これは暴力行為一般を批判する声明ではないようです。一般的な意味での暴力行為批判は、《第4に》の前半と第7段落の終わり当たりに述べられているだけですし、なによりも、暴力行為一般を批判する声明ならば、学生部長声明でこと足りますから、このように仰々しく署名者を並べる必要はないでしょう。
それならば、この声明は何を問題とし、それにどう対応しようとしている声明なのでしょうか。
この声明は事件を「TA の教育《業務遂行》に対する暴力行為」と捉え、「大学は、教育に当たる教員と教育補助業務を行う学生・院生のスタッフに対して、その安全を守り、教育環境の適正化を行うべく責任ある対応を行う」ことを宣言し、「(学生は)教員、TA、学生のいずれにより注意がなされたかを問わず無条件でしたがわなければならない。」としています。こうように、教育を行う者と教育を受ける者とを対立的に捉え、一方は他方に無条件に従えと高圧的に宣言することが、教育の現場において問題を解決する有効な方法でしょうか。違和感の第1はここにあります。
声明はまた、「近年大学内でTA、レインボースタッフなど大学スタッフとして院生・学生が一般学生と対応する際に、一部の学生の中に、場合によっては身の危険を感じさせられるような応対や侮辱的な言動があると言う声も寄せられている。」ということを指摘しています。《身の危険を感じさせられるような応対や侮辱的な言動》が頻発していることが事実ならば重大な問題ですが、声明は《と言う声も寄せられている》程度にしか受け止めていなくて、大学がそれに対してどのようは処置を講じたのか、最低限の行為である事実確認を行ったかどうかさえ分かりません。これが、違和感の第2です。
そして声明は、唐突にも《多文化共生》へと論点が移しています。風聞によりますと、暴力行為を受けた TA は外国人であるといわれていますが、そのことで即《多文化共生》が論点となるものではないでしょう。私語を注意され暴力行為に及んだ学生は、注意した TA が外国人だから暴力行為に及んだのでしょうか。それとも、注意した TA が日本人だろうが外国人だろうが、注意されたから暴力行為に及んだのでしょうか。このことが声明からは一切分かりませんが、もし後者ならば、すなわち、被害を受けた TA はたまたま外国人であったに過ぎないのであれば、この事件から直ぐさま《多文化共生》を論じることは、外国人が加害者である犯罪事件の報道に、「だから外国人は云々」と排外的に反応するのとコインの裏表に過ぎず、外国人を一人ひとりの個人として捉えず、十把一絡げに「外国人」として捉える、危険な思想と言えましょう。これが、違和感の第3です。
発端となった私語問題については、「私語問題に伏在する深刻な問題点についての的確な認識が教員と学生のなかで不十分である」と現場に問題を押しつけた上で、「本学は、今後私語問題に対して当然のことではあるが厳格かつ適正に対処していく」と恫喝するのみです。一人ひとりの教員は、私語が自分の教室だけのことなのか、大学全体に広がっている問題であるのかさえ分かりません。実態の把握と、その認識の共有化から取りかかるべきです。恫喝でこと足りると考えに違和感を禁じ得ません。
なお、野路便りで非常勤の方が「私語のマスプロ原因説」を述べられましたが、それはご本人の経験と若干の人々の話からの帰結であって、大学全体における私語の実態を踏まえての発言であったかどうかは分かりませんが、「軽々に結論をだすな」とたしなめるよりも、大学に対して実態把握を迫ることの方が先決でしょう。