==> 国立大学独立行政法人化の諸問題

                            2002年2月4日 日本の大学関係者のみなさまへ 以下は、ある国立大学教授の方から頂きましたアピールです。文部科学省の国立大学 等の独立行政法人化調査検討会議の9/29中間報告の実現に向けて既に準備が進ん でいるようです。私の所属する大学でも似たようなことが進行しているようですし、 すべての国立大学で遅かれ早かれ同様のことが進行するに違いありません。社会のご く一部の人達が、日本の大学全体を根本的に変えてしまおうと全力を挙げて取組んで います。国立大学全体で何が起こっているか、起こりつつあるか、について、国公私 の別を越えて正確な共通認識を形成することが急務です。 辻下 徹
cf:転載時のコメント

Date: Sat, 2 Feb 2002 12:46:01 +0900
To: tujisita
Subject: 通信

日本の大学が迎える歴史的な瞬間を前にして、皆様にお知らせします

 国立大学の独立行政法人化に関して、気になる点をお知らせします。つい最近、本
学のトップは、「法人化後の本学の管理運営組織の素案」を提示しました。これはま
だ骨格の提示だけで、これからどうなるかはわかりませんので、詳細の紹介は控えさ
せていただきます。しかし、その素案に横たわる管理運営の思想は、従来の大学像か
ら際立ってはなれたものです。このままの姿で本学が「法人化」されることのもつ意
味、さらにそれが他の大学に及ぼす影響を考えまして、このメール通信でご紹介し、
皆様のご注意を喚起させていただければと思います。国立大学の独立行政法人化の最
終案が出される3月を前にして。
 なお、立場上、この通信が匿名であることをお許しください。

1.素案の骨格

 この素案を簡潔にまとめると、(1)学長とかなりの数の副学長(外部からも積極 的に登用)によるトップダウン、(2)教授会の変質(人事を含めた審議議決機関か ら、教務を中心とする協議・了承機関へ改質)、(3)学部等から選ばれる委員会を 廃止して、副学長によるチームが個別管理事項を管理、(4)学部を廃止し、学生は 教育プログラムにより組織し、それに対応する教官組織を廃止、(5)研究分野別に 組織された教官はそれぞれに振り分けられた教育と研究組織に出向く、というもので あります。この外に、外部から登用された監事の存在がありますが、これは「法人化 」の「調査検討会議」の中間報告にあるものと同じです。(2)に関しては、教授会 の人事権がなくなりますので、たぶんこれは、法人化後の教員の身分が非公務員型と なり、それに伴って教育公務員特例法が廃止されることが前提とされていると予想で きます。  問題は、この案が、3月に予想される「調査検討会議」の最終報告書を先取りして いるのではないかということです。すなわち、「中間報告」の示唆する2つの危険、 「すなわち一方で、大学の独自性を強化するという形を取りながら、政府の大学に対 する統制を強める、ことによっては大きな混乱を生じさせる」か、「実質的には現在 の国立大学とほとんど変わりない」(金子元久、現代の高等教育、2001年12月 号、12頁)の中の前者に対応し、まさしくその混乱を大学自らが作り出すわけです 。

2.問題点

 上の素案に基づいて作られる大学は、一見アメリカにあるトップダウン型の大学に 似ていますが、我が国の独立行政法人化構想の中でそれを位置づけると、もはや大学 と呼べるものではなく、国策型特殊法人、ないしは軍隊組織であります。  すなわち、上の内部構造組織が運営するものは、 (1)形の上では法人が自主的に策定するといわれていますが、実質的には、「国の グランドデザイン」(「調査検討会議」の中間報告)のもとで文部科学省により認定 された長期目標、中期目標と中期計画にそって、大学法人そのものが外的に評価され 、財政的にも束縛される(外圧)、 (2)大学内部においては、自ら策定したことになっている細かい「中期計画」の達 成が重くのしかかり、さらに「任期制」による雇用不安という強迫条件下で、教員が 、相互に評価し競いあわされる(内圧)、 (3)学生は、現行よりも増額が予想され、しかも教育分野により異なる額の授業料 を背負わされるうえに、大学管理への意思表示の機会が与えられない(教育疎外)、 という、日本独特の大学組織であります。  独立行政法人化構想の中にある上記の組織による大学を、「外圧・内圧・教育疎外 にあえぐ大学」とみなすことは間違っているのでしょうか?  このような大学が、先進国でこれまでにあったでしょうか?また、これからもあり 得るでしょうか?  わたしは、そのような大学は、もはやその名に値する実態をもたないと思います。  今から思えば、日本の大学評価の項目に、世界にも例を見ない「管理運営」という 項目が入っている理由は、このような組織に国立大学を根底から変える意図を為政者 側がもったためです。そして、その意図を独立行政法人化により貫徹しようとしてい ます。  とくに、独立行政法人化にあたって導入される、算定根拠の不明確な「交付金」と いう財政的強迫条件は、評価する側の望む形の管理運営を大学自らが取り込み、先取 りせざるをえないものとします。そのような底知れない深淵に大学を引き込む仕掛け が、今回の独立行政法人化であるということを、冒頭に述べたわが大学の「法人組織 構想」素案に、私自身がこの目で垣間見た思いがいたします。

