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生物科学 52巻4号(2001.4.1)

学生による授業評価をどう見るか

渡 辺 勇 一

キーワード:大学の授業、学生による授業評価、日本の大学改革

 大学改革の一つの傾向として、学生による授業評価が、特に国立大学で急速に広ま りつつあり、この評価作業を請け負う業者までが出現した。本論文では、大学の授業 評価に対する姿勢、学生による評価活動そのものの意義と限界、多項目アンケート形 式による評価項目の設定、また評価結果の扱い方、学生や教員の授業評価についての 意識などを取り上げ分析して、現状の問題点を探る。


WATANABE YUICHI: A view point on student evaluation of teaching
〒950-2181 新潟市五十嵐二の町8050 新潟大学理学部生物学科
E-mail: watayu@sc.niigata-u.ac.jp

はじめに
日本の大学における授業評価の必要性
授業評価を阻む声
授業評価の設問のありかた
評価の結果をどう生かすか
受動的なモニターから、積極的な参画者としての学生の役割変化
[文献]

はじめに

我が国では、教える側のいわゆる「師」が、教えられる側から評価されるという発想は存在し得なかった。この中で欧米の授業評価のあり方を、いち早く取り入れたのは、ICUや東海大、多摩大、などの私立大学であった。しかし1991年の大学設置基準の大綱化と対に半ば義務づけられた、自己点検・評価の動きが始まると、事情は大きく変化する。大綱化直後に安岡と堀地(1992)が、一般教育学会に所属する教員を調べて、まとめたアンケートによれば、自己評価(この中には授業評価の比重が高い)を組織的に検討し始めた国立大学は、69%で、私立の34%を大きく上回っている。学生による授業評価は、改革のポイントの大きな目玉として、次々と多くの大学に取り入れられ、最近になって授業評価を請け負う専門の業者が、高等教育関係の雑誌に公然と宣伝を行う事態になってきている。

 下記の文は、ある大学の公式の頁に1995年に書かれたものであるが、評価制度そのものの広がり方について、多くの大学教員の本音をかなり良く表しているように思われる。なお、この大学では、他大学より早く学生による授業評価を取り入れている。

近年、自己点検・評価という言葉が大学関係者の間で流行病のように広がっている。自己点検・評価という言葉に象徴される国立大学の大学改革は、予算の配分権を握られている文部省の音頭もあり、どこの大学でもバスに乗り遅れまいと一所懸命である。しかし、はっきりしているのは、大学はもはや社会とは隔絶されたところで超然としている存在ではなく、社会の大きな期待に応えるべく社会のニ−ズの変化に的確に対応していかねばならないということである。授業評価は、学生が教官の授業 内容等について評価を行うもので、米国では多くの大学で実施されているものの、我が国において全学レベルで実施しているのは、あまり例がないと思われる。
 自国以外の制度を取り入れる場合には、そこに様々な変質が起こっても、取り入れた側には余り気づかれない場合が多い。学生による授業評価と同じ様な事情で、我が国の大学に「外来ものとして」導入された、シラバスについて比較してみても日米の根本的な違いが存在する。

 米国で教鞭を取った苅谷(1992)は、シラバスを以下の様に定義している。「このように見てくると、シラバスは単なる大学の授業紹介ではないことが分かる。シラバスは、授業内容をあらかじめ学生たちに知らせるだけにとどまらない。シラバスはその授業が学生たちに、いつ、何をどのように要求するか、その要求にもとづく学生たちの学習の成果をどの様に評価するのかについて、教師と学生との間で口頭によるのではなく、文書を通じて明示的に確認しあうための文書である」

 日本のシラバスを調べていて、このような内容が盛り込まれたものを見ることは希有と言って良い。そもそも授業の形態が違い過ぎるのである。学生が何の授業準備もせずに教室に出向き、教員が時間いっぱい一方的に話し続けるタイプの日本の授業では、シラバスが、単なる進行予定を示すものに堕してしまうのは、当然かも知れない。これに対して米国では、授業のために予め読んでおかなければいけない、文献の所在、あるいは入手方法までがシラバスに書かれている事から分かるように、学生の課題が先行してそこに書かれている指針書となっているのである。

