立命館学園で働く方々へ Dear colleagues, -------------------------- 【1】「立命館大学に求められるリーダーとはなにか」(2/4) 【2】理事長通知に対する組合の即日「申し入れ」について -------------------------- 【1】より 「その意味で大学教員の仕事が川本氏には見えていない。それだ けではない。氏の攻撃は大学教員の側、少なくとも立命館大学 に働く教員からすると皮膚感覚に合致しない。この不一致は2 つに解釈できる。ひとつは川本氏がしきりと主張するように教 員の側に「危機意識」が欠落しているためかもしれない。川本 氏はそう主張する。だが、別の解釈も可能である。上に出され た大学教員や教授会にたいする「リアルな」批判は2・30年 前につくられたステレオタイプ化された「大学教員像」や「教 授会像」である。氏は虚像と相撲をとっているのである。では なぜ虚像と相撲をとる必要があるのか。ーーこの相撲は2つの ことを正当化するための伏線である。」 【2】 より 「組合執行部の方々のご多忙と日々のご尽力は十分承知してい ますが、雇用条件にかかわる最も根幹の問題について「抗議」 だけでなく、解決につながる効力ある行動を戦略的に展開し、 組合の存在意義が多くの教員にとって明らかに感じられるよ うな戦略をとっていただきたいと願っています。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【1】立命館大学に求められるリーダーとはなにか(2/4) http://ac-net.org/rtm/No/60 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 立命館大学に求められるリーダーとはなにか 川本八郎氏の「リーダー論」を読む 1. 「第1章」の特殊性、それをどのように読むのか 2. 人間形成論、真実、倫理道徳、美 3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか 4. 改革への推進母体の創造と手法 5. 「大学行政学」の構築は何をめざすのか? (続き) 3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか 第2のパーツに移ろう。問題として、日本のどこの大学もあるべき 姿、組織が構築されていないことを指摘する。この点は川本氏の非 常に得意とする分野である。氏は最初に学問研究の本質的自由を認 め、権力に対抗する自治を擁護する。しかし、その裏ですぐに次の ように疑問を呈する。大学の自治は「??しない自由」が居座って いるのではないか。この点を川本氏は豊かな事例をだして様々なと ころで力説する。学内の放火事件があり、カメラの設置を教員、教 授会はプライバシーの侵害として拒否した、放置自転車・バイク学 生の退学・停学処分の方針をある教授会は反対した、大学の自己評 価は眉唾もので教員は「自分が一番いい教授である」と思っている、 小さな学科・専攻では「そこの人間の一人か二人で次の教員を決め る」、「自分の子分を連れてくるだけ」である、大学教授は教育が 苦手で、声が聞こえなかろうが関係なしに授業を行う、と「リアル」 に批判が続く。 川本氏はこのような批判されるべき状態を「無政府状態」と呼ぶ。 大学教員を弁護士に置き換えて、みんな好き勝手なことをいってお り、自分の大学をどうしようかということについてあまり熱心では ない、大学も似ています、と主張する。ここには明らかに比喩、修 辞法の誤りがある。弁護士は社会の法秩序の形成、あるべき姿の追 求に貢献し、その意味で日本社会の発展に熱心である。もちろん既 存の法的秩序に既得権益を持っている人にとっては弁護士が追求す るあるべき姿は「無政府的」「好き勝手」かもしれないが。 その意味で大学教員の仕事が川本氏には見えていない。それだけで はない。氏の攻撃は大学教員の側、少なくとも立命館大学に働く教 員からすると皮膚感覚に合致しない。この不一致は2つに解釈でき る。ひとつは川本氏がしきりと主張するように教員の側に「危機意 識」が欠落しているためかもしれない。川本氏はそう主張する。だ が、別の解釈も可能である。上に出された大学教員や教授会にたい する「リアルな」批判は2・30年前につくられたステレオタイプ 化された「大学教員像」や「教授会像」である。氏は虚像と相撲を とっているのである。ではなぜ虚像と相撲をとる必要があるのか。 ■理事長としての自己正当化■ この相撲は2つのことを正当化するための伏線である。ひとつは次 の点であるが、その主張を聞こう。 「大学の指導部、責任者という大学の歴史的・社会的使命 を持っている人たちが一番基本となるの人間を選び採用す る時に、そのことに携われないのです。