--目次--
- 「第1章」の特殊性、それをどのように読むのか
- 2. 人間形成論、真実、倫理道徳、美
- 3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか
- 理事長としての自己正当化
- 第2の正当化 職員、教員、教授との差別化
- 「10のマネジャーの仕事」から検討する
- 改革への推進母体の創造と手法
- 「大学行政学」の構築は何をめざすのか?
- ひとつのなぞ:終章の本当の著者は誰なのか
- 「大学行政学」とはどのような学問か
- 教育研究プロデュース系=大学内グーデター論
立命館大学に求められるリーダーの条件とはなにか
川本八郎氏の「リーダー論」を読む
立命館大学教授
はじめに
今年(2006年)、立命館大学の大学行政論にかんする報告書が2冊東
信堂から出版され、「大学行政研究・研修センター」から学内の重
要部署にある教職員に無料で配布された。この本は次代の求める大
学「アドミニストレーター」を組織的戦略的に養成するために開講
された授業「大学行政論」の講義録である。それは大学の中で表舞
台に登場することのなかった職員の対社会的発信であり、大学の未
来と自らの仕事を考える絶好の手引きでもあるとされる(「はじめ
に」)。
立命館大学で働く教職員の多くは、今日の立命館大学はひとつの転
機にさしかかっていると感じている。その中には日々働いているこ
の職場がどのようになっていくのだろうか、不安に思っている人も
いるだろう。特に、若手の職員の離職が現場では目立つ。一方では
立命館大学のダイナミックな展開に期待を持ちつつ、他方ではこの
ままの立命館大学では将来に不安を抱えるというのが正直な感情だ
ろう。その二律背反的な感情をどのように理解していけばよいのか。
そのための考える素材を提供したい。
以下では、立命館大学がどこに向かって進んでいるのか、この問題
を川本理事長のリーダー論を検討することによって接近してみたい。
なぜなら、現在の立命館大学のダイナミックな発展は、川本八郎理
事長の積極的な手腕によってもたらされたという外部からの言説が
存在するからである(「カリスマ性の神話」)。
今回そのために取り上げるのは、理事長自らが編集した『大学行政
論』I,IIである。そこでは、第1章が「『リーダーの条件』-歴史認
識をとぎすませ-」となり、自らのリーダー論が巻頭論文の位置にあ
り、立命館の将来の事務機構を担う職員のあるべき姿がしめされて
いる。また、終章は「「大学行政学」の構築をめざして」(「大学
行政「論」ではない」ことに注意されたい)となっており、これも
第1章との関係で取り上げる。さらにこの論文に加えて、「日本私
学連盟「平成14年度財務・人事担当理事社会議第1回全体会議報
告書」より抜粋」を利用した(以下「抜粋」と省略し、第1章を
「第1章」と省略する)。「抜粋」は「第1章」よりに赤裸々に川
本八郎氏の持論が展開されているからである。
1. 「第1章」の特殊性、それをどのように読むのか
『大学行政論』を紐解くと最初に気がつくのが、第1章の特殊性で
ある。他の章が現場で長年蓄積した経験と知識、情報、それによる
一定の洞察を客観化し、文章化しているのに対して、この章は口述
筆記をもとにして書かれている(かなり省略されているようだ)。
論文の冒頭は「人は年輪を重ねると過去を語ることが多くなる」と
いう文章で始まる。「『リーダー論』をふりかざし、抽象的なこと
をのべるより、立命館において君たちはリーダーとして何を必要と
されるか、をリアルに述べていきたいと思う」と書きすすみ、ここ
での論証の方法論を限定する。このような限定が、個人の私的研究
所ではなく大学で「大学行政学」の構築をめざそうとしている本書
の形式に相応しいかどうかすぐに疑問として出てくるだろう。少な
くとも世界水準を目指す現場で働く教職員に訴えている理事会の長
がやるべき形式ではない。
だが問題はそこに留まらない。第1章では大学(=立命館大学)の
職員でリーダー=幹部職員として相応しい基準をリアルに述べると
している。「リアルに述べる」とは川本氏自らの経験を基にするこ
とを意味する。その経験から教訓化されるものが幹部職員としての
適格基準である。その適格基準は、他大学や他の分野の組織にも当
てはまるかどうかの手続きが全くされていない。それは「抽象的な
ことを述べること」として排除されている。ところが、抽象化の行
為によって普遍性を追求するところに大学のひとつの特質がある。
この指摘ははもう1つ、裏の面をもっている。「リアルに述べる」川
本氏自身は外部者ではない。立命館学園のリーダーの中のリーダー
=理事長である。だから、ここで氏が「リアルに述べる」こと、つ
まり幹部職員としての適格基準は、自らが立命館学園の理事長とし
て相応しい資格、素質をもった人材であることを自己証明しようと
していることにもなる。だから「語り」が許される。2冊の「大学
行政論」はその自己証明の実践的各論ということになる。
第1章をこのように読み直すと、この章は違った新鮮味を持ってく
る。つまり、川本八郎氏は立命館大学のリーダーとして本当に相応
しい人物なのかを考える素材を与えてくれるからである。
2. 人間形成論、真実、倫理道徳、美
さて、いよいよ本論に入ろう。第1章牡は2つの大きなパーツ(大
学教育と組織問題)からなっている。最初は大学教育が直面してい
る問題として、どういう学生を育てるのか、に焦点を合わせる。教
育体系は現代日本社会の1つの重大な欠陥であり、人間教育の3要
素、真実、倫理・道徳、美の観点から偏差値主義、成績主義の弊害
を指摘し、さらに家族内教育の崩壊がこれに加わって、人間のあり
様、生き様、道徳を教えることが出来ていないことを批判する。こ
れに対して川本氏は、知識を学ぶことの重要性以上に考えることの
重要性、学生同士が影響しあうことの重要性、人間関係を学ぶこと
の重要性を指摘する。ではどうすればよいのか。ゼミナールに参加
