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小野善康著「景気と経済政策」

岩波新書576(1998) 4-00-430576-4
p66「...そうであれば、国民は、余剰人員・余剰設備を、政府にろくでもないことに使わせるか、失業を放置してでも政府の活動を制限するかという、悲惨な選択しかなくなってしまう。このような状況を脱却するためには、国民はただ金をよこせではなく、意味のあるお金の使い道を提言すべきである。...

広義の公共事業

公共事業というと、すぐに思い浮かぶのは道路や橋である。もちろん、このような従来型の公共事業に限っても、阪神大震災の教訓から、老朽化した大都市圏の高速道路の修理など、重要な仕事がいくつもあろう。しかし、リストラや労働時間の減少などによって余った人材や設備を有効利用するという、公共事業本来の目的からすれば、その他にもいろいろな使い道かえられる。ダイオキシンや環境ホルモンの問題を見ても、その調査や除去作業、および全国のゴミ処理場の抜本的改善に、政府がお金を使っても、怒る人はいないではないか。いま、スギ花粉症は国民的な病気となっている。政府はこれを放置しているが、それなら手入れの悪い杉を伐採して、広葉樹に植え替えることも考えられよう。このような事業が民問活動を圧迫するとはとても思えない。そのほか、情報通信網の整備、高齢化対策や老人介護の人手など、いろいろあろう。

 赤字国債の増加による財政状態の悪化で、最近は何かにつけて将来世代の負担が問題になるが(注2)、将来世代のためを考えるなら、教育投資も重要な公共事業である。最近の情報革命の進展で、情報関連技能者の需要が急増している。また、将来の成長産業を育成して新たな需要を生み出すことも望まれる。そのため、各種専門技術教育や、新製品開発技術者育成、ベンーチャービジネスのための経営ノウハウ向上など、専門教育施設充実のための投資も必要であろう。人的資本を向上させる教育は長期的な投資であり、必要になってからお金を付けても、すぐに人材が確保できるというわけにはいかない。

 同様に、初等・中等教育の教育環境ももっと改善すべきであろう。一クラスに40人近くもの生徒を収容し、教員に重い負担を押しつけておいて、最近の校内暴力や少年非行問題を取り上げ、一人一人の生徒に目が行き届いていないとか、昔の先生は自分の人生をかけて子供と向き合ったとか、倫理教育が不足しているとか、金のかからない精神論ばかりを並べ立てている。先進国において、こんなに大きなクラスを一人の教員でみている国はない。ほとんどが教員一人で二○人程度である。こうした環境においてはじめて、一人一人の生徒に先生の目も届くであろう。またこれこそが、教育を通して将来世代の便益にもなろう。ところが、最近の財政構造改革では、子供の数が減少しているからといい理由で、教員の数を増やすどころか、逆に減らそうとしているのである。

(注2)当然のことのように、国債発行は将来世代の負担になるというが、この議論自体にも多くの誤りがあり、特に不況期には負担にならない。これについては、第3章において詳しく解説する。

p71

景気に対する政府の反応

社会にとって望ましいことと、個々の企業や銀行の行動とのギャップを埋めることのできる唯一の主体は政府である。ところが、実際には政府も不況期には〈供給側〉の考え方である「小さな政府」論にのって、行財政改革、省庁の整理、公共事業費の削減を推進し、民間の内向きの効率化に同調している。公共部門は効率が悪いから、縮小してなるべく民間に任せようというわげである。

 これは、政府が責任を持つ範囲は公共部門であり、あたかも経営者が自分の企業の効率だけを考えるがごとく、政府も公共部門の効率化だけを考えていればよい、という発想から来る。しかし、民間企業との対比でいえば、株主や社員は公務員だけではなく、国民全体なのだ。公共部門や公共事業の縮小によって失業者を増やし、効率化したと満足するのは、企業内の労働力の一部(公共部門)を整理し、窓際族(失業者)を増やして満足するようなものである。政府は、失業者をどの部門で効率的に吸収するのかまで、責任を負うべきである。

 この点、好況期には旺盛な需要に支えられた民間部門が、いくらでも労働力を必要としており、コスト意識のない公共部門よりもよっぼど効率的に利用してくれるため、整理した労働者のことまで考えなくてよかった。ところが、不況期に政府までもが活動規模を縮小すれば、経済全体にとってもっとも効率の悪い使い方である失業が待っているのだ。不況期に必要なのは、政府が民間では吸収し得ない余剰労働力を積極的に使って、意味のある公共財を供給することである。」

p108

財政構造改革のタイミング

それでは、どのような財政構造改革法が望ましいのであろうか。すでに明らかにしたように、不況期の財政赤字には害はないが、好況期までに使い切らない分があれば、その分を税金によって取り返しておかなければならない。さらに、好況期には、できるかぎり公共事業を減らすことが重要である。したがって、財政構造改革を行うならば、次のような原則に基づいて行うべきである。

