立命館学園で働く方々へ Dear colleagues, 「(引用文は)教員の研究教育分野とは異なる「教育 研究分野」が存在すると主張しているのである。 それを大学教員は担えない。職員が担うべきであ る。教員の教育研究はそもそも「個人的」、その 意味で「私的なもの」であり、それとは違う、大 学における「公的なもの」=大学の「理念とミッ ション」は職員が担う、と主張する。これも悪し き二分対立法である。それ以上に、これは教育・ 研究プロデューサーを担いたいと望む職員による 大学内クーデター宣言である。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「立命館大学に求められるリーダーとはなにか」(完) (立命館大学教授からの投稿:全文:http://ac-net.org/rtm/No/60 ) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 立命館大学に求められるリーダーの条件とはなにか 川本八郎氏の「リーダー論」を読む 1. 「第1章」の特殊性、それをどのように読むのか 2. 人間形成論、真実、倫理道徳、美 3. 大学組織の問題点をどのように理解するのか 4. 改革への推進母体の創造と手法 5. 「大学行政学」の構築は何をめざすのか? (続き) 5.「大学行政学」の構築は何をめざすのか? 最後に2冊本のまとめ、終章をみることにしよう。 この章を川本八郎氏のリーダー論として取り上げることに多 少のためらいがある。そのためらいは次のようなことから発 生している。つまり、この終章のオリジナル原稿は『大学時 報』2006年1月号にのったエッセイ論文「「大学行政学」と は何か」である。それが加筆・修正されている。終章とオリ ジナルを比較すると、主張と論点の運びは全く同じであり、 主に事例としていくつかの情報が付け加わっているにすぎな い。それゆえ終章はオリジナル原稿をそのまま掲載したと理 解できる。ただし題名が変更になって「「大学行政学」の構 築をめざして」と変更されている。変更されたタイトルから は実質的内容の変更、前進があった印象を受ける。だが、実 際はまったく同じである。その点はエッセイの最後に注釈し てあるのでまったく問題ではない。ではなぜ躊躇がうまれる のか。 ■ひとつのなぞ:終章の本当の著者は誰なのか■ 実は、オリジナル論文の執筆者は伊藤昭、伊藤昇、近森節子 の3氏であるのにたいして、「終章」は川本八郎、伊藤昭、 伊藤昇、近森節子の4氏となっている。これをどのように解 釈したらいいのか。考えられる仮説は以下の通りである。例 えば、第1節「トートロジーかアイデンティティか?」では 学問が分枝する例として「建築学の場合であれば、建築デザ イン学、・・・・鉄骨学などがある」と加筆されている。そ のような仔細な加筆をわざわざ川本氏がやったとは思えない。 次に考えられるのはオリジナル論文のアイデアは川本氏であ りながら、他の3氏が代筆したケースである。だが、代筆に 3名もの著者名が必要だと思われない。ではなぜ川本八郎と いう名前を使わなかったのか。『大学時報』という雑誌の性 格から理事長名が出せなかったのか。『大学時報』がそのよ うな雑誌だとは思えない。では反対のケースは想定できない か。オリジナル論文のオリジナリティは伊藤昭、伊藤昇、近 森節子の3氏にありながら、川本氏が理事長であり、大学行 政研究・研修センター長でありかつこの2冊の編集責任者で あるという理由で自分の名前を4氏の順番の最後ではなく最 初に記入した。このような仮説的解釈も成り立つ。いずれが 真実か分からない。川本氏に説明が求められるだろう。最後 のケースであれば、学術の世界では常識的にありえない。そ れは川本氏のいう「教養」に基づく行為なのか。 ■「大学行政学」とはどのような学問か■ 話題が脱線したので、本論に戻ろう。終章の内容は、成立の プロセスがどうであれ、川本氏も合意していることを前提に 議論をすすめよう。終章は最初に「大学行政学」を定義する ことから始める。しかし、その定義は学術集団のための名称 にしかすぎず、定義の模索はトートロジーである。