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行政指導

新藤宗幸著「行政指導−−官庁と業界のあいだ」岩波新書 218(1992年) ISBN 4-00-430218-8より引用
行政指導の定義組織法令は行政指導の法的根拠にはならない行政指導の法的根拠行政指導の伝達方法中央官庁の大部屋主義の影響補助金閉鎖的なコミュニティ内部の論理族議員集団・官僚革制部局,利益集団の三位一体構造情報公開の必要性| 規制緩和ではなく再規制が必要

新藤宗幸著「行政指導−−官庁と業界のあいだ」岩波新書 218(1992年) ISBN 4-00-430218-8

行政指導の定義

p42「行政指導が、日本の行政のすみずみにまでわたっている状況を考えるならば、かなり広く定義しておく必要があると思えるが、私のいう行政指導とは、おおよそ次のような性格をそなえるものである。

第一に、行政指導というのは、ある特定の目的の実現にむけて、法令の根拠を基本的背景としつつ特定の相手の行動を操作する、あるいは事案に直接適用する法的根拠がなくとも、なんらかの関連する法的根拠を援用しつつ特定の相手の行動を操作する、官僚制の行動であるといえる。ここで、「法令の根拠を基本的背景」というのは、いうまでもなく、法令に定められた許認可権限の行使や処罰、あるいは融資の決定のような法令の直接的な行使ではないという意味である。また、「なんらかの関連する法的根拠」とは、抽象的な法の目的規定はもとより組織法令のような、官僚制の側からみて「目的」に関連していると読める法的根拠を意味している。この意味で、行政指導は、それ自体、行政裁量のひとつであるとみておきたい。

第二に、相手の行動の操作としての行政指導には、多様な手段が用いられている。従来の行政指導論が語ってきたような、操作に従わない場合の「なんらかの不利益の可能性」も、そのひとつだろう。だが、操作のための重要な手段は、「利益の供与」でもある。「利益の供与」は、法令の解釈についての助言や指導、融資や補助の示唆、情報や技術の提供など、さまざまである。一方、「制裁」としては、利益供与の停止にはじまり、「江戸の仇を長崎で討つ」とでもいうべき非公式の圧力を相手周辺に加え孤立させることや、相手が別の事案で許認可を求めてきたときに、それを「棚ざらし」にするなど、これまた多様な手段が使われる。従って、手段の複合性に着目するならば、ひとつの行政指導の周辺には多数の関連する法令が存在する。

第三に、したがって行政指導は、多数の「目的」と「手段」に関連する法令を援用した個別的な官僚制の行動ではなく、それ自体、ひとつの行政制度となっている(なりつつある)とみておきたい。この点は、畠山氏が示唆するとおりであり、官僚制の有する補助や融資の権限、税制上の優遇措置、許認可権限、さまざまなサンクション権限とが、相互に関連した行政上の仕組み・制度となっているといえる。行政指導を、ある自的の達成に向けた「自発的協力の要請」(appeal for voluntary co-operation)としてみるだけならば、そのようなものは行政指導を批判する当のアメリカでも、目常茶飯に行なわれている。行政指導が、国の内外から批判され、あるいはその改革が難しいのは、行政上の仕組み・制度となっているからであり、ここにこそ日本の行政指導の特色がある。

第四に、行政制度としての行政指導には、多くの場合、行動を操作し・されることを通じて、官・民の間に利害共同体ともいうべきコミュニティがつくられているとみておきたい。「自発的協力・同意」が、行政指導の実効性を担保する条件であるように語られるのも、こうしたコミュニティがあればこそである。こうして、行政上の仕組み・制度としての行政指導は、このコミュニティを舞台として、有力な政策実施手段として機能しているとみておこう。」

組織法令は行政指導の法的根拠にはならない

p64「ところで、「行政指導には法律上の定めを不可欠の要件とはしない」というのが、法学上の多数説のようである。だが、官僚制は実際の行政指導にあたって、法的根拠の存在を強調するばあいが多い。これは、法律による行政観念の浸透を前提として、官僚制が裁量的行動の正当化をはかろうとしているものといえるだろう。しかし、官僚制が法的根拠と主張するのは、作用法上に根拠をみいだせない場合、組織法令上の根拠である。...もし官僚制の論埋をそのままに、組織法令にまで根拠規定をひろげるならば、あらゆる行政指導が、法律に根拠をもつものとなってしまう。もともと、組織法令は、行政機関の設置や統廃合についての国民の民主的統制を基本的前提として、各行政機関の権限配分を定めたものであり、国民に対する公権力行使の根拠規範ではない

