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なぜ数学は信頼できるのか?

辻下 徹
tujisita@math.hokudai.ac.jp

数学セミナー編集部編「教えてほしい数学の疑問2」(日本評論社1996)p7--15

読者からの疑問

ホーキング博士などは、宇宙論に迫るのに専ら数学を武器とし ていますが、なぜ数学がそんなに信頼できるのですか。また、こういう疑問は どこで取り上げられ議論されているのですか。

<つけたり>数学の論理が矛盾を排することは認めますが、現実の世界は、 A=Aであると同時に非Aという世界です。このギャップを究極的には、数学 側ではどう考え、理論物理や宇宙論側ではどう考えているのですか?


質問の意味は「どうして理念世界を対象とする数学が、現実世界の探求で重 要な役割を果たしえるのか?その有能性の秘密は何か?」ということだと思い ます。これに答えるには、数学はどのような学問かというテーマに触れないわ けにはいかないようです。このテーマには単純で決定的な結論はありませんが、 重要な足跡を残した数学者や科学者による豊かな思索も少なからず残されてい ます(*1)。しばしば議論される、直観と形式が数学において示す独特の相 互作用に焦点を当てて、以下、数学の「意外な有用性」(*2)としばしば呼ばれる現象の一つの説明をしたいと思います。

物 理と数学の関係

質問の中には「数学は物理学の道具である」という暗黙の主張が感じられま す。この主張は、表面上似ている「コンピュータは物理学の道具である」とは かなり違う内容を含んでいます。コンピュータを使って研究する場合、計算さ せることがらはコンピュータとは独立しています。コンピュータで乱流をシミュ レーションをする場合を考えてみましょう。乱流を記述する微分方程式があり、 乱流に関わる現象を測る量も知られている状況で、方程式に基づいて乱流を模 擬的にコンピュータ内につくりだし、それにより特性量を統計的に計算します。 道具としてのコンピュータは、計算の目的とははっきり分離できる存在であり、 物理学にとって外的なものです。

数学が物理学の道具である有り様はこれとはかなり違っていて、数学は物 理学の成立そのものに不可欠な役割を演じています。物理学の諸法則は数学の ことばで表現されますが、それは日本語や英語でも表せることを簡潔に表現す るためにそうするのではなく、数学的なことばを用いることで初めて現象の本 質を的確に言い表わせるからです。

物理学で用いられる数学的な「ことば」の中には、さまざまな数学的モデ ルも含まれています。物理学の研究成果は適切な数学的モデルの提案という形 で表現されます。

数学的モデルとは何か?

数学的モデルという概念は数学と諸科学との関係を理解するときの鍵の一つと なります。これについて少し説明してみましょう。

わたし達が新しいものに出会うとき、よく分かっているものものごとにそ れをなぞらえて表現し理解しようとします。こういう場合に使われる「よく分 かっているもの」をモデルといいます。

モデルとしては幼少時から親しんできたものがふつう使われるます。たと えば平面図形・具体的な因果関係・身の回りのものの操作・身近な生き物・人 間などが使われます。こういったものが心の中に息づいていて、私たちはそれ を詳細に観察したりいろいろ操作・変形したりすることができるのです。こう いう内的モデルとその内的操作・観察の全体がいわゆる直観の実質だと思いま す。

日本語や英語を用いた解説や絵・アニメーションによる説明は、こういっ た素朴な内的モデル(直観)にもとづいています。ふだん親しんでいる世界と 同質の世界を取り扱う学問は、解説と図解を有力な表現手段とすることができ ます:社会科学や人文科学などの多く学問がそうですし、自然科学の中でも生 物学や地球科学などがその例です。

ところが、このような素朴な直観では理解しようがないことに私たちは遭 遇することがあります。そのようなときは、辛抱強い観察や実験をとおして新 しい直観を作り上げていこうとしなければなりません。幸いなことに、新しい 現象や対象にひきつけられ、それと遊び親しむことを通して新しい直観を形成 する人たちが現れます。しかし、新生した直観を、日常的直観を土台としてい る自然言語や絵によって的確に表現すことは不可能と思われます。表現できな い直観は十分に発育はできませんから、これは深刻な問題です。

この問題−−生まれかけの直観に適切な記述法を与え伝達可能なものとし 直観の発育を助ける、という困難な問題−−を克服する方法を数学が持ってい ることにこそ、科学において数学が独特の使命を果たせる理由があると思いま す。

数学には日常を越えた世界についての直観を客観的に表現する力があり、 その結果として新しいタイプのモデル−−数学的モデル−−がうみだされます。 ニュートンによる力学の基本法則の発見は、その法則を表わす数学的な概念の 発見と不可分のものでした。関数・微分法・微分方程式などは、力学の基本法 則にもまして人間の精神的世界を豊かにしたと思います。

形式系の役割

数学という学問のどのような性質が、このような使命を可能にしているので しょうか?

