地域貢献と大学のありかた
大学の使命を果たすのに必要な時間が「社会貢献」という名目で
減らされる傾向の拡大への危惧
独立行政法人化の動きが出始めてから、幾度聞いたか分からない言葉に、大学の地域貢献、社会貢献という標語がある。生き残りを迫られる国立大学の教員としては、それらの言葉を無視することは勿論できない。しかし貢献のあり方を、著しく短絡的に捉える傾向が生まれ始めていないだろうか。最近のあちこちの国立大学の動き(注) を見ていて大きな疑問を感ずる。
(注) 新潟大学では、駅の南のビルに部屋を改造して、2月1日から連日、市民のための講座を開校する。連日のペースは果たしていつまで続けることができるのか?
そもそも独法化などという問題が起こってこなくても、大学において研究教育を真剣に両立させようとする教員には、時間が不足する状況がいつの時代でもあるものである。
特に今の大学教員の状況を少し下に書いてみよう。このような状況で地域貢献だと言って、どんどん外で市民や高校生のために何かをしに大学から出て行くことが、内部の活動を弱めて、結局はレベルの下がった大学を生み出してしまうのではないかと危惧する。
ただし、これは自然科学系の研究を行っている教員の発言であり、他の分野の教員から見ると、違った意見があるであろうことを前置きしておく。
教育に関して:
初年度(教養)教育について教員がよく漏らす言葉であるが、時間さえあれば、小テストをまめにやったり、課題をだしてていねいにそのレポートを見れるのだが、実際にはできない。という状況がある。これはもしかしたら、逃げ言葉でもし1日が26時間という事になって、余分な二時間が加わった場合、それを研究に全て使ってしまうかも知れない。しかしそのような教員ばかりでもないだろう。研究時間と教育のための時間のせめぎ会いに本当に苦労している教員も私の身辺には確かに存在している。
大学教員は、教養科目だけでなく、学部での専門科目、そして大学院生の研究指導、講義までをこなさなくてはいけない。最近の学力全体の低迷だけではなく、自分でものを進めてゆけない院生が増加していて、一定のレベルの学位論文を出すためには、教員が相当お手伝いどころか、逆に主に働かなければならない実状がある。また世界に通用するデータを発表するための英語の訓練も教員の重要な仕事である。このように、修士や博士課程の院生の仕事を完成させるためには、多大な時間が必要だが、連日に近い会議、講義、実習、書類作成、などのために教員の時間は著しく圧迫されてきている。
研究に関して:
余程独創的でない限り、外界の文献を見ることなしに研究を行ってゆくことはできない。医学生物関係では厖大な論文が毎週といってよいほど公表されている。多くの研究者はそれを見切る程の余裕が昔から少なかった。現在では論文をコピーしたり、ダウンロードするのが精一杯で、なかなかそれを読む時間が制約されているのが実状ではないだろうか。もし時間がたっぷりあるという人は、教育の負担が少ないか、管理運営に携わっていない人間であろう。
我々の研究成果は英語でまとめて、世界に発信しなければいけないし、上に記した読まねばいけない論文というのも全てといってよいほど英語で書かれているのである。このハンディは、時に忘れられていることがある。
教育・研究に直接関係しない枠外の活動:
研究教育以外に忘れてならない最大のものは組合活動であろう。組合活動の多くの内容は短期的には教育や研究を良くするものではなく、時間的にはむしろそれらと競合するものとなる事が多い。しかし社会に対する批判、働きかけなどを全くしない教員は専門馬鹿という言葉で表しても良いだろう。特に独法化の様に、大学の進む方向が大きく変えられようとしている時に、組合を通して意志を表明したり、ある運動をしたりすることは教員としては研究教育の延長として当然の事になるのではないだろうか。
本学の生協が学生の読書を促すために出版物を作り、教員からも執筆を求めているが、これも授業や研究とは直接関係ないが、学生を育てるという意味からいうと、重要な活動である。現在このパンフレットに執筆する教員はとても少なく、特定化していると言って良い。
さて、このように高い授業料を払っている学生・大学院生に十分な見返りのあるほどの授業や研究指導が果たせているとは言いがたい状態が存在する。また税金(校費)を使っている以上、一定レベル以上を維持しなくてはいけないはずの研究活動に対して使われるべき時間も、刻一刻と削られてきている。
果たしてこのような内部の事情をそのままにして、大学外の活動を強めて良いのだろうか。市民が勉強しようと思ったら、地元の教員が五月雨的に実施する講座よりも自宅にしていながら聴講できる、テレビやラジオという便利な手段がある。またキーワード一つを放り込めば万の単位で情報を提供してくれるインターネットというものもある。これらの手段が全くないというのなら、大学教員は地域に貢献しなくてはいけないだろう。しかし事情は余りにも異なっている。それでも地域貢献なのだろうか。新潟大学の実施する公開講座の多くは、定員割れのものが多く、要求度が合致しているとは言えない。新装なったプラーカというきれいな場所だと状況は果たして変わるのか。
大学は地域貢献というボランティア活動を、外部から評価されるから懸命になって実施しているように思われる。高校生などのボランティア活動が成績の一部に取り入れられることに対して批判がある。これでは本当のボランティア活動にはならないという批判である。
大学と地域貢献についても同様な事が言えないか。今の時点では、地域貢献に関して目立った活動をすれば点数が上がるのである。まさに上記の高校生のボランティア問題が繰り返されているように見える。これでは一種の見返りを期待した行動といえよう。見返りと、内部の疲弊とのどちらが大きくなるか、そこを心配している教員の声は余り聞こえてこない。大学の力が弱ってしまったら、地域に必要とされる大学本来の姿からは次第に遠のいてゆくだろう。その力の疲弊を最も早く感ずるのは大学の教員である。いや弱った結果を見て判断するのではなく、それを予測する力を本来持っているのが、研究者であり教育者であろう。
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