行政指導の法的根拠

p67「つぎに、勧告や指導・助言の規定が法律上存在していないケースであるが、これもまたニつに分けて考えておく必要がある。第一は、このケースが行政指導の多くを占めていると思えるが、行政指導を行なおうとする事項について、勧告などの規定はないものの、それに関連する許可、認可、免許、承認、届出などの許認可権限を定めた法律が存在しているばあいである。第二は、事項に直接関連する許認可権限の規定もなく、一般的かつ総則的規定でもって、行政指導が行なわれているばあいである。

前者の具体例として、さきに述べた銀行店舗の出店調整の行政指導は、そのひとつの典型例であるだろう。また、大蔵省銀行局が銀行にたいする検査権限を前提として行なっている経営指導や役員人事の指導もこれにあたる。....これらは、このカテゴリーに属す行政指導のほんの数例でしかない。なにしろ、中央省庁の許認可権限は、一万件を超えるとされており、このような多数の許認可権限が、行政指導の温床となっているといえるだろう。

後者の事例としては、地方自治法第245条1項による自治体に対する人件費や組織・定員の削滅指導などをあげることができよう。同条はさきに示したように、自治大臣や都道府県知事が、自治体の組織運営について適切な技術的助言または勧告をすることができると定めているが、これ以上の具体的事項を示すものではない。なにが助言や勧告を必要とする組織運営問題であるかは、まさに大臣や知事の裁量と考えられているにすぎない。また、...

そして、さきにも述べたように、こうした作用法上の根拠が見当たらないばあい、あるいは、法律を発動して行政処分をおこなおうにも、法律自体が存在していないばあい、さらには、基本法のような包括的な規定による行政指導の正当性を対外的に補完するようなばあいに、組織法令の定めている所掌事務規定が援用されているといってよい。」

行政指導の伝達方法

p70「行政指導の法律上の根拠規定がきわめて多様であるように、行政指導には決まった(定型化された)伝達方法など存在していない。だからこそ、不透明性や産官癒着が問題視され、不利益を受けてもその補償を行政機関に求めることができない、と批判されるのである。...

文書による行改指導ひとつの典型的な方法は、通達(ひとつの行政官僚制組織の外部団体にたいする指示を「通達」というのは、法学的には不正確であるが、日常的用法に従っておく)による行政指導である。...こうした通達が出されるばあいにも、閣議了解などによって行政府としての意思決定が行なわれていることもあれば、省庁レベル、局レペルでの決定にもとづくものもある。...

ところで、こうした文書による行政指導は、いずれも、口頭による行政指導と密接不可分の関係にあるといわなくてはならない。さきにふれたような、きわめて不定型な口頭による行政指導とは別に、一応、定型化されていると考えられる口頭による行政指導が存在する。業界全体にたいする勧告であれ、個別の事業著にたいするそれであれ、行政指導は、通達ないし勧告文書一片を、伝達するものではない。行政指導が、官僚制によって法的措置を直ちに強制されるものでないということは、そこに、官僚割と相手とのあいだに、話し合いがもたれていることを意味している。実際、業界全体を対象としたなんらかの行為の基準を示した通達が、業界団体と事前の話し合いなく伝達されることなどないといってよい。...

個別的に相手のかかえる問題を解決しようとする行政指導にあっても、即、勧告や警告が出されるのは、例外的でさえある。通常は、口頭による勧告や警告、指導などが行なわれたのちに、そこで残された間題について文書による勧告ないし警告が行なわれ、さらに相手方の改善報告をもとにして、口頭そして文書による行政指導が繰り返されていくといってよい。・・・