直観的思考(内的モデルを操る力)と形式的操作能力(記号を操る力)と は人間の知を支える2本の独立した柱です。数学という学問の特異性は双方に 体重を均一にかけるところにあるように思います。内的な対象とその操作は形 式的に表現されるべし、形式的操作から生まれる表現は内的意味を持つべし、 という要請が数学という学問の骨格をなしていると私は思います。

数学の専門用語に「形式系」があります。公理(議論の出発点として関係 者が合意する主張)と推論規則(関係者が正しいと合意する推論の形式的パター ン)とによって表現された個々の理論体系を形式系といいます。数学の理論は どれも形式系として表現できる、というのが数学についての「公式見解」です。

しかし、数学の研究プロセスについていえば、「形式的」をもう少し広い 意味で理解する必要があります。それは関係的・論理的・記号的・計算的・ア ルゴリズム的といったことばの意味を含んでいます。形式的に表現するという ことは、あるものを記号----だれに対しても明示できるもの----で表すことを 意味し、形式的操作とは、だれでも繰り返すことのできる記号に対する明確な 操作のこと意味します。

分野が違えば記号も異なり、たとえば、幾何学では絵や図が、解析学では 式が、代数学では文字列が基本的な記号となり、それに対するあらわな操作 (絵の変形、式の計算、文字列の書換など)が研究において大きな役割を果た します。記号は単に道具あるだけではなく、それなしには直観が十分形成され ることがない、と言えるほどの力を持っているように私は思いますが、異論も あると思います。

直観と形式は数学の両輪

直観と形式との調和は、一挙に実現されるものではありません。形式的表現 が直観的内容を深め、直観的内容が形式的操作を導くという相互作用が、数学 の推進力となります。これは、直観と言語との相互作用が思考の原動力である のと同様です。

記号的操作の直観は視覚や運動感覚と結びついているせいか、直観よりも はるかに自由に容易に働くように思われます。初等教育において、計算法を教 えることが、計算の意味を教えることよりやさしいことも、その一つの現れと 思われます。すぐれた記号的直観をもっているゆえに、人間という種は超日常 的世界についての直観を発展させることができるのだと思います。

しかし、記号の意味ある一人歩きが長続きすることはありませんから、記 号の意味を与える新しい直観を形成していかなければなりません。形式から直 観にいたることは数学の学習・数学の発展のいずれにおいても、むずかしいプ ロセスです。

今世紀前半にヒルベルトとワイルは数学の本質について鋭く対立しました。 形式主義者ヒルベルトは記号的操作の持つ明瞭さと無限の可能性とに惹かれて 記号に意味を与える必要性を認めなかったのに対して、直観主義者ワイルは直 観的内容を持たない形式的論証を認めようとはしませんでした。しかし、記号 と直観とは共に一人歩きは出来ないものであることは、今や多くの数学者の認 めるところであると私は感じます。

数学はなぜ科学の信頼できる武器にもなれるか?

形式系という武器により数学者は現実世界からかけ離れた世界についても正 確で客観的な直観を形成することができます。しばしば、豊かな数学的世界に 巡り会った数学者達がそこに沈潜し、超日常的な世界を記述する潜在力を持つ 多様な形式系−−日常的基盤を持ちえない直観とそれを支える形式系−−を創 造します。

数学が科学の武器である理由は、個々の数学的理論がたてる功績にあるこ とはもちろんですが、それだけではないでしょう。それだけでは、超日常的世 界を研究する宇宙論や素粒子論などの学問に数学はたいして役にはたたなかっ たと思われます。数学は、素朴な日常的直観の枷から人間の精神を解放し、日 常的現実とは全く異質な全宇宙や極微の世界などの世界についての直観を、日 常世界の直観と同様に育成し、さらに人々の間でその直観を共有することまで 可能にする力を持っています。このようなユニークな働きこそ数学を科学の信 頼できる武器となすのだと思います。

この働きは、物理学以外の学問、たとえば脳科学のように日常的な直観の効かない対象を扱う分野においても、特異な役割を数学に今後与えていくように私は期待しています。

実験数学・理論数学・厳密数学

アメリカ数学会誌29巻(1993年)6月号で、Jaffe と Quinn は「理論 数学」という概念を「理論物理:実験物理=X:厳密数学」という比例式のX に相当するものとして導入し、理論数学の功罪を様々な角度から検討し、理論 数学と厳密数学への数学の分業化が有益であろうと主張しました(*3)。今までの議論と関係させて、理論数学・厳密数学と 実験数学について少し触れておきたいと思います。(Thurston, Atiyah,Thom 等の著名な数学者によるJaffe達の主張への刺激的な賛否コメントがあります (*4)。)

