はじめに)論点が曖昧となることを避けるため、報告案の条項の逐一批判はせず、 現在構想されている法人がいかに日本の科学の発展を阻害するかという点について、根本的な立場から述べたい。
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1)「研究には自由が最大限必要である」=自由が奪われる法人化で研究環境が悪化する。
私は昨夜、若き日の江崎玲於奈氏がNHK教育テレビで発言するのを聞いた。江崎氏は「優れた研究をするためには、全ての拘束から自由になっていなければいけない」と強い調子で述べていた。
同様の意見を、日本のノーベル賞を授賞した学者が、研究の絶対必須条件として種々の著作や新聞などで述べている。今回の中間報告案は、研究や教育に最も必要である「自由」を窒息させるのに十分過ぎる程の制約と拘束とを至る所に示している。
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中間方向書を作成した方々には、もう十分おわかりの事であろうが、一応下に示す。
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2)日本の大学の研究レベルを落とす、意味のない目標・計画づくり
今回の独法化の動きの中での、極めて大きい提案は、大学全体の組織をあげての 目標・計画づくりである。いまだかって誰もこの空しい作文作業に批判をしてこなかったのは、概算要求などで、理念・目標などを提示しないと、省庁の認可が得られないという状況での「我慢 のため」だった。
今後は、運営交付金を少しでも多く獲得したいという、これまで以上の圧力が強くかかってくる。組織全体の目標計画がいかに無意味であるかと言う批判行動はこの機会にしかできないので、ここで展開しておきたい。
2a)教育も、研究も、個人の活動が基礎である
授業など教育活動が一人で努力する地味な作業であることは、誰の目にも明らかで あり、誰しも常にその孤独を感じているものである。だからこそ、教師「個人の評価」が学 生によってなされることが可能となる。
他方研究はどうだろう。ノーベル賞は決して組織には与えられず、研究者個人に 与えられている。研究者の常識であるけれど、自由闊達な発想というのは、共同ではむしろ束縛される危険があるのである。共同研究は、頭というより、技・考え方・議 論の面で限定的になされることが多い。
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上の様な事が単純明瞭に解っている筈なのに、なぜ教育研究の理念・目標づくり が組織的に行われるのだろうか。これは教育研究を理解していない人間が強要したもの としか考えられないのである。教員は教育や研究を始める時に、相当確固とした計画 目標を持っているものである。これはしかし長い作文に書いて示せるものではなく、 教育に関しては、「yyyを解りやすく理解させたい」程度のもの、そして研究については 「xxxの謎を解きたい」程度のものである。
現在の研究教育の理念・目標計画の作文が、何故空しいのか。それは、個人的な 活動レベルで生き続けている教員達が、組織全体の目標を作らされるからである。
このようなものを、いくら立派に作成しても、何の役にも立たないし、その作業そのものが、研究・教育の時間を食いつぶすことになるのである。労働時間のこの様な甚大な侵食が起きている事を最も痛感し、研究教育の荒廃を感じ初めているのは、昨今の大学教員である。
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2b)日本の国立大学は、既に国際的なレベルにある
私は、白川氏の言を引いて毎日新聞10月17日号に投稿し、その中で日本の研究レベルの高さを強調した。日本のどこの大学でも、研究の成果を論文にまとめ、国際 誌に 投稿することは、日常茶飯事になっている。
国際誌に論文が出るのは、余りにも当たり前なので、声高にこれを宣伝する人は 少ない。既に研究者総覧などがどこの大学も公表されているから、文部科学省の人間も「国際的な」我が国の研究活動を知っているはずである。
それを知ってか知らずか、日本の研究を「国際的なレベル」に高めたいと言う 望みも中間報告案の至る所に見られる。
現状ですでに十分国際的な水準にある大学に無理な圧をかけ、目標・計画づく りと評価のための資料の準備に多大なエネルギーを使わせることは、教員の時間とエネル ギーをいたずらに浪費させ、現在の国際的なレベルにある大学の諸機能を著しく低下させることは疑いない。
これが、報告案にある独立行政法人国立大学の行く末である。
3)競争を組織間に持ち込むことの愚
もうひとつ、運営交付金の多寡を暗示しながら、将来の法人の間に競争を煽ると いう点についても言及したい。私は研究教育成果が競争により促進されるとは考えない が、最大限譲って顔の見える個人の間での競争は、時に刺激になるかも知れない。しかし前項で も述べた様に、研究・教育が個人を中心に行われる観点からは、組織ぐるみでの競争は、様々 な問題を引き起こす。
優秀ではないとみなされた組織の研究者は、全員低い位置におとしめられるべき なのであろうか。また逆に選別された組織の人間が全て優秀ということはない。もし組織間の競争が歪んだ形で行われれば、数々の優秀な人間が捨てられてしまうだろう。
●競争を評価する体制の不備と難しさ
最後に、我が国の評価体制の貧しさに言及したい。既知のことであるが、白川氏は日本化学会の学会賞を与えられて居ない。またその著書の中で日本の雑誌に投稿した 論文が無理解な査読者によって、拒絶された経験を白川氏は書いている。独創的な研究業績 か否かの判断は功成り名遂げ勲章を貰うほどの有識者にも、困難な事が多い。
また、科学技術基本計画に添って、巨額の投資が「未来開拓型予算」として、文 部省に付けられたとき、その審査に当たった有名大学の教授達の半分近くが、自らの研究室に予算を当ててしまい、雑誌 Natureで厳しい批判を浴びた事実がある。これが、我が国の研究評価システムの致命的な脆弱性を示す厳然たる現実である。
今後、文部科学省に置かれる、国立大学評価機構、またそれと共同作業を行う、 大学評価機構において、著しく細分化が進行し、また次々に新たな知見がもたらされる、現代 自然科学の研究がどのように評価されるのか、余りにも不安材料が多い。
研究の道筋を大いに制約してしまい兼ねない、評価と連動した運営交付金の減額 すら当たり前に行われる「競争的」環境で、将来花咲く研究が絶えてしまっても、誰にも解らない。研究の非予測性を悪用した安易な評価は、創造的研究の芽を見境なく間引きする、大 変危険な行為である。体面だけを保つためにこのような仕組みを作っているのだとしたら、科 学への重大な冒涜であろう。
真の改革は、学問・研究・教育に携わって苦闘している現場の人間の声を聞かなくては達成できない。無理矢理にその言葉を封じ込めれば、因果応報という言葉で示される結果が必ず訪れる。最高の高等教育を受けたはずの、文部科学省を始めとした官僚の人達が、ここに示された「大学いじめ」としての意味の強い報告案の内容を理解できない筈はないと信じつつ批判の文を閉じたい。