 それでは学生による授業評価については、どうであろうか。冒頭の引用記事に示されるように、また筆者の大学における推移をみていて感ずるのは、多くの大学の「学生による授業評価」導入のあり方は、バスに乗り遅れまいとしてともかく実施するまでは良いが、結果を出して一安心という傾向が見られる。対外的にまとめられた評価報告書の完成は、飽くまでも出発点でしかない。アンケートで問題にされた講義の欠点をいかに改善するかという、具体的な踏み込みが充分果たされているであろうか。

 本稿では、現在多くの大学で実施されている評価についての問題点を指摘し、よりよい授業を実現するための今後の方策に役立てたいと考える。

日本の大学における授業評価の必要性

 日本の大学の教員採用に当たっては、研究論文業績は必須の書類であるが、教育に関する書類は「抱負」程度のものである。そもそも教育業績を計るという活動そのものが欠如しているのである。採用後の人事昇進に関しても、教育の功績を重視している大学は、筆者の知る限りでは少ない。このこともあってか、教育と研究への関心度を調査した結果は世界の平均と大きく異なる。安岡ら(1999)が引用している、カーネギー教育振興財団の1992年の調査によれば、世界14ケ国における大学教員の「研究:教育」の関心比率平均は56:44であるが、日本の教員は72:28と異常に高い数値を示している。

 また片岡と喜多村(1989)の意識調査でも、大学教員は研究者であると考える者の比率が、国立・私立を問わず7割程度あり、特に国立では81%と高値を示しており、米国大学教員の教育重視教員7−8割という比率と好対照をなしている。この結果は、学生による授業評価を行う必要性が、日本の大学にとっては特に重要であることを証明している。

 もう一つは、苅谷(1992)が指摘するように、米国のダイアローグ型の講義に対して、日本での多くの授業がモノローグ型でしかない現実がある。米国とだけの比較だけではなく、アジアの国々からの留学生からも、日本の大学での学生間の討論の不在を嘆く声が多いし(片岡、喜多村1989)、後述するように我が国の相当数の大学生も、意見を発表したり、討議を行ったりする授業を望んでいる。このような授業を多くしてゆくための原動力として、授業評価が不可欠であると言える。

 学生による教育評価といえば、通常は個別(または系列別)の授業科目に対する評価、いわゆる授業評価と呼ばれる調査を指すことが多く、現実に多くの大学で行われているのは、このタイプのものである。その他に、単位制度やカリキュラムに対する問が含まれる場合もある。やや特殊なものとして、ある改革を行った数年後に、改革自体の有効性を大きな視点から学生や教員に問う例も見られる(東京大学1997)。本論文では、個別の授業評価のみに焦点を当てて記述を進めることにする。

授業評価を阻む声

 どこの大学でも、学生による評価を拒む声が相当強く存在する。もちろん教員側が発する意見である。授業評価に先行して、教員の声を集約すると、以下の様な意見が出されるが(安岡ら1993)、これらは筆者の周辺でも良く聞かれる一般的な見解である。 

 a)真面目に勉強もしない学生に、教える人間の評価など不可能である

 b)狭隘な施設などを放置したまま、評価だけを厳しくする事は問題

 c)学生の態度も合わせて評価すべきである

 d)評価によって、教える側の「創造性」や「個性」が抑圧される

 e)大道芸人の様に面白がらせる授業が、真の大学の授業とは言えない

 f)教員の人事管理の資料として悪用されないか、目的を明確にして実施せよ

 g)第三者が実施しなければ意味がない。結果の提示も分かりづらい

 外国、特にアメリカの教員の反対意見はどうだろうか。ローマン(1987)がまとめている反対意見は、ほぼ上記項目と共通している。ただ「卒業して何年も経ってからでないと、習った教師について正当に評価することはできない。それは講義の最後の十分間でマークシートに書き込んだものから分析できるようなものではない」とする反対論は、筆者の周囲にも見られる、なかなか手強いものである。ローマンはこれに対して、実際の卒業後の学生に対する調査データを引用しつつ、学生時代の「良い教師」の評価が、卒業後も持続する事例がほとんどであり、それが逆転する例は少ないと反論している。