し、それに読書と課外活動に参加することを対案として示す。この
ような現代社会の教育の矛盾把握と大学教育のあり方、その解決策
への示唆はわれわれを驚かせる。今日の学生が抱えている危機的な
問題は、氏が必ず例にだす暴力学生や違法迷惑駐車する学生ではな
く、働く意欲、学ぶ意欲の萎縮や社会性と日常生活の持続性、主体
性をも獲得することにできない精神的・神経的疾患が蔓延している
ことにあらわれている。川本氏は立命館大学(あるいは大都市部の
私学)と比較して、地方国立大学の活性化されていない学生生活を
見よと、これを批判する。この指摘は本当だろうか。大量の学生を
抱える私立大学には表面化していない精神的・神経的疾患をもつ学
生が滞留し、臨界点に接近している。氏が常に原点とする学生とは
30年以上前のステレオタイプ化された「学生像」にすぎないので
はないか。果たして人間教育の真実、倫理道徳、美からこれらの問
題に接近できるのであろうか。
3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか
第2のパーツに移ろう。問題として、日本のどこの大学もあるべき
姿、組織が構築されていないことを指摘する。この点は川本氏の非
常に得意とする分野である。氏は最初に学問研究の本質的自由を認
め、権力に対抗する自治を擁護する。しかし、その裏ですぐに次の
ように疑問を呈する。大学の自治は「??しない自由」が居座って
いるのではないか。この点を川本氏は豊かな事例をだして様々なと
ころで力説する。学内の放火事件があり、カメラの設置を教員、教
授会はプライバシーの侵害として拒否した、放置自転車・バイク学
生の退学・停学処分の方針をある教授会は反対した、大学の自己評
価は眉唾もので教員は「自分が一番いい教授である」と思っている、
小さな学科・専攻では「そこの人間の一人か二人で次の教員を決め
る」、「自分の子分を連れてくるだけ」である、大学教授は教育が
苦手で、声が聞こえなかろうが関係なしに授業を行う、と「リアル」
に批判が続く。
川本氏はこのような批判されるべき状態を「無政府状態」と呼ぶ。
大学教員を弁護士に置き換えて、みんな好き勝手なことをいってお
り、自分の大学をどうしようかということについてあまり熱心では
ない、大学も似ています、と主張する。ここには明らかに比喩、修
辞法の誤りがある。弁護士は社会の法秩序の形成、あるべき姿の追
求に貢献し、その意味で日本社会の発展に熱心である。もちろん既
存の法的秩序に既得権益を持っている人にとっては弁護士が追求す
るあるべき姿は「無政府的」「好き勝手」かもしれないが。
その意味で大学教員の仕事が川本氏には見えていない。それだけで
はない。氏の攻撃は大学教員の側、少なくとも立命館大学に働く教
員からすると皮膚感覚に合致しない。この不一致は2つに解釈でき
る。ひとつは川本氏がしきりと主張するように教員の側に「危機意
識」が欠落しているためかもしれない。川本氏はそう主張する。だ
が、別の解釈も可能である。上に出された大学教員や教授会にたい
する「リアルな」批判は2・30年前につくられたステレオタイプ
化された「大学教員像」や「教授会像」である。氏は虚像と相撲を
とっているのである。ではなぜ虚像と相撲をとる必要があるのか。
■理事長としての自己正当化■
この相撲は2つのことを正当化するための伏線である。ひとつは次
の点であるが、その主張を聞こう。
「大学の指導部、責任者という大学の歴史的・社会的使命
を持っている人たちが一番基本となるの人間を選び採用す
る時に、そのことに携われないのです。どんな組織があろ
うが、どんな規則があろうが、その学校をよくするかしな
いかは教職員の力量で、人間です。その人間を選ぶのに学
長が携われないなど、組織ではないと私は思います」
(「抜粋」)。「立命館での教授の任用は学部教授会で決
める。そして大学協議会の承認を経て最後に理事会で形式
的に承認される。これほど重要なことに、教学の責任者で
ある総長・副総長には何の権限もないのである。そんな組
織があっていいのか。」(第1章)。
この引用文を触れる前に、1つだけ、横道にそれたコメントをしたい。
「どんな組織があろうが、どんな規則があろうが、その学校をよく
するかしないかは教職員の力量で、人間です」という主張は半面正
しく、判面危険である。今日の企業をめぐる反社会・不正行為、特
定の企業の衰退をみれば、人間以上にその組織のあり方、組織内規
則・ルールの構築が現在は重要になっている。現代は生存競争では
なく、ルールをつくる競争の時代である。
話を戻そう。上の引用の言を聞くと、大学関係者以外の多くの人は
理事長に賛成するだろう。うちの会社では社長が人事採用を決定し
ている、トップが決定するのは当然、と。だから川本氏はその点を
狙ってしきりと攻撃する。しかし、大学は民間の経営組織と異なる
側面をもっている。それは大学が真理の追究、法則の発見と普及と
いう仕事を社会的に担うことを委託された機関、団体であるという
点である(知と真理のそれに基づく教育の共同体であるが、それは
知と真理と教育を独占するという意味ではない)。これは営利団体、
行政団体と決定的に異なる。
なぜ社会はそのような委託、信託を行ったのか。それは追究される
べき真理、発見と普及されるべき法則が時の権力だけでなく様々な
利害団体(例えば宗教)、個人によって攻撃され、その曲解が社会
に対して絶大な被害をもたらしてきたからである。この信託・委任
事業の発展・継承は誰でもが出来るわけではなく、その学術に関連
する分野で長年、真理の追究、法則の発見と普及に携わってきた者
に社会が委託している。なぜ非専門家に任せないのか。それはその
分野で長年陶冶されて来た人材が犯すかもしれない誤謬の方が非専
門家の犯すかもしれない誤謬よりも被害が少ないと社会が判断して
きたからである。もちろんその審議決定に関与したものは情報の公
開と判断基準の正当性を証明しなければならない。それが出来るの
