p168
公務員の職場の改善を
民間労働者だけでなく、公務員の職場でも時間のゆとりが夫われている。厚生省職員の長時間労働については1章5節で触れたが、国家公務員が加入している労組である国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)が、通産省・農林省・運輸省・厚生省・労働省・環境庁などの職員を対象におこなったアンケート調査によれば、月50時間以上の残業者の割合が、1990年、92年、96年の各調査ごとに増加している96年では、24・1%の職員が月50時間以上の残業をおこなっていたのが、92年には25・8%となり、さらに96年には29・6%にもなった。96年には、月100時間以上の残業者が10・7%にも達している。
このような残業実態は職員の退庁時間とも密接に結びつき、96年には平均午後8時以前に退庁しているのは45%にすぎず、午後11時以降に退庁する職員が18.2%にも及ぶ。また、大半の職員が手当規定どおりの残業代を支払われておらず、50%以下しか支給を受けていない職員が6割近くにのぼる。休日出勤は、2人に1人がしており、そのうち5割を超える人が休日勤務手当も代休も取得していない。民間の労働行政を監督すべき立場の労働省で、職員の83.2%が手当も代休も取得していないのは嘆かわしいというよりほかない。
それにしても、なぜこれほどまでに長時間労働が蔓延しているのであろうか。前記アンケート調査で、定時退庁ができない主な原因として最も多く挙げられているのは「業務量に見合う人員確保がされていない」という点である。国家公務員の定員は、1968年以来1996年までに約4・3万人が減少している。定員減は主として地方勤務で、本省庁の定員は全体的に現状維持ではあるが、行政事務量がこの30年間で増大かつ多様化しており、1人当たりの仕事量が大幅に増えているのである。たとえば、通産省の労組(全通産本省支部)の調査によれば、『通産6法』における通産省の所轄法が68年には143だったものが95年には130となり、54%も増加している。通商産業省をもじって「通常残業省」といわれるが、その恒常的残業の背景には、こうした担当業務量の増大がある。
したがって公務員の職場においては、業務量の削減と人員増の両面から、具体的改善策を考案し実施していくことが必要ではないだろうか。
公務員の業務量の削減のためには、議員と省庁職員との関係を見直すことも必要である。議員のなかには、本来自分がなすべき実務を職員にやらせたりして、職員の忙しさを一層助長する者もいるが、このような悪しき慣習はなくすべきである。3章149ページで、地方公務員が自治体議員の理不尽な要求などから精神的肉体的負荷を受け自殺に至った事例を紹介したが、国会議員に関しても類似のわがままな行為があり、速やかに改善すべきである。
国家公務員の人員に関しては政府により一層の削減方針が打ち出されているが、公務員の人員増を主張することが絶対的にタブー視されるような現状は、正常ではない。行政の無駄を省くことと必要な人員を確保することはともに必要なことである。また、公務員の労働に間する意識改革が、公務員の側でも国民の側でも必要となっている。
日本の国民の意識のなかには、公務員イコール全体の奉仕者という観念から、公務員が夜遅くまで働いても当然という発想がどこかにある。もとより、国民のために誠実に職務を遂行することを求めるのは当然であるが、公務員がその健康や文化的な生活を失ってまで国民のために尽くすことを求めるのはおかしい。
また、公務員自身に、社会的に意義ある仕事をしているのだから働き過ぎても仕方がない、との意識があるとすれは、そのような美徳観念を考え直す必要がある。もともと、官民を問わず、社会的に意義のない仕事などは存在しない。民間の仕事は利潤追求の仕事で、公務は意義のある仕事というような区分は1面的にすぎる。健康でゆとりある労働は、官民問わずすべての人々の共通の権利であり、共通の願いでなければならない。
忙しいとは、心を亡くすこと
