個人情報保護法案の諸問題
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サンデー毎日 2003.6.1 p 48-49
反時代のパンセ 連載第88回 辺見 庸
動員と統制
このくには倖せになるどころか
じぶんの不幸をさへ見失った。
(金子光晴「IL」(齒朶)から)
なんということだろう。戦争のための動員
と統制の法案が通るというのに、反対の声は
うらさびしい秋の地虫の鳴き声にもおよばな
いとは。衆院本会議で可決されたときには新
聞の号外もなければ、テレビの実況中継もな
かった。いつぞやはたかだかW杯サッカーご
ときで号外をだし、このたびは「パナウェー
ブ研究所」なる埒もない白ずくめの団体をへ
リや飛行機まで繰りだして執拗に追いかけま
わしたにもかかわらず、日本の命運を決める
最重要法案にはまるで他人事のような態度だ。
やはり、この国のマスコミは頭のいかれたク
ソ蝿集団なのである。衆院有事法制特別委員
会で法案が可決された五月十四日のニュース
番組のトップ項目もおおかたはパナウェーブ
の一斉捜索についてなのであった。「電磁的
公正証書原本不実記録」の疑いで操作員二百
五十人を動員、全国十二個所を家宅捜索だと?!
重篤の病はちんけな白装束集団などではなく、
こんな益体もないことの取材・捜査に血道を
あげるマスメディアや警察の異常にこそある。
にしても、マスコミの手にかかるといつたい
なぜ事の軽重は見事なまでにひっくり返され
てしまうのか。どうでもいいことを増幅して
伝え、皆が真剣に考えるべき大切なことを隠
してしまう、まるで 目眩ましのようなやり
方を常套としているようだ。マスコミはそう
するよう国家権力に委託でもサれているのか。
まさかそうではあるまい。マスコミのほうか
らわざわざ買ってでて、世間に暗黒の菌糸を
ばらまくのである。なぜなのか。私にはよく
わからない。ただ今回、特別委で有事関違法
案が可決されたとき、いい知れない虚無感の
なかでいくつかの言葉が脈絡なく胸をかすめ
た。その一つが冒萌の金子光晴の詩行。それ
から、病葉が一枚、枝からはらはらと舞い落
ちるようにもう一つの言葉が浮かび、そして
消えた。「ラセラスは、あまりに、幸福すぎ
たので、−−不幸を求めることになりまし
た」。永井龍雄の短編にでてくるX氏がしば
しば口にした台詞だ。人びとはいま、自分の
不幸のわけさえ見失ったか、あるいはいまま
さに不幸をみずから進んで求めつつあるかの
どちらかではないか。なにごとにつけ人はも
のに飽く。戦後ほぼ五十八年もつづいた非動
員・非統制の幸せにさえついに飽いたのか。
私は眼を疑う。人びとはいま、国家に動員さ
れ統制されることとなる法律をにこにこ顔で
受け容れている。よく飼いならされた家畜の
ように。なんと愚かしいマスコミ。なんて愚
かな世間。なんとばかげた国会。政府提出の
有事関違三法案には出席した衆院議員四百七
十七人のうち約九割もが賛成したという。こ
れを称してファシズムというのだ。こうした
無抵抗状況を受けて、民主党と法案接正交渉
をした久間章生元防衛庁長官ほ「与党だけの
過半数ギリギリで通るようだと、この法律に
基づいて後々行動する人たちの士気にも影響
する。そういう点でよかった。自衛隊員の士
気だけでなく、有事の時にはあらゆるものが
総動員だから」(五月十五日、アサヒ・コム)
といいはなっている。あらゆるものが総動員。
基本的人権なんて甘いことをいっている場合
か、といつた口吻である。いや、もともと有
事法制と基本的人権が両立すると錯覚するほ
うがおかしいのであり、修正交渉は早くから
自民党に取りこまれた民主党が体面を繕うた