は立命館大学では教授会と大学協議会のラインである。
この点でも川本氏の主張には意図的な誤りがある。人事案件で採用
されるはずの候補者が担当する教科科目は、1?2人の教授や教授会
が単独で決定するのではない。新規の募集から決定に至る過程は様々
な機関(教学と企画)が複合的に関与している。転出・退職した教
員ポストをそのまま募集するのかあるいは募集科目を変更するのか、
は学部内で常に検討される。さらに、大学のルール規則に従って立
命館大学「大学協議会」は教員の人事に関する事項、大学教員任命
の基準および手続きに関することを協議決定することができる。そ
の「大学協議会」の議長は学長であるから、教学の責任者である学
長(総長)が何も権限がないわけではない。協議決定に実質的に関
与できないのは学部の教員、教授会の問題ではなしに、学長総長の
能力の問題である。
川本氏の発言は次の点で曖昧である。総長・学長が教員の採用の人
事権を持つべきだといっているのか、さらに広がり「学園のトップ
集団」(「抜粋」)、つまり理事会、理事長まで入るのか、不明で
ある。いずれにせよ「これで大学改革ができるはずがない」(「第
1章」)「日本の大学の改革を邪魔しているのは教授会です」
(「抜粋」)から、そこから人事権を取り上げることを川本氏は公
然と主張している。現場で研究や教育に従事している人間が関与で
きないシステムを目指しているのである。
■第2の正当化 職員、教員、教授との差別化■
第2の伏線に移ろう。ステレオタイプ化された「大学教員像」や
「教授会像」への批判は職員、とりわけ理事長のリーダーシップを
際立たせるために利用されている。
しかし、その前に、教員との対比ではなく、一般の職員との対比で
自己の地位を正当化していることについての言説を見てみよう。そ
れについての多くの話題の中でそのひとつ、鯨の話は傑作である。
瀬戸内海で鯨が岸辺に上がって死んだという記事を見て、川本氏は
入試部長にその意見を求め、次のように諭す。個人的意見として、
鯨は大きな図体をしているから、岸辺近くに来ると戻れないという
「巨大図体説」を披露して、立命館大学もそれに似ていると笑い話
を披露する。「私はそれぐらい、責任者は滑っても転んでもわが学
園のこと」について思案していると自慢する。このように差別化す
ることで自分が学園責任者であることを正当化する。だが、正当化
の論理は川本氏が批判する教員による「自己評価」の「川本」版に
すぎない。別のところでは「トイレのなかでも、お風呂のなかでも
必死に考える」(「第1章」)私(川本氏)を見習えと訓示される。
ところで、鯨のこの現象は「自殺説」でも、「寄生虫感染説」でも
説明できず、今のところ一番有力な説は「米軍ソナー説」「GPS説」
である。従って、一般常識的な「巨大図体説」では理解できない。
むしろ、外部の信号と情報によって学園の基本政策が主観的には正
しいと判断しながら、客観的には「死亡」の方向にむかっている例
として考えなくてはならない。立命館はそうかもしれない。したがっ
て、そこから出される示唆は、川本理事長が推進しようとしている
理事長、常任理事会への権限の集中ではなく、むしろ分権的な学園
運営であろう。
次に教師との対比を取り上げたいが、この点を検討する前に、すこ
し寄り道をしたい。それは後に見る川本氏の主張を判断するための
基準を得るためである。
■「10のマネジャーの仕事」から検討する■
カナダにヘンリー・ミンツバーグという戦略的経営論研究者、組織
理論学、経営思想家がいる。なぜミンツバーグを引き合いにだすか
というと、立命館学園の政策文書や「大学行政論」に「戦略」とい
うタームが踊っているからである。ところで彼の控えめな著作に
『マネジャーの仕事』(奥村哲史/須貝栄訳、白桃書房)がある。そ
の定義によると、彼が問題にしているマネジャーとは職長から社長
までを包括しており、かつ民間企業だけでなく大学等の組織も考察
の対象となっているので、ここでの議論に参考になる。
マネジャーには10の役割がある。それは3つの対人関係、3つの情
報伝達、4つの本質的意思決定に関わる3つのグループに大別され
る。それらは、1つの組織単位を預かることにより公式権限が生ま
れ、そのことで組織内の特別の肩書き・地位が生まれ、その両者の
結果、3つの対人的役割が生まれる。つまり、自分の組織を代表す
るフィギュアヘッド、その地位によりリエゾン(連結)の役割、そ
して部下との関係ではリーダーとしての役割である。この3つの役
割はマネジャーを情報入手のための特異な位置、情報の神経中枢の
位置に置くことになる。その結果、情報の受信と統御で組織把握す
るモニターの役割、自己組織に特別の情報を流す周知伝達役(デイ
セミネーター)、外部に情報を伝えるスポークスマンの役割を産み
だす。この情報系と特別の地位と役割とは、マネジャーを組織の戦
略的意思決定の中心に据える。この企業家的な役割では組織の変革
を起こすこと、外部からの脅威にたいしては障害処理者の役割(デ
イスターバンス・ハンドラー)を果たすこと、資源配分者として発
展分野を定めること、そして交渉者として組織の利益のために交渉
を処理すること、である。この『マネジャーの仕事』論は何をわれ
われに明らかにしているのか。
第1に、川本氏のリーダーの3つの条件論と彼の7点に渡る個人的
感想の経験談(「抜粋」)は未整理ながらさすがにマネジャーの仕
事の要点をついている。しかし、その内容の99.9%は『マネジャー
の仕事』のなかですでに整理されている。さらに言えば、後で述べ
るよう「終章」で展開されている「高等教育機関における教育・研
究機能」つまり組織が仕事をしている分野の特殊性と組織運営機能
との有機的あり方を実践的見地から探求する作業はすでに研究され
ている。最近の日本では、例えば、加護野忠男氏が「組合せの経済」
論や「融業化」論を展開している。マネジャーの10の仕事をどのよ
うに遂行しているのか、を川本氏が具体的に語り、点検した方が将
来の幹部職員にとってはよほど有益であったろう。