 このように様々な否定的意見の存在はあるものの、教員の教育活動評価に学生の授業評価結果を生かすべきであるという意見が、東海大学教員の意識調査(安岡ら1993)では54.9%と過半数に達している。更に別の調査によれば(安岡ら1992)、「授業評価の結果は信頼できるか」の問いに評価を実施した教員の60.8%(非実施教員は23.3%)が肯定的に答えている。これらの事実は、授業評価に対する否定的見解を持ちながらも、その積極面を評価しつつ授業改革を考えようとする、大学教員像のあらわれと取れる。

 しかしながら、学生による授業評価を完全に全能とする考えは、楽天的過ぎるであろう。絹川(1997)は、エルトンの言葉を引用しながら、「良い」授業を類型化する危険を指摘している。また授業内容の適切さや、教員の知識と専門性のレベルについて、学生にコメントさせてはならないと警告している(絹川1992)。藍谷ら(1993)も、アンケートの項目作成の際に、意識的に授業内容そのものを問う設問を排除している。圧倒的に長い経験を有する教員が「創り出す」授業を、全く経験に乏しい学生が評価を下す行為については、一面的に裁断を下すのではなく、複眼的な配慮が不可欠であろう。

 本稿では、評価制度導入の経緯について、国際的な比較を試みる余裕はほとんどないが、一点だけ強調しておく必要があるとすれば、既に示したように、授業に関する様々なシステムが、常に外来のものであったということである。しかしながら、本家のアメリカでさえ、大学紛争がなかった1960年以前までは、学生は「親代わり政策」によって保護するだけの存在であった(大学改革研究会1969)。紛争を経験する中、1960年代後半に種々の報告や声明が出される中で、学生参加が計られていったとされる。 

授業評価の設問のありかた

 評価の設問には、全く自由に感想を記述させる方式と、あらかじめ細かな項目を個別に答えて行く様式とがある。後者については更に、3−5段階の肯定→否定の度合いを選択させるInventory様式と、対立した2つの単語を並列させて、感じる程度を選択させるSemantic Differential (SD) 様式とに分けられる(梶田 1997)。  評価を行う目的が、個別の授業の範囲内で終結するのであれば、アンケート項目は各教員の手作りとなり、その形式も記述式になるのが順当である。しかし上に述べた、自己点検評価書類をまとめる事情から、国立大学では評価結果は「外部に」示されることが第一義的な目標となる。このために大学全体で評価項目を印刷したマークシートを作成し、コンピュータ処理によって多量のデータを示すことが常道となる。この目的には、どうしてもInventory方式が主流となってくる。無論自由意見を別枠に書き込むように配慮して用紙が作られる事は多いが、時間的余裕の少ない状況で、設問項目が余り多くすると、マーク作業に時間をとられ、自由意見の汲み上げが弱まってしまう恐れがある。特に5段階にも回答マークが分かれた設問が多数並ぶと、評価する側の学生は、いちいち厳密な符合でマークしてゆくことに、かなりの迷いを覚えるのではないかと思う。大学によっては、期末試験の直前にアンケートを行ったと、報告書に記載している例がある。この場合、自由意見欄は設けられていないことは当然であるが、時間だけでなく、精神的余裕の乏しさの面から、マーク結果の信頼度にやや不安をおぼえないだろうか。  

