立命館学園で働く方々へ Dear colleagues, 一部未払いのままの昨年度給与を支払うことを求める要望書 の賛同署名運動が、衣笠でも本格的に始まりました【1】。理 工系専任教員のほぼ半数が署名した要望書の第一次提出時に、 理事長との面会も申し入れましたが、理事長から「対応」を 指示されたという総務部長から、組合への春闘回答書が返事 である、との連絡がありました。理事長および理事会には、 教員からの信頼の有無には関心がないことがこれで明確になっ た以上、次の行動に移るべきだという意見も呼掛け人の中に はありましたが、専任教員中の賛同署名者は、理工および情 報理工では過半数となりましたが、BKC全体では約4割、 立命館大学全体では約2割ですので、衣笠でも専任教員の賛 同署名を集め、第二次提出の際の対応を見てから決断すべき、 という意見が多く、第二次の運動が始動しました。 【2】より: 『ところで、立命館大学の政策能力の衰退にかんして川本氏は 興味深い指摘を行っている。常任理事会から見て、新たに提 起する政策課題にたいして、反対する教員をその政策決定に 意図的に参加させ、これを反対派の口封じに利用したと自慢 している。それは政策の合意を取り付けると同時に、反対論 を封じ込めることで政策の円滑な全学合意と遂行を保障して いるかもしれない。だが、様々な意見を衝突させながら、合 意を構築していくという立命館の伝統を空洞化するものであ る。改革に熱心であった教員の改革離れと、ほとんどの全学 委員会がほとんど金太郎飴にように同じメンバーで構成され ているところに立命館大学の将来の危険性を感じる。』 ------------------------------ 【1】(転載)対理事会要望書賛同者数200名を越え、第二段階へ ------------------------------ 対理事会要望書,賛同者数のさらなる増加に向けて ご協力をお願いします! 呼びかけ人:赤堀 次郎、荒井 正治、小野 文一郎、 小笠原 宏、坂根 政男、里見 潤、杉本 末雄、 高山 茂、辻下 徹、中島 淳、吉田 真(以上理工学部教員)、 小川 均、島川 博光、樋口 宜男(以上情報理工学部教員)、 佐藤卓利、田中 宏、藤岡 惇(以上経済学部教員)、 三浦 正行(経営学部教員)、小堀 眞裕(法学部教員)、 朝尾 幸次郎(文学部教員)、山下 高行(産業社会学部教員)、 勝村 誠(政策科学部教員)、小林 誠(国際関係学部) 1.私たちは、学園内の士気低下の進行と、相互信頼の崩壊と を食いとめるため、一部未支払のままである昨年度一時金を 完全に支払うことを川本八郎理事長に求めています。賛同者 は5月11日に178名に達し、教員162名の氏名を明示した要望書 を理事長と全理事会メンバーに送りました。その後も賛同者 数は増え,理工学部と情報理工学部を中心に,200名に達しま した。理工学部・情報理工学部では専任教員の過半数を超え ました。 しかし,今年も一時金1ヶ月カットが示され、本来の形で業 務協議会が行われることもありませんでした。また、要望書 の趣旨を直接に伝えるために呼掛け人との面会を理事長に申 し入れていましたが拒否されました。理事長がわたしたちの 要望を真剣に受けとめるまで、賛同者数のさらなる増加を目 指したいと考えています。よろしくお願いいたします。 現在,学部別賛同者数(呼びかけ人含む)は,下記の通りで す。理工 79,情報理工 43,経済 20,経営 20,法 4,文 4,産 2,国 2, 政2,職員 21,退職者 3 教員の賛同者氏名は,下記URLの要望書(6月19日版) の通りです。呼びかけ人の先生方,賛同の意が未表明の方々 が一人でも減るように声をかけて下さるよう,ぜひともお願 いいたします。 要望書および賛同全教員氏名(ユーザー名: rits, パスワード: yobosho): http://www.ritsumei.ac.jp/se/~ogasawar/shomei/060619_yobosho_V2.doc 2.意思表明は下記のいずれかの方法でお願いします。 (1)賛同者の所属学部・学科・氏名を所属学部の呼びかけ人にメール。 (2)下記URLの賛同署名用紙を印刷・署名。所属学部の呼びかけ人に送付。 (3)ogasawar@se.ritsumei.ac.jpに,賛同者所属学部・学科・氏名をメール (4)下記URLの賛同署名用紙を印刷・署名。「理工・小笠原宏」へ学内便。 