2001.1.6の添付書類
2)どの生物種(多細胞生物)でも、受精卵から然るべき順(形態や成分の形成)を経て成体になり、その成体が配偶子を形成して、また受精が起こって個体発生を起こす、ことが続きます(正常発生とよびます)。発生の進行経緯につきましては、遺伝情報からタンパク質形成までの機構が、近年の分子生物学的成果に基づき、いろいろ明らかにされつつあります。つまり、「生物がどうなっているか」(現在科学としての捉え方)については、生物現象を支える実体が随分わかってきたということです。
3)私はそれらの成果に基づきながらも、発生に対する問い方が異なりまして、「なぜ、このような現状に定まったか」と、問うております(歴史科学としての捉え方)。これは直ちに進化の問題になりまして、とくに岡山へ参りましてからは、発生と進化の関係、といったところが焦点になりました。そうしてこの数年、大変、大事な、また面白い局面に至っております。(まことに恐れ入りますが、岩波ジュニア新書357「大学活用法」の白井のところをお読み頂けませんでしょうか。)
4)一言で申しますと、新しい進化観とも言うべきものです。現在のところ、進化については、まだ、ネオ・ダーウイニズム(総合説)が通説と思われます。しかし、これが集団遺伝学から批判され(木村資生「分子進化の中立説」 紀伊国屋書店 1983)、木村からさらに進んでの太田朋子によりますと、「『分子進化のほぼ中立説』(太田朋子)が近年、学会の合意を得るところとなったが、まだ、ネオ・ダーウイニズムの信奉者も多い」と批判されています。
5)現在のところ通説のネオ・ダーウイニズム(総合説)とは、「ダーウインの自然選択(適者生残と不適者排除)と、分子遺伝学(DNA情報が蛋白質を規定する)の成果とを結びつけたもの」です。つまり、「DNAのランダムな変化により、個体の表現形が変わる、このうち有利なものが選択されて種に蔓延するはず(種内で100%になる)」というものです。
6)これに対して「分子進化のほぼ中立説」は、検出されるDNA変化(置換)の殆どは、微弱有害であるという事実の発見であって(木村のいう中立ではなく、むしろ微弱有害)、この事実が近年、合意されるところとなったのです(ネオ・ダーウイニズムのいう、「DNA変化のうち有利が選択される」が成り立たないということ)。これにより、太田は、今後の進化の課題は「『ほぼ中立説』とダーウインの自然選択を関係づけること」、つまり、「DNA変化については殆ど微弱有害なのに、なぜ、生物進化では適応が進行していくか」に答えることだ、としています。
7)計らずも、私はこの点に答えを与えるような研究をしています。まず、生物が多くの余剰エネルギーを持つことを実験的に示し、その結果が進化上、どのように影響を与えているかをみました。それから進んで、生物の現状というものが、適応のめいっぱい進んだ効率のいい状態ではなく、機能ももたない余剰も含む状態であること、また、その余剰を前提に不要域の出現も可となるので退化域を引継いでいるような状態である、という認識に到りました。過去の成り行きを引き継ぐという点は、親知らずや、盲腸や、その他様々な退化器官を私たち自身も含んでいますので、分りやすいと思います。生物の現状というものは、すっかり適応が完成しているものではなく、効率も良くない条件を多々含んだ状態である、という捉え方です。
8)なぜ、生物が余剰エネルギーを蓄積・維持している状態であるかは、生命の本質にかかわります。生物はまず、個体として生存していますが、生存とは個体内部での様々な生化学反応の継続なのです。個々の反応自体は、電磁気的エネルギーに基づく分子間相互作用(エネルギーを吸収する反応とエネルギーを放出する反応の共役)です。生物は常に、個体全体としてエネルギーをやりくりし反応を続ける状態であって、まさに常に現在を生きるものです。この際、生存するだけでエネルギーの消耗なので、それを取り返すべくエネルギー獲得をしなければなりませんが、そのためにまたエネルギーを消耗しなければならないのです。生存とは、甚だ矛盾した状態なのです。したがって、常にエネルギー欠乏(飢餓)の危険にさらされているわけで、どのように良好な環境下でもエネルギー蓄積を増加させるような圧力下にある、と捉えられるのです。