また、許認可の申請のさいには、その認可の基準は文書によって示されているが、申請してきた相手にたいして、「事前審査」と称する口頭による行政指導が、繰り返されている。これには、きわめて多くの事例があげられるだろう。大学の新設、学部や学科の増設にさいしての事前審査もそのひとつの具体例であるが、さきに一端をふれた銀行の出店調整もこの重要な一例である。この場合には事前審査が繰り返され、「内認可」を受けた銀行のみが、最終的申請をすることになっている。出店希望地点が重複しているときに、一行のみをどのように選定するか、他行をいかに納得させるかについて、ある大蔵省銀行局○Bは、「各行が獲得できる市場の価値が合計して大体同じになるように、いわば平均値になるように、パランスをとって配分することである」と述べるが、これを裏返せは、この事前審査において次年度以降の出店が、口頭によって約束されるとみることができよう。文書による許可基準の通達といった行政指導は、口頭による行政指導と一体不可分であるといえるだろう。

中央官庁の大部屋主義の影響

p100「中央省庁の組織構造を特徴づけているものはなにか。さまざまに論じられているが、そのひとつの重要な特徴として、「大部屋主義」(大森禰「日本官僚制の事案決定手続き」目本政治学会編『年報敏治学一九八五・現代目本の政治手続き』岩波書店、一九八六年)がある。中央省庁におい、て、個室のオフィスをあたえられているのは、大臣からせいぜいのところ審議官(局次長相当職)までである。実務の第一線をになう課長職以下は、個室をもたずに大部屋で執務している。このような執務形態は、少なくとも、欧米先進国の行政組織にはみられないものである。そしてまた、組織法令の所掌事務規定も大部屋主義となっている。つまり、局長、課長という職位(position)ごとに権限と貴任を明記するのではなく、局、課という組織単位ごとに、「○○に関すること」という規定方式となっている。これまた、先進国組織法令にはみられない特徴である。

加えて、この大部屋主義との関連で、もうひとつの特徴をみておかなくてはならない。一般に官僚は、前途に昇進を見込んでいるが、日本の場合、昇進にあたって高度にゼネラリストであることをもとめられ、数々の大部屋を「転居」しつつ、官僚制のヒェラルヒーの階段をのぽっていく。従来、こうした大部屋主義が、行政機関の執行活動にどのような影響をおよぼしているのかは、さほど注目されてこなかった。したがって、研究上の蓄積と定説があるわけではない。だが、行政指導なる政策実施手段に依存する官僚制の行動は、大部屋主義という集団での執務形態、組織単位ごとの組織法今の規定方式、頻繁に所属組織をかわっていく昇進形態に、ふかく影響されているといえるのではないだろうか。

大部屋主義のもとでの目標設定

「100点でなくとも80点でよい」「当面の効果があげられればよい」といった目標設定の不完全主嚢は、職位(position)ごとの職務権限が明確にさだめられており、政策目標達成のための手段や方法をきめる会議に、個室から「出発」し個室に「帰還」してくる組織では、官僚の主たる行動現範とはならないだろう。おそらくこのような組織では、政策目標の100パーセントの達成が、意思決定の行為規範とされる。もちろん、政策目標が100パーセント実現をみることなどほとんどありえない。だが行動の現範としては、完全主義が色濃くなる。ところが、行政官が大部屋で執務するとき、政策目標についての討議は、目常会話となり、課、局といった組織単位全体としての職務権限が追求されていく。しかも、それぞれの組織単位が、対象集団と緊密な関係を保っており、組織単位を構成する行政官には、事態をめぐる情報が共有されている。「できること」と「できないこと」が、暗黙のうちに合意されている。さらに、日本の官序における行政官の成績は、まずもって個人にではなく、部屋の成績によって判断される。したがって、100パーセントの目標達成を規範とする行政官がいたとしても、彼・彼女は、「変人」あつかいをまぬがれないし、もともとその出現の確率は低い。こうして、共有されている情報のなかで可能な、つまり、不完全な解答を設定し、その実現が、組織全体の行動の規範となる。