 仮に、用意された設問が全くなく自由記述であるとすると、学生は講義の感想に断片的な項目を用いて記載するであろうか。講義全体を聞いた後の反応とは、そのように寸断化された因子で表されるものではないように私には思われる。ロンドン大学教育研究所(1982)による「大学教授法入門」では、5種類のアンケートが示されているが、授業評価については、大まかな7項目の設問だけであるり、ひとつひとつ切り離された項目の評価では、どうしても浅薄なものになりがちであると警告している。考えられる項目を網羅すれば、片岡と喜多村(1989)が示すように、40項目を越える設問が可能である。

 「流行病の様に拡がって」という表現を含む文章を、筆者が冒頭で引用したのは、それなりの意味があることであって、実際に授業評価のアンケート項目についていくつかの大学の事例を調べてみると(岡山大学1997,宇都宮大学1997,名古屋大学1998,徳島大学1998,奈良女子大学1999,和歌山大学1999,香川大学1999)、「講義はシラバス通りだったか、板書、視聴覚教材の使い方の善し悪し、声の大きさ、教員の熱意、学生の反応の確認の有無、学生側の出席状況」などのように、どちらかと言えば寸断された項目について、++,+,0,-,--,等の記号を選択する様式が多いようである。

 問題は、このような多項目の問を次々に設定してゆく作業の前に、評価を実施する側での授業についての理想像について、どの程度議論が交わされているかである。相当不満の多い、現在の大学の授業を改善する方向として、アンケートの個々の項目に示される内容を、学生が満足する側に全てシフトさせれば、それで「理想」が達成されるように計られているのだろうか。 

 ほとんどの大学で現在行われている授業評価項目は、教師が大変上手な技術を用いて、熱意を持ち、論理的な話を展開すれば、評価点は高くなるように作られているように思われる。中でも板書が見易いかという項目からは、一糸乱れぬ板書のもと、教員が水を打った様な教室で一方的に話を展開する、といった講義風景が想像されるのではあるまいか。板書の善し悪しを問うのなら、双方向的な授業であったかを問わない(鹿児島大学1995)事が当然と思われるが、板書の善し悪しと双方向的授業かの両方が、設問として同居していることも珍しくない(新潟大学1996,和歌山大学1999,藍谷1993)。予備校経験者の中には、母校(?)での経験の通りに、重要事項を黄色でかこみ、試験に出る可能性のある事項を赤色で示せと、大学教員に要求する者さえあるそうであるから、ある設問項目において、学生が満足する内容とは、設問側の予想をはるかに越えてしまっていることもあるわけである。

 アメリカの双方向的な生物学授業の典型を表した本として、「ファーンズワース教授の講義ノート」(ヘプナー1991)があるが、このように完全に双方向的な授業を実現したとすると、板書の比率は極めて低くなるのではないだろうか。少なくとも、苅谷(1992)が示している、2例の授業評価項目表の中には、板書の善し悪しという項目は出現しないのである。その代わり、効果的なコミュニケーションや、討議の促進が問われている。全てを米国式に模倣する必要はないが、我が国での大学に於ける授業の「理想像」が、未だ充分に描けていないままに、アンケート設問の設定が行われると言う、弱点が露呈しているのではないだろうか。

 評価の際に、教員が重視して欲しいことと、学生が満足を覚える項目とは、必ずしも一致するとは限らない。この点に注目した研究は余り多くはない。片岡と八並(1997)は、国立大学、公立大学、私立大学2校ずつの学生について、過去の良い授業を想起させ、この良い授業に含まれる因子を41項目の設問を用いて探った。その結果、学生の評価の最重点は、教師のパーソナリテイ(教師の独創性、人間的魅力など)と、授業設計(教科書中心に進める)の2因子にあったとのことである。

