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「数学と複雑システム学との多様な関係」補足
Last updated 98.10.29
目次
チューリングテストに関する捕足
「チューリングテスト」の取り扱いについてはもう少し慎重さが必要であった。
講演の主旨は、生命研究には新しい多様な言明可能条件を構成することが役に
立つ、その例として広義チューリングテストがある、というものであった。し
かし、チューリングテストという言葉を用いることはいくつかの誤解をひき
起す危険性が伴うことに郡司氏と角田氏に指摘されるまで気付かなかった
チューリングテストは、知能の一つの言明可能条件を与えている。これは、一
般性・普遍性を科学的言説の必要条件であるとする観点からすれば、型破りの
提案であったといえよう。しかし、講演の主旨の下で重要なのは、このテスト
自身の具体的内容や性格にあるのではなく、このようなテストを提案したこと
自身である。
そこで次の点を捕足しておきたい。
- 理解したい事柄(知能や生命)に対して、「適切な」あるいは「ピッタリの」
<広義チューリングテスト>が存在するわけではない。チューリングテストが
機械の知能についての、唯一の適切な言明可能条件を与えている、というわけではない。
- 一般性・普遍性にかわって 個々の人間が直に感得するものを持ってくればよい、
ということを主張しているわけではない。
不定性に関する捕足
講演で強調したかったのは、「不定性」という捉えがたい概念であった。
その概念の捉えがたさは、クリプキによるプラスクワスの議論の捉えがたさと
同根である。いくつかの「確信」がこの議論を無意味に見せる。その中でも厄介なものは、
- 「数学的帰納法には何も問題はない」という確信
n から n+1 へいつも移行できるということと、超越的に(あるいは思考実験的に)
この移行の継続を完了できるということとは全く別のことである。前者が無限の本質で
後者は危うい「空想した無限」である。この違いが本質的であることの認識が、
不定性の理解にとって不可欠であるように感じる。
- 「形式系(記号系)というものにはあいまいさがない」という確信
この場合には、プラスクワスの議論は「単に違う公理系をとるだけのことだ」
で片付けてしまうことになる。しかし、数自身が懐疑されているときに、数よりも複雑な
形式言語を基盤とする公理系というものを持ち出して、この議論を退けるわけにはいかない。
- 「数学的な足し算関数は、人間が具体的数を足し算するという様相とは独立に
理論的に明確に確定している」という確信
クリプキの議論は、まさに「理論的に確定している」という言明を懐疑しているのである。
数学では、「自然数の集合」は帰納法が使えるところとして公理系で確定したものとして
考え、帰納法を用いて足し算を定義する、と考えるのであるが、この考
えに出てくる「公理系」も「帰納法」も上で見たようにクリプキの議論に耐え
ることができない。
なお、クリプキの懐疑に関してもうひとつの誤解がある。
- 「クリプキの懐疑はもっともだが、それでは何も建設的なことはできない。
通常我々は種々のものを基底とすることを合意して、学問を築き上げていくのだ」
クリプキの議論は「約束によって何かを基底として採用することは可能である
が無意味だ」といっているのではなく、「(約束によってでもあれ)何かを基
底として採用する」という文自身に意味がないことを明らかにしている。従っ
て、クリプキの議論が何を懐疑しているのかを理解するときには、理解する前と同
じスタンスに戻ることはできないとさえ言える。
クリプキの懐疑が学問を破壊するものであると危惧する人のために、正反対にそれが
学問に生命を与えるというウィトゲンシュタインの予言を引用しておきたい。
ウィトゲンシュタインの予言
「未来の数学者と今日の数学者を区別するであろうもの、それはまさに、より高度の
繊細さである。そしてこの繊細さが数学をいわば刈り込むことになるであろう。なぜ
なら、ひとは将来新しいゲームの発見によりも、絶対的な明晰さに対して、いっそう
気を使うようになるだろうから。
哲学的な明晰さは、数学の成長に対し、日光がじゃがいもの芽の成長に対するのと同
じような影響をおよぼす。(日光の射さない地下室ではじゃがいもの芽は1メートル
の長さにも達する。)(全集4,p207)」
tujisita@math.sci.hokudai.ac.jp