にもかか わらず「大学行政学」という名称を追求するのは「アイデン ティティ形成としての価値」があるからである。ここでわざ わざ「アイデンティティ」という視角を重視した理由は後に 明らかになってくるだろう。先に進めよう。定義によれば 「高等教育機関における教育・研究機能と組織運営機能との 有機的あり方を実践的見地から探求する学問」が「大学行政 学」である。その中身は3つの系列(部門・分野)に分かれる。 教育・研究プロデュース系、ネットワーク系、マネジメント 系である。この3つの系列は機能系列であり、これとは別の系 列に人事、財務、学務、広報などの職場系列があり、両者の 系列のクロスとして、現実の大学の業務をイメージすること を提案する(経営学一般からすると、このような分類が相応 しいのかは別途検討する必要があるが、ここでは問題にしな い)。 では、クロスした現場で働く職員に何が求められるのか。そ の回答は「アマ」ではなく「プロ」である。「アマ」と「プ ロ」との違いは何か、というと「アマ」はプロセスで評価さ れ「プロ」は結果で評価される。この「アマ」と「プロ」と の区分はまったく通俗的である。スポーツのそれをイメージ するのであれば、両者の区分は職業集団として社会的認知、 制度化の違い及びその結果としての所得のあり方の相違に表 現される。決して結果とプロセスの相違ではない。「アマ」 も常に結果で評価されているからである(アマチュア野球を 見よ)。「プロ」とはプロフェッション、つまり専門的知識、 技能を持つ職業人であり、それを公式、非公式に社会的に認 知されたものを示す。自分がプロであると宣言しただけでは プロになれない。この点は後の議論との関連で重要である。 さて、社会的に認知されるプロの内容とはなにか、それが次 に問題である。それを「職能とプロフェッション」の項目は 明らかにしている。ここでは職能(=職務遂行能力、日本の 賃金体系の基準とされる)とだけ表現しないで「職能とプロ フェッション」としたことが味噌である。大学職員一般では なく、「アドミニストレーター」と呼ばれる職員の職能がプ ロフェッションであることの理由は3点ある。第1に、業務の 高度化、国際化と広がり、複数の部署の協議と政策提起であ る。そのためには専門的知識とネットワークが必要となり、 そのような人材を育成する。第2に、大学の組織と制度と人 との関係性を明らかにすることとされる。ここの根拠は極め て不明瞭である。職能としてのプロフェッション性といって も、職員論や管理職論のうち経営学や組織科学とは異なるも のが存在し、何かが残るのか全く不明である。さらに分から ないのが第3の根拠である。専門職員とアウトソーシング問 題である。専任職員でなければならない職能は何か、という 基準を「状況分析力、問題発見力と政策提示能力」だとする。 ここにはアウトソーシングされた仕事の大学におけるあり方 についての考察は何もなく、採用の際に専任職員と非専任職 員とを選別する基準として明示し、それと混同している。と ころがそれら諸能力が「大学職員としての直感力」だとする と、プロフェッション性が必要とされる職務とはいったい何 なのか、分からなくなってしまう。 以上から判断すると、プロフェッション性の根拠となりうる のは第1の論拠ということになる。しかし、業務の高度化、 国際化と広がり、複数の部署の協議と政策提起とはいまや一 般のビジネス社会で言われている内容であって、それが特段 の社会的認知を必要とするものかどうか、疑問がすぐにでて くるだろう。 さて、このようなプロフェッションをもつ大学職員の業務に は2つあるとされる。経営スタッフとしての役割と教育研究 を企画推進する業務であり、それを「適切な比重」でそれぞ れの「業務」に落とし込んで「専門性」を高めることである。 次の点を注意されたい。医者というプロフェッションは生命 =人間そのものの治療という業務の独自性ゆえにプロフェッ ショナルと認知されている。それとは違って、終章では業務 内容それ自体ではなく、諸業務の結びつき=「適切な比重」 のあり方が専門性の中身となっている。先に指摘した「教育・ 研究機能と組織運営機能との有機的あり方」が焦点となる。 