第2に、川本氏が批判する大学教員と教授会の特徴は、それが研究
に関わる自由と決定権をもつがゆえに発生するものではなく、1つ
の組織単位のなかで預かる公式権限と組織内の特別の肩書き・地位
から生まれるものである。それは組織原則が変更されても、別の形
で諸問題が発生するだけであろう。反対にいえば、氏がBKC移転や
APUの設立の成功については理事会の指導性を強調し、関八州論を例
として出しても、それはマネジャーとしてのポジションから当然派
生するものである。そのポジションをこなす能力をもっているであ
ろう人材をマネジャーに据えることしか組織の発展はない。それを
「今日の大学経営者、学園運営を背負っている責任者と、1教員の
認識の違いだと思います」(「抜粋」)といっても何も語っていな
いのと同じである。
さらに注目すべきは、立命館の管理運営の責任者に教員でなく、職
員がなることの優位性を次のように証明していることである。つま
り、責任者になろうと思って教授になった人はいないが、職員は違
う。職員は課長や部長になることを考えて立命に就職する。これに
対して立命館大学を責任もって発展させていこう、と考える人はご
く少数である。教育研究をするために教授として大学に来ている人
だから、立命館大学が社会に貢献し、発展していくことを考えよう
としてきているのではない。これが大学教授の特質である、と。非
常にすっきりとした、しかも教員が立命館大学で積極的に働こうと
する意欲を削ぎ落とすような、氏の特異な2分法である。ここでも
教員との対抗関係のなかで自己のリーダーとしての地位が正当化さ
れている。その言説は自己の内面告白でもある。
第3に、ミンツバーグの議論で注目したいのは、「定型的任務とシ
ステムの変革やその不完全性に関連する任務を組み合わせると、組
織がマネジャーを必要」とするという視点である。つまり、日々の
大学業務を遂行しながら、同時に不確実性と不完全性に対応しつつ
も、それを変革=改革する課題とマネジャーがいかに結びつけるか
を考察するという視角である。川本のリーダー論はこれをどのよう
に処理したのか、をあらためて検討して行こう。
4. 改革への推進母体の創造と手法
話の歯車をすこし戻そう。川本八郎氏は常に立命館の研究教育管理
運営を担う高い専門性をもった「アドミニストレーター」の育成と
立命館学園の戦略的適応を問題提起してきた。その切り口は一般の
職員教員と異なる経営陣のあるべき姿であった。この問題提起は、
日本の企業が抱える課題、「失われた10年」の日本企業の経営課題
と多くが重なる。後者は否定的な例として考えられるが、前者はい
わばそれなりに成功した例と言えるかもしれない。だから「カリス
マ性の神話」が生まれる。そこで、以下では後者の総括から前者の
問題点を摘出する作業を行っていこう。
人本主義経営学者の伊丹敬之氏は、マスコミに流布されている日本
企業の「失われた10 年」の原因は悪平等な日本型経営であるという
説を否定する(伊丹敬之他編『リーディングス 日本の企業システ
ム第2巻企業とガバナンス』有斐閣2005年)。平等な日本型経営の
「オーバーラン」説である。この説は成果主義賃金を導入し、教員
の研究費の引き上げを断固拒否する常任理事会の姿勢ではなくむし
ろ、その背景的認識とだけ一致する。では何が問題か。伊丹氏によ
れば日本企業の経営には3つの構造的不足が問題であった。3つの
「不足」とは、(1)新しい企業が生まれにくい、という意味での
不足、(2)トップ・マネジメントのキャパシティ、パワー不足、
(3)ホワイトカラーの鍛錬不足、である。日本企業がこの3つの
不足を抱えながら、発展してきたのは、基本的には日本企業の現場
の強さゆえである。立命館の例におきなおすと、これまでのダイナ
ミックな発展は、現場を支えるシステムを構築してきた現場の教職
員の優秀さということになる。それを川本氏は半ば認識しようとし
ない。
もちろん、伊丹氏は歴史転換期のトップ・マネジメントが極めて重
要であると主張する。この点では川本氏と認識を同じくするだろう。
しかし、認識の方向が違う。川本氏は、「1教員、1職員と常任理
事、理事長を一緒にしてはならないのです。今、日本はそうなって
います。その責任の重さと責任の重要性を構成員は自覚していない、
何でも平等で何でも画一主義ではないですか。なにも改革はすすま
ないではないですか。それはその責任をもっている人たちのことを
重視しないからです」(「抜粋」)と主張する。しかし、この主張
は2つの欺瞞によって成り立っている。日本企業社会のなかで企業
のトップと平社員が同じに待遇されていることはありえない(第1
の欺瞞)。ここでも一般的風説によって論理を運ぶ川本氏の論法が
ある。さらに、日本の企業、官庁の不祥事を率直に観察すると、ヒ
ラの構成員がトップを重視しないからではなく、トップのマネジメ
ントが犯す犯罪、トップとしての管理能力不足が決定的である。む
しろヒラの構成員がトップをあまりに「重視」して、批判的意見を
発することができない点にある。わが立命館でいえば、常任理事会
で理事長と総長が大声でわめき、常任理事が発言できない姿がそこ
に重なって見える。つまり、改革がすすまない原因を自分たち以外
の「ヒラ」の教職員にもとめている。自分たちはきちんとしたトッ
プの自覚をもってやっているのだけれども、他のものは自覚と危機
意識がたりない、と。これは明らかに第2の欺瞞である。
伊丹氏の分析はそれと異なる。優れて世界的なトップ・マネジメン
トへの需要と供給の両面から問題を抑える。需要面では早すぎるス
ピードで世界のトップランナーに日本企業がなってしまったので、
「急仕立てのフロントランナー」のマネジメント、「哲学なきフロ
ントランナー」のマネジメントになってしまった。それは日本や平
均的日本人が駄目だからではなく、日本の客観的な位置がそうさせ
たのである。立命館も全く同じ局面にある。それは「1教員、1職