趣旨説明と署名用紙(ユーザー名: rits, パスワード: yobosho): http://www.ritsumei.ac.jp/se/~ogasawar/shomei/060615_shomei_boshu.doc ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【2】「立命館大学に求められるリーダーとはなにか」(3/4) (立命館大学教授からの投稿:全文:http://ac-net.org/rtm/No/60 ) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 立命館大学に求められるリーダーの条件とはなにか 川本八郎氏の「リーダー論」を読む 1. 「第1章」の特殊性、それをどのように読むのか 2. 人間形成論、真実、倫理道徳、美 3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか 4. 改革への推進母体の創造と手法 5. 「大学行政学」の構築は何をめざすのか? (続き) 4. 改革への推進母体の創造と手法 話の歯車をすこし戻そう。川本八郎氏は常に立命館の研究教育管理 運営を担う高い専門性をもった「アドミニストレーター」の育成と 立命館学園の戦略的適応を問題提起してきた。その切り口は一般の 職員教員と異なる経営陣のあるべき姿であった。この問題提起は、 日本の企業が抱える課題、「失われた10年」の日本企業の経営課題 と多くが重なる。後者は否定的な例として考えられるが、前者はい わばそれなりに成功した例と言えるかもしれない。だから「カリス マ性の神話」が生まれる。そこで、以下では後者の総括から前者の 問題点を摘出する作業を行っていこう。 人本主義経営学者の伊丹敬之氏は、マスコミに流布されている日本 企業の「失われた10 年」の原因は悪平等な日本型経営であるという 説を否定する(伊丹敬之他編『リーディングス 日本の企業システ ム第2巻企業とガバナンス』有斐閣2005年)。平等な日本型経営の 「オーバーラン」説である。この説は成果主義賃金を導入し、教員 の研究費の引き上げを断固拒否する常任理事会の姿勢ではなくむし ろ、その背景的認識とだけ一致する。では何が問題か。伊丹氏によ れば日本企業の経営には3つの構造的不足が問題であった。3つの 「不足」とは、(1)新しい企業が生まれにくい、という意味での 不足、(2)トップ・マネジメントのキャパシティ、パワー不足、 (3)ホワイトカラーの鍛錬不足、である。日本企業がこの3つの 不足を抱えながら、発展してきたのは、基本的には日本企業の現場 の強さゆえである。立命館の例におきなおすと、これまでのダイナ ミックな発展は、現場を支えるシステムを構築してきた現場の教職 員の優秀さということになる。それを川本氏は半ば認識しようとし ない。 もちろん、伊丹氏は歴史転換期のトップ・マネジメントが極めて重 要であると主張する。この点では川本氏と認識を同じくするだろう。 しかし、認識の方向が違う。川本氏は、「1教員、1職員と常任理 事、理事長を一緒にしてはならないのです。今、日本はそうなって います。その責任の重さと責任の重要性を構成員は自覚していない、 何でも平等で何でも画一主義ではないですか。なにも改革はすすま ないではないですか。それはその責任をもっている人たちのことを 重視しないからです」(「抜粋」)と主張する。しかし、この主張 は2つの欺瞞によって成り立っている。日本企業社会のなかで企業 のトップと平社員が同じに待遇されていることはありえない(第1 の欺瞞)。ここでも一般的風説によって論理を運ぶ川本氏の論法が ある。さらに、日本の企業、官庁の不祥事を率直に観察すると、ヒ ラの構成員がトップを重視しないからではなく、トップのマネジメ ントが犯す犯罪、トップとしての管理能力不足が決定的である。む しろヒラの構成員がトップをあまりに「重視」して、批判的意見を 発することができない点にある。わが立命館でいえば、常任理事会 で理事長と総長が大声でわめき、常任理事が発言できない姿がそこ に重なって見える。つまり、改革がすすまない原因を自分たち以外 の「ヒラ」の教職員にもとめている。自分たちはきちんとしたトッ プの自覚をもってやっているのだけれども、他のものは自覚と危機 意識がたりない、と。これは明らかに第2の欺瞞である。 伊丹氏の分析はそれと異なる。優れて世界的なトップ・マネジメン トへの需要と供給の両面から問題を抑える。需要面では早すぎるス ピードで世界のトップランナーに日本企業がなってしまったので、 「急仕立てのフロントランナー」のマネジメント、「哲学なきフロ ントランナー」のマネジメントになってしまった。