 他方、教員が評価に必要と考える項目についての、東海大学の教員904名に対して行われた調査がある(安岡ら1993)。その結果は、授業の分かり易さ、教員の情熱、話し方の速度、学生が興味を持ったか、等の項目が高かった。なお、教師・学生双方に対して、当該の授業における評価を、10点満点で示すという要求もかなり高い事が注目される。逆に低い項目は、身だしなみ、学生との関係、他教師との比較、授業が役立つか、などであった。先の片岡らの調査で、身だしなみは低値を示しているのは、共通している。しかし、広島大学の教員の調査では、教科書中心であるか否かは、教員にとっては全く重視されない(安岡ら1993)。その他にも、学生と教員の評価項目には食い違いがある可能性がある。

 上記に示された様な、学生に対する調査結果を余りに過大視することは避けなければいけない。授業評価を、消費者モニター制度と比較すると、幼少の頃から何度もある商品を購入し、その理想的な状態を把握している消費者が評価する行為と、(特に初年度の)大学生が授業を評価する行為の間には大きな違いが存在するからである。まさに絹川(1997)の、「良い教授活動を構成するものが何か、特定するのは不可能である(エルトン)」という引用に表されているように、単に学生の満足度という尺度によって、授業の善し悪しを決めてしまうのは教員の怠惰にしかならないであろう。

評価の結果をどう生かすか

 我が国では、アンケートの冒頭に、「このアンケートは今後の授業の改善に役立てるためのものです」程度の文章が付されていることがほとんどである。この点で、アメリカの学生評価の場合は、「この結果は学生による授業評価報告のデータとして用い、教授の正規の人事評価にも使用します」(苅谷1992)と記されており、日米の結果の使われ方には大きな差が存在する。

 アメリカの場合、同僚評価と学生による評価の双方が、翌年の採用のための人事評価作業に考慮される例が多いように思われる(落合2000)。しかし、大学によってはアメリカでも学生評価のみで行われる例があり、この様な場合は、消費者意識ばかりが強く、学ぶ意欲に乏しい学生が、まさに「恐るべきお子さま大学生たち」(サックス,2000)に書き表されているような、野放図としか言えない態度を教員に示す事も、起こらないとは限らないのである。

 我が国では、授業評価の結果を人事目的に使う大学は少なく、また多摩大学、筑波大学、ICUなど、評価を先進的に取り入れた大学でも、関連した教員のみが結果を知ることができる(川上1992)。現時点で評価結果が、学生を含めた構成員に公開されている大学として知られているのは、東海大と大阪経済大の二校であるが、他の大学でも公開の方向へ動く可能性は今後高まると思われる。書類として広範囲に流布しない外部評価の冊子の場合には、教員毎の個人データが示されているものがある(新潟大学法学部1999)。大学の自己評価書の一部として印刷公表される例では、評価データは、個々の教員毎ではなく、ある系列の授業科目などをグループ化して示される。教員が自ら積極的に全体の傾向と比較して、自分の評点の総体的な位置を読みとって、はじめて学生の不満が伝わることになる。そのように熱心な態度を示す教員は、どのくらい存在するのか疑問である。これでは、授業評価が本当に悪い講義の改善をもたらす力を持つとは言えないであろう。

 上記の点に関連して、2000年5月に新潟で行われた、全国国立大学・教養教育実施組織代表者会議に出席して知り得た範囲では、学生の評価結果を有効に生かして、実際に学生から不満の多かった講義を改善するに至った経験を報告した国立大学はなかった。現在のアンケートでは、学生の不満を項目別に集約し得たとしても、それのみでは、授業をどう改善すれば良いのかという方策が見えてこない様に思われる。

 この点で、前述の教養教育実施組織代表者会議で報告された、熊本大学の授業評価プランは、かなり考え抜かれたものであったと言えよう。前述の片岡と八並(1997)では、既に過去のものとなった経験から、良い授業の因子の調査をした限界があったが、ここでは、現実に受けている授業から、学生が面白かったと考える授業を数科目選ばせ、何故それが良かったのかについて答えさせ、また悪いサンプルとしても同様に科目を選ばせ、その理由を答えさせるのであるから、その結果が教員達に及ぼす影響は大きい。もちろん「---学」という授業は一つではないので、これの答えから特定個人の教員名が、直接浮かび上がらない様に配慮されていたと記憶する。しかし、たといこの様なアンケートを実施したとしても、身近に存在する「良い授業」がいかにして進められているかを、悪い授業をしている教員が真摯に「学び」取り、自分の授業の欠点を改善する様な方向に動くかという問題は残る。