員」の欠陥を取り上げても主観的にかつ短期間に解決できる問題で
はない。
伊丹氏はトップ・マネジメントの供給面も同時に観察する。それは
3つの側面をもつ。(1)80歳代世代は戦後復興に仕事を覚え、
高度成長期に組織のなかのリーダーとして責任を担った世代であり、
その後の世代と明確に経験の豊かさと量で異なるとしている。そこ
に今日の企業のトップ・マネジメントの危機がある。同じことは、
立命館大学にも当てはまるだろう。ただし豊かな経験世代は大学紛
争と1979年全学協議会確認の時代をどのように経験しているのか、
その前後で分かれるかもしれない。
(2)第2の側面は、役員就任年齢の遅れ、在任期間の短縮化、個
性豊かな社長が長期政権を維持することがすくなくなったという意
味で、企業の普通のポストの1つになったことが挙げられる(「社長
のポスト化」)。
(3)次に特に問題にしたいのは、第3のシステム疲労の面である。
システム疲労とは日本企業のなかでの人の処遇の仕方、仕事の分担
のあり方の問題である。伊丹氏は、多くの人に平等に機会を与える
こと、年齢による秩序を重視すること、現場主義のおもんばかりの
重視が、若い優秀な人材が大きな仕事の場を与える機会を奪い、大
きな絵を描く個性を消耗させる、と指摘する。だからといって、氏
は、多くの人に平等な機会を否定し、年齢による秩序を無視し、現
場主義の軽視をすることがトップのリーダーを育成する道だと意見
しているわけではない。これは「民主主義の中でのリーダーの育成」
という制度的ジレンマとして理解して、単一の解だけで解決できな
いと主張している(ひとつの例示として傍系企業や海外子会社のトッ
プに注目している)。
以上の伊丹氏の「トップ・マネジメント論」と、先のヘンリー・ミ
ンツバーグの「マネジャーの仕事」論はひとつの違いがある。後者
はトップ・マネジメントとミドル・マネジメントの仕事を同一性と
いう観点から観察しているのに対して、前者は育成論という観点か
ら区別している。
■立命館大学の経営組織的ブレイクスルー■
さて、ようやくヘンリー・ミンツバーグの第3の論点に戻ることが
できる。川本氏のリーダー論=マネジャー養成論を次にとりあげよ
う。第1に注目されるのは調査企画室の意義である。マネジャー養
成論の観点から見れば次のように指摘している。
調査企画室がなかったときは、こういうことをしたいと、
関係する部・次長や、課長を呼んで、調査してみてほしい
といってから、1週間経っても、1か月経っても出てきませ
ん。そこで呼んで聞くと、「わかっていますけれども、日
常のこれがあって、あれをやらないとならない」と、結局
進みません。職員の定数が多いからといって立派なことが
できるとは限りません。(「抜粋」)
これは「定型的任務とシステムの変革やその不完全性に関連する任
務を組み合わせると、組織がマネジャーを必要」とするというヘン
リー・ミンツバーグの、先に紹介した第3点目に重なる。この点で、
立命館大学は経営組織的ブレイクスルーを行った。企画室の設置で
ある。「企画室ができたことにより、長期計画を策定するための安
定的な仕組みが整備された」と『大学行政論I』は総括している(強
調は引用者、p.28)。しかし、この総括の奇妙な点にすぐに気がつ
く。それは次の点である。
今回の朱雀キャンパスへの本部機能の移転に伴う事務組織の改変で
一番の特徴は、各部局に企画部を新増設し、それを総長事務長室で
統括する形にしたことである。ところが、現在立命館大学で審議が
行われている『中期計画(案)』は長期計画の策定を放棄している。
激動する情勢に対応する長期計画が策定することが出来ないという
理由である。ではなぜ長期計画を放棄したにもかかわらず調査企画
室の拡大が必要なのか。疑問がわく。あらゆる組織にある「成功神
話」の歯車が動きはじめている。だが、問題はそれに留まらない。
先に述べたように、理事長は、「能力のない職員」から企画権限を
取り上げて、企画室に集中させたことを高く評価している。ところ
が、今日の立命館大学の現場では、それとは反対に「政策能力の低
下」ということが将来の展望するときさまざまなところで指摘され
ている。その指摘は「総合企画室」という政策能力をそれ自身専門
に業務とする部署が生まれているにもかかわらず、である。この評
価の乖離をいかに理解したらよいのか、それも2つ目の疑問としてで
てくるだろう。
この点を考えるためのヒントを成毛眞氏から借りてこよう。成毛眞
氏とは、ご存知のとおり、1991年マイクロソフト社日本法人社長に
就任して、「パーシステム・ロイヤリティ」を発案した人物である。
この発案はマイクロソフト社が世界のOSを支配する上で画期的な手
法となった。その彼は現在新しいビジネスモデルを追求して、「イ
ンスパイヤ」というコンサルタント会社を経営している。そのかれ
はある談話のなかで次のように、日本の企業組織のあり方について
指摘している(金子勝/成毛眞著『希望のビジネス戦略』ちくま新書
2002年)。
彼によると、日本の会社には必ず企画部と人事部がある。人事部は
労組との闘いのなかで出来たもので、必要がなくなっているのに現
在も存続している。他方、コンサル業界では「企画部をつぶせ」と
いう言葉がある。そもそも企画部という部署はお役所との折衝窓口
として日本の企業では作られた。厳しい規制があったからだ。大企
業のビジネスは行政という「企画部門」が作り出し、企業内の企画
部はその下請けの存在となった。ところが、規制緩和で「企画部門」
がなくなり、そのため、企業の企画室は、現場と離れて、自分の存
続のために自分で商売の種を探すという新たな役割を担うようになっ
た。
この成毛眞氏の日本企業にたいする指摘が当たっているとすると、
立命館大学では(1)人事部ではなく学生部のあり方の根本的再考、
と同時に(2)自己増殖した総長理事長室-総合企画室-各部局の企
画課体制を再考する必要がある。ましてや総長理事長室-総合企画
室が朱雀キャンパスに移転し、現場と離れることを考えると、事態