9)私の到達した生物観では、進化の順は以下です。i)種に属す個体は現状で大方同じような生き方をしており(主要な局面は、エネルギー収支をプラスに保つ、ということです)、生活型の変化は個体の全てにすばやく起こる(先ごろ、厚生省から報告された日本人の身長の伸びを思い出してください。戦後からほんの50年、まだ世代も変わらないのに、10数cmも伸びました)、ii)個々のDNA変化の生起は不断に起こっているが、生物が余剰エネルギーをもつので、その変化が微弱有害なものも排除されないで維持される(微弱有害な変化を持つ個体でも生存可ということ)。iii)種が採用している生活形を安定化するようにDNA変化の編成替えが有性生殖を通して密かに進行していく(その間、有利・不利な組合せが出現すれば、自然選択がはたらくでしょう)、iv)どのような編成が有利か、不利かは、その種が現在採用している生活形による、つまり、適応はDNAに規定されるのでなく、生物の生活形により、多様たり得る、というものです。
10)このような認識は、現存するどのような機能も、はじめから目的されて、過不足なく少しずつ成立したのではないこと(目的論は、神の導入です)、非目的的・付随的なエネルギー蓄積や退化域の常在が、生物の生活形に依り利用・転用され始めることに端を発し、やがて新しい機能が定着・必須化していくという経緯であること、という推論を導きます。したがって、今後、進化においてどのような条件が、現実の生物を成立させるに到ったかを(とくに恣意性が拘束を生じる経緯。つまり偶然の必然への転化)、可能な限り明らかにすることが大事となり、また、或る条件を与えることによってもたらされる変化を予測・制御するような、実験進化学が、大事だと思います。現在、「適応的突然変異」とよばれるような、ネオ・ダーウイニズムでは説明できない現象も報告されはじめています。これらの現象を、私の進化理論ではどのように解釈し、またその解釈の正しいかどうかの検討については、別に、述べたいと思います。
11)このような進化観は、ネオ・ダーウイニズムとは殆ど180度逆転です。なぜなら、ネオ・ダーウイニズムでの進化の順は「或るDNA変化を起こした個体において表現形が変わる―これが選択にかかる―有利なものが種に蔓延する」という順がですが、私のでは、「先ず変わるのは種が採用している生活形・これに依存した表現形であり、これを安定化するようにDNA変化の編成替えが後から進行する」という順だからです。生物は、DNAに規定された決定論的な生き方をしているのでなく、生活形を主体的に決定する(意志をもつ、という意味ではありません)ことで、未来を開いているのです。そのような意味で、新しい進化観では、獲得形質の遺伝的固定の経緯を現代的に明らかにしたことになるのです。
12)生態学では、生活形が重視されています。この場合主として、環境に対応して生活形を適応させていく、という生物の受身の面が捉えられています。私ももちろん、地球史スケールの環境変化(造山運動や海面の上下など)に対応して、適応が進行すると捉えます。しかし、たとえ環境が一定でも、エネルギー収支の改善に向けて生体は変化し、この間不断にDNA変化は起こり、その生活を安定化するように種内部で有性生殖を通して、DNA編成替えは不断に密かに進行すると捉えます。なぜなら、上にも述べましたように、代謝の継続が生存なのであり、エネルギー蓄積の傾向は生存率を上げることが必然であるからです。そうして、繁栄して増えた種は広い空間を占め、それによって種内のサブグループ同士が互いに異なる条件をもつようになるというような(個体間の関係が、辺縁部と中央部では違うなど)、自己発展が起こると捉えます(自ら、環境条件を変えるということです)。或る場合には、長期にわたり環境が一定である場合、適応ならびに反応効率の改善が大変進行して、どの個体もそろって効率のよい表現形を支えるDNA編成を持つことにもなりえます。しかし、このような完璧な適応(特殊化の進行)は、少しの環境変化に対しても、どの個体もエネルギー効率を落とすことになり、そろって脆弱さをさらすことになるのです(絶滅の内因と理解出来ます)。