「理論数学」の実質は、個人的直観に基づいた数学的真理の探索にあり、 新しい数学的対象の発見や未知の真理の全体像の素描などが結果として得られ ると考えてよいと思います。こういった研究成果は厳密数学とはかなり明瞭に 区別できる重要な数学の前進だと考えられ、これに一つの名前を与えたのは意 味あることだと思います(*5)

厳密数学と独立に理論数学が存在できる理由の一つはいわゆる「実験数学」 が歴然と存在するからです。「実験数学」と聞くと、コンピュータによる計算・ シミュレーションがすぐ思い浮かびますが、コンピュータ以前から具体例の詳 細な観察は数学研究の推進力の花形であったと思います。

直観対形式という観点からいえば、実験数学も厳密数学も直観が多かれ少 なかれ形式化されていることを前提としています。形式化された対象の振る舞 いを形式的操作を通して調べるのが実験数学であり、それによって直観が育成 されていきます。このようにして育った直観がもたらす真理を検証する方法と しては2つあります。一つは、再び実験して心証を深める方法(これは数学以 外の自然科学にとっては主要な方法)、もう一つは、その真理を形式系に表現 して、証明という半ば形式的操作により演繹する方法です。この後者の方法が 厳密数学の内容です。このように、数学では直観を支える形式的作業として2 つの半ば独立したものがあることになります。

実験数学と理論数学に対応するものは他の自然科学の諸学問にも存在する のに対して、厳密数学に対応するものは数学の他にはないように思います。こ のことが誇張されて、厳密数学こそ数学であるというように誤解されるのだと 思います。数学には厳密数学のほかに実験数学と理論数学という成分があり、 これらも現実の数学研究プロセスでは不可欠な役割をはたしていることが認識 されることは重要なことだと思います。

なお、数学は、実験数学・理論数学・厳密数学という3成分に応じて分業 化が起こるような、大規模化するタイプの学問ではないと私は思います。この ことは数学の持つ多くの魅力の一つであると私は感じています。

まとめ

冗長になりましたので、要約しておきましょう。「数学は直観(内的モデル) と形式(記述法)を調和させようとする学問である。直観が、無制限の自由度 を持つ形式と相互作用することにより、非日常的世界についても明瞭な直観が 形成される。新しい直観とそれを支える豊かな形式とを同時に形成する力を備 えていることが、数学を自然科学の信頼できる武器とする。」

<つけたり>についてひとこと

「矛盾」は形式系に関する概念です。「=」や「非」もそうです。ですから、 質問は無意味なように見えます。

しかし、「A=Aであって非A」という言い方には、理論と現実との次の ような関係をほうふつとさせるものがあります:

また、「A=非A」という公案には、個体(A)や同一性(=)などの概念 が、人間の神秘に満ちた認識システムの最高レベルの働きに支えられている精 妙なものである、との直観が込められています。<つけたり>の部分は数学に 関連する問ではないですが、人間の認識システムに関する根本的な問題への入 り口の一つであると感じます。

(*1)古くはポアンカレの3部作「科学の価値」「科学と発見」「科学と真理」が有名ですが、近年では 数学者のものでは などがあります。また、「構造」についての興味深い考察が次の本にあります。構造概念は、数学の本質を見る別の切り口を与えています。

(*2) Wigner, E.P., The Unreasonable Effectiveness of Mathematics intheNatural sciences. Communications Pure and Applied Mathematics XIII 1960, 1-14.

(*3)A. Jaffe and F. Quinn:"Theoretical Mathematics": Toward a cultural synthesisof mathematics and theoretical physics, Bulletin AMS Vol .29, 1-13, 1993.(笠原 泰訳:「”理論数学”/数学と理論物理の文化的統合に向けて」数学セミナー1994−11、12号、1995−1号。)

(*4)

また、数学の本質にまで踏み込んで議論しているThurston による論説 は深い内容と洞察に満ちていて、数学という学問についての新しい貴重な証言であると感じました。「数学研究の成果は理論ではなくて数学的対象の新しい理解の仕方や考え方にある」という主張は印象的でした。

(*5) 上のコメント(*4)で、複数の数学者が理論数学Theoretical mathematicsという名前は不適切で、speculative mathematics と言うべきだといっています。


1995.8 記