 大槻(1993)は、大学教員の授業評価に対する反応を、通常、過小、過剰の3群に分類している。通常反応を示す教員は、評価で指摘された点を少しずつ改良する面を持つが、何を言われても我が道をゆく過小反応群、評価自体に難癖をつけて結果を受け入れない過剰反応群の教員が、大槻氏の属する多摩大学では、一体どれほどの比率で存在していたのか、知りたいところである。 

 評価結果をインターネット上で公開している松山大学の様な例もある。松山大学の場合、学生の批判はマークシートによる項目毎ではなく、完全に自由記述として実施された模様で、実に142人の学生の声が延々と紹介されている。内容については、次項で触れるとして、このような強い批判の公表によって、授業が改善されたか否かについて大きな関心を持ったので、ホームページ作成者の田村教授に問い合わせてみたところ、今のところ何も変化がないという返答をいただいた。

 本来閉じられた空間における、特定の教師と学生によって行われる授業に対するフィードバック結果を、どこまで公表してゆくかは慎重に考えなければいけない。評価結果公表は、全ての教員が大槻(1993)の言う「通常」の反応を示さない実状を、何とか改善の方向へ向けようと、教師に強制的「圧力」をかけることを目的として行われるが、この圧力が不当な力として働いてしまう可能性も常に考慮しなければならない。単に公表すれば、外部評価が良くなるなどという思惑で実施するなど、あってはならないことである。

 授業評価の結果を真に生かすのは、それを公開するか否かの点に拘るより、その結果の教員による討議、特にヴェテラン教員との話し合いを行う(ローマン1987)等が有効な方法であり、教員が評価結果を孤立したままで受け取って終わらぬような組織的な運動や配慮が必要である。教員評価のためのデータとして、学生評価の結果だけを用いるような方策を強化することは、学生の我がままを許してしまう誤った方向への圧力を生む可能性がある。この様な誤りを防ぐために、教員相互のFD活動を活発にすると共に、我が国ではまだ余り取り入れられていない、同僚評価を考慮してゆく必要がある。 我が国の大学教育の問題点と授業評価の意義  前の項目までは、授業評価それ自身について色々な観点から記してきた。この項目では少し視野を広げて考えてみたい。細目分析のアンケートの持つ問題点について、ある程度述べてきたが、最大の問題は同じ記号で答えがでていても、最も不満の高い項目は何なのかが分析し難いことであろう。

 前掲の松山大学の学生の自由記述アンケートの場合、142人中62人(40.4%)が、一方的に教員が話し、板書するだけの講義に、何らかの形で不満を表明している。これらの中に、発表や議論できる授業を、良い授業の代表として記載しているものが17例あった。大学教員はこのようなデータを、現在の多くの学生が大学の授業に何を望んでいるかについての「他山の石」として利用すべきではないだろうか。自分の属する大学で評価のための労力を、全く新規に始めるよりは、自分達の講義が双方向的なものになっているか否かについての分析から始める方が、多くの作業で疲労気味になって、そこで終わってしまうよりは余程良いのではないだろうか。

 我が国の多くの大学の講義は、双方向的に行われることが少ないから、「学生の声に耳を傾けていたか」などの項目は、あまり意味を持たない場合が多い。仮にこの項目がダブルマイナスの答えに終わっても、他のマイナス項目と同様に処理されてしまい、最大の不満であるかどうかは見過ごされる可能性が高い。

 上記の事にやや反する事を書くことになるが、双方向の授業については、日本の学生の特性についても注意しなくてはいけない。筆者自身が1994年に、新潟大学の125名の教養科目受講生に対して実施したアンケートの結果を以下に示す。