その専門性は教育研究プロデュース系、ネットワーク系、マ ネジメント系の機能の組み立て具合によって測定されるとさ れる。では、専門性と呼ばれるほどの、3つの系の組み立てを 担保する原理とはなにか。明確な指摘はない。そんなものは 不必要なのか。そこでは、ひとつひとつの業務を明らかにす ること、「業務の解明の固まりが大学行政学ということに収 斂していく」と逃げ道が作られる。もちろんそのような「学」 (「論」ではない)が既存のアカデミズムの世界から承認さ れることがないことは最初から分かりきっているのだろう。 だから、同じ関心をもつコミュニティーを作るために「学」 を立ち上げて学会を作り上げたい、と主張する。そのコミュ ニティーにとっては先に述べたアイデンティティ形成がもつ 意味が重要となる。それを立命館が作り、その中核に立命館 がなると宣言する。しかし、誰でもがそのメンバーになれる わけではなく、大学人あるいは知識人としての属性を持って いる人のみが許される。その大学の知識人とは大学教員のこ とではなく、職員をさしている。その職員は「それに値する 教養を身に」つけることが究極的にはプロフェッションとし ての価値を創造する、という結論になる。この結論では9章 までの仕事の専門性に関する素晴らしい成果と議論がすべて 吹っ飛んでしまっている。だが、その議論とは別次元で、皮 肉なことに、大学改革という名のもとに、立命館大学では学 生の教養教育の解体が進行している。 ■教育研究プロデュース系=大学内グーデター論■ 「大学行政学」は職員のもつ教養を基礎にして教育・研究機 能と組織運営機能との「有機的あり方」を究明する「学」で あるという主張がされてきたが、「大学行政学」の「学」と しての根拠はそれには留まらない。もうひとつ重大に論拠が 示されている。それは「研究・教育プロデユース系」論であ る。「大学行政学」が実践的見地から探求する3つの系列の ひとつである。 3つの系列とは、教育・研究プロデュース系、マネジメント 系、ネットワーク系である。マネジメント系とは財務、人事 であり、ネットワーク系とは産学連携、校友政策、寄付政策 などの広報である。後ろ2系列は職員によって明確に担われ ている。では職員が担う教育・研究プロデュース系とは何か。 その主張点を正確に再確認するために以下全文を引用してお こう。 純粋に個人的関心でのみ学問(教育・研究)に取り 組むのであれば、従来通り教員だけでこれを担えば よい。教員の研究は、基本的には、個人の裁量ある いは個人技の世界に委ねられているのである。これ に対して、高等教育機関は組織である以上、それを 形成する理念とミッションを確実に達成しなければ ならない組織的課題が発生する。つまり、個人技に 左右されることなく、組織力をもって一定の水準で 安定的に供給されるべき教育・研究分野が存在する はずである。この分野のプロデュースを職員集団が 担い、開拓するのである。そのような専門家、いわ ば教育・研究プロデューサーを意識的に育成するこ とが今後ますます必要となってくるだろう。 引用文では不明な点がある。立命用語のなかにカタカナの氾 濫があるが、教育・研究プロデュースの「プロデュース」と は何を意味するのか。英語では大別して産出、生産の行為そ のものと、舞台監督として劇を演出、上演することを意味す るだろう。前者の意味で理解するのであれば、教育・研究の 産出、生産とは教育研究活動そのものであり、これを職員が 担うことは大学のルール違反である。したがって前者の意味 では職員が教育研究活動そのものに従事することはできない。 したがって、後者の意味、つまり舞台監督として劇を演出、 上演することを採用しているのだろう。この説を採用するた めに、引用文ではひとつの論理的工夫がされている。それは 教員の研究教育は個人関心、個人技、個人裁量であるという 断定と仮定である。その「純粋な」個人関心、個人技、個人 裁量である教員の教育研究を大学の営みから論理的に捨象す れば(10年近く維持されている研究費、1ヶ月のボーナスを カット、その資金を他の学園課題に回すことをみると現実的 にも「捨象」「縮小」したいのだろう)、そこには「一定の 水準で安定的に供給されるべき教育・研究分野」が存在する (あるいは「存在するはずである」)。