どんな組織があろ うが、どんな規則があろうが、その学校をよくするかしな いかは教職員の力量で、人間です。その人間を選ぶのに学 長が携われないなど、組織ではないと私は思います」 (「抜粋」)。「立命館での教授の任用は学部教授会で決 める。そして大学協議会の承認を経て最後に理事会で形式 的に承認される。これほど重要なことに、教学の責任者で ある総長・副総長には何の権限もないのである。そんな組 織があっていいのか。」(第1章)。 この引用文を触れる前に、1つだけ、横道にそれたコメントをしたい。 「どんな組織があろうが、どんな規則があろうが、その学校をよく するかしないかは教職員の力量で、人間です」という主張は半面正 しく、判面危険である。今日の企業をめぐる反社会・不正行為、特 定の企業の衰退をみれば、人間以上にその組織のあり方、組織内規 則・ルールの構築が現在は重要になっている。現代は生存競争では なく、ルールをつくる競争の時代である。 話を戻そう。上の引用の言を聞くと、大学関係者以外の多くの人は 理事長に賛成するだろう。うちの会社では社長が人事採用を決定し ている、トップが決定するのは当然、と。だから川本氏はその点を 狙ってしきりと攻撃する。しかし、大学は民間の経営組織と異なる 側面をもっている。それは大学が真理の追究、法則の発見と普及と いう仕事を社会的に担うことを委託された機関、団体であるという 点である(知と真理のそれに基づく教育の共同体であるが、それは 知と真理と教育を独占するという意味ではない)。これは営利団体、 行政団体と決定的に異なる。 なぜ社会はそのような委託、信託を行ったのか。それは追究される べき真理、発見と普及されるべき法則が時の権力だけでなく様々な 利害団体(例えば宗教)、個人によって攻撃され、その曲解が社会 に対して絶大な被害をもたらしてきたからである。この信託・委任 事業の発展・継承は誰でもが出来るわけではなく、その学術に関連 する分野で長年、真理の追究、法則の発見と普及に携わってきた者 に社会が委託している。なぜ非専門家に任せないのか。それはその 分野で長年陶冶されて来た人材が犯すかもしれない誤謬の方が非専 門家の犯すかもしれない誤謬よりも被害が少ないと社会が判断して きたからである。もちろんその審議決定に関与したものは情報の公 開と判断基準の正当性を証明しなければならない。それが出来るの は立命館大学では教授会と大学協議会のラインである。 この点でも川本氏の主張には意図的な誤りがある。人事案件で採用 されるはずの候補者が担当する教科科目は、1?2人の教授や教授会 が単独で決定するのではない。新規の募集から決定に至る過程は様々 な機関(教学と企画)が複合的に関与している。転出・退職した教 員ポストをそのまま募集するのかあるいは募集科目を変更するのか、 は学部内で常に検討される。さらに、大学のルール規則に従って立 命館大学「大学協議会」は教員の人事に関する事項、大学教員任命 の基準および手続きに関することを協議決定することができる。そ の「大学協議会」の議長は学長であるから、教学の責任者である学 長(総長)が何も権限がないわけではない。協議決定に実質的に関 与できないのは学部の教員、教授会の問題ではなしに、学長総長の 能力の問題である。 川本氏の発言は次の点で曖昧である。総長・学長が教員の採用の人 事権を持つべきだといっているのか、さらに広がり「学園のトップ 集団」(「抜粋」)、つまり理事会、理事長まで入るのか、不明で ある。いずれにせよ「これで大学改革ができるはずがない」(「第 1章」)「日本の大学の改革を邪魔しているのは教授会です」 (「抜粋」)から、そこから人事権を取り上げることを川本氏は公 然と主張している。現場で研究や教育に従事している人間が関与で きないシステムを目指しているのである。 ■第2の正当化 職員、教員、教授との差別化■ 第2の伏線に移ろう。ステレオタイプ化された「大学教員像」や 「教授会像」への批判は職員、とりわけ理事長のリーダーシップを 際立たせるために利用されている。 しかし、その前に、教員との対比ではなく、一般の職員との対比で 自己の地位を正当化していることについての言説を見てみよう。そ れについての多くの話題の中でそのひとつ、鯨の話は傑作である。 瀬戸内海で鯨が岸辺に上がって死んだという記事を見て、川本氏は 入試部長にその意見を求め、次のように諭す。個人的意見として、 鯨は大きな図体をしているから、岸辺近くに来ると戻れないという 「巨大図体説」を披露して、立命館大学もそれに似ていると笑い話 を披露する。「私はそれぐらい、責任者は滑っても転んでもわが学 園のこと」について思案していると自慢する。