松下 圭一著「政治・行政の考え方」岩波新書 552 ISBN 4-00-430552-7より |
p46「1990年代に入って、最初にみましたような国の行政劣化、財政破綻があきらかになっただけでなく、かつては「国家」をになったとされる省庁官僚中枢での汚職の構造もさらけだされています。政治家の票と金、また団体・企業の利権、加えて官僚○Bの天下り、という政官業複合を自己増殖していく個別施策の膨大なムダは周知となってきましたが、さらに、閉鎖国家体質による世界政策基準への対応のタチオクレまでふくめて、省庁官僚は日本の市民からだけでなく、国際的にもひろく批判をうけるにいたっています。
1970、80年代にみられた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「日本の経済奇跡」の演出者という官僚のイメージは、バブル崩壊後、1990年代には180度くつがえってしまいました。日本の官僚自体、かつては政官業複合の中枢として、自己過大評価をしてきました。だが、この自己評価もバブルとなってはじけたのです。しかも、そこでは、あらためて、日本の政治における官治・集権政治の現実が赤裸々にうかびあがってきました。 政治の対立軸は、戦前からの資本主義・社会主義、とくに戦後はこれが冷戦によって加速され一たんは「保守・革新」に整理されます。だが、この保守・革新はいずれも同型で、今日、本来の対立軸は、明治にはじまった国家による近代化が日本なりに達成された結果、「官治・自治」にあることが理解されてきたといえます。 1960年代にはじまり1980年代にはっきりするのですが、工業化・民主化、つまり近代化の日本なりの達成による都市型社会への移行を背景に、この近代化にとりくんだ官僚主導の官治・集権型社会にふさわしい市民を起点とする自治・分権政治への移行が、1990年代にはいって政治・行政改革というかたちで、日本の戦略課題となってきたのです。 歴史のアイロニーですが、官僚主導の国家による工業化・民主化が、侵略・敗戦といった曲折をヘながら日本なりに成果をあげたからこそ、官僚主導の明治国家の解体・再編が日程にのぼったといってよいでしょう。政治・行政では地方分権、産業・経済では規制緩和、さらに国レベルの国会・内閣の改革あるいは省庁の再編、ついで日本の社会構成全体の<分権化・国際化>が、今日、ラジカルに問われるにいたったのです。 敗戦直後、たしかに、日本国憲法は個人自由・基本人権・国民主権、ついで議会政治・法の支配・権力分立という普遍基本法原理を成文化しました。この普遍基本法原理はけっしてアメリカのオシッケではなく、現代政治の普遍原理です。にもかかわらず、戦後もやはり後発国現実が反映するため、明治国家として構築され、戦時体制で強化された官僚主導の官治・集権政治が、経済復興、経済成長をめざしてつづいたのでした。田中内閣から変わりはじめますが、戦後もつづく多くの首相や閣僚の官僚歴を想起したいと思います。いわば外装の戦後民主政治の中核には、戦前以来の官僚政治がつづいたのです。」 |
p50「論点をするどく出しますが、明治以来、そして戦後の日本国憲法の解釈においても変わらなかった、しかも国家からの「派生」ないし「保障」というかたちで講壇法学、官僚法学が正統化しつづけていた、国にたいする自治体の従属は、終わりとなってきたのです。自治体は、その独自課題領域では、国の立法権・行政権から自立した立法権・行政権をもつ「政府」となるのです。自治体と国、もちろん官治体としての市町付と県の間も、いわば「政府間聞係」となり、その間の対立の解決は政治調整ついで司法手続によることになります。 とすれば、機関委任事務のトリックによる職務執行「命令」を国は自治体に出せませんし、自治体にたいする指揮・監督もできません。今後、法文化をめぐって曲折はありますが、いわゆる機関委任事務の代替である「法定受託事務」をふくめて、「政府間関係」としての職務執行「調整」がはじまることになります。 としますと、市町村、県がそれぞれ自治体政府として自立しますから、これまでの国家主権による国家統治という考え方は崩れていきます。つまり、ひろく戦後もつづいてきた「講壇法学」(とくに憲法学、行政法学)、さらに「官僚法学」による、日本国憲法の明治憲法型運用が終わりとなるわけです。」 |
p60