(問い)学生の発言を基礎にして大学での授業を進めるという方向について

 1)大賛成。自分は積極的に発言して参加(11.2%)

 2)賛成だが、自分は当てられたくない(20%)

 3)紙面を通しての発表なら賛成   (45.6%)

 4)好きではない。教員の話だけでよい(12.8%)

 5)反対。一方的な講義でも良い   (5.6%)

    無記入            (4.8%)

 このように積極的な学生と、消極的な学生が両極に存在し、控えめな意見発表なら良いという学生が多数を占めるのが現実であって、よく紹介されるアメリカの授業風景の様に教員と学生が、丁々発止と意見を交わしてゆく授業を実現することには、相当困難がありそうである。藍谷ら(1993)の東大での調査でも、双方向形式の授業を教官が望んでも、学生の態度は、かならずしも教員の意志に答えるものとなってはいない。筆者は上記の調査結果にもとづき、学生による頻回の課題提出内容を、教員側がまとめて授業時に印刷配布し、その内容を講義に立体的に組み込む方式を取っている。授業後の学生のアンケートでは、必ずしも口頭による発表でなくても、教員と学生のコミュニケーションが成立していたと感想を述べる声が多かった。

受動的なモニターから、積極的な参画者としての学生の役割変化

 授業評価を既に取り入れている大学では、学生は初年度から繰り返し評価を体験することになる。この期間の間に学生が評価そのものに対して持つ考えはどのように変わるのであろうか。この点について調べた調査は余り多くない。小林と川上(1993)は、文教大学の学生について、異なる学生の授業評価への期待度を調査している。それによると、1年次の学生では、授業評価の結果が改善へ結びつくと答えた者は70%であるが、2年次では73.4%,3年次では55.2%に低下している。これは単なる期待度の低下のみではなく、逆に評価が役立たないとする率が,3年次では44.8%と低学年の倍の値を示している点に大きな問題が存在する。藍谷ら(1993)の東大での調査でも、授業評価で学生の声が講義に反映されるとする者は、45%であったというから、学生は評価の結果がいかに有効に機能するかについては、現状での「評価活動」単独実施の限界を冷静に見抜いていると言えるかも知れない。

 学生の期待度に大きな影響を与えるのが、評価設問のアンケート実施時期であり、全てのスケジュールが終了する時点での評価結果に対する、学生の期待度は低くなる傾向がある。筆者の入手した文書が示すところでは、名古屋大学(1998)、徳島大学(1998)、奈良女子大学(1999)、和歌山大学(1999)、広島大学(2000)の各組織では、新潟大学(吉村ら1996)と同様に、学期末にアンケートを実施している。岡山大学(1997)、宇都宮大学(1997)では、12月中旬となっている。現状ではこのように学期末の時点で評価アンケートをとる大学が多いが、学生が回答する際に持つであろう、フィードバック効果を最大にするためには、梶原(1997)が指摘するように、学期中間期に行うのが望ましいであろう。

 学生による授業評価は、教師へのフィードバックのみに終わらせるのでなく、学生の授業への関わりの意識をある程度強めるプロセスとして使いたいものである。しかしともすれば、提供される授業に対して、限られた時期に、定められたアンケートに記入するという、極めて「受動的」な姿勢に学生を固定してしまう可能性が十分存在する。このような形を越えて、学生を積極的な場所に引き込むためには、更に特別な工夫が必要である。林(1992)は、授業の計画・立案のプロセスにも学生を「参画」させるべきであると、実践を交えた授業論を展開している。

 また、千葉大学では「普遍教育学生会議」(南塚2000)という組織が、単に個別の授業のみならず、カリキュラムや成績評価までをも含む、教育システム全体への学生の声を、「常時」汲みあげる目的として作られている。本稿では学生の授業評価について、様々な角度から既に相当記述してきたので、授業評価が学生参加の終着点ではないという点を強調して文を終えることとする。

 

[文献]

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