このように差別化す ることで自分が学園責任者であることを正当化する。だが、正当化 の論理は川本氏が批判する教員による「自己評価」の「川本」版に すぎない。別のところでは「トイレのなかでも、お風呂のなかでも 必死に考える」(「第1章」)私(川本氏)を見習えと訓示される。 ところで、鯨のこの現象は「自殺説」でも、「寄生虫感染説」でも 説明できず、今のところ一番有力な説は「米軍ソナー説」「GPS説」 である。従って、一般常識的な「巨大図体説」では理解できない。 むしろ、外部の信号と情報によって学園の基本政策が主観的には正 しいと判断しながら、客観的には「死亡」の方向にむかっている例 として考えなくてはならない。立命館はそうかもしれない。したがっ て、そこから出される示唆は、川本理事長が推進しようとしている 理事長、常任理事会への権限の集中ではなく、むしろ分権的な学園 運営であろう。 次に教師との対比を取り上げたいが、この点を検討する前に、すこ し寄り道をしたい。それは後に見る川本氏の主張を判断するための 基準を得るためである。 ■「10のマネジャーの仕事」から検討する■ カナダにヘンリー・ミンツバーグという戦略的経営論研究者、組織 理論学、経営思想家がいる。なぜミンツバーグを引き合いにだすか というと、立命館学園の政策文書や「大学行政論」に「戦略」とい うタームが踊っているからである。ところで彼の控えめな著作に 『マネジャーの仕事』(奥村哲史/須貝栄訳、白桃書房)がある。そ の定義によると、彼が問題にしているマネジャーとは職長から社長 までを包括しており、かつ民間企業だけでなく大学等の組織も考察 の対象となっているので、ここでの議論に参考になる。 マネジャーには10の役割がある。それは3つの対人関係、3つの情 報伝達、4つの本質的意思決定に関わる3つのグループに大別され る。それらは、1つの組織単位を預かることにより公式権限が生ま れ、そのことで組織内の特別の肩書き・地位が生まれ、その両者の 結果、3つの対人的役割が生まれる。つまり、自分の組織を代表す るフィギュアヘッド、その地位によりリエゾン(連結)の役割、そ して部下との関係ではリーダーとしての役割である。この3つの役 割はマネジャーを情報入手のための特異な位置、情報の神経中枢の 位置に置くことになる。その結果、情報の受信と統御で組織把握す るモニターの役割、自己組織に特別の情報を流す周知伝達役(デイ セミネーター)、外部に情報を伝えるスポークスマンの役割を産み だす。この情報系と特別の地位と役割とは、マネジャーを組織の戦 略的意思決定の中心に据える。この企業家的な役割では組織の変革 を起こすこと、外部からの脅威にたいしては障害処理者の役割(デ イスターバンス・ハンドラー)を果たすこと、資源配分者として発 展分野を定めること、そして交渉者として組織の利益のために交渉 を処理すること、である。この『マネジャーの仕事』論は何をわれ われに明らかにしているのか。 第1に、川本氏のリーダーの3つの条件論と彼の7点に渡る個人的 感想の経験談(「抜粋」)は未整理ながらさすがにマネジャーの仕 事の要点をついている。しかし、その内容の99.9%は『マネジャー の仕事』のなかですでに整理されている。さらに言えば、後で述べ るよう「終章」で展開されている「高等教育機関における教育・研 究機能」つまり組織が仕事をしている分野の特殊性と組織運営機能 との有機的あり方を実践的見地から探求する作業はすでに研究され ている。最近の日本では、例えば、加護野忠男氏が「組合せの経済」 論や「融業化」論を展開している。マネジャーの10の仕事をどのよ うに遂行しているのか、を川本氏が具体的に語り、点検した方が将 来の幹部職員にとってはよほど有益であったろう。 第2に、川本氏が批判する大学教員と教授会の特徴は、それが研究 に関わる自由と決定権をもつがゆえに発生するものではなく、1つ の組織単位のなかで預かる公式権限と組織内の特別の肩書き・地位 から生まれるものである。それは組織原則が変更されても、別の形 で諸問題が発生するだけであろう。反対にいえば、氏がBKC移転や APUの設立の成功については理事会の指導性を強調し、関八州論を例 として出しても、それはマネジャーとしてのポジションから当然派 生するものである。そのポジションをこなす能力をもっているであ ろう人材をマネジャーに据えることしか組織の発展はない。それを 「今日の大学経営者、学園運営を背負っている責任者と、1教員の 認識の違いだと思います」(「抜粋」)といっても何も語っていな いのと同じである。 さらに注目すべきは、立命館の管理運営の責任者に教員でなく、職 員がなることの優位性を次のように証明していることである。つま り、責任者になろうと思って教授になった人はいないが、職員は違 う。