相次ぐ官僚の不祥事に怒りを覚えている者にとっては、「公務員にもゆとり」と言われても釈然としない感情が残るかもしれない。だが、このような不祥事を起こしてしまうのは、「奴隷以下の労働」(ある官僚の言葉)と言われるような過重な勤務も1因になっている。国家公務員I種試験に合格し官庁に入るいわゆるキャリア官僚は、1年目から連日夜12時を過ぎても働くのがあたりまえの実態で、かつ残業手当はほとんどもらえない。このため、月収20万円程度で月200ないしご100労働時間にも及ぶ仕事をしており、時給計算をすれば1時問当たり1000円も下回ることになる。このような異常な長時間労働を長期間続けると、倫理観が次第に麻痺してしまうのでなかろうか。
また、あとを絶たない企業の不祥事の背景にも、民間職場での異常な働き過ぎの現状がある。よく言われることだが、漢字で「忙しい」とは「心を亡くする」と書く。日本人全体が、もっと時間のゆとりをもつことが、行政や企業活動を健全な方向に導いていく重要な条件にもなると思う。
p203
親亀(=経済力)あっての子亀(=ゆとり)という発想は、実践的には個々の労働者の会社への従属性を強めた。「会社人間」といわれるような企業と労働者の関係を見直そうとしているときに、企業の経営危機がおとずれ、みずからがリストラの対象にならないようにと、これまで以上に「会社人間」になっている人もいる。
バブル経済期には、「より良い業績をあげ、より昇進し、より賃金をあげるため」に、労働者は過重な労働を続けた。いまは、「業績をさげないように、リストラの対象とならないように」と、労働者は過重な労働を続けている。プラスをめざして働くのでなく、マイナスにならないように働かなければならない。この精神的ストレスの増大が、過労死、そして過労自殺を生み出しているのである。
p183
グローバル経済の時代に
これまで、過労自殺をなくすために、「失敗が許容される職場」「義理を欠いてもよい職場」「失業してもやっていける社会」が大切だと述べてきた。
これに対して、「そのような甘い考え方では、きびしい国際競争の時代に生き残れないのでは」と反論する人がいるかもしれない。だが私は、逆にグローバル経済の時代だからこそ、過労自殺が生まれるような異常な職場、社会を改善することが強く求められていると思う。
経済のグローバル化は、もし人間の理性にもとづく適切なコントロールがなければ、国際規模での、歯止めのない食うか食われるかの競争をもたらす。一国での労働条件の低下は、それが競争に有利な条件となれば、世界的な規模で波及していくことになってしまう。弱肉強食、不平等の拡大、失業の増大がグローバルに展開していくことになろう。世界各国の労働組合の連合組織である国際自由労連(ICFTU、1997年2月現在137か国・1億2400万人)は、「経済のグローバル化は、不完全就業、失業、不平等の拡大などと同意語となっている」と警告を発しているが、これは決して誇張ではない。
それだけに、世界有数の経済大国である日本で、労働者のいのちと健康が脅かされるような労働条件が続くことは、日本のみならず世界の職場に大きな悪影響をもたらすであろう。そして、その悪影響は日本に還流し、ますます日本の労働者自身の首をしめることになろう。逆に、日本でゆとりある職場を実現していく努力は、国際的にもおおいに歓迎され、長期的には世界各国での労働条件の改善に貢献することになるはずである。
p191
なぜ明朗活発な青年が
一章・二章で述べたように、過労自殺の被災者には、企業に就職してからあまり年月が経過していない20歳代の若者も多く含まれている。中高年労働者だけでなく、このような若い世代までが亡くなっている事実が、過労自殺の深刻さを示している。
20歳代で自殺したというと、その青年は、もともと自殺につながる素因をもっていたのではないか、小さい頃から精神的に弱いところがあったのではないか、との疑問がよく出される。しかし、「過労死110番」の東京相談窓口に寄せられた過労自殺事案で、被災者の年齢が20歳代のケース20件のうち、被災者が会社に入る以前に精神科の治療を受けた経験があったのは、わずか1件であった。精神的に弱いどころか、小さい頃から学生時代にかけて、明朗活発だった青年が多い。サークル活動などでも中心的な存在で、他人との人間関係も良かったケースが多く、実際、葬儀には学生時代の友人が多数参列し、その突然の死に驚き、悲しんでいる。