(1)不況期には躊躇せずに国債を発行し、公共事業を増やして、金の無駄遣いではなく、労働資源の無駄遣いを最小限に抑える。

(2)好況が来たら、直ちに公共事業を減らすとともに、増税して国債を償還する。また、国庫金を黒字にして、次の不況期のための準備金にしてもいい。そうすれば、不況期には思い切った財政出動ができる。

(3)以上の点を明確にするために、財政構造改革法では、有効需要と潜在生産力との乖離によって、歳出規模や国債発行規模を決めることを、明文化すべきである。その指標としては、完全失業率や稼働率が考えられよう。

さらに、この原則は断固として守るべきである。今回の財政構造改革法がすぐに変更されたように、この原則も景気が回復すれば緩めて、財政の緊縮を怠るようでは、何にもならない。

 景気の各局面に対応して行うべきこのような政策対応は、第2章第4節にまとめておいた、財政支出の側面からみた望ましい政策対応と一致する。すなわち、歳出歳入いずれの面から見ても、不況期には積極財政が、また好況期には緊縮財政が望ましいのである。

 このような状況を国民がよく理解していれば、将来の国債の元利支払いのために必要な増税への文句も減るであろうし、そうなれば政府も不況期には積極財政を実行できる。しかし、こうまで公共投資の非効率や汚職が明らかになると、信頼がなくなり、たとえ社会的な機会費用が低くても、公共事業はそれ以上に効率が悪いと反対が出る。特に不況期には、国民にも余裕がないため、反対論は強いであろう。その意味でも、公共投資の中身の吟味と、その内容の国民への公表は絶対に必要である。」

p172

企業のリストラの社会的意味

平成不況の構造的原因とその対策として、経済団体の代表者、経営者出身の評論家、証券会社のアナリストなど、特に実業界出身の工コノミストの間でかなり広く受け入れられている見解は、次のような〈供給側〉の考え方に基づくものであろう。すなわち、「八○年代のバブル期において、日本では様々な過剰投資があった。人員採用の過剰、不動産投資の過剰、生産設備の過剰、である。これらは早急に整理しなければならないのに、政府が財政出動してカンフル剤的に経済活動水準を維持しているから、経済構造改革が進まない。そのため、不況期には政府は余計な財政出動などせず、さらに不要な規制を排除して企業間の競争を促進し、企業に自浄努力をさせるべきである」というものである。

 各企業の立場からいえば、自分の抱えている非効率性を徹底的に排除し、余剰人員を整理し、余剰設備を除去して、ライバルとの競争に打ち勝てばよいし、まさにそれこそが企業の社会的使命でもある。また、労働者はいったん整理してしまえば、その先は彼らのことを考えることはなく、またライバル企業の浮沈も一切関係がない。このことは、個々の企業にとっては、景気の好不況に関わらず、つねに従っている行動原理である。

 こうした個々の企業の行動原理は、経済の調整が完全であり完全雇用が保障されているならば、社会全体にとっても望ましい。リストラによって非効率な使われ方から解放された人材や資本は、直ちに、あるいは短期間で、ライバルとの競争に勝ち抜いた優秀な他企業に吸収され、以前よりも効率のよい使い方をされて、そのまま経済全体の生産力を高めていく。そのため、このような企業本来の行動原理を促進するような構造改革は、経済発展を呼び覚まし、個々の企業による効率化の推進は、経済全体の効率化に直結する。

 ところがこのようなリストラが声高に主張されるのは、雇用機会が保障されているような好況期ではなく、特に現在のような不況期である。好況期とは違って不況期には、人も資本もすべてが有効に利用されているわけではなく、余っているため、リストラされた人員や資本も、やはり余ってしまい、社会全体としての余剰人員や余剰設備が、その分増大することになる。

 このような状況を前提として、リストラ万能論の意味を検討してみると、現状の需要不足に対しては何も手を打たず、供給側をリストラして需要の低い経済規模に合わせれば、経済はすべてうまくいくといっているようなものである。そこには、リストラされた労働力に対する配慮は完全に欠如している。ここに実業家の発想の限界がある。民間の企業家は自分の効率化だけを考えればよく、自分がリストラした労働者やライバルがどうなろうが、知ったことではないのである。それどころか、彼らは自分を磨く努力をしないからああなる、とさえいいたげである。