それは日本や平 均的日本人が駄目だからではなく、日本の客観的な位置がそうさせ たのである。立命館も全く同じ局面にある。それは「1教員、1職 員」の欠陥を取り上げても主観的にかつ短期間に解決できる問題で はない。 伊丹氏はトップ・マネジメントの供給面も同時に観察する。それは 3つの側面をもつ。(1)80歳代世代は戦後復興に仕事を覚え、 高度成長期に組織のなかのリーダーとして責任を担った世代であり、 その後の世代と明確に経験の豊かさと量で異なるとしている。そこ に今日の企業のトップ・マネジメントの危機がある。同じことは、 立命館大学にも当てはまるだろう。ただし豊かな経験世代は大学紛 争と1979年全学協議会確認の時代をどのように経験しているのか、 その前後で分かれるかもしれない。 (2)第2の側面は、役員就任年齢の遅れ、在任期間の短縮化、個 性豊かな社長が長期政権を維持することがすくなくなったという意 味で、企業の普通のポストの1つになったことが挙げられる(「社長 のポスト化」)。 (3)次に特に問題にしたいのは、第3のシステム疲労の面である。 システム疲労とは日本企業のなかでの人の処遇の仕方、仕事の分担 のあり方の問題である。伊丹氏は、多くの人に平等に機会を与える こと、年齢による秩序を重視すること、現場主義のおもんばかりの 重視が、若い優秀な人材が大きな仕事の場を与える機会を奪い、大 きな絵を描く個性を消耗させる、と指摘する。だからといって、氏 は、多くの人に平等な機会を否定し、年齢による秩序を無視し、現 場主義の軽視をすることがトップのリーダーを育成する道だと意見 しているわけではない。これは「民主主義の中でのリーダーの育成」 という制度的ジレンマとして理解して、単一の解だけで解決できな いと主張している(ひとつの例示として傍系企業や海外子会社のトッ プに注目している)。 以上の伊丹氏の「トップ・マネジメント論」と、先のヘンリー・ミ ンツバーグの「マネジャーの仕事」論はひとつの違いがある。後者 はトップ・マネジメントとミドル・マネジメントの仕事を同一性と いう観点から観察しているのに対して、前者は育成論という観点か ら区別している。 ■立命館大学の経営組織的ブレイクスルー■ さて、ようやくヘンリー・ミンツバーグの第3の論点に戻ることが できる。川本氏のリーダー論=マネジャー養成論を次にとりあげよ う。第1に注目されるのは調査企画室の意義である。マネジャー養 成論の観点から見れば次のように指摘している。 調査企画室がなかったときは、こういうことをしたいと、 関係する部・次長や、課長を呼んで、調査してみてほしい といってから、1週間経っても、1か月経っても出てきませ ん。そこで呼んで聞くと、「わかっていますけれども、日 常のこれがあって、あれをやらないとならない」と、結局 進みません。職員の定数が多いからといって立派なことが できるとは限りません。(「抜粋」) これは「定型的任務とシステムの変革やその不完全性に関連する任 務を組み合わせると、組織がマネジャーを必要」とするというヘン リー・ミンツバーグの、先に紹介した第3点目に重なる。この点で、 立命館大学は経営組織的ブレイクスルーを行った。企画室の設置で ある。「企画室ができたことにより、長期計画を策定するための安 定的な仕組みが整備された」と『大学行政論I』は総括している(強 調は引用者、p.28)。しかし、この総括の奇妙な点にすぐに気がつ く。それは次の点である。 今回の朱雀キャンパスへの本部機能の移転に伴う事務組織の改変で 一番の特徴は、各部局に企画部を新増設し、それを総長事務長室で 統括する形にしたことである。ところが、現在立命館大学で審議が 行われている『中期計画(案)』は長期計画の策定を放棄している。 激動する情勢に対応する長期計画が策定することが出来ないという 理由である。ではなぜ長期計画を放棄したにもかかわらず調査企画 室の拡大が必要なのか。疑問がわく。あらゆる組織にある「成功神 話」の歯車が動きはじめている。だが、問題はそれに留まらない。 先に述べたように、理事長は、「能力のない職員」から企画権限を 取り上げて、企画室に集中させたことを高く評価している。ところ が、今日の立命館大学の現場では、それとは反対に「政策能力の低 下」ということが将来の展望するときさまざまなところで指摘され ている。その指摘は「総合企画室」という政策能力をそれ自身専門 に業務とする部署が生まれているにもかかわらず、である。この評 価の乖離をいかに理解したらよいのか、それも2つ目の疑問としてで てくるだろう。 この点を考えるためのヒントを成毛眞氏から借りてこよう。