13)以上のようなわけで、私は以前に自分が影響されていたネオ・ダーウィニズムと決別しました。いつも、自分の専門分野を本当に進めるとはどういうことか、と、問いつつ、論理学や哲学、歴史、経済学などの勉強を致しますが、そこで得た考え方を生物学に当てはめるのでなく、自分の実験の吟味から、変更を余儀なくされたのです。それで現在私は、あたかも、ラマルクが生物の創造説に立ち向かって生物の進化(変遷)の認識を主張したように、また、マルクスが古い経済学やヘーゲルの観念的弁証法に立ち向かって唯物史観を発展させたように、生物進化の現在の通説に立ち向かって新しい進化の捉え方を知らせよう、という気構えでおります。決して、いばったり、出来上がったものの無理強いを叫んだりしているのではないのです。いろいろな機会を生かして、新しい生物観・進化観を解説し、またこの線に沿った共同研究などを、一層広く大勢の方々と進めていきたいと願っています。新しい生物観・進化観は、社会変革の実践に向かう人々を、もっともな根拠をもって励ませると思われ、大変、嬉しい思いでおります(頭ごなしに道徳や倫理を説くのでなく、客観的事実としての生物の理解なのですから)。
14)なお生態学は、日本では独特の経緯がありまして、その中で今西錦司も知られています。「今西生態学」はとりわけ「棲みわけ」論として知られておりますが、「棲みわけ」とは、どこまでも現象の記載の段階です。今西自身は、なぜ棲みわけに到るかを解明するための「分析」とか「抽出」などの作業をせず、唐突に、「生物は変わるべくして変わる」というような表現をとり、これでは科学ではありません。いわば西田哲学の影響が見られ、これを本人も認め、かつ自分の仕事は科学でなくて良い、というような開き直り的な表現があります。 木村資生なども今西を批判しています。現象の記載としての言葉が、いつのまにかその現象の機構を表すかのように使われるという誤りが、生物学では多いように見られ、残念なことであると捉えております。もっとも生態学では、その後、別の人々が、さらに生態学を正しく発展させています。その他、生物学や進化学に関する他のいろいろな考え方に対する私の批判や評価は、おいおい、また別に致します。
15)生物学、とくに進化についての捉え方は、人間社会にも多くの影響を与えます。人間が生物の1種であることから、生物としての現象と、社会性(同時に、個人としては精神性)を備えた人間の社会現象との混乱が、多々見受けられます。生物学の成果の一部だけを拡大して社会・政治状況に適用したり、政策の根拠とされたりすることもありましたし、現在もそうです。明治において日本に進化論が導入された時は、知識層の一般教養として入りましたが、いろいろな特殊事情があります。加藤孝弘が、それまでの天賦人権論を捨てて、「弱肉強食」のみを強調して進化論をとらえ、政界・学会でのいわゆる重鎮の座をしめるようになったことなど、典型的な事情です(後に、東大の初代学長)。
16)そのような傾向は、現在でも、繰り返されているようです。独立行政法人問題に関する、池内了氏の国会での発言(pre-acnetに掲載)でも、大学間の格差が歴然なこと、その是正としての基礎的な整備を充実させることなしに、資源配分を「競争」環境に乗せることへの批判が述べられています。同じ日本語同士で翻訳が必要なほどの事態は、つまり、 個性化といっても豊な多面的個性の開花というよりはその実は差別化、 競争といっても切磋琢磨というよりはその実は非人間的な弱肉強食、 「共生」といっても自立したもの同士の互いの発展を尊重しあうものというよりはその実は人間関係の固定化、など、まことに厭わしい限りです。生物学における生存競争も、共生も、現在、社会で言われる内容とは異なっております。生物学の科学的な成果を、きちんと正しく早く社会に知らせることはまことに大事なことだと思います。
2)理論の革新、もしくは認識の深化は、「従来・現状」の批判ですから、「従来・現状」を維持しようとする側は批判者を異端と見なすのは歴史が示しています。一方、人間の物事に対する認識の深化は、事実と道理があれば必ず大勢に理解され(ガリレオの呟きのように)、それがやがて常識化することも歴史は示してきました。ですから大勢の一人一人がそれぞれに広く深い視野を待つようになること、つまり大勢が哲学者(統一的な宇宙観・世界観・社会観を持つということ)になるという社会的な蓄積を、極力進めたいと思います。それで私の場合は、自らは専門分野以外の領域の勉強を進めつつ(もちろん専門も一層研究するのですが)、私の方からは、新しい進化観を、早く正しく大勢の人に伝えたいと思います。専門の解説を通して、その他の領域における闘いをも励ますことが出来るだろうと思うのですが、どうでしょうか。
