2000.11.19

新しい知の共同体にむけて

辻下 徹


日本の大学を襲っている激震の正体は何か。高等教育研究者の天野郁夫氏は、それを知の企業体への変革プロセスと捉え「アメリカに学ぶべきは、知の企業体化だけではなく、それに抗して大学人たちがいかに知の共同体性を守り、育ててきたかであろう。」(「書斎の窓」九月号「二十世紀の大学」)と指摘した。

大学の企業体化は、知的活動を経済活動の下に制度として位置づける。知的活動は経済活動に支えられているが、経済活動に組み込まれ手枷足枷を付けられれば長期的には衰退し経済活動自身も衰える。アメリカに真の知的活力があるとすれば、企業体化したにも関わらず知的活動を衰退させなかった知の共同体の強さと、それを支えている個の確立した社会風土・大学財政基盤を強める税制・潤沢な給付奨学金等の環境に注目すべきであろう。

大学審議会の提言に従って文部省が推進している大学企業体化政策は成功するだろうか。以下、知の共同体が存亡の危機にあることを指摘し、新たな知の共同体構築の方向性を提案したい。

大学の企業体化をストレートに実現する試みが、国立大学の独立行政法人化である。学長は企業の経営技術を活用し国からの運営交付金を元手に「アウトプット」を増やす努力に専念できるが、五年毎の評価に応じて予算削減・学長更迭・廃校等の処分を受ける。そこまで露骨な企業体化は避けられたとしても、今年度から始まった大学運営の中央集権化・基盤研究費(実験系では七割)の競争的研究費への移行・大学評価機構の発足によって、大学の企業体化は既に粛々と進行しつつある。

この流れに抗して日本の知の共同体はアメリカのように存続できるのだろうか。

昨年、独立行政法人化の話しが現実味を帯びた途端に大学全体がパニックに陥ったかのように生き残りに向けて走り出した有り様は、知の共同体が風前の灯火であることを感じさせる。一方、大学の置かれている環境を見れば、アメリカで知の共同体を支えている社会的・制度的環境は日本では皆無に近い。

明治政府が欧州から輸入した知の諸制度は一世紀を超え現在に到るまで政府管理下にあり、日本社会には自立した知の共同体が成長する機会はなかった。そして今、直前の世代が夥しい犠牲の後に遺した、知の共同体建築の足場となるはずの学問の自由と大学の自治も有害無益なものとして打ち捨てられようとしている。日本社会は存亡の危機に直面していると言うのは大げさなことだろうか。

しかし、ここに一つの活路が開けている。

十年後には日本の大半の人々がインターネットの世界と接して生きることが予想されている。経済的・地位的・権力的障壁なしに、誰でも即座に全世界に発信でき内容に応じた影響力を持つ社会の実現が近づいている。人類が初めて経験する新しいマスコミュニケーション手段がもらたらす社会の変貌は予想を超えているが、印刷術発明に匹敵する人類の知的環境の進化が起こりつつあることは間違いない。自由不羈な知の活動の場が無限に広がることにより、日本社会は、知の共同体を構築する予期せざる好機に遭遇していると言えるだろう。

自由な知的活動を支え、学術・教育社会と日本社会との直接的インターフェースを発生・成長させることを目指す「Academia e-Network」の設立準備会が発足した。

学問総合ポータルサイトを構築し、学問の進展や現代の諸問題に関する正確な知識と広い視野を与えるための解説や質疑応答の場等を日常的に提供すると共に、大学内外の人々が構築している充実したサイトを紹介する。各分野で質の高い新しいカリキュラムをオープンな場で構築し提供、自由な教育活動の展開等、知的活動を大学を超えて広く深く活性化させる。

それと同時に、企業化の進む大学において、知の共同体性を守るために大学を超えた日常的連携を強める。

こういった活動が進化し栄えるとき、社会全体を基盤とする知の共同体が日本社会に成長し光を放つようになるだろう。