1章3節の大嶋さんは、テニスをはじめ多くのスポーツに親しみ、また学生の国際ミーティングにも出席するなど、何事にも意欲的な青年だった。4節の木谷さんも、バトミントンのクラブ活動などの課外活動でも大いにリーダーシップを発揮し、友人の多い、明るい青年だった。6節のSさんは、学生時代から福祉問題に関心が深く、仕事への希望に燃えていた。この3人が例外的な被災者のタイプというのではない。過労自殺に至った青年の多くは、彼らと同じような性格・資質をもっていた。だからこそ、彼らを育ててきた両親は、彼らの自殺が業務に起因しているものと確信し、社会的偏見の強いなかでも、労災申請や裁判に踏み切ったのである。
ただ、あえて言えば、明朗活発な性格であるということが、まさに日本の職場にあっては過労自殺に至る一因となりうる。日本の企業は、無理が通れば道理が引っ込む無法地帯のような面を濃厚に帯びている。そこでは、市民社会の良識がそのまま通用せず、逆にそれが激しい攻撃の対象にされてしまうことすらある。明朗活発さは、陰険さが漂う職場の水になじみにくい。上司のねたみを招くこともある。こうしたなかで、青年は、かつて経験したことのない激しいストレスを受けるのである。
また、若者のもつまじめさ、勤勉さは、日本の職場の中では歯止めのない労働につながってしまう危倹性を内包する。日本の多くの企業は、あらかじめ労働者に適正な仕事量を課すのではなく、働けるだけ働いてもらうという考え方である。だから、仮にはじめに与えられた100の仕事を期限内に完了すれば、今度はそれを超える課題が与えられてしまう。その課題を達成すれば、さらに追加の課題が出される。どんなに能力のある労働者でも生身の人間であり、おのずと限界がある。客観的にはその限界を超えてしまっていても、働く本人がそれに気がつかず、あるいは気がついても自分の意思では軌道を修正することができない。こうして、致命的な破綻に至ってしまうケースが少なくない。
企業の実態を知らせることの大切さ
佐高信氏は、魯迅が『墳』の中で「悪人が志を得て、善人を虐待しているときには、たとい公理を叫ぶ人があっても、彼は決してきき入れはしないから、叫びは単なる叫びだけに止り、善人は依然としてひどい目にあう」などと述べているのを受けて、魯迅の息想の中に、「フェアープレーは時機尚早である」という思想を見出す。そして、この思想が日本の会社の横暴に対抗するために必要であると説く。
「フェアープレーは、その精神は確かに理想ではあるが、実際は上から武装解除のために要求されるものである。会社側の横暴にたち向かうには、この魯迅の思想が大切である」
「ウソをつくこと、疑うこと、逃げることを卑怯だと教える日本の学校教育はおかしい。ウソをついたり、逃げたり、疑う、これらは手放してはならない武器である」
(佐高信『佐高信の反骨哲学−−魯迅に学ぶ批判精神』徳間文庫・一九九七年、佐高信・設楽清嗣編著『「管理職ユニオン」宣言』社会思想社・一九九五年)
多くの前途ある青年が過労自殺、過労死で亡くなっている事実を見るにつけ、疑い、十分な警戒心をもって入社していくことの大切さを痛感する。
つぎの言葉は、大学を卒業後、損害保険会社に就職し二五歳の若さで突然死した青年が、生前母親に語っていた内容である。
「タイムカードもなく、残業は給料締切日前日に自分で書いて提出。しかも一か月30時間まで。あとはいくらやってもサービス残業。土曜日も午前中は仕事。たまの休日も、一人で出社している支社長にときおり呼び出される。会社訪間の説明会とは全く違うんだ」
「母さんには分からないよ、俺の気持ちは。いくら一生懸命やっても次にはかならずそれ以上を要求されるんだ。疲れたよ」
「損保会社の業界では、日動火災は六位なんだけど、神奈川だけは一番なんだ。東京海上に越されるな、負けるな。これが合言葉なんだ。とにかく異常だよ、うちの会社は。ハードだよ。母さんには俺の顔見せられないよ。目の下にはくまができてしまっているんだ。疲れたよ。ゆっくり寝たいよ」(全国過労死を考える家族の会編『日本は幸福か』教育史料出版会・一九九一年、早川やす子さんの手記から)