はさらに深刻となるだろう。
成毛眞氏の指摘は「長期計画の放棄」「政策能力」をめぐる先の矛
盾をきちんと説明してくれる。立命館大学では外部資金が増加する
と同時に、企画系の権限は強化された。そこが作成する諸計画は、
もともと現場から発想されたものではなく、外部の「企画部門」が
作成されたもののコピーにしか過ぎない。その作成に現場が関与す
ることは排除されているのだから、現場から育った教職員が「政策
能力」を蓄積する道は閉ざされている。他方、企画室系列で働いた
職員は「政策能力」を形成しているかというとそれは元々できない。
現場から切り離された所で仕事を行い、その仕事は国際化を担う行
政の「企画部門」の政策のコピーに過ぎないからである。立命の政
策的文書のほとんどが金太郎飴のような味気のない政策文書になっ
ている秘密はここにある。
しかし、次のような反論が帰ってくるだろう。あの時点ではそれし
か選択肢はなかった、他にどのような選択肢があったのか、と。こ
のような考えは3点で問題を孕んでいる。第1に、「大学行政論」
のなかではその「神聖化」が始まっている。第2に、新しい政策を
創造することと、「企画部門」の政策からコピーされた政策を実施
する早さとスピードの速さ、その実施の応用とが混同されて議論さ
れている。第3に、現場で政策立案が出来ない状態であった場合、
経営者は2つの選択が迫らせる。第1の選択は、その職員、部署は
そのような能力を持たないものと判断・理解して、その権限と機能
を上部に吸い上げることである。第2の選択肢はその職員、部署は
本来的にそのような能力を持っているが(『マネジャーの仕事』を
みよ)、管理の制度的枠組みあるいは特殊な環境的条件のもとで、
それを発揮できない、したがって、現場の日常的業務を一方ではこ
なしながら、他方では政策提言能力を育成、形成できる制度的保障
を探求・改革する道である。後者の道は放棄された。改革の源泉を
枯らしているのである。
ところで、立命館大学の政策能力の衰退にかんして川本氏は興味深
い指摘を行っている(「抜粋」)。常任理事会から見て、新たに提
起する政策課題にたいして、反対する教員(や職員)をその政策決
定(あるいはそれに関与する部署)に意図的に参加させ、これを反
対派の口封じに利用したと自慢している。それは政策の合意を取り
付けると同時に、反対論を封じ込めることで政策の円滑な全学合意
と遂行を保障しているかもしれない(そしてそれが経営者としての
手腕かもしれない)。だが、様々な意見を衝突させながら、合意を
構築していくという立命館の伝統を空洞化するものである。改革に
熱心であった教員の改革離れと、ほとんどの全学委員会がほとんど
金太郎飴にように同じメンバーで構成されているところに立命館大
学の将来の危険性を感じる。
5.「大学行政学」の構築は何をめざすのか?
最後に2冊本のまとめ、終章をみることにしよう。
この章を川本八郎氏のリーダー論として取り上げることに多少のた
めらいがある。そのためらいは次のようなことから発生している。
つまり、この終章のオリジナル原稿は『大学時報』2006年1月号に
のったエッセイ論文「「大学行政学」とは何か」である。それが加
筆・修正されている。終章とオリジナルを比較すると、主張と論点
の運びは全く同じであり、主に事例としていくつかの情報が付け加
わっているにすぎない。それゆえ終章はオリジナル原稿をそのまま
掲載したと理解できる。ただし題名が変更になって「「大学行政学」
の構築をめざして」と変更されている。変更されたタイトルからは
実質的内容の変更、前進があった印象を受ける。だが、実際はまっ
たく同じである。その点はエッセイの最後に注釈してあるのでまっ
たく問題ではない。ではなぜ躊躇がうまれるのか。
■ひとつのなぞ:終章の本当の著者は誰なのか■
実は、オリジナル論文の執筆者は伊藤昭、伊藤昇、近森節子の3氏
であるのにたいして、「終章」は川本八郎、伊藤昭、伊藤昇、近森
節子の4氏となっている。これをどのように解釈したらいいのか。
考えられる仮説は以下の通りである。例えば、第1節「トートロジー
かアイデンティティか?」では学問が分枝する例として「建築学の
場合であれば、建築デザイン学、・・・・鉄骨学などがある」と加
筆されている。そのような仔細な加筆をわざわざ川本氏がやったと
は思えない。次に考えられるのはオリジナル論文のアイデアは川本
氏でありながら、他の3氏が代筆したケースである。だが、代筆に
3名もの著者名が必要だと思われない。ではなぜ川本八郎という名
前を使わなかったのか。『大学時報』という雑誌の性格から理事長
名が出せなかったのか。『大学時報』がそのような雑誌だとは思え
ない。では反対のケースは想定できないか。オリジナル論文のオリ
ジナリティは伊藤昭、伊藤昇、近森節子の3氏にありながら、川本
氏が理事長であり、大学行政研究・研修センター長でありかつこの
2冊の編集責任者であるという理由で自分の名前を4氏の順番の最
後ではなく最初に記入した。このような仮説的解釈も成り立つ。い
ずれが真実か分からない。川本氏に説明が求められるだろう。最後
のケースであれば、学術の世界では常識的にありえない。それは川
本氏のいう「教養」に基づく行為なのか。
■「大学行政学」とはどのような学問か■
話題が脱線したので、本論に戻ろう。終章の内容は、成立のプロセ
スがどうであれ、川本氏も合意していることを前提に議論をすすめ
よう。終章は最初に「大学行政学」を定義することから始める。し
かし、その定義は学術集団のための名称にしかすぎず、定義の模索
はトートロジーである。にもかかわらず「大学行政学」という名称
を追求するのは「アイデンティティ形成としての価値」があるから
である。ここでわざわざ「アイデンティティ」という視角を重視し
た理由は後に明らかになってくるだろう。先に進めよう。定義によ
れば「高等教育機関における教育・研究機能と組織運営機能との有
機的あり方を実践的見地から探求する学問」が「大学行政学」であ