3.このような大学は受け入れられない

 私どもは、「このような大学像を、本当に是として受け入れるのかどうか」という 判断をせまられていると思います。それは、歴史的な意義をもつ判断であります。  為政者側は現下の独立行政法人化の目的は、長期的にはグローバリゼーションの進 行による日本の相対的地位の低下への対策、短期的には当面の経済的困難の打開のた めに、大学に競争を持ち込むのだと言います。その中で、社会的にインパクトのある 優れた研究や、優秀な学生が育つのだと強弁します。しかし、視野狭窄の日本の為政 者には、大学と産業の関係がわかっていません。科学と技術、産業の関係を整理しな いままに、呪文のごとく「競争原理」に救いを求めているだけです。  皮肉なことに、わが為政者の目指す当のアメリカの1990年代からの経済復興は 、そのような整理が出来ていたから成し遂げられたといわれています。それを示すに は、「科学的原理の把握と発見は大学、それに対応した装置の研究開発は共同企業体 、その装置の更新はベンチャー企業という役割分担が機能した」(「IT汚染」、吉 田文和、岩波新書、2001年、53ページ)半導体産業の例を挙げれば充分です。  そのような整理のない、混沌とした目先の競争に満ちた大学では、創造的な研究は 育ちにくく、「研究哲学や研究思想など目もくれず、、研究技術に没頭し、ひたすら 論文を書き、国内外からの評価をいかに得るかということに憂き身をやつす:(大滝 仁志、学術の動向、2001年11月号)」研究者が跋扈するだけです。さらにいえ ば、そもそも以下に活写された日本の大学の持つ根元的な病魔が、拡大再生産される だけです。  「世界の中での日本の経済的比重が近年著しく高くなり、国際的連関も強くなって きた。このとき、日本の文化的水準の相対的低さが改めて浮き彫りにされ、世界の人 々に強く印象付けるものになってきた。特に、日本の大学の貧困さ、浅薄さが目立ち 、際立った形での形骸化がみられるようになった。それは、大学の物理的、経済的環 境の貧困ということではなく、大学における学問研究教育が、自由に生き生きと行わ れていないことに起因するものである。教員人事、学生選抜という面だけでなく、予 算執行面でも、日本の国立大学にはあまりにも恣意的な行政的制約条件が強すぎ、学 問研究に一生ささげようという真摯な研究者にとって、これほど悪い環境はないと思 われる反面、体制に迎合し、矮小な研究に従事する人々にとって、日本の大学ほど安 易に生きることができるような大学は他に例がないように思われる。」(「日本の教 育を考える」宇沢弘文、岩波新書、1998年、147頁)  また、優秀な学生の養成は言うまでもなく社会からの最大の期待で、我々がそれに 応えることは一義的課題です。しかし、日本の大学でそれを阻む要因の最大のものは 、高学費なのです。とくに多くの大学院生が、研究の傍らでバイトに身を削る姿には 、たとえば、それを目の前で見ているヨーロッパからの訪問研究者は絶句するばかり です。また、博士課程を終えた大学院生が抱え込む日本育英会の奨学金返済額の多さ 、しかも、その返済免除システムが現下の小泉改革で消滅するという破滅的事態を、 私たちは今、歯ぎしりしながら見据えているわけです。  出来ることなら、「彼らの支払う授業料をゼロに、あるいは少なくとも半分にした ら」、また、「奨学金を返済しなくても良い、あるいはその返済額を半分にしたら」 、どれだけ彼らが勇躍して勉学に集中することができるでしょうか?  はたして、現下の独立行政法人化が、学生の経済的負担を軽減する方向に歩むので しょうか?