亡くなった早川勝利さんは、「会社訪問の説明会とは全く違うんだ」と家
族に話していたように、会社に入ってから知った実態に驚き、その現実のなか
で苦しみながら働き続けた。
企業が、採用の過程でうそをつくことはもちろん許されることではない。ただ、亡くなった彼には酷な言い方かもしれないが、日本の企業が本当のことを言わないのは、ある意味では常識である。彼が入社した1980年代後半に損保会社でサービス残業を含めた異常な長時間労働が続いていたことも、業界を多少なりとも知っている人には常識的なことがらだった。もし、勝利さんがこうした実態に関し予備知識をもち心の準備をして入社していれば、あるいは悲しい死に至らなかったかもしれわない。ましてや、彼は大学では損害保険のゼミに所属していた。大学のなかで損保会社の労働実態に関しても勉強していたならば、と悔やまれてならない。
日本の学校教育では、こうした企業の実態を正確に学生に伝えることが、大変弱い。大学の法学部、経済学部、商学部では、法律知識や経済知識を教えても、企業内郡のどろどろとした実態をほとんど教えていない。中学・高校段階でも、企業の負の部分に関してあまり触れない。過労自殺が発生している企業には、学生の就職人気ランキングの上位常連のところが多いのだが、その内実がほとんど学生には知られていないのが実情である。
企業の自己宣伝をそのまま学生に流すのでは、中学・高校・大学は教育機関として失格である。授業や教科書で、企業の生の現実を若い世代に伝える努力が教育関係者に求められているのではなかろうか。
p200
一生懸命にという言葉は、教育の場からも労働の場からもなくしたほうがよい。「いのちを懸けて」でなく、「いのちを大切にして」働くことが、いま求められている。」
p206
■「市場教」から脱け出そう■
「"市場"が拒否反応を示している」「"市場"心理が冷えている」「それは"市場"にまかせておくべき」「"市場"が総理の退陣を要求している」……。
いまや"市場"は、内閣総理大臣よりも偉く、全知全能の神様のように言われる。
そして、この"市場"がその力を思う存分発揮できるようにと、規制緩和が声高に叫ばれている。
だが"市場"は、慈悲深い神様ではない。お金が第一の御仁であり、人間のいのちや健康のことはこれっぽっちも考えてくれない御仁である。確かに、より安いものやより便利なものを選び出してくれるという点では、"市場"は、人間の生活のために有益な仕事をしてくれる面もある。しかし、人間が強力にコントロールしなければ、人間のみならずこの地球全体をも滅ぼしかねない凶暴な怪物なのである。
にもかかわらず、いま、日本では"市場"を崇めたてまつる"市場教"が、社会を席巻しようとしている。"会社教"に疑問を感じ始めた労働者に対して、この"市場教"が洪水のように注入されている。そして、その教義にしたがい、多くの人々が身を粉にして働いている。
これまでの会社主義の土壌のうえにもちこまれた市場原理万能主義の思想が、労働者を呪縛している。荒々しい市場原理・競争至上の考え方が労働者の自由な生活、心のゆとりを奪っているのである。
内橋克人氏は「荒々しく剥き出しで、投機的な資本主義」に待ったをかけることを強く訴え、「21世紀を見すえてどのような生き方を選択するかについての処方箋ということでいえば、私は、勤労の成果に相応しい正当な報酬をきちんと手に入れることができるような社会をいかにつくるか、それに向けて努力することこそが日本経済再生だと思います」と述べている(内橋克人「日本経済、大転換のとき」『世界』一九九八年二月号4岩波書店)。
いま、私たちに一番求められているのは、競争によって活路を見出すことではなく、国際的にも国内的にも過剰な競争に必要な規制をおこなって、荒々しい市場競争に歯止めをかけることではないだろうか。そして、もっと時間と心のゆとりをもって、国内の社会政策、地球規模での社会政策のあり方を考え、軌道を修正していくことではないだろうか。