る。その中身は3つの系列(部門・分野)に分かれる。教育・研究プ
ロデュース系、ネットワーク系、マネジメント系である。この3つの
系列は機能系列であり、これとは別の系列に人事、財務、学務、広
報などの職場系列があり、両者の系列のクロスとして、現実の大学
の業務をイメージすることを提案する(経営学一般からすると、こ
のような分類が相応しいのかは別途検討する必要があるが、ここで
は問題にしない)。
では、クロスした現場で働く職員に何が求められるのか。その回答
は「アマ」ではなく「プロ」である。「アマ」と「プロ」との違い
は何か、というと「アマ」はプロセスで評価され「プロ」は結果で
評価される。この「アマ」と「プロ」との区分はまったく通俗的で
ある。スポーツのそれをイメージするのであれば、両者の区分は職
業集団として社会的認知、制度化の違い及びその結果としての所得
のあり方の相違に表現される。決して結果とプロセスの相違ではな
い。「アマ」も常に結果で評価されているからである(アマチュア
野球を見よ)。「プロ」とはプロフェッション、つまり専門的知識、
技能を持つ職業人であり、それを公式、非公式に社会的に認知され
たものを示す。自分がプロであると宣言しただけではプロになれな
い。この点は後の議論との関連で重要である。
さて、社会的に認知されるプロの内容とはなにか、それが次に問題
である。それを「職能とプロフェッション」の項目は明らかにして
いる。ここでは職能(=職務遂行能力、日本の賃金体系の基準とさ
れる)とだけ表現しないで「職能とプロフェッション」としたこと
が味噌である。大学職員一般ではなく、「アドミニストレーター」
と呼ばれる職員の職能がプロフェッションであることの理由は3点あ
る。第1に、業務の高度化、国際化と広がり、複数の部署の協議と
政策提起である。そのためには専門的知識とネットワークが必要と
なり、そのような人材を育成する。第2に、大学の組織と制度と人
との関係性を明らかにすることとされる。ここの根拠は極めて不明
瞭である。職能としてのプロフェッション性といっても、職員論や
管理職論のうち経営学や組織科学とは異なるものが存在し、何かが
残るのか全く不明である。さらに分からないのが第3の根拠である。
専門職員とアウトソーシング問題である。専任職員でなければなら
ない職能は何か、という基準を「状況分析力、問題発見力と政策提
示能力」だとする。ここにはアウトソーシングされた仕事の大学に
おけるあり方についての考察は何もなく、採用の際に専任職員と非
専任職員とを選別する基準として明示し、それと混同している。と
ころがそれら諸能力が「大学職員としての直感力」だとすると、プ
ロフェッション性が必要とされる職務とはいったい何なのか、分か
らなくなってしまう。
以上から判断すると、プロフェッション性の根拠となりうるのは第
1の論拠ということになる。しかし、業務の高度化、国際化と広が
り、複数の部署の協議と政策提起とはいまや一般のビジネス社会で
言われている内容であって、それが特段の社会的認知を必要とする
ものかどうか、疑問がすぐにでてくるだろう。
さて、このようなプロフェッションをもつ大学職員の業務には2つ
あるとされる。経営スタッフとしての役割と教育研究を企画推進す
る業務であり、それを「適切な比重」でそれぞれの「業務」に落と
し込んで「専門性」を高めることである。次の点を注意されたい。
医者というプロフェッションは生命=人間そのものの治療という業
務の独自性ゆえにプロフェッショナルと認知されている。それとは
違って、終章では業務内容それ自体ではなく、諸業務の結びつき=
「適切な比重」のあり方が専門性の中身となっている。先に指摘し
た「教育・研究機能と組織運営機能との有機的あり方」が焦点とな
る。その専門性は教育研究プロデュース系、ネットワーク系、マネ
ジメント系の機能の組み立て具合によって測定されるとされる。で
は、専門性と呼ばれるほどの、3つの系の組み立てを担保する原理と
はなにか。明確な指摘はない。そんなものは不必要なのか。そこで
は、ひとつひとつの業務を明らかにすること、「業務の解明の固ま
りが大学行政学ということに収斂していく」と逃げ道が作られる。
もちろんそのような「学」(「論」ではない)が既存のアカデミズ
ムの世界から承認されることがないことは最初から分かりきってい
るのだろう。だから、同じ関心をもつコミュニティーを作るために
「学」を立ち上げて学会を作り上げたい、と主張する。そのコミュ
ニティーにとっては先に述べたアイデンティティ形成がもつ意味が
重要となる。それを立命館が作り、その中核に立命館がなると宣言
する。しかし、誰でもがそのメンバーになれるわけではなく、大学
人あるいは知識人としての属性を持っている人のみが許される。そ
の大学の知識人とは大学教員のことではなく、職員をさしている。
その職員は「それに値する教養を身に」つけることが究極的にはプ
ロフェッションとしての価値を創造する、という結論になる。この
結論では9章までの仕事の専門性に関する素晴らしい成果と議論が
すべて吹っ飛んでしまっている。だが、その議論とは別次元で、皮
肉なことに、大学改革という名のもとに、立命館大学では学生の教
養教育の解体が進行している。
■教育研究プロデュース系=大学内グーデター論■
「大学行政学」は職員のもつ教養を基礎にして教育・研究機能と組
織運営機能との「有機的あり方」を究明する「学」であるという主
張がされてきたが、「大学行政学」の「学」としての根拠はそれに
は留まらない。もうひとつ重大に論拠が示されている。それは「研
究・教育プロデユース系」論である。「大学行政学」が実践的見地
から探求する3つの系列のひとつである。
3つの系列とは、教育・研究プロデュース系、マネジメント系、ネッ
トワーク系である。マネジメント系とは財務、人事であり、ネット
ワーク系とは産学連携、校友政策、寄付政策などの広報である。後
ろ2系列は職員によって明確に担われている。では職員が担う教育・