めの詐術にすぎなかったのだ。読者らは自民
党の軍事オタクや日本版ネオコンたちのあの
増長ぶり、あの気味の悪い笑顔を見たか。カ
ンナオトの狡そうに泳ぐ視線に気づいたか。
これからファシズムがはじまるのではない。
おそらく、それはこの国ですでに大がかりに
はじまっているのだ。徴候ははっきりしてい
る。マスコミおよび民主、公明などの諸政党
のあからさまな翼賛「革新」の未曾有の衰退。
富者というよりもっぱら貧者たちやリストラ
の犠牲者、非受益者層の多く、さらには一部
革新政党支持者までもが、なんの報いもない
のに、都知事選でイシハラに投票した摩諏不
思議。憲法は改定する手前ですでに事実上扼
殺されてしまつているではないか。図に乗っ
た自民党憲法調査会は憲法改正草案の素案で、
天皇を「元首」とし、首相に「国家非常事態
命令」を発動する権限をあたえ、国民に「国
家を防衛する義務」を課する旨を盛りこんだ
という(毎日新間五月三日朝刊)。動員と統
制の流れは明らかに水かさを増しつつある。
いったいなぜこんなことになってしまったの
か。北朝鮮の「脅威」だけで説明はつくのか。
日本人拉致事件の発覚とそれを奇貨とした巧
みな「公憤」の形成ということで眼前のファッ
ショ的風景の絵解きはできるのか。じつに不
思議なことだ。私の周辺にはこのファッショ
状況を喜ぶ者は一人としていない。皆が眉を
ひそめている。同時に、ファッショと本気で
闘おうとする者も一人としていはしない。
「いやまったく困ったものですな・・・」と、
どこか嘘くさく首を振りふり愚痴るのみであ
る。そういった翌日には職場で精励恪勤。だ
れもが良心派を気取るけれど、発言になにか
を担保することも、傷つけることも、傷つく
こともない。かくして日常に潜むファッショ
菌の総量は一向に減ることはないのである。
戦後民主主義の醜悪なる死骸がいまもそここ
こで腐臭を発している。この亡骸を早く片づ
けて、今日の大敗北を率直に認め、そのわけ
を必死で考えるべきときがきている。この国
のどこか卑怯な湿土は昨日今日できたもので
はない。長い時間をかけて発酵、熟成された
とても手に負えない土壌なのだ。ほんとうに
悲しいことだ。この土質には卑小、卑劣な花
しか咲かないとしたら。「じぶんの不幸をさ
へ見失った」と戦後慨嘆してみせた“反戦詩
人”金子光晴だって、一九三七年には「戦は
ねばならない/必然のために、/勝たねばな
らない/信念のために、/一そよぎの草も/
動員されねばならないのだ」(「抒借小曲
湾」)などという戦争詩を、いかなる詩境に
おいてか、まちがいなく書いていたのだった。
どこまでも悲しい。日中戦争下、第一次近衛
内閣が挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を柱と
する「国民精神総動員運動」を展開したのに
呼応したのである。この土質はいまも基本的
に変わってはいない。愛国心や日本の伝統、
たくましい日本人、奉仕活動などを柱とする
教育基本法の見直しも、北朝鮮への意識的な
公憤の醸成も、新しい時代の「国民精神総動
員運動」と化しつつある。きっとまたぞろ登
場するであろう、「戦はねばならない/必然
のために」などとうたうばか者が。いやすで
に幾人か登場している。新聞は新聞で、私の
予想のとおり、「よりよい有事法制を」など
と真顔でいいだす記者まででてきた。そう発
語する者たちの、戦前からつづく口臭。なん
なら試しに嗅いでみるといい。「その息の臭
えこと」(金子光晴「おっとせい」)ときた
ら、ほとんど昏倒しそうだ。とまれ、皆さん、
有事法制の可決おめでとう!
(五月十五日夜記す)