3)それで、先ず身近な友人に、新しい生物観・進化観を話してみました。すると、現在では、経済学・考古学・物理学・地質学・生命起原学・法学・政治学・歴史学などの友人の方が、私の考えを適切に理解してくれることが多く、案の定、最も身近にある発生学分野の人々に拒絶が多いのです。もちろん、科学的認識とは、とか、歴史とはなどの勉強をしあう仲間は、すぐに理解してくれます。私の専門分野である発生学では現在では、胚学(Embryology)ではなく、発生生物学(Developmental biology)であり、個体発生の進行に関して分子生物学レベルの解析をするのが潮流で、多くの人がDNAの分析を手がけています。競争も多くて大変忙しく、また、現状がどうか、というレベルの研究なので直接、進化観を必要とせず、無理もないかも知れません。したがって、獲得形質の遺伝的固定の経緯(進化の進行)について現代的に解くことにもなる私の考えは、生物学では、当面、拒絶・無視が続くかもしれません。
4)しかし、やはり、努めて、広めなければならない、と考えています。或る法学分野の友人が、私が詳しく説明しないうちから、「そうすると、DNAを個々にいじっても、遺伝病などの本質的な解決にならないということだね」と、生物生存の本質を的確に理解しました。そうなのです。現在、花形のバイオテクノロジーとして巨額が投じられているような手段は、本当に有効であるとは限りません。或る個人の生存状態が、たった一つの遺伝子で支配されている、ということは殆どないからです。それに、個体の全ての細胞に対して特定のDNAの人工的入れ替えを行うことは不可能です。また個体形成前の、遺伝子診断による生命の取捨選択は、優生学の蒸し返しであり、このような性急な特定遺伝子の排除は、それを持つ個体が含んでいる可能性をも同時に排除しますから、ヒトの生物としての可能性を狭め、危険な特殊化へ向かわせるでしょう。DNA変化の多くは微弱有害であるが、それを排除しないでいることが出来ることで、生物は可能性を拡大してきたこと、効率改善の過ぎた進行は脆弱な特殊化であることを、思い返してください。
5)人間の遺伝病やハンデイキャップに関してならば、それをもつ人の生活の質を高くすること、それらの人々の人権も健常者と全く同じであるという意識をもつこと(実際、健常者といっても、数百の有害なDNA変化を含んでいるのです)、その意識をもてるようなゆとりある社会環境を作り出すこと、などの方がずっと大事だと思われます。ネアンデルタール人のような昔の人でも、ハンデイキャップを持った人もかなり長生きであった、つまり、社会で大事にされていた、という事実が明らかになりつつあります。けれども、現代の経済体制に依存した現実のバイテク産業など、経済活動がかかわっていると、一層、新しい進化観は、排除されるかもしれませんね。反語的には、今ほど、多くの個人の価値が低まっていることはないのではないでしょうか。人間の意識の変革は(何を維持し何と決別するかの判断の変化)、なかなか、時間がかかるようです。(全てのバイテクを否定するのではないのです。誤解なさらないで下さい。)
6)さらに、現在では、人文・社会科学の方でも、「文化の相対主義」が流行であって、経済活動を土台とする社会の法則的発展、ということが否定的に捉えられているとのことです。大変、進化学と似た状況があって興味深いです。けれども私には、その流行は、生物学におけると同様、大きなスケールで見れば、「現代」という短時間における一時的な現象のように思われます。生物学でも、人文・社会科学の分野においても、学問がもっと対象の本質を捉えるような方向に進むと思います(というより、そのように進めなければなりません)。これは可能であると思います。なぜなら、先も言いましたように、すでに多くの人が新しい進化観をよく理解しますし、或る縄文時代を研究している研究者が、私の進化観を知ったとき、「こういう生物観・進化観こそ考古学にも大いに参考になる」と、感想を述べてくれました。上に示した、法学の友人の進化理解も、明るい展望を与えます。さらに、はじめに挙げました本を読んで下さった高校時代の生物学の先生が、「かつて、遊んでばかりいたと思ったが、いつのまにか大事なことを研究するように育ったものだ、嬉しく思う」と手紙を下さいました。
