字の信頼性を決めるのである。

 こうした数学モデルを構成し、理解し、その適切さを判断できる能力が、数学リテ ラシーであって、それは数量感覚を含む、より広い科学リテラシーなのである。

 大学教養課程の数学教育においては、こうした数学の本質の正しい理解を図る必要 がある。 1)OECD, "Promoting Public Understanding of Science and Technology", 1997, "Science and Technology in the Public Eye", 1997

2)本稿のテーマに深く関わる優れた論考として、風間春子氏による「国際比較から 見た日本の『知の営み』の危機」(大学の物理教育,1998-2号)を挙げたい。

3)これらの本文はインターネットで公開されている:

http://www.project2061.org//tools/sfaaol/; http://www.project2061.org//tools/benchmarks/

4)この間の事情については清水克彦氏(国立教育政策研究所)の御教示を得た。記 して感謝する。

5)TIMMS については
「小学校の算数教育・理科教育の国際比較」国立教育研究所編,1998
「中学校の算数教育・理科教育の国際比較」国立教育研究所編,1997
(いずれも東洋館出版社刊)

 TIMMS-R については
htttp://timss.bc.edu/timss1999/
を参照されたい。ただし、追加調査でのデータは、昨年12月に発表された国内調査 結果速報による。その国際平均値は上記レポート中で公表されていない。

6)こうした人々を小林信一氏は「文明社会の野蛮人」と称した。

7)平直樹「大学入学者の学力の保持と変化について」大学入試センター研究紀要, No.23 (1994),69 - 95

8)日常的な問題から出発して数学を学ぶ形の教科書として、昭和18・19年に出 された高等女学校用のそれが実によい例を与えている(国立教育政策研究所の瀬沼花 子氏等による研究を参照)。

9)西洋文化を真に理解するために一生を捧げた思想家として丸山真男、森有正の二 人を挙げたい。ここに記した意味では、マルクス主義の影響を受けた人々もまた多く の場合、きわめて偏った西洋理解に陥っている。

10)詳しくは拙稿「大学生の学力から見た初等中等教育の課題」(日数教 YEARBOOK 第4号所収)を参照。

11)「自然は幾何学の言葉で書かれている」というガリレオの有名な言葉がある。

(IDE2−3月合併号掲載予定)