もちろん、解答が不完全なら不完全なほど実現度も高くなる。しかし、それでは組織単位の‐成績はよくならないから、他者から批判されない程度の、つまりは八○点程度の目標の設定がおこなわれるのである。そのうえ、目本の官庁では、集団としての行政官が複数の事案を所掌している。「とりあえず現状にたいして効果があがればよい」とする思考が中心となっているところでは、複数の案件や多数の当事者のなかから、どれを優先させるべきかをめぐる議論は、厳しく対立するものとはならない。むしろ、それらを一括して処埋することが、業務の中心とならざるをえないのである。行政指導とよぶかどうかはともかく、アメリカ連邦省庁の行政官も、事案の処埋にあたって、相手に願望や要望をつたえつつ事前の協議を繰り返す。そして一定の解決方策が合意される。これは、とりたててめずらしい事態ではない。けれども、それが行政執行の特質として前面にでてこないのは、組織としての職務の追求ではなく、権限と責任を明確にされた個人の職位としての職務追求であるからだといえる。こうした条件下の行動は、個々の行政官の行政裁量の問題として論じられるのである。

ともあれ、さきに述べたような行政指導を必要とする論理、とくに法律の制定よりはむしろ行政指導による「迅速な対応」や損害賠償請求の回避の論理は、こうした大部屋主義のもとでの目標の設定に大きく影響されている。

組織法令優先の思考

さらにまた、こうした不完全主義を生み出している根底には、各省設置法における所掌事務の規定方式があるといえる。省庁の設置法ならびにその政今・省今は、さきに述べたように組織単位ごとに事務を規定している。しかもその規定の方式は、「○○に関すること」と包括的規定となっているだけでなく、実は、この所掌事務に対応する行政作用法今上の規定をもっていないことが、すこぶる多いのである。

これは天皇大権とされていた「○○省宮制」以来の伝統を引き継いだものといえる。天皇主権の下での官庁の所掌事務規定は、これでよかったかもしれないが、日本国憲法のもとでは主権は国民にある。行政作用法の規定を空自としたままの組織法令は、憲法構造の転換に適合するものではない。こうした基本的間題を指摘しておいたうえで、だから今日でも、「官の支配」がそのまま継続しているというつもりはない。むしろ間題は、こうした省庁設置法令の規定方式が、行政作用法に根拠のないときに「法律上の根拠」とされるとともに、包括的な規定方式となっているからこそ、目標設定が現状妥協的になりがちなことである。

補助金

p120「補助金」による補完抽融資の斡旋とならんで行政指導の実効性を担保しているのは、補助金である。たとえば、いわゆる減反政策(水田利用再編成政策)は、作付け割り当て割度と買入れ予約限度数量の設定という「制裁的」指導と、他方での転作奨励金制度と目標未達成量加算制度という「ボーナス制度」から構成されている。...

同様のことは、自治省がおこなってきた自治体職員の給与の引き下げ指導や定員の抑制指導についてもいえる。これは、減反政策のように、はじめから指導の効果をあげるためのアメとムチを明示したものではない。あくまで形式的には、自治権を保障されたもうひとつの政府への「お願い」である。こうした行政指導が実効性をあげたのは、自治省が交付の裁量的権限をもっている地方交付税交付金の特別交付税枠が、アメとムチの両用の機能を発揮してきたからである。つまり、農業補助金の交付審査の場合と同様に、給与の引き下げや定員抑制の努力の程度が、特別交付税の交付にさいしての非公式な基準に加えられたのである。

閉鎖的なコミュニティ内部の論理

p133「これまで、行政指導への期待あるいはそれがもたらすメリットを、官僚制の側と受け手の側の双方にわたってみてきた。また、そうしたメリットについての認識の共有をもとにして、両者の間につくられている組織の特徴をみてきた。そこで指摘した事柄はいずれも、行政指導を官僚制と受け手との関係という狭い領域に限定するならば、たしかに双方にとって大きな利点となっている。また、行政指導の実効性を確保するためにつくられている制度も、両者には望ましいものにちがいない。しかし行政指導は、こうした閉鎖的なコミュニティ内部の論理だけで、評価されるべきものではない。行政指導という政策実施手段に内在している問題点を、よりひろく現代社会における行政や政治の役割とは何かを基本として、考えてみる必要があるように思える。とくに、現代の民主制が基本的な原則としてきた「法の支配」に照らしたとき、行政指導は、どのように評価できるだろうか。

もちろん、ここで私は、吉典的な意味での「法の支配」ご言い換えるならば、「法律の執行としての行政」といった観念に、回帰するつもりはない。現代の行政は、専門技術的な知識を必要としており、官僚制の裁量行為を否定できない。行政措導も、官僚制による裁量行為のひとつであるといってよい。だからといって「法の支配」がもとめている行政の適法性、公平性、予測可能性を、ないがしろにしてよいものではない。実際にこれまで行なわれてきた行政指導は、その直接の対象にとって、さらには国民にとって、こうした基本的なルールに、どの程度適合しているだろうか。それを具体的に検証してみる必要がある。