7)現代では多くの人がずっと速く勉強を進めていますから、事態(社会における個人の精神の発展とそのように発展を遂げる人々の増加。つまり、例えば、私の進化観が広く常識化すること)はずっと速く進行すると思われます。どのくらい速く進行するか、長生きして見届けたいものです。そうしてそれを促進する社会実践に自ら参加したいと思います。なぜなら、この実践の目的は、まさに、学問のいろいろな分野を正しく理解した人を蓄積することに他ならず、この蓄積にこそ人間の存続が依存するのですから、この上なく嬉しく楽しみなことです。いわば、社会における現在進行形の実験であり、結果は私たちの実践如何に依るわけですから、コンナに面白いことはありません。かつて、社会的実践活動と専門分野における研究とが背反的に捉えられた時期がある(時間が不足で両立しないなど)のとは、まさに逆転で、喜んでおります。
8)というわけで、私にとっては、自分の専門分野の研究を進め、成果を大勢の人に伝えることと、社会問題に関する実践活動が不可分なのです。それで、日常活動の一部を紹介します。私は、日本科学者会議(JSA)の会員です。JSAは各県に支部があります。科学が戦争に再び協力しないことを決意して、科学者の社会的責任を果たし、科学を進展させることを目指して、戦後、直ちに成立された民主主義科学者協会(民科)の流れを組むものです。民科には、法律部会とか生物部会など、部会があり、まだ続いているものもありますが、全体としては一旦、途絶えました。その後、やはり、社会科学・人文科学・自然科学など、科学の全域におよぶ協力関係の必要性が見直され、新たにJSAが成立したのです。JSAはまた、単に科学者だけの集団とせず、広く、大勢の市民に、科学を広める目的も抱えています。多くの人の参加を得たいと思います。もし、皆さまが、まだ会員でなかったら、どうかご参加ください。
9)JSAはほぼ2年ごとに、総合学術集会(総学)という学会を持ちます。去る2000年12月22-24日には、第13回総学が大阪でもたれました(私も参加し、新しい進化観を解説しました)。この総学での基調講演にはいつも、感激します。何回か以前のものには、歴史学・弓削氏のものがあり、簡明に要約された結語、「明治以来の日本は、内に向けては人民の抑圧の、外に向けては侵略の一途の100年であった」にも感激しました。今回のドイツ文学・長砂氏の「ナチに対するドイツ人文学者の抵抗の例と日本における戦争責任追及の不十分さ」もまことに共感しました。今回はさらに、新たな提案がなされたので紹介します。それは、科学者の自律的な集団として、経済的基盤ももった財団法人を立ち上げること、また、多くの重要な論文を掲載できる新しいジャーナルを立ち上げること、です。ジャーナルの名前は「Humanity and Sustainable society」というものです。現在の環境問題が示すように、人間の活動が大きくなり、地球の資源が有限であることが認識されるようになりました。現代では、文化的条件もさることながら、生存条件が問題とされる状況にあるのでですから、多くの個別科学の統一的な共同作業としてまことに、必要でふさわしいものと、私は2つの提案に賛成しております。ac-netの活動も、まさに同類のものだと思います。ac-netに参加する方々も、どんどん、このジャーナルに投稿できたら素晴らしいと、希望しています。
10)また、大学人、地域、勤労市民だけに活動の場を制限せず、現状の日本では、私どもと共感できるような行政体もつくりあげていくことが大事だと思われます。現状維持だけに汲々とする今の政治権力・その取り巻き集団は、現状の条件にだけ適応し、その条件でなければ生きられなくなっているのでしょう。これはもはや、不要なものではないでしょうか。「そのような人々の価値観」に従って私たちの可能性を制限するのでなく、未来に可能性を開く「そのような人々の価値観」ではない、とりどりな価値観を共有しあう社会に向かいたいと思います。その意味で、革新自治体の形成に向けた、革新懇の運動とも、ぜひ、連帯していくべきではないでしょうか。