成毛眞 氏とは、ご存知のとおり、1991年マイクロソフト社日本法人社長に 就任して、「パーシステム・ロイヤリティ」を発案した人物である。 この発案はマイクロソフト社が世界のOSを支配する上で画期的な手 法となった。その彼は現在新しいビジネスモデルを追求して、「イ ンスパイヤ」というコンサルタント会社を経営している。そのかれ はある談話のなかで次のように、日本の企業組織のあり方について 指摘している(金子勝/成毛眞著『希望のビジネス戦略』ちくま新書 2002年)。 彼によると、日本の会社には必ず企画部と人事部がある。人事部は 労組との闘いのなかで出来たもので、必要がなくなっているのに現 在も存続している。他方、コンサル業界では「企画部をつぶせ」と いう言葉がある。そもそも企画部という部署はお役所との折衝窓口 として日本の企業では作られた。厳しい規制があったからだ。大企 業のビジネスは行政という「企画部門」が作り出し、企業内の企画 部はその下請けの存在となった。ところが、規制緩和で「企画部門」 がなくなり、そのため、企業の企画室は、現場と離れて、自分の存 続のために自分で商売の種を探すという新たな役割を担うようになっ た。 この成毛眞氏の日本企業にたいする指摘が当たっているとすると、 立命館大学では(1)人事部ではなく学生部のあり方の根本的再考、 と同時に(2)自己増殖した総長理事長室-総合企画室-各部局の企 画課体制を再考する必要がある。ましてや総長理事長室-総合企画 室が朱雀キャンパスに移転し、現場と離れることを考えると、事態 はさらに深刻となるだろう。 成毛眞氏の指摘は「長期計画の放棄」「政策能力」をめぐる先の矛 盾をきちんと説明してくれる。立命館大学では外部資金が増加する と同時に、企画系の権限は強化された。そこが作成する諸計画は、 もともと現場から発想されたものではなく、外部の「企画部門」が 作成されたもののコピーにしか過ぎない。その作成に現場が関与す ることは排除されているのだから、現場から育った教職員が「政策 能力」を蓄積する道は閉ざされている。他方、企画室系列で働いた 職員は「政策能力」を形成しているかというとそれは元々できない。 現場から切り離された所で仕事を行い、その仕事は国際化を担う行 政の「企画部門」の政策のコピーに過ぎないからである。立命の政 策的文書のほとんどが金太郎飴のような味気のない政策文書になっ ている秘密はここにある。 しかし、次のような反論が帰ってくるだろう。あの時点ではそれし か選択肢はなかった、他にどのような選択肢があったのか、と。こ のような考えは3点で問題を孕んでいる。第1に、「大学行政論」 のなかではその「神聖化」が始まっている。第2に、新しい政策を 創造することと、「企画部門」の政策からコピーされた政策を実施 する早さとスピードの速さ、その実施の応用とが混同されて議論さ れている。第3に、現場で政策立案が出来ない状態であった場合、 経営者は2つの選択が迫らせる。第1の選択は、その職員、部署は そのような能力を持たないものと判断・理解して、その権限と機能 を上部に吸い上げることである。第2の選択肢はその職員、部署は 本来的にそのような能力を持っているが(『マネジャーの仕事』を みよ)、管理の制度的枠組みあるいは特殊な環境的条件のもとで、 それを発揮できない、したがって、現場の日常的業務を一方ではこ なしながら、他方では政策提言能力を育成、形成できる制度的保障 を探求・改革する道である。後者の道は放棄された。改革の源泉を 枯らしているのである。 ところで、立命館大学の政策能力の衰退にかんして川本氏は興味深 い指摘を行っている(「抜粋」)。常任理事会から見て、新たに提 起する政策課題にたいして、反対する教員(や職員)をその政策決 定(あるいはそれに関与する部署)に意図的に参加させ、これを反 対派の口封じに利用したと自慢している。それは政策の合意を取り 付けると同時に、反対論を封じ込めることで政策の円滑な全学合意 と遂行を保障しているかもしれない(そしてそれが経営者としての 手腕かもしれない)。だが、様々な意見を衝突させながら、合意を 構築していくという立命館の伝統を空洞化するものである。改革に 熱心であった教員の改革離れと、ほとんどの全学委員会がほとんど 金太郎飴にように同じメンバーで構成されているところに立命館大 学の将来の危険性を感じる。 (続く) ============================== 編集発行人:辻下 徹 Toru Tsujishita ( BKC 教員 ) 連絡先:tjst@rtm.ac-net.org