族議員集団・官僚革制部局,利益集団の三位一体構造

「とくに、一九八○年代以降の自民党一党優位体制の一段の強化とともに、族議員集団(農林、建設、郵政、国防のように個別利益によって仕切られ、その拡大を指向する政権党内の議員集団)・官僚革制部局,利益集団の三位一体構造が強まっていった。行政指導における適法性、公平性、予測可能性のあり方しだいでは、こうした三位一体構造は、いっそう強まるともいえる。その結果、行政指導は、目先の利権を追いもとめる政治を蔓延させる温床となってしまうのである。行政指導をみる眼に付け加えておかなくてはならないのは、従来からいわれる産官協調の弊害だけではなく、行政指導と政治(政党政治)との関連性であり、政治が果たす役割であるだろう。」

情報公開の必要性

p191「行政指導をなぜ問題としなくてはならないかの基本は、行政指導から業界を始めとする相手を「解放」することにあるのではない。それは、あくまで二次的課題なのであって、国民による行政のコントロールを強化し、透明で公正な行政を実現することにある。したがって、この手段との関係でいえば事後的であるにしても、なにがどのように組合わされて用いられたのかを、ひろく国民が検証できる制度を必要としている。従来、この種の情報は、行政指導に従わずに「制裁」を受けたものから、時に不満のかたちで明らかにされる。だが、「恩恵」を受けた者からは、当然のことのように明らかにはされず、産官の癒着がかたまっていく。

このように考えてくるならば、情報公開法の制定が、ぜひとも必要となる。情報公開法は、行政指導へのコントロール手段としてだけの意義をもっているのではなく、官僚制の行動にたいする民主的統制手段としての意味をもつ。さらに「行政指導による行政」ともいえる現状においては、行政指導の弊害を是正する有力な手段となる。...」

規制緩和ではなく再規制が必要

p159「俗に「法網をくぐる」といい、それが犯罪であるかのようにいわれる。だが、法網がどのようなものであるかを知らなければ、それをくぐることもできない。加えて、どのようなものであるかには、つねに「解釈」がともなっている。解釈に大きな幅があるのはいうまでもないから、その操作も可能である。操作のための黒い工作に応じる官僚の公務倫理が間われなくてはならないのはいうまでもない。多くの汚職事件は、こうした解釈の操作によっている。規制緩和によって法網の目がひろがるならば、解釈の幅は一段と大きくなり、汚職事件の可能性も高まるだろう。

たしかに、政府規制の緩和をふくんだ再整理は、高度の経済成長をはたした日本にとって、今後とも大きな課題であるのはまちがいない。けれども、リクルート事件が教えているのは、規制緩和が「行政指導による行政」のいっそうの拡大にならないように、法体制や行政の手続きを確立しなくてはならないことである。この視点を欠いて、「公的規制については、民問部門の自由な活動領域を一層広げるような抜木的見直しを行なうべきである」1985年一月、首相施政方針演説)とだけ強調されるから、業者による政官界工作が勢いづくのである。」

p198「今日必要とされる行政の役割は、経済社会への介入を最小限に抑えることでもなければ、逆に、介入を最大限に拡張することでもない。政府は、経済社会における機会の平等の公明な保障にむけて、法的ルールを確立するとともに、それを着実に運用していかなくてはならない。この意味では、政府の介入は強化されなくてはならない。しかしそれは、機会の平等の保障に限定されなくてはならない。なぜならば、機会の平等が保障されない社会においては、本来、創意あふれる競争は実現をみないからである。規制緩和ではなく再規制が必要とされる意味も、まさにここにある。行政指導は、こうした政府の役割に照らして整理されなければならないし、許される範囲と手続きも、この機会の平等の保障にむけたものとされ、かつ手続き的に透明なものでなくてはならない。また、行政指導の背後に控えている一万件を超える許認可権限も、整理されなくてはならない。」

情報公開法は1999年5月14日に国会で可決され、2001年4月から施行される(概要)。