N.ウィーナー『サイバネティクス』
−−複雑システムの科学への序説−−

辻下 徹

数学セミナー1991年9月号p16-17

 この本は、読む人と読む時とに応じて様々な姿をみせる底の深い本のようで す。この小文では神経系・言語・社会(そして人)などの複雑システムについ ての科学の産声をこの本で聞きたい思います。

 ウィーナーが複雑システムに対してとる姿勢には工学的(作りたい、使 いたい)・科学的(理解したい)・医学的(保守したい、修理したい)という 3つのものが混然となっていますが、工学的な姿勢からウィーナーが得ている 洞察を中心に見て行くことにします。


─── その第1章は「ニュートンの時間とベルグソンの時間」という題 が付けられています。生命の跳躍を説いたベルグソンを登場させることにより ウィーナーは本全体を流れる基調として複雑システムの「創発性」を設定して いるように思われます。 

 創発性はシステムが複雑システムであることの目印です。そのシステム の微細構造・設計図のすべてを知っていてもそのシステムが何をするかは予期 できない、つまり、そのシステムを実際に動かしてみるまでその性質がわから ないという性質です。生物の設計図である遺伝型(DNAの配列)に対する表 現型(体型・生態・行動様式など)を創発的性質の典型として心に留めて下さ い。

 ─── この本の中で強い印象を与えるのが、第9章「学習する機械、 増殖する機械」で紹介されている話です。それは、魔法で二百ポンドを願った 人が息子の死亡弔慰金としてそれを受け取るという恐ろしい寓話「猿の手」で す。この寓話を通してウィーナーは創発性を持つ複雑システムを作成・利用し ようとするときには、これまでの工学が出会わなかった困難に直面するという ことに読者の注意を喚起しているように思います。それは一体どういうものな のでしょうか?

 ─── 第一の困難は仕様書に関わることです。(仕様書というのは、 機械やソフトなど複雑なものを製作しようとするとき、目的物を定義するもの です。)この困難は、仕様書が指定する条件のほとんどはシステムの創発的な 性質に関わるということから生じます。創発的な性質は決して予測できません から、「設計図」をいくら眺めてもそれが仕様書に叶うものか否かはわからな い、これが困難の内容です。

 この困難を解決するには、全く違った役割を果たす二つの部分からシス テムを構成しなければならないことは明白です。豊かな創発的性質をもつパラ メータ付きの基礎システムと、その挙動を評価して仕様書の条件が満たされる ようパラメータを変更する吟味システムとの二つです。ウィーナーの思想の中 心にあるフィードバックの概念はこの洞察を主要な内容として含んでいると思 います。

 ─── 第二の困難は、基礎システムの複雑度が増すにつれ、その吟味 システムには増々高度な能力が要求されるようになることです。人の心に近い 機能を持つ知的システムの構成が避けられなくなるのです。

 知的システム構成はそれ自身魅惑的なテーマであり、この本でも知的シ ステムについての多くの考察がなされています。第5章「計算機と神経系」に ある感情のサイバネティックス的なとらえかた、第6章「ゲシュタルトと普遍 的概念」でのパターン認識の分析、第9章でいわゆる学習能力についての考察 等の内容が汲み尽くされる日はまだ先のようです。

 ウィーナー以後、「記号処理によって知的機能を実現する」というパラ ダイムを持つ人工知能(AI)の分野が大きく発展しました。しかし、リアル タイムな状況が要求する高い処理速度を備えた知的吟味システムを作る課題に おいて、AIは大きな壁に直面しました:計算機科学においてアルゴリズムの 複雑度の理論が完成されたことによりは、逐次型計算機という制約下では、A Iのパラダイムが複雑なリアルタイム処理には原理的に不向きなことが明確に なったのです。こうして、リアルタイムな知的システムの構築可能性は、現代 計算機科学の主要目標の一つとなっている「並行分散処理の原理の解明」の達 成を待つことになったのです。

 ─── しかし、ここで私達は再び、並行分散システムという魅力的な 複雑システムの典型に出会うのです。計算機科学は並行分散システムを研究対 象に設定することにより、複雑システムの科学の先頭打者になったと言えましょ う。またこれと呼応して、複雑システムの創発的な性質を精密かつ柔軟に記述 する方法を生み出してきている数理論理学も、複雑システムの科学の欠かせな い一員だと思われます。(*)

 最近のニューロコンピューティング等の「並行分散AI」の動きは「並 行分散システムの創発的な挙動によって知的機能を実現する」という新しいパ ラダイムを提唱しています。その確立のためになされるつつある多大な努力は、 物理学者を中心とした創発性に富む単純な力学系(例えば、セルオートマトン、 結合写像格子等)の研究の大きな流れと相俟って、複雑システムの創発的な性 質についての多くの洞察を生み出し、そこから複雑システム科学の予想外の新 地平が出現してくるに違いないでしょう。

 ─── 実は複雑システムを作ることには、第三の厄介な困難が、仕様書 作成というステップに潜んでいます。それは、仕様書の条件を完全に満たす複 雑システムが完成さたとしても、夢想だにしていなかった挙動が立ち現れて窮 するという危惧があることです。この危惧が妥当であり、しかも多くの場合に 不可避なことはゲーデルの不完全性定理が明らかにしたことです。

 しかし、この困難の本当の根元は、人間の心自身が複雑システムである ために、自分が本当に望んでいることを明示的に示すことは出来ないという所 にあるのではないでしょうか?「猿の手」の中の人は、二百ポンドの貰い方を 知る権利と、願いをキャンセル出来ることの2点とが保証されていない限り、 願ってはならなかったのです。

 作ろうとする複雑システムが、すべてを同時には意識できない数々の宝 を侵さないようにしたいと思うのなら、その吟味システムの中心に生身の人間 である作成者自身が常駐するしかないこと、これこそ「猿の手」の寓話によっ てウィーナーが説きたかった複雑システム設計の要点なのだと思います。

複雑システムの科学が進展するにつれ、「研究者が研究対象によって研究 される」こと、「複雑システムには個性がある」こと等、これまでの自然科学・ 工学が避けてきた状況に直面していかなければならなくなるように思います。 そして、学問の知識と日常的な知恵との間の区切がつきにくくなること・つけ てはいられなくなるだろうことも予測されます。そしていつの日か中国古代に 超エリートだけが持っていた複雑システムの「学問=知恵」を誰でも望めばマ スター出来る時代が到来することを想像することは、日常的知恵の乏しい私に はとっても魅力的です。

これから学問の宇宙に向かう若い人々・既成の学問に飽き足らなくなった 人々の間から数学者ウィーナーの夢見たサイバネティックス=「複雑システム の科学・工学・医学」=「共有可能な知恵」を発展させる人が次々と現れるの を思い描くことは心踊ることではありませんか?


(*)計算機科学を複雑システムの精密科学として位置付け ること、複雑システム研究において果たす「形式的方法」の役割の認識など、 複雑システム科学についての重要な視点の多くを、九州大学の田中俊一教授に 負うています。・・・私が理解し損なったり曲解している面が少ないといいの ですが。