4.このような大学にしてはならない

 大部分のマスコミが、ほとんど一方的に文部科学省よりの情報を流しているために 、社会が正当な判断をもちにくい状況の中で、どのように現下の独立行政法人化政策 と闘っていけばよいのか。たしかに容易ではありません。  しかしながらあくまでもその基本は、正々堂々と、大学としてのグローバルスタン ダードの理念である大学の自治と学問の自由の立場から、現下に展開されつつある文 部科学省、及びその背後の経済産業省、財界の目指す独立行政法人化プランを、繰り 返し繰り返し、さまざまな角度から、あきらめずに批判することでありましょう。ま じめな立場から、独立行政法人化に対して多くの大学人がもっている「大学の活動へ の、こと細かな文部科学省の制約から開放される」という期待は、もはや幻想でしか ないことがわかったのではないでしょうか。  グローバリゼーションは、経済的優位者が劣位者を征服するためのみに用意された 概念ではありません。それは、日本の一角に起きている事象を、すみやかに世界に知 らしめる手法も備えているのです。たとえば、上記の「外圧・内圧・教育疎外」に彩 られた大学環境の中での「日本のある国立大学の将来構想」が最終的に確定したら、 その大学の名前も公表して、独立行政法人システムの中でのその実体を英訳して、イ ンターネットで世界中の大学関係者に問いかけて、その反応結果を公表するというの も面白いでしょう。  時間はあまりありませんが、まだ間に合います。「日本に行って、流行の研究でポ スドクをやれば大金が入るぞ。だけど彼らのやっていることは、ほとんど俺たちのや ったことの焼き直しだ。それに、あんなに忙しくしているうちに、日本の学者はその うちに何も出来なくなるだろう。」いま欧米で流行っている噂が、このような法人化 によって定説とならないようにしたい。日本の大学の命運を左右する歴史的な瞬間が せまっています。  このままでは、私たちは本当にだらしがないと後輩たちに指弾されるでしょう。か つて、先の戦争をなぜ止めなかったかと、父たちが私たちに指弾されたように。

管理者のコメント

転載の意図など 「本学」と書かれているのは北海道大学ではないが、北海道大学を含めすべての国立大学で同じことが進行している懸念がある。「法人化準備作業」に直接携わり危惧を抱いた方の意見を公開し、国立大学全体で何が起こっているか、起こりつつあるか、について情報を共有すべきであると思う。

「教授会の人事権」について 筑波大学では教授会の代わりに「教員会議」が置かれ、これが、国立学校設置法第7条の4の第四項(*1)の業務を行うと、国立学校設置法施行規則20−17にある。また、国立学校設置法の第七条の11では、教育公務員特例法にある人事の部分を筑波大学では人事委員会が担当する、という事項があり、筑波大学の「教員会議」には人事権が現在あるのかどうか不明である。  

 しかし、教育公務員特例法でも、人事権は評議会にある、教授会が現在持つ人事権は、評議会から教授会に委任されたもので、運用上の慣行ということになる。従って、(公務員型・非公務員型問題とは別に)教育公務員特例法に相当するものを廃止することは、評議会の教員人事権も法的な保障を失うことである。

 学内外の独立行政法人化推進者は、強力な学部自治の慣行のために評議会は機能ないと考え、評議会そのものを「廃止」する以外に学部自治を破壊することはできない、と考えているように思える。しかし、それに代わるものとして中間報告が提言する、外部者が加わる役員会に教員任免権を集中することが、改善に繋がるのだろうか?

それを先取りする形で、国立大学には部局長による「人事部」のようなものが出来始めている。

富士通がなぜ失敗したか?なんら評価されて来なかった執行部が評価する立場に立ったからだ、という指適がある(*2)。評価文化が未発達の社会で、絵に描いただけの評価システムに、組織の全体重を掛けるのは常軌を逸しているのではないか?大学も委縮し、大学内部でも教員は委縮する。縮小再生産が始まろうとしているように感じる。今なら間に合うと思うのだが、豊島耕一氏が以前指摘した「ゆでガエル」(*3)現象が大規模組織にも起こることを、今のままでは、国立大学社会が実証してしまいそうだ。

辻下 徹


(*1)第7条の4の第四項:
「第1項及び第2項の教授会は、次の各号(中略)に掲げる事項について審議し、及び教育公務員特例法の規定によりその権限に属させられた事項を行う。


1. 学部又は研究科の教育課程の編成に関する事項
2. 学生の入学、卒業又は課程の修了その他その在籍に関する事項及び学位の授与に関する事項
3. その他当該教授会を置く組織(前項の規定により第2項各号に掲げる組織の教授が所属することとされた教授会を置く組織にあつては、当該各号に掲げる組織を含む。)の教育又は研究に関する重要事項」


(*2)ウェブサイト「楽しい職場みんなのF2」
(*3)豊島氏ウェブサイト「雑記帳」より

茹でガエル

「 最近この言葉がよく使われる.原典は知らないが,何でもミシガン大学のティーシー教授の実験ということらしい.カエルを熱い湯に入れると飛び出して逃げるが,水から少しずつ温度を上げると逃げずにそのまま死んでしまう,という実験である.

 この「故事」を使って例文を作ることは誰でもできるが,やはり自分自身に適用することは難しいようだ.

 行政法人化は数年前まではとんでもないこと,大学にとって致死的なものだったはずだが,文部省の妥協,国大協の玉虫色化というように少しずつ徐々に「温度」を上げられると,みんななかなか暴れて飛び出そうとはしない.むしろ苦しみもだえている人間が風変わりに見えるようだ.茹でガエル第1号はどうやら国大協になりそうだ.しかしみんなが道連れになる必要はない.

 一般的な教訓は,体感温度に頼ってはならず,絶対温度計をいつも見ていなければならないということだろう.その温度計の重要な目盛りは憲法23条と教育基本法10条のはずだ.」