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メッセージ39:
中期計画検討案についての意見
(1) 昨年度のガバナンス文書についての全学的な議論において、全学共通の強い批判があったが、常任理事会は、それを退けて教職員の多くの時間と労力を無にし全学の信頼を失った。まず、常任理事会が全学に明示的に謝罪し、この過失の重大性を認識していることを示すことが必要である。
補足:昨年度「ガバナンス文書」に対し、慎重な検討が全学的に多くの時間をかけて行われ、根本的からの批判がなされたにもかかわらず、それらの批判をすべて退けて意思決定を常任理事会が断行したことにより、現場から常任理事会への信頼関係は根底から失われた。常任理事会が昨年度の姿勢について根本的に間違いがあったと認識していないとすると、中期計画について現場からどのような批判があったとしても「学部理事長の説明の仕方が下手で理解してもらえなかったのは残念だが、常任理事会の責任において、このように策定させていただく。」で終ることがほぼ確実であると予想され、中期計画検討案について真剣に検討し意見を述べようとする教員がどれだけいるか疑問である。

まずは、昨年度、多くの時間と労力を要した全学的議論から出た真剣な諸意見の大半に肩すかしをくらわせたことについて、常任理事会が真摯に謝罪することが先決問題である。

(1-a) 立命館学園が常任理事会の「謝罪」を必要とする事態にあるという現状認識が常任理事の大多数にない場合は、中期計画としては、学園内の信頼関係を回復し学園の内部崩壊を回避するための具体的な制度設計を最優先事項とすべきである。たとえば、現場の意思を無視した学園運営の持続への歯止めとして、常務理事リコール制や定期的信任投票制などの導入を計画に入れるべきである。

(2) 以下は現場からの信頼感が失われている現状について一定の認識を持つ常任理事が多数いると仮定しての意見である。
(2-1) ボトムアップで中期計画案をつくるという触れこみがあったが、検討案は常務理事がこれまで種々の場で主張してきたことの集大成のような、壮大で詳細な立案となっている。これが、精神主義に陥ることなしに実現可能かどうか全く疑わしい。精神主義は、精神と言論の自由を奪い、価値観の多様性を衰退させ、大学としての存在価値を失わせる。また財政的にも教学部門を圧迫することは不可避。全体の規模の縮小は不可欠。
補足. 実力の何倍ものことを実現しようとするとき、組織は構成員の一致団結を必要とし、精神主義を使わざるを得なくなる。精神主義は、組織内での言論の自由を圧迫し価値観の多様性を衰えさせ、軍隊や企業をすら機能不全に陥らせる。ましてや、精神の自由や価値観の多様性の保持が主要な社会的存在理由となっている大学においては、精神主義の導入による組織の急速な衰退は正視に耐えぬものとなるだろう。

また、経営部門での人件費の膨張をもたらす壮大な計画は、教学部門の人件費の縮小を帰結し、立命館における教育と研究の質の低下が避けられないだけでなく、種々の非正規雇用の拡大により学園内部での雇用条件格差が拡大し、真善美の理想と不可分な平等の理念の放棄が露骨となって大学としての品格どころか「精神的資格」が問われることになろう。

以上の点から、精神主義に陥らずとも精神的余裕をもって多くの構成員が心から遂行が可能なような計画であるかどうかを合理的に吟味し、さらに、教学機能に不可欠な精神的余裕ができるよう、経営者の自己満足以外の意義が感じられない不要不急な計画を省き、計画全体を現実的な規模に調整すべきである。

(2-2) 組織としての生き残りや発展に直結する活動だけでは、大学とはいえない。組織として益にはならないとしても、学術活動全体の発展に資するような目標と計画が必要。
補足:大学といえども、組織としての生き残りのために努力をすることは不可欠であるし、生き残りのためには積極的に発展を図ることも戦略としては当然とは思うが、企業とは違い、大学は、それだけでは大学とは言えないと考える。

時代や権力から独立した(古くは真善美といわれていた)普遍性のある価値観を持ち、組織として益とはならない場合でも、その価値を固持し、その価値に忠実に教育と研究を展開することが、大学の存在理由ではないかと思われる。これは大学というものを相当に理想化する考えであるし、アカデミズムの閉鎖性との線引きが難しい問題もあるが、普遍的価値が念頭にない大学は、しばらくは一定の繁栄ができたとしても、若い世代からは見放されて生き残り自身が危くなるし、時流に翻弄され不変な核を形成できず、時代の大きな変化の際には生き残りそのものが困難になる。

中期計画検討案では、日本社会では関心が失われて久しい「平和と民主主義」を教学理念として固持し活そうという記載があることで若干救われる思いはある。しかし、「総合ミュージウム」に発展的に解消しようという計画は、時流からは反れつつある「平和と民主主義」という理念の重荷から解放されたい、という意図が感じられなくもない。

平和ミュージウムを活す計画という例外を除けば、検討案全体としては、学園の生き残りと発展に直結する計画でほぼ埋めつくされている感がある。立命館にとって負担となるとしても日本の学術活動全体を活性化させることを主目的としたような活動も計画の中で一定の割合を占るようにすべきである。

たとえば、戦前にはあった出版部を再興し学術書や権威ある学術雑誌の刊行を目指す、あるいは、学位をとった少数の若い人達が、何の財政的支援もなく進めている、科学と社会を結ぶ「サイエンスコミュニケーション」の活動を支え促進する、等々、無数の種類の貢献の可能性がある。こういった活動は、次期COE獲得のために高額の給与で「世界水準の研究者」を招聘するより財政的負担は少なく社会的意義ははるかに大きいし、損得の視点からしても、良質の受験生を得るための「効果」はもっと大きく射程が長いとも予測される。

(2-3) ネットにおける情報発信に関する計画も必要。
補足:図書館の中期計画では、この方向の重要性が認識されているように思われるが、学園全体の中期計画検討案では全く言及されていない。ここでいう「ネットでの情報発信」とは、大学のホームページを充実するというようことではなく、ネットでの種々の活動を支援するプラットホームを立命館が提供する、というような種類のことである。それにより、立命館の教職員や学生や院生がネットで自発的に情報発信しやすくなることや、広義の学術活動を支援することになる。ネットの世界が日常生活と連続的につながっている若い世代からが立命館への信頼を増す可能性もあるだろう。
(2-4) APUとRUの全面的連携(p16)は、現段階ではやめるべき。
補足. APU,RU は、立命館が異なるミッションを与えて設置している大学であり、安易な融合は、両ミッションの不明確化をもたらすであろう。また、大学の理念が異なるのに応じ学生の進学意図も共通点が少ないので、全面的連携は従来の RU進学者層を失う懸念もある。また、APUとRU の連携の大前提として、RU と同様にAPU においても、教授会が実質的審議権を持ち、学長が選挙で選ばれるなど、最低限の民主主義が実現され、教員による教学運営が保障されることが先決事項である。