 個々の企業の効率化は当然必要である。実際、経営者はそれに向かって日々努力しているであろう。そのような企業の効率化を、どの規模の需要に合わせるのが、社会全体にとって望ましいのか。政府が何もやらず、需要が落ち込んだまま、労働力などの生産資源が余っている状態に合わせて、もっとも効率よい生産体制を作るのがいいのか。それとも、政府が積極的に意味のある公共事業を行い、企業がリストラによって放り出した余剰人員を何とか無駄にならないように使う状態を前提にして、もっとも効率のよい生産体制を作る方がいいのか。答えは明らかであろう。

 リストラ推進論者の弁では、後者の前提に立つ生産体制では、膿が出し切れていないから、政府が財政出動など余計なことをせず、生産体制を需要が冷え切ったままの状態に合わせ、余剰人員は放置した方が、「個々の企業」にとってはもちろん、「社会全体」にとってもいいということになる。その状態になれば景気が回復するなどという無責任なことが、なぜいえるのであろうか。

落ちこぽれを作らない制度

不況期の企業間競争は、受験競争とも似ているかもしれない。人試に合格した者は誉め、落ちた者におまえもがんばれば入れたのに、真面目にやらなかったから落ちるのも当然だという。しかし、入学定員がある以上(すなわち経済伏態としては、需要に限界がある以上)、もし落ちた者がもっとがんばったとすれば、代わりに合格した者のうちの誰かが落ちたのだ。皆ががんばっても、皆が報われるわけではないのである。ある程度の能力があれば、他の人がどうであろうと合格するという、自動車運転免許試験のような資格試験であれば、落ちたものはがんばりが足りなかったと責められよう。しかし、入学試験のような選抜試験では、必ず誰かが落ちるのである。実際、現在では、多くの勤労者がリストラの恐怖に直面している。このとき、落ちた人を一方的に責めるのは、あまりに酷である。

 個々の企業にとってみれば、少しでも才能のある者を、必要な人数だけ取りたいということは自然であり、選抜試験方式を取らざるを得ない。しかし、政府が社会全体において、人々の働く場や努力する場を提供することを考えるさいには、資格試験でなければならず、選抜試験によって落ちこぼれをつくるシステムであってはならないのである。

 ここで筆者は、各企業や各個人が効率化努力をしなくてもいいから、彼らを支えるようにしろといっているのではない。各企業の効率化努力や、各個人の能力開発の誘因は維持しなければならないが、失敗した者に対しては、政府は受け皿を作るべきだといっているのである。好況時には民間が自分で受け皿を用意しているが、不況時には政府が受け皿を用意しなければならない。

 こういうと、受け皿があれば効率化努力をしないという意見もあるかもしれない。しかし、そうであれば、好況時には効率化努力はもっとしないであろう。なぜなら、失業しても人手不足で職がすぐに見つかるからである。不況期に努力しないで職を失っても政府が雇ってくれるから何とかなると考える程度と、好況期に職を失っても人手不足だからすぐ次の職が見つかるさと考える程度とでは、明らかに好況期の方が楽観的になるであろう。そのため、不況期よりも好況期のほうが危機感は小さく、効率化努力や勤労意欲は低いはずである。ところが、つい10年前の好況期には、日本企業の生産効率や労働者の勤労意欲、日本的経営システムや社会システムは世界一だと誇っていた。逆に現在の不況期には、日本的構造は甘えの構造であり、そのため目本の生産効率は低く、失業する人や倒産する企業は甘やかすとさらに努力を怠るから、もっと厳しくしないといけないといっている。まったくあべこべである。」

行財政改革が陥る危険

民間における構造改革しリストラの嵐は公共部門にも波及し、民間もリストラをしているのだから、公共部門も無駄をせずにスリム化しろということがいわれている。この流れにあるのが行財政改革である。政府は肥大しており、その使い道も非効率である。また、政府の活動は民間を圧迫もしている。だから、政府は小さい方がよいというわけである。もちろん、公共部門の活動も民間企業と同様に、仕事の内容や規模がいったん与えられれば、その範囲でできるかぎり効率的に行うべきである。ところが不況期における公共部門のリストラ論議の中心は、その活動内容の検討やそれを行うさいの効率化よりも、規模を縮小することにある。その理由は、政治的に国民にアピールするという意味でいえば、これが一番わかりやすいからであろう。..

 しかし、公共部門をただ縮小するのでは、何にもならない。特に不況期には、逆にその活動規模を拡大してでも「余剰資産を有効活用すること」が、政府にとってもっとも重要な仕事なのである。」