[kinugasa-forum:0386] 明日のメーデーにあたり、感想を

Subject: [kinugasa-forum:0386] 法学部のほりです:明日のメーデーにあたり、感想を
From: HORI
Date: Mon, 30 Apr 2007 17:16:23 +0900

関係各位

 法のほりです。

 たまたま、次のRU組合のニュースを読む機会がありました。そしていくつか
の感想を持ちました。一読していただければ、幸甚です。
「ゆにおん」(No.5, 2007/04/9)「職場討議資料:2007年春闘の方向性について」
1、「教育研究、ガヴァナンス、賃金労働諸条件を三位一体の課題として」の部分
2「業務協議会か、団体交渉か」「運動とはなにか」の部分
3、「ストライキ、その他の効果的な戦術について」
最後に
【要求事項:過半数代表選挙の候補者として】
【資料】五十嵐仁氏「労働組合誕生の目的」

「ゆにおん」(No.5, 2007/04/9)「職場討議資料:2007年春闘の方向性について」

http://ac-net.org/rtm/f7/07unionNo5.pdf

 小生のような1994年4月に着任した者からみて、まず全体を読んでの印象を申 し上げれば、当該文書には、1990年代以降、これまでの方針と諸活動へのしっ かりとした検証がなされていなようにおもわれる。したがって、これからいく つかの点で、申しあげなければならない事実誤認や認識不足が散見される。

1、「教育研究、ガヴァナンス、賃金労働諸条件を三位一体の課題として」の部分

 まずRU組合が、三位一体の課題だということで頑張られるのは、それはそれで構わないが、歴史的事実としては、以下のように押さえておいたほうがいいのではないか。

 まず当該文書からわかることは、RU組合の認識は、「近年の学園において」理事会による「トップダウンのガヴァナンス」が問題であり、その証左としてBKCの調整池開発や2006年策定の中期計画、そして2005年度以来の一時金カットである。

 しかし小生にとっては、「近年の学園において」とは1990年代半ば以降であり、とりわけ4長を中断してのAPU大学の創設でその問題性が顕著になった、労使一体型「トップダウンのガヴァナンス」がすでに問題であった。

 当時の組合は大会方針ではAPU創設にあたっては判断基準を複数立てながら、まだ設立 まえだという理由で「判断留保」しつつ、後述する業務協議会の席上で理事者側の「情勢認識」に同意し、当該協議の結末として賃金アップの回答を得てきたのであった(2000年代?になってからは、賃金カットを阻止してきた)。そしてRU組合として正式にこの判断を下すのは、1990年末(1999年の組合大会?)であったと聞く。

2「業務協議会か、団体交渉か」「運動とはなにか」の部分

 まず確認したいことは、RU組合は以前より(94年の業協終了後の組合員集会の席で、現在法人役員になっている幹部が、新たに参加した宇治高労組に向かって、立命の傘下に入ったのだから「物取り主義の団交」をやめて、「教職員の教学創造(業協)」による賃上げ路線を採るようにとの「アドバイス」があった)は、二者択一には立たないという、以下の文言だけで言えば、まともなことを言うようになっているということである。「重要なことは業務協議会か、団体交渉かという形ではなく、より有効な交渉形態にするためには、われわれが運動によって有利な交渉形態を作り出すこと」であるということが、それである。

 しかし二者択一の立場に立たないはずのRU執行部が、なぜ業務協議会を交渉方式の基本とするのか。曰く、「この(2006年4月大会決議:引用者)基本的理解を受け継ぎ、立命館に民主主義を復活させるという観点から、業務協議会を要求してい」くと交渉方法の基本として位置づけ、「もちろん、団体交渉も選択肢として残す」という「つもり」であることも明らかにする。

 まず第一に小生が、1998年7月の大会で主張していた「団交・業協の平行」論がひとつの考え方としては浮かび上がってくるわけであるけれども、どうして考慮されないのかである。話し合う事柄の性格を相対的に分けて考えて、団交では労働条件の問題を、業協では教学等のそれを扱っていけばいい。前者では少なくとも「容易に理事長・総長が欠席できない」訳であり、後者が開催できなければ、教学内容のバージョン・アップも教職員のモラルとモラールの向上も、容易には図れないのである。そもそも「トップダウンのガヴァナンス」という外的コントロールだけでは、所詮、どうにもならない問題が、そうした課題には内在するからである。その意味で、かつての理事会も、業協に「多くの参加者」を集めるようにしていたと思われる。また1990年代後半のAPU創設の課題があったときには、毎年、「新年祝賀の集い」に、全教職員を集めていた。そこには「学園一家」のムードを醸成したり、反対意見の「孤立化」を図るとともに、学園の全構成員に依拠しなければならない事情がそこにあったからであろう。