職員は課長や部長になることを考えて立命に就職する。これに 対して立命館大学を責任もって発展させていこう、と考える人はご く少数である。教育研究をするために教授として大学に来ている人 だから、立命館大学が社会に貢献し、発展していくことを考えよう としてきているのではない。これが大学教授の特質である、と。非 常にすっきりとした、しかも教員が立命館大学で積極的に働こうと する意欲を削ぎ落とすような、氏の特異な2分法である。ここでも 教員との対抗関係のなかで自己のリーダーとしての地位が正当化さ れている。その言説は自己の内面告白でもある。 第3に、ミンツバーグの議論で注目したいのは、「定型的任務とシ ステムの変革やその不完全性に関連する任務を組み合わせると、組 織がマネジャーを必要」とするという視点である。つまり、日々の 大学業務を遂行しながら、同時に不確実性と不完全性に対応しつつ も、それを変革=改革する課題とマネジャーがいかに結びつけるか を考察するという視角である。川本のリーダー論はこれをどのよう に処理したのか、をあらためて検討して行こう。 (つづく) ----------------------------- 【2】理事長通知に対する組合の即日「申し入れ」について ----------------------------- 「ゆにおんNo51」(6/22)によれば、6月14日に理事長から組合執 行委員長宛に 夏 期一時金を2006年 6月30日(金)に 算定基礎×2.0ヶ月 年末一時金を2006年12月 8日(金)に 算定基礎×3.1ヶ月+定額100,000円 を支給する通知がありましたが、組合は、同日、理事長に対し、 理事長の言うとおりに 夏期一時金を2006年6月30日(金)に 算定基礎×2.0ヶ月 を支給してくださいと申し入れました。この申し入れが慣行的 儀式であったとしても、昨年度の合意なき一時金カットに象徴 される理事会の「暴力」が、大多数の教員にとって現在もなお 許しがたいだけでなく、その憤りが日々強まって大きなうねり になりつつある状況を認識した上での申し入れとは感じられま せんでした。 なるほど、申し入れには「2005 年度に引き続き、2006 年度一 時金の支給に関する協定書を締結するには至っておりません」 と記載し、「しかし、組合への加盟の有無を問わず教職員の生 活条件等を保障する立場から、2004 年度の協定の支給基準を準 用し、2006 年度夏期一時金の教職員への支給を以下の通りお願 いいたしたく申し入れます。」とあります。 しかし、「教職員の生活条件等を保障する立場」というのであ れば、昨年度の一時金カットで悪化した生活条件を回復すべく、 6月30日に「算定基盤×3.0ヶ月」を支給することを求め るのが筋ではないでしょうか。実現するかどうかは別としても、 こちらとして当然のことを要求してこそ「申し入れ」と言える のではないでしょうか。 なお「ゆにおんNo51」は、 「組合は、当然、この「通知」を容認することはできません。 この対応について抗議・批判するとともに、再度、2004 年度 実績で「給与2ヶ月分の夏期一時金」のみ暫定執行し、年末 一時金については然るべき交渉の場で、引き続き交渉するこ とを求めていきます。ただし、残念ながらすぐに状況が好転 するというレベルにはありません。今後も各個別交渉や業務 協議会で、年末一時金の回復と取り戻しを求めて粘り強く協 議し、たたかっていきます。」 と結んでいますが、このような非常事態であれば、この儀式的 「申し入れ」もまた、実質的な「然るべき交渉の場」になって います。昨年度の一時金カットを不問にして、理事会の言う通 りの夏期一時金の額を夏期に支給してください、と「申し入れ」 たことは、行為として、昨年度の一時金カットを容認したも同_ 然ではないでしょうか。抜目ない理事会側は今後の交渉で言う ことでしょう:「組合はすでに一時金カットを容認しているで はないか。もし容認していないのなら、なぜ6/14 の申し入れで 夏期一時金として昨年の一時金を支払うことを申し入れなかっ たのか」、と。 抗議や批判をしても、今回の申し入れのような重要な場で具体 的要求をしないとすれば、事実上容認することにならないでしょ うか。 組合執行部の方々の多忙と日々のご尽力は十分承知しています が、雇用条件にかかわる最も根幹の問題について「抗議」する だけでなく、解決につながる効力ある行動を戦略的に展開し、 組合の存在意義が多くの教員にとって明かに感じられるような 戦略をとっていただきたいと願っています。 ============================== 編集発行人:辻下 徹 Toru Tsujishita ( BKC 教員 ) 連絡先:tjst@rtm.ac-net.org