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自衛隊派遣の是非を国を挙げて議論する時ーー香田さんの命がけのアピールを受けて


香田さんは「旅行者」としてイラクに行った、ということを聞き、4月の人質事件とは違った印象を最初持った。しかし、その後、家族がクリスチャンであったこと、高校時代に成績が良かった敢て通信高校に移ったこと、働きながら自分で世界を見ようとしたこと、イラク入りの危険性は十分承知の上であったこと等、の断片的情報から、違う印象を持つようになった。

毎日新聞10/27
「・・・真澄さん(父親)は「幼いころから、心の優しい面を持っていたので、苦しんでいるイラクの人たちの状況を自分の目で見て、将来を考えようとしたのではないか」と推し量った。


 また、犯人グループに対して「(証生さんは)自衛隊のイラク駐留や、米国の政策を積極的に支持したのではない。青年らしい同情心やある種の正義感を持って、イラクの人々の苦しみに目を向けようとしていた。証生を解放してくださるように、心からお願い申し上げます」と訴えた。


西日本新聞10/28
香田さんは地元の中学を卒業後、東海大第五高(福岡県宗像市)に進学。当時の担任平田恒敏教諭(54)などによると、香田さんはまじめで誠実な人柄だった。


 生活態度や成績もよく、学校行事にもクラスメートと仲良く取り組んでいた。一時はボクシングにも夢中で「走って学校から帰宅することもあった」(高校時代の友人)という。


 二年の半ばころ「通信制の学校で自分の力を試したい」と語り、同高から通信制高校「NHK学園」に転入。卒業後は福岡市東区の福岡建設専門学校・建築科夜間コースで二年間、建設関係の技術を学んだ。


 二〇〇一年八月から一年二カ月間は、友人の紹介で直方市の塗装会社「徳永塗装工業所」で働いた。同社長の徳永宏二さん(48)は「口数は少なかったが素直な子だった。ひとり旅が好きだったようだ」と話す。仕事を終えた後は英会話やパソコン教室、スポーツジムにも通っていた。香田さんが退社を申し出たとき、徳永さんは引き留めようとしたが「いろいろと新しいことに挑戦したがっていた」ため、断念したという。


【バグダッド27日共同】
「香田さんは「イラクで何が起きているか知りたい」と語り、忠告を振り切って二十日夕、イラクに向けバスで出発した。イラクに一週間滞在し、バグダッドやサマワに行きたいと話していたという。」

Alternative mailing list
「香田さんのお父さんはクリスチャンで、私達市民運動の集まりによくこられる牧師さんがよく知っておられるようです。・・・北九州のわたしたちの仲間うちでは、本人にしかわからないことではあるが、やはりイラクの戦争の実態を自分の目で見て日本に伝えたかったのではないかと話されております。・・・」(写真の会「パトローネ」編集部 岩崎 裕次)

ほぼ確実に殺されるか人質になるとわかってのイラク入りである以上、決死のイラク入りではなかったか。イラク戦争の泥沼に日本が巻きこまれていくことを自分の命を捨てても防ごうという思いがあるのではないか。ビデオで感じられたある種の覚悟から、そういう可能性を強く感じる。

4月の邦人人質事件のときも、人質救出のために自衛隊を撤退することはありえない、という議論はあった。それには一理ある。しかし、それが「ためにする議論」でしかなかったことは、4月に人質が救出された後には、自衛隊撤退の是非について国内で議論が戦われることは全くなかったことで証明されているのである。今回も同じように「ためにする議論」でしかない。

香田さんが命を捨てて訴えようとしている自衛隊の撤退問題。人質救出のためとしてではなく、世論の7割が反対している自衛隊派遣延長の是非も含めて、少くとも大手メディアは正面から取り上げて議論すべきではなかろうか。人質問題が解決した後に、そのこと議論するはずはない以上、今こそ、それを議論すべきときではないだろうか。


posted on 2004-10-28 by admin - Category: Memos