職員が行う仕事が教 育的側面をもつとか、あるいは教育研究支援的側面をもって いるとか主張しているのではない。教員の研究教育分野とは 異なる「教育研究分野」が存在すると主張しているのである。 それを大学教員は担えない。職員が担うべきである。教員の 教育研究はそもそも「個人的」、その意味で「私的なもの」 であり、それとは違う、大学における「公的なもの」=大学 の「理念とミッション」は職員が担う、と主張する。これも 悪しき二分対立法である。それ以上に、これは教育・研究プ ロデューサーを担いたいと望む職員による大学内クーデター 宣言である。 では、ほんとうに大学職員がマネジメント系、ネットワーク 系の仕事ではなく大学の「理念とミッション」を実現する仕 事を監督できるのだろうか。舞台監督であれば俳優=教師を つかって、演劇=教育・研究をプロデユースできそうである。 しかし、それはレトリックのもつ幻想である。立命館大学が 好んで用いる「世界水準」を観察するならば、サッカーを例 にすれば十分であろう。サッカーの選手の出発点はすべて個 人関心、個人技、個人裁量である。それなしには試合は成り 立たない。かれらはサッカーチームの「理念とミッション」 からかけ離れた試合をやっているのだろうか。確かに一面で は個人技と試合を楽しんでいる。だが、個人関心、個人技、 個人裁量であるからといって誰も批判できない。それがなく なるとサッカーは魅力を失うだろう。同じようにありとあら ゆる教育研究活動も個人を出発点としなければ絶対に成立し ない。 もちろんサッカーは集団スポーツであるから、監督とその周 囲にスタッフが必要である(オリンピックなどを観戦すると、 最近は個人技のスポーツでも必要である)。スタッフには各 分野で様々な能力、高い能力・才能を備えた人材が集ってい る。両者の調和、ハーモニーがあって初めて世界的な試合に 勝利することができる。ここには二分対立法はない。世界的 レベルあるいは準世界的レベルのサッカーの経験がなく、ア マチュアとしての経験しかないスタッフが監督あるいは監督 に準ずる役割をすることは不可能である。そのようなチーム は悲劇である。 だから、「大学行政論」の創造が必要であると主張したいの だろう。だが、「それに値する教養を身に」つけることが究 極的にはプロフェッションとしての価値を創造するような 「大学行政学」で、「世界水準をめざす」立命館の教育・研 究を監督する職員がどの程度育成されるのだろうか。これが 成功すると、画期的な「職員私立大学」が誕生するだろう。 それはきっと世界的な大学イノベーションになるだろう。 おわり 現在、21世紀初頭の立命館大学のありかたを左右する新学長 選出過程が開始されている。規定によれば、その総長候補者 推薦委員会の議長に理事長が当たることになっている。同じ く規定によれば、同時に、総長候補者選考委員会のメンバー に理事長がなっている。まさにプロデューサーである。これ までの分析は理事長がはたして新学長選出のプロデューサー の資格があるのか、疑問を投げかけている。 もう一度理事長の言を思い起こして欲しい。「大学の指導部、 責任者という大学の歴史的・社会的使命を持っている人たち が一番基本となるの人間を選び採用する時に、そのことに携 われないのです。どんな組織があろうが、どんな規則があろ うが、その学校をよくするかしないかは教職員の力量で、人 間です。その人間を選ぶのに学長が携われないなど、組織で はないと私は思います」この文章のなかで、「人間」を「総 長」にそして「学長」を理事長に置きなおして読み直して頂 きたい。理事長は自分の願いを実現する一歩手前まできてい る。しかし、その理事長をリコールしたり、罷免したりする 手続きはまったく存在しない。この非対称性がもたらす結果 はすでに日々の生活のなかで感じることができる。その行き 着く先はどこなのか。これまでの考察はひとつの考える素材 を与えてくれている。 (終) ============================== 編集発行人:辻下 徹 Toru Tsujishita ( BKC 教員 ) 連絡先:tjst@rtm.ac-net.org