以下は、私の住む地方新聞に掲載される可能性があって、ある記者が新聞社まで持ち帰ったが、「大学全体の意見とは思えない」と拒絶されたものである。

「独立行政法人は決して容認できる制度ではない」

1999.10.25

渡辺 勇一

   発足以来百年以上も国の財政的保障によって維持されてきた国立大学が「独立行政法人」という名によって、根本から変えられようとしている。既にいくつかの国立美術館、博物館、また70程の国立研究所、および試験場は、新らしい省庁体制が発足する2001年から法人に移行することが決められており、この決定が国立大学に強い圧力を与えている。

   ここでは、まず独立行政法人が何であるかを説明し、次に国立大学の法人化が国民にとって、どのような影響を及ぼすかについて触れたい。

   国立大学をなくし、新たな法人として発足させるためには法律が必要である。既に今年の夏国会を通過した「独立行政法人通則法」(以下通則法と略)がそれであるが、この法が余りに学問の府にそぐわない内容を含んでいるので、文部省も、大学学長の集まりである国大協も、それぞれ直ちに対案を作って公表した。現在対立している点を中心に通則法の持つ問題点をあげてみると次のようになる。

   1)学長の大臣による任命、2)法人の数年にわたる活動目標の大臣による設定、3)法人の業務を評価する機関の省庁内への設置、4)評価に基づく交付金(下限は0も可)の増減。

   このような制約強化の中では、学問や教育活動に必要な「自由」が入り込める隙間はない。評価の結果は財政だけでなく、組織の改廃の勧告にも結びつくから、正に法人の死命を制すると言える。最大の問題は、行政改革の一環として行われている「法人化」移行の措置が、行革の出発点で課題として掲げられた「行政の関与縮小」「小さな政府論」に逆行している事実である。「独立行政法人」という語の独立という語を「従属」に置き換えるべきだと主張する教員もいるが、筆者もそう思う。もう一つ腑に落ちないのは、行政組織とは全く呼べない教育研究機関に「行政」という言葉をわざわざ当てていることである。この理由としては、「行政」改革の対象に教育研究機関を押し込んだ不自然な策略の結果であるとしか思えない。国づくり、人づくりの基礎である教育組織が、このような言葉の著しい「反義性」を含んだまま進行している現実は、今回の行革がいかに首尾一貫せず、理念のないものかを証明していると言えよう。

   ほとんどの読者は、新潟大学が法人化された時に県民にどのような影響がでてくるかお気づきと思う。財源の保障不安定になり、100近い旧国立大学の間で競争が起これば、弱小大学が滅びる可能性があり、現実に一部週刊誌はこの予想記事を載せている。当然ながら、法人においては、「経営」が第一義的に考えられるから、授業料値上げが避けられれないと誰もが予想している。経営悪化は通則法の中にも予測されており、このような場合には、任期途中でも法人長が罷免されるとある。学生の教育費高騰は、少子化に拍車をかけるので、大学の経営にとって悪循環が始まる。学生が学ぶ場以外に、地方の大学や付属病院は、地元県民の働き場として大変重要である。従来から大学では教員以外の職員が定削により減らされつつあるが、法人化はこの削減方向を強めることは避けられない。大学が隆盛すれば街も活性化し、大学が衰退すれば街も大きな打撃を受ける。

   話題は少し変わるが、10年来新潟大学の西門近くの宿舎に住み、毎春ここの八重桜の開花を愛でる市民の姿を目にしている。大学には目に見えない「花」もある。それは研究業績として、日々国内外に発表される学術・文化の成果である。年毎に開かれる公開講座や、その他の文化行事で大学人の学術的成果は市民にも還元されている。しかしそれは開花した成果のほんの一部でしかない。我々が最も恐れているのは、これらの見えない花の切り捨てや、立ち枯れが「法人化」の後の市場原理の競争の中で起こってくることである。

   古く明治に東京大学が発足した頃に、時の元老院の辻新次は、「高等ノ教育ハ固ヨリ人民ノ自為ニ任シ、政府ハ之ニ干渉セズシテ、タダ保護誘導スルニ止マルハ素ヨリ然ルヘキノ主義」と述べた。21世紀を迎えようとしている現時点で、国が法人組織の作成を急ぐ行為は時計の針を一体どこまで逆戻りさせることになるのだろうか。


●後日談: この記事が没になった後、何日かして「別の記者」が筆者の部屋を訪ねてきて面談を行い、その話を元に、その記者が「ピンチかチャンスか、独立行政法人化」という内容の記事を一面の半分程を使って特集記事にまとめたのである。しかし、そこでは大学の人間(反対論者2名、消極的賛成1名)は、地域と全く切り離され基礎研究の研究費が少なくなるから反対であるといった、エゴとも取れる図に描かれてしまっていたのである。これでは市民にとって、どの様な影響を与えただろうか。これが現実の新聞の姿である事は、1960年以後のマスコミの変わり方を、「マスコミ黒書」で予め知っていた筆者にはなんの不思議もなかったが、正直のところ一抹の無念さが残った。

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