今日、日本の内閣の現実は、憲法の基本型をなる国会内閣制というよりも、明治憲法以来の官僚法学によって理論武装している官僚内閣制というべきです。この官僚内閣制の現実はつぎの第3節で詳述しますが、国会との関連のみをみても、問題は明確となります。 まず、国会の政党構成の変化によって、内閣が変わっても、省庁はその個別施策について、かならず政策の(継続性)を強調します。かつては行政決定の「公定性」「強制性」をのべていましたが、私の批判もあって、今日ではあまりつかわれません。この継続牲の強調は、自民党永続政権が終ってのち、過渡的な連立政権段階に入ってはっきりした事態です。継続性とは「内閣は変われど省庁は変わらず」を意味します。 各省庁は事務次官を頂点に、OB官僚をふくめた自己完結性をもつ人事序列をつくりあげるとともに、天下りの必要もあって自治体定席ついで外郭法人・団体・企業を自己増殖させています。これこそが、行政劣化、財政破綻つまり政策・制度の硬直化をうみだした主因です。1990年代に、地方分権・規制緩和、さらに省庁再編という政治・行政改革が日程にのぼった理由はここにあります。 もし、国会の議席変化によって内閣が変わるとき、省庁の次官、局長クラスが変わるという政治任用がおこなわれれば、当然、政策転換がおきますが、日本では、事務次宮を頂点とした組織の自己完結牲があるだけでなく「行政の継続性」というかたちで、政策転換を抑止するわけです。ここが、国家主権型権立分立論の秘儀です。 憲法手続によって国会は首相をえらび、首相が内閣を組織します。だが、この内閣は、官僚法学による国家統治型権力分立論をふまえるため、母体たる国会からきりはなされて、内間・省庁一体の行政権とみなされ、立法権のみと考えられる国会と向きあっていきます。事実、戦後の歴代首相の自叙伝、日記などをみますと、国会をいかに「のりきる」かという心理をもち、国会の「中」での自由討議から争点をあきらかにして政策・制度改革をおしすすめるという態度はみられません。首相ないし閣僚は省庁のトッピングとなって、戦前の宮中席次では官僚の課長級とみなされていた国会議員よりもエライはずだと思いこみ、国会の「外」にでてしまうわけです。 そのうえ、任命権をもつ各省庁大臣さらに内閣も、省庁人事に介入しない慣行がつくりあげています。ここが、行政権内でも内閣・大臣にたいする官僚優位という官僚法学の秘密です。政治的にたえず変わる内閣・大臣にたいして、省庁は内閣から自立した自己完結性・自己継続性をもつことになります。」 |
p77
「だが、閣僚は、日本国憲法でいう、「国務大臣」という意識はなく、明治憲法型の「各」省庁大臣にとどまっています。ここからも、省庁のトッピングとして国会の「外」にたつことになり、かえって省庁の大臣室にとじこめられて、省庁内でも孤独です。 その間、省庁官僚は、逆に、「大巨は去っても省庁は残る」というかたちで、まず、「省庁設置法」で権限・財源の無限拡大をめざしてきました。のみならず、省庁官僚は省庁○Bをふくめて、省庁の外郭法人・団体・企業に天下り配置、業会を組織する「業法」や有資格職を組織する「士法」による圧力団体の培養、省庁官僚○Bの審議会委員への任命、省庁官僚若手の国会議員への送り出しをすすめます。さらに、省庁出身議員を中心とした族議員の育成、省庁に配置される記者クラブでの広報、また学者、評論家のとりこみがめざされます。こうして、省庁はみずからの政策資源をひろげながら、大蔵省をはじめ省庁それぞれの大小、強弱の差はあれ、独立コンツェルンとして自己増殖してきました。」 |
p80
「なぜ、いま、内閣と省庁との分離が問いなおされるのでしょうか。くりかえしになりますが、今一度、次の三点にまとめたいと思います。 第一に、明治以来、閉鎖性をもつ国家観念で神秘化されてきた内閣・省庁が機関車となっておしすすめてきた、官治・集権政治による<近代化>がすでにおわり、自治・分権政治をめざした、国会、内閣ついで省庁の関係の再構築こそが政治の緊急課題になってきた。 第二には、明治のころは明治国家をつくった元勲などが省庁を掌握し、大正以降になると政党内閣、戦時内閣、また戦後もふくめて官僚の大先輩が内閣の中枢を構成したから、省庁にたいして威信をもつことができました。だが、田中内閣以降になるとだんだん、とくに連立段階以降、官僚歴をもたない首相、閣僚が多くなる。このため、あらためて、事務次官を頂点に省庁○Bをふくめた組織・人事の自己完結性をもつ省庁と、政治交替する内閣ないしほぼ一年毎に量産される閣僚とをどうつなぎ、どう責任を区分けするかが問題とならざるをえない。 第三に、都市型社会となるにつれて、ことに「国際化」あるいは「分権化」をめぐって、明治以来の国内むけ国家統治をめざした旧来の省庁ではもはや対応できなくなってきたばかりか、とくに1980年代以降、バブル経済の演出・失敗、あるいは国際状況への見透し欠如が、行政劣化として決定的となり、しかも、汚職のみならず財政破綻も顕在してきた。」 |