 ここで、いまひとつ気になることがある。それはRU執行部のいう「運動」論である。まずはじめに「われわれが運動によって有利な交渉形態を作り出すこと」は大切なことであることは了解している(ただし、正規教職員だけの「われわれ」ではダメではないか)。しかしそのことと、相手方の意思である「容易に理事長・総長が欠席できない」とか、戦術である「多くの参加者を受け入れ」たくないということを、どこまで左右できるのか。現に「これまでの業務協議会や団体交渉においてそうでありましたが、理事会は論理的にどこまで破綻していようと、どこまで筋が通っていなくても、最終的には理事会の責任で行うとしてきた」と自らが述べていることからして、「容易にそうすることができないようにする運動」とはなにかを、きちんと説明してほしい。その点では前の執行部は地労委への訴えもしたわけである。いずれにしても、自分たちの「運動」論にも、相手があるわけで、相手方の出方に応じて、労使交渉の種類の選択や物理的手段(ストライキ)・法的手段の実施等、あらゆる対抗策を講じなければならないことは当然のことである。

3、「ストライキ、その他の効果的な戦術について」

 次の箇所の真意がわからない。「訴訟は個人単位になるので、組合としては 訴訟を起こすことが出来ませんが、(中略)組合としては支援を行なっていき たい」。まず「訴訟は個人単位になるので、組合としては訴訟を起こすことが 出来」ないという理由は一応わかるけれども、それがどうして「組合としては 支援を行なっていきたい」ということになるのか。

「組合としては決定的に重要な中心的な課題として、組合の責任で訴訟闘争本部を設置し、それに必要な専従職員と顧問弁護士を配置する。」と述べることも出来たはずである。「支援」の内容がそういうことであればまったく構わないけれども、国語的には「支援」とは裁判を闘う当事者がいて、それへの側面的な「支援」という意味内容になる。 もしもそうであれば、裁判を闘う当事者の立場に実質的に立つことが組合の組織としては、今回、なぜできなかったのかを是非説明してほしいものである。それが意味することは、繰り返し強調される「容易にそうすることができないようにする運動」を目指す組合とって、たいへんに重大な問題が含まれている。したがって、率直にそれを説明できなければ、「運動」の到達点はすでに見えているのかもしれない。(以上は、訴訟に参加を決意した一人として、是非聞きたい点である。)

最後に

 RU組合の関係者はもちろん立命館学園の関係者には、次の五十嵐仁氏の「労働組合誕生の目的」(資料)を読んでいただきたい。RU組合は1989年の付属高校への契約職員の導入を嚆矢(?)とする使用者側の「多様な雇用形態」政策のなかで、KIC/BKCともに2000年前後に被雇用者の過半数を占める組合ではなくなっている。そうであればRU組合は非常勤組合やGU組合が頑張られているように、労働市場で、本来の「目的」である労組による全ての労働者の組織化に力を入れるべきであろう。そのためにはGU労組が求めてきて、この度実現したといわれる龍谷大学当局による語学教員についての「雇い止め」の中止措置に是非習われ、同様の要求を掲げて、前記の労組や個人とともに人権の回復をめざした、社会正義の実現のための「運動」に是非とも立ち上がっていただきたいものである。あわせて小生には、RU組合がGU支部への組合事務所の提供や労組掲示板の便宜等、同じ労働運動の仲間として当たり前に対応され、労働運動の正道を正々堂々と進まれることを切に願うものである。

【要求事項:過半数代表選挙の候補者として】

衣笠地区の36協定に関わる過半数代表選挙の候補者として、当該選挙を運営していたRU組合ならびに関係の「労働者代表者」等には、昨年12月の上労基署の指導に対して、どうなされたのかを至急、学園の全被雇用者に知らせる義務がある。また12月当時に、36協定未締結のもとで、なぜ時間外労働がおこなわれていたのかのかの事情を明らかにする責任がある。最後に12月の上労基署の指導で、「即刻」に禁止するように指導された「時間外労働」がそれ以降に、いかなる理由があろうとも、根絶されていることを、きっちりと説明責任を果たすように要求する。こうした点でのルーズさは相変わらずRU労組も、法人と同じだといわれていいのでしょうか。小生には、なにもまったく説明されていないことから、そのように見えている。

【資料】五十嵐仁氏「労働組合誕生の目的」

「転成仁語」所収http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm

「労働組合にとって、労働者を組織することは「権力資源」を獲得するための「手段」ではなく、それ自体を「目的」としているという点にあります。労働組合は、労働者を組織することによって労働者間の競争を制限することができるからです。このような競争制限は、組織することによって直接得られる成果であり、労働組合はまずもってそのために誕生しました。このような事情について、たとえば、栗田健氏は次のように述べています。 「資本主義経済そのものは許容しながらも、労働力商品の取り引きが必然的に陥る不平等を克服して、労働者が資本主義の中で生き抜いていく道を作り上げようとする運動が労働組合運動である。この運動にとっての問題は、私的所有という根本的な問題ではなく、労働力の取引関係における不平等である。資本家も労働者も自由に競争すれば、それが資本家と労働者の取引を平等にする、という虚構を是正し、本当に対等な取引条件を作り出そうとする運動である。そのためには、労働市場の構造から考えて、まず労働者間の競合を抑制しなければならないということが、労働組合運動の出発点を形成しているのである。」(栗田健『労働組合』日本労働協会、1983年、22〜23ページ)」