研究プロデュース系とは何か。その主張点を正確に再確認するため
に以下全文を引用しておこう。
純粋に個人的関心でのみ学問(教育・研究)に取り組むの
であれば、従来通り教員だけでこれを担えばよい。教員の
研究は、基本的には、個人の裁量あるいは個人技の世界に
委ねられているのである。これに対して、高等教育機関は
組織である以上、それを形成する理念とミッションを確実
に達成しなければならない組織的課題が発生する。つまり、
個人技に左右されることなく、組織力をもって一定の水準
で安定的に供給されるべき教育・研究分野が存在するはず
である。この分野のプロデュースを職員集団が担い、開拓
するのである。そのような専門家、いわば教育・研究プロ
デューサーを意識的に育成することが今後ますます必要と
なってくるだろう。
引用文では不明な点がある。立命用語のなかにカタカナの氾濫があ
るが、教育・研究プロデュースの「プロデュース」とは何を意味す
るのか。英語では大別して産出、生産の行為そのものと、舞台監督
として劇を演出、上演することを意味するだろう。前者の意味で理
解するのであれば、教育・研究の産出、生産とは教育研究活動その
ものであり、これを職員が担うことは大学のルール違反である。し
たがって前者の意味では職員が教育研究活動そのものに従事するこ
とはできない。したがって、後者の意味、つまり舞台監督として劇
を演出、上演することを採用しているのだろう。この説を採用する
ために、引用文ではひとつの論理的工夫がされている。それは教員
の研究教育は個人関心、個人技、個人裁量であるという断定と仮定
である。その「純粋な」個人関心、個人技、個人裁量である教員の
教育研究を大学の営みから論理的に捨象すれば(10年近く維持され
ている研究費、1ヶ月のボーナスをカット、その資金を他の学園課
題に回すことをみると現実的にも「捨象」「縮小」したいのだろ
う)、そこには「一定の水準で安定的に供給されるべき教育・研究
分野」が存在する(あるいは「存在するはずである」)。職員が行
う仕事が教育的側面をもつとか、あるいは教育研究支援的側面をもっ
ているとか主張しているのではない。教員の研究教育分野とは異な
る「教育研究分野」が存在すると主張しているである。それを大学
教員は担えない。職員が担うべきである。教員の教育研究はそもそ
も「個人的」、その意味で「私的なもの」であり、それとは違う、
大学における「公的なもの」=大学の「理念とミッション」は職員
が担う、と主張する。これも悪しき二分対立法である。それ以上に、
これは教育・研究プロデューサーを担いたいと望む職員による大学
内クーデター宣言である。
では、ほんとうに大学職員がマネジメント系、ネットワーク系の仕
事ではなく大学の「理念とミッション」を実現する仕事を監督でき
るのだろうか。舞台監督であれば俳優=教師をつかって、演劇=教
育・研究をプロデユースできそうである。しかし、それはレトリッ
クのもつ幻想である。立命館大学が好んで用いる「世界水準」を観
察するならば、サッカーを例にすれば十分であろう。サッカーの選
手の出発点はすべて個人関心、個人技、個人裁量である。それなし
には試合は成り立たない。かれらはサッカーチームの「理念とミッ
ション」からかけ離れた試合をやっているのだろうか。確かに一面
では個人技と試合を楽しんでいる。だが、個人関心、個人技、個人
裁量であるからといって誰も批判できない。それがなくなるとサッ
カーは魅力を失うだろう。同じようにありとあらゆる教育研究活動
も個人を出発点としなければ絶対に成立しない。
もちろんサッカーは集団スポーツであるから、監督とその周囲にス
タッフが必要である(オリンピックなどを観戦すると、最近は個人
技のスポーツでも必要である)。スタッフには各分野で様々な能力、
高い能力・才能を備えた人材が集っている。両者の調和、ハーモニー
があって初めて世界的な試合に勝利することができる。ここには二
分対立法はない。世界的レベルあるいは準世界的レベルのサッカー
の経験がなく、アマチュアとしての経験しかないスタッフが監督あ
るいは監督に準ずる役割をすることは不可能である。そのようなチー
ムは悲劇である。
だから、「大学行政論」の創造が必要であると主張したいのだろう。
だが、「それに値する教養を身に」つけることが究極的にはプロ
フェッションとしての価値を創造するような「大学行政学」で、
「世界水準をめざす」立命館の教育・研究を監督する職員がどの程
度育成されるのだろうか。これが成功すると、画期的な「職員私立
大学」が誕生するだろう。それはきっと世界的な大学イノベーショ
ンになるだろう。
おわり
現在、21世紀初頭の立命館大学のありかたを左右する新学長選出過
程が開始されている。規定によれば、その総長候補者推薦委員会の
議長に理事長が当たることになっている。同じく規定によれば、同
時に、総長候補者選考委員会のメンバーに理事長がなっている。ま
さにプロデューサーである。これまでの分析は理事長がはたして新
学長選出のプロデューサーの資格があるのか、疑問を投げかけてい
る。
もう一度理事長の言を思い起こして欲しい。「大学の指導部、責任
者という大学の歴史的・社会的使命を持っている人たちが一番基本
となるの人間を選び採用する時に、そのことに携われないのです。
どんな組織があろうが、どんな規則があろうが、その学校をよくす
るかしないかは教職員の力量で、人間です。その人間を選ぶのに学
長が携われないなど、組織ではないと私は思います」この文章のな
かで、「人間」を「総長」にそして「学長」を理事長に置きなおし
て読み直して頂きたい。理事長は自分の願いを実現する一歩手前ま
できている。しかし、その理事長をリコールしたり、罷免したりす
る手続きはまったく存在しない。この非対称性がもたらす結果はす
でに日々の生活のなかで感じることができる。その行き着く先はど
こなのか。これまでの考察はひとつの考える素材を与えてくれてい
る。