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「生命と複雑系」序文


「複雑系研究者」の気持ちの中には、「複雑な機構」理解という動機と、生命
やこころの理解という動機とが、不可分に混じり合っている、と私には思われ
る。しかし、内部観測の視点が見いだされたことにより、「複雑な機構」とし
て生命を理解し、脳の機能として心を理解しようとすることは的外れな試みで
あるだけでなく、むしろ生命の本質的な側面を隠蔽してしまうような試みであ
ることがかなり明確になってきたと私は感じている(この点が第二部の主題と
なる)。

 生命の「複雑な機構」としての側面の数理的研究は、現在の方法の延長 上でも予想外の知見・新概念・新理論が今後見いだされ大きく発展していくこ とはまちがいなく、科学的好奇心にとってだけでなく医学との関係ではその発 展は測りしれない重要性を持つことはいくら強調してもし過ぎるということは なかろう。

 こういう研究には「生命は生命以外のもので了解できる」や「心は脳の 機能である」という作業仮説は不可欠である。しかし、科学研究の場では単な る作業仮説でしかないものが、科学研究以外の場では科学の進歩の根底をなす 「科学的真理」であるかのように無意識のうちに迷信されてしまっていること に戦慄を感じる。最近の複雑系ブームにより「複雑系」が「よくわからないも の」と同義語になってしまったいま、複雑系という言葉から「複雑な機構」と 「生命」とを分離し、複雑系の科学で何が可能で何が本質的に不可能かを冷静 に吟味する作業が必要であると思うようになった。

 私自身は、生き物や心に見られる「全体性」というものが数理科学でど うして扱われていないのか、扱うとすればそれは一体どういうものか、という 素朴な疑問から複雑系的な問題に関わるようになった。しかし、そもそも科学 や数学で扱えるようなものではないかもしれない、という伏流が意識の中を流 れ続けてきた。生き物は数理科学で扱えるものではないことが何らかの意味で 明確にわかるという形の解決でもよいとも思ってきた。「内部観測」はその種 の解決を与えているように感じているが、それは終わりというよりは初めであ るような解決であろう。

 この小論は3つの部分に分かれている。

 最初の部分は4年前に複雑系の問題点について考察したものをそのまま 再掲したものである。これを書いた時点では、数理的「脳の理解」は「不定な 日常的環境」の数理的定式化という作業が不可欠であること、そしてこの作業 は的外れな作業であること、に気付いて私自身としては複雑系研究の方向を見 失っていたといってよい。「高次機能」がその延長線上に望めないことは明ら かであったが「複雑な機構としての脳」の理解は数学的な問題としては意味が あり、そういう方向を続ければよいだろうと考えていた。

 その方向の試みの一つとして、オートポイエシスの構想をどこまで数学 的に表現できるか分析を試みたものが第二節の内容である。オートポイエシス の構想は新しい「複雑な機構」概念を含んでおり、それが数学的にはどういう ことかを明確にしたかった。分析はまだ途中の段階であるが、コンピュータサ イエンスの分散プロセス理論とオートポイエイス理論とは共通する問題をもっ ていることがはっきりした。この方向で今後数学的にやるべきことは数多くあ る。

 しかし、「複雑な機構」自身を研究するということは、当初の「生命や 心」の「科学的」理解という私自身の問題意識の中途半端な放棄にほかならな い。中途半端というのは、だめならばどうしてだめかということが明確にした いというのが私の当初の問題でもあったからだ。

 「無限定な日常環境」の数理化という的外れな作業の必要性に直面して 生命や心の数理的研究がどうしてダメになるか、という点を考えることに生命 や心を照らすものがあるのだ、ということは、郡司ペギオ幸夫による生命論を 理解し始めるまで、全く思いもよらなかったのである。それが啓示したのは、 当初求めていた「生命や心」理解への全く予想外の道であった。第3部では、 